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哲学は 世界のあらゆるものごとについて・そしてあるいはこの神のごとく

世界を超えるものについても 認識をほどこし 交通整理役を買って出ます。

神の定義は 既成のものは おそらくふるくなっているでしょう。

可知(既知および未知)でないことは分かっていますが しばしば言われて

いる不可知でないことも 容易に分かるはずです。

人間には知り得ないという不可知だとは 言い切れない。なぜなら 知り得

ると証明し得ないのと同じく 知り得ないとも証明できないからです。

ゆえに 非知だと仮説しますが ほかに定義はありましょうか?

質問者からの補足コメント

  • ★ 明らかにするってどういうこと?
    ☆ この意味が採れなかったかも知れません。

    何を言っていましょうか?

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/06/26 11:02
  • 特殊絶対性理論(1)

    われが個別に神をいだくとき その神は 人それぞれであり 主観ごとに異
    なるとみられる。つまり 同じだとは言い切れない。

    ところが一般絶対性として どの神も 名が違うだけで普遍神であるとすれ
    ばその限りで 個別の神それぞれも けっきょくは普遍神のことだと捉えら
    れる。そうでないと言う根拠は見当たらない。

    この個別の絶対性においてさらにわれは 神を見たとか神の声を聞いたとい
    った具体的な神体験を語ることがある。神は無いとさとったという体験もあ
    る。

    神は 非知ゆえ この特殊な体験〔としての主観〕についてそれを否定し得
    る根拠は見出せない。

    ただし この場合は そのひとつの主観の内部においてのみ みとめられる。
    そういう意味での特殊絶対性であり得る。

    主観の外に出得たとすれば それは その神を人知で知り得た〔ゆえ その
    認識を外に出した〕ことになる。

      補足日時:2017/06/28 20:11
  • 特殊絶対性理論(2)

    特殊絶対性とは けっきょく 神とわれとのカカハリについて あたかもそ
    れが連続していると想定する場合だとも考えられる。

    非経験の場なる神と経験存在なるわれとは 絶対のへだたりがあるけれど
    この特殊絶対性が成り立つと見るかぎりで――その絶対性のほうからのはた
    らきかけとして―― 直接のカカハリなのだと或る主観が語った場合 それ
    を否定する謂われはなくなる。

    神の声を聞いたという特殊絶対性なる体験が その聞いたという内容におい
    てあたかも摂理を構成するのだと或る主観は 語ることがあり得る。

    つまり 神とわれとのカカハリにかんする連続説とは 特殊絶対性としての
    主観内体験のことだと帰結される。

    ただし・いかんせん この摂理説は 或るわれの主観内部におさまるもので
    ある。

    その特殊絶対性たるヒラメキを 経験合理性にもとづき表現し思想とすれば
    よい。

      補足日時:2017/06/28 20:21

A 回答 (26件中21~26件)

明らかにするってどういうこと?

この回答への補足あり
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この回答へのお礼

あなたにとって 神とわれとのカカハリ――信仰という動態――
とはどういうことか? について 明らかにしてください。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/06/26 03:14

神は人間と同じ外見を持っています。

アブラハムの神だけね。
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この回答へのお礼

ダメ。もくぞう氏でも ダメ。

ご回答をありがとうございます。

すでにこのスレッドのどこかで書いたと思いますが 神は非知であり
絶対や無限という概念で説明すると分かりやすいものです。

その絶対を こんどは・そこから――表現の自由にもとづき・ないし
想像力のたくましさにまかせて―― 擬人化するのです。人びとがそ
うおこなったのです。

《絶対者》と成ります。したがって さらにそこから 全知全能とい
った属性もがつけ添えられて来ますし あるいは この経験世界やわ
れわれ人間に対しては その創造主体であるという派生的な想定が得
られて来るのです。


想像や思考による派生的な想定は あくまで人間の知性の産物として
の神の説明です。



ただし その前に 神は 人間の認識や判断を超えたところに――ど
ういうわけか――ナゾとして想定されるようだと成っていたはずです。



なぜなら 無限は 二で割っても三で割っても 答えが 半分だとか
三分の一にはならない。もとの無限のままである。――こういうナゾ
なんですから。

これを 神と呼んだのだと思います。そして 派生概念が 人間によ
って考えられて来た。

創造主というひとつの派生概念を用いてさらには 天地創造といった
けっこう壮大な物語も 考え描かれた。




もちろん 《無い神》派もいて 無神論を唱えるひとつの信仰形態も
あります。

非知なる神は 普遍神であり 《有る神》派と《無い神》派とを互い
に対等に許容しています。



哲学としての神論が――しかも 日本語におけるそれとして――俟ち
のぞまれます。

神学は 宗教関係がそのオシヘの問題として〔のみ〕形成しています。

神観は 人びとがそれぞれ自由に――特に持とうとしての場合でもそ
うでなく漠然としての場合にも――いだいている《神とわれとのカカ
ハリ》を表現したものです。いろいろでしょう。死生観や人間観とも
つながっているのでしょう。

ですから 神学の特殊性や神観の個別性から自由な――普遍神につい
ての――哲学としての神論が 俟ちのぞまれます。

でしょう? この課題は 共有され得るし されるべきですよね?

お礼日時:2017/06/25 18:08

神は想像の産物なり

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

そうですね。まづ №3のお礼欄でのコメントを見てください。

そこで (2)からあとは――おっしゃるように―― みんな 人間
の想像としての問題です。



ただし №1のお礼欄をも見てください。

じつは ぜんぶ読んでみて欲しいのですが 言おうとするところは
中ほどの次のくだりです。:
☆☆(№1お礼欄) ~~~~~~
・・・
これこれの事実や論理にかんしては 証明すること自体が むつかし
いと知られた場合には ふたつの結果に分かれます。

(あ) 証明不可能であると証明するか
   (これは 不可知として分類されます)。

または 

(い) 証明できるか出来ないかが証明できないと明らかにするか。
  (これは 人間による認識と判断を超えている――つまりいわゆ
   る人知には なじまない――と捉えられ 何ものかナゾの領域
   だとなります)。(これが 非知です)。
・・・・
~~~~~~~~~~
☆ このような分類作業は 定義にかんするもので・しかも(い)の
場合というのは 《人間の想像も思考も及ばないナゾの領域》がおの
づと作業の必然的な過程において みちびき出されたものです。

(い)は――これが 神の定義なのですが―― そのようにわが恣意
的な想像や思考を避けてみちびかれると言おうとしています。



あるいは 《無限》は――神を説明する概念として引き合いに出され
るのですが―― 二で割っても三で割っても 答えは 半分や三分の
一にはなりません。もとの無限のままです。

これが 非知なるナゾです。神のことです。これが:
★ 想像の産物
☆ でしょうか?

お礼日時:2017/06/25 10:23

神は愛なり

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1. それが何であるか 人間には分かるか分からないかが分からない
という《非知》なるナゾは 《絶対・無限》として説明されます。

2. 人びとは――表現の自由なる公理にのっとり―― いろんな捉え
方をおこなってそのナゾを思い描きます。

3. たとえば 《絶対〔なるナゾ〕》を 人間になぞらえて《絶対者》
と表現しあつかいます。

4. 絶対者であるなら その属性として《全知全能》であろうと想像
の中で推論します。なら この経験世界やわれわれ人間にとって その
創造主であるはずだと。

5. いやいや そんな派生的想像は 夢物語だ。ほんとうは 〔人間
の相対的な真実を超えた変わらざる〕《真理》 これが 絶対者なる神
であるのだ。とも言います。

6. 真理。つまり 全知全能ともかかわるが われわれ人間の知解や
意志を超えた知恵ないし知性。もしこれであるなら その神は 人びと
それぞれの心や事情や環境のことをも知っている。

7. つまり 真理たる神は 人びと一人ひとりについてじゅうぶんに
その存在や心について 思いやることができる。

8. よって 神は愛なり。

と。

お礼日時:2017/06/25 10:09

哲学は屁理屈を屁理屈で覆い それを屁理屈の箱に入れ 屁理屈のリボンを結んだ学問・・



何故 神の姿を知らないの?

中卒の俺でも知ってるのに・・

こんな遊びサイトのブロックなんて使うから 神の姿が見えないのですよ・・
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きみは「証明可能なこと」だけが「真実」と思い込んでいるのではないかな。



 「証明はできないが真実である」という事柄を、どう扱うの?

 きみは、根拠の貧困な「言葉あそび」をして自己満足しているだけではないかな。

 ソクラテス、プラトン、アリストテレス、カント、ヘーゲルから現代哲学まで、真剣に読んだ方がいいよ。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ きみは「証明可能なこと」だけが「真実」と思い込んでいるので
はないかな。
☆ 哲学が 普遍性を持つことを目指す科学語および人格語にもとづ
き たとえば交通整理係としておこなう理論的な仕分けというのは 
いくら普遍性を掲げたとしても あくまでひとりの人間の主観として
の真実を目指し表現したものです。


世界事実の認識や 認識事実の解釈と最終的な・ひとつの判断 これ
らの作業において 経験合理性(因果関係や排中律など)に照らして
妥当かどうか。これをめぐる真実性の問題です。


つまり《証明》とは 《実証》として実際のものごとたる事実の認識
の妥当性や 《論証》として認識内容をめぐる推論の妥当性にかんし
て マチガヒがないと明らかにすることです。


その作業において もし:
★ 証明可能
☆ かどうか その作業じたいに疑問が生じたという場合には どう
するか?


これこれの事実や論理にかんしては 証明すること自体が むつかし
いと知られた場合には ふたつの結果に分かれます。

(あ) 証明不可能であると証明するか
   (これは 不可知として分類されます)。

または 

(い) 証明できるか出来ないかが証明できないと明らかにするか。
  (これは 人間による認識と判断を超えている――つまりいわゆ
   る人知には なじまない――と捉えられ 何ものかナゾの領域
   だとなります)。(これが 非知です)。

すなわち:
★ 「証明はできないが真実である」という事柄を、どう扱うの?
☆ にかかわって来ます。

すなわち (あ)か(い)かいづれかの事態が 〔おのおの我が〕主
観真実であると自己表現することになります。

人びとが同感すれば 普遍性が増します。(もともと部分的にせよ普
遍的であったその命題が 真としてみとめられるということです)。



★ ⇒ ☆ きみは、根拠の貧困な「言葉あそび」をして自己満足して
いるだけではないかな。


★ ソクラテス、プラトン、アリストテレス、カント、ヘーゲルから
現代哲学まで、真剣に読んだ方がいいよ。
☆ 読んだ結果 どうなったい?

たとえばヘーゲルの《普遍神》 これについて紹介するくらいでも
神の定義の一例を回答できるんぢゃないの?

お礼日時:2017/06/25 09:56

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