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日本史のプリントで[南北朝合一 南朝・後亀山天皇→北朝・後小松天皇]というのが書いてあるのですが、後亀山天皇が後小松天皇に勝ったのですか?

A 回答 (1件)

南北朝時代というのは、その前の鎌倉時代から既に天皇家が、大覚寺統(北朝)と持明院統(南朝)と分裂してました。


両統が交互に天皇を出すことで妥協が成立していました。
後醍醐天皇が政権を取った後、武士などの不満から再度権力闘争が日本全国で起こってしまった。

その過程で、南朝は三種の神器を保持していて、北朝側はそれが無かったため正当性が薄かった。
しかし、その後の争乱で、勢力的には足利将軍が擁している北朝の優位は、もう動かしようがなかった。
北朝側は三種の神器を奪還する必要が有った。
で、足利将軍義満は、自陣営の北朝を無視して南朝と交渉して南北朝合一を行った。

合一の交渉に対して蚊帳の外だったという意味では、
>後亀山天皇が後小松天皇に勝った
と言えるかもしれない。
合一の条件として、鎌倉時代から分裂していた天皇家の大覚寺統(北朝)と持明院統(南朝)とを再び交互に天皇に擁立する等の案を、
北朝を無視して、南朝と足利将軍家が勝手に決めてしまい、北朝は大激怒…当たり前ですね。

しかし、後小松天皇は次の天皇を持明院統(南朝)に譲らず大覚寺統(北朝)を指名し、それ以降今の天皇家に繋がっています。
交渉する部分では北朝の後小松天皇は無視されて負けたと言えるのですが、最終的な権威(権力は武士かな?)の部分では勝利した。

それ以降、納得のいかない南朝側は後南朝を作り対抗したが、もうどうにもならず歴史から消え去りました。
しかし、太平洋戦争敗戦後、連合軍の影響で天皇家が揺らぐと、その後南朝の末裔が出てくるなどハプニングもあります。
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Q延暦寺はなぜ中世日本仏教のトップになったか

質問させていただきます。
日本史を勉強していると、比叡山延暦寺が多くの名僧を輩出しているのに驚きました。
密教の僧侶ならまだ理解できるのですが、『往生要集』の源信をはじめ、鎌倉新仏教の開祖たち(法然、栄西、日蓮)も比叡山で学んだそうです。
九条兼実の弟で『愚管抄』を書いた慈円も天台座主ですね。高級貴族の子弟などの出家先としても非常に重んじられていたのだと思います。
ふと疑問に思ったのですが、密教自体は日本仏教の中でもそれほど歴史は深くないと思います。例えば東大寺などの古い寺院に比べてなぜ延暦寺はこれほどまでに影響力を持つようになったのでしょうか。
鎌倉新仏教の開祖たちを見ていると、「仏教を学ぶなら取り敢えず延暦寺」という印象を受けますが、彼らが律宗や華厳宗などの旧仏教ではなく例えば「興福寺で学ぼう」とならずに比叡山に登ったのはなぜでしょうか?

個人的には(当時としては)「最先端の仏教・学問」だったのかなあ?と考えました。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

日本での仏教は護国の手段として採用され、僧はそのための行事催行者として公職任用されたもので、個人のかってでなるものではなかったのです。 その後、個人の死後の幸福?を招来するマジシャンのような役目を果たすようになって、各宗派が南都で成立繁栄することになります。 でも、それはあくまで、きちんと仏教の教理を勉学していないと効果がでないからというような認識に基づくものでした。
ですが、南都仏教とは立場というよりも、志向するところが違ったのぽつぽつでてきて、何を目指したかというと、仏教の本当の教え、究理はなにかを徹底的に知ろうとする人が出てきたのです。仏教公務員になることがねらいとうよりも、"私はもっと知りたいんだ!"のような志向です。 そういう志向でも、東大寺戒壇院を目指したのですが、東大寺戒壇院は基本は仏教行政という重要な役割から離れられない国家的性格があって、どうもしっくりない面が残っているし、密教的なもの、個人的学問追求には向いてないので、最澄は、山岳宗教的な個人研鑽修行も実行できる山の中に学習所を作ったのです。 ですから最初から、後代に円仁が説いた円密一致のようのを当然とするスタンスをもっていたし、最澄はとてもとてもとても厳しい研鑽と学問研究への専念を求めたのです。 そうした厳しい環境であることを知ってそこを目指したもの達がいたのですから、落後してしまう学僧が多数でたにしても、後代、優れた学僧、新しい理論を打ち立て信念で独立して新宗派をつくるものも輩出することになったのです。
高野山の場合は、叡山のようには様々な仏教思想を学び吸収するというような姿勢ではなかったので、スゴイ僧が出たとしても、叡山ほどには多数のスゴイ僧が次々開祖として宗派を作っていくようにはならないし、薬師寺、円宗寺、法勝寺、興福寺なども学僧の修練には熱心で論議を盛んに行っていたけれども、山中に三塔十六谷の諸堂があり 広学竪義を盛んにしたという経歴もあって、他の諸寺とはだいぶ違う状態になっていったのでしょう。
https://kotobank.jp/word/%E5%BA%83%E5%AD%A6%E7%AB%AA%E7%BE%A9-1312963

日本での仏教は護国の手段として採用され、僧はそのための行事催行者として公職任用されたもので、個人のかってでなるものではなかったのです。 その後、個人の死後の幸福?を招来するマジシャンのような役目を果たすようになって、各宗派が南都で成立繁栄することになります。 でも、それはあくまで、きちんと仏教の教理を勉学していないと効果がでないからというような認識に基づくものでした。
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Q日本には奴隷制はなかった?

ウィキペディアで被差別民を調べると、次のようなのがでてきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%B0%91
①インドのカースト制における不可触民
②カーストシステムそのものから排除された形で共同体を形成する部族民
③日本の被差別部落民
④イスラームのズィンミー等がある。

また賎民は次のとおりです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E6%B0%91
①日本・・・五色の賎、穢多・非人
②インド・・・アウト・カースト
③中国・・・奴婢や生口等の奴隷が労働力の中核
④朝鮮・・・僧侶、胥吏、女官、妓生、医女、男寺党、奴婢、白丁

ヨーロッパやアメリカの説明はありませんが、奴隷はいたので、奴隷=被差別民・賎民と考えていいですか?

ときどき『日本には奴隷制はなかった』という人がいますが、五色の賎、穢多・非人は奴隷とはいえないでしょうか?

また、奴隷と被差別民・賎民のちがいって何でしょうか?

ウィキペディアで被差別民を調べると、次のようなのがでてきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%B0%91
①インドのカースト制における不可触民
②カーストシステムそのものから排除された形で共同体を形成する部族民
③日本の被差別部落民
④イスラームのズィンミー等がある。

また賎民は次のとおりです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E6%B0%91
①日本・・・五色の賎、穢多・非人
②インド・・・アウト・カースト
③中国・・・奴婢や生口等の奴隷が労働力の中...続きを読む

Aベストアンサー

日本にも奴隷はいたし制度としてあった時期もありました。
ただ、奴隷制がメインではありませんでした。

なんでこんな話になっているかというと、その一つにマルクス主義とそれへの反論があります。
マルクス主義の歴史学では、古代は奴隷制、中世は農奴制とされています。
ヨーロッパでは古代ギリシア・ローマで奴隷がメインだったと当てはめるのはいいとして、日本がどうだったかというのは考慮されていませんでした。
かつては日本でもマルクス主義を導入した研究があって、古代に奴隷制の要素もあるとして無理にマルクス主義に当てはめようとしていました。
その後、実証主義になり奴婢などの奴隷がいたとしても奴隷制がメインというのはおかしいのではないかという考えが増えて行きました。

ですので、「マルクス主義のいう奴隷制は日本にはなかった」という意味で言っていると思います。
ただし、結論だけをみて「日本には一切の奴隷はいなかった」のように間違った捉え方をしてしまっている人もいます。
古代の奴婢や中世の人身売買では奴隷でしょうから。

Q戦国時代に「家老」という言葉を使うことはおかしいのでしょうか? wikipediaでは江戸以前は「年

戦国時代に「家老」という言葉を使うことはおかしいのでしょうか?

wikipediaでは江戸以前は「年寄」等と呼ばれていたと書かれてました。

しかし野望シリーズの紹介文ではよく「◯◯家の筆頭家老」という表現が使われます。

つまりこれは、コーエーのミスということでしょうか?

Aベストアンサー

単に「判り易さ優先であえて後代の役職名を使っている」のだと思いますよ。
歴史のテストや論文に、ゲームの表現を鵜呑みにして「家老」と書いたらミスになりますけど。

Q【なぜ日本の都道府県の地名は中国の漢詩に基づいて名付けられたのでしょうか?】 日本の都道府県名を考え

【なぜ日本の都道府県の地名は中国の漢詩に基づいて名付けられたのでしょうか?】


日本の都道府県名を考えた人が中国人だった?

中国人に日本が乗っ取られていた?

Aベストアンサー

>都道府県の地名は中国の漢詩に基づいて名付けられた…

それ、何県と何県の話?

元号なら確かに中国の古典をよりどころとしているのが多いですが、県名が中国の古典によっているとは初めて聞きました。
少なくとも私の県は中国とは何の関係もありませんし、東京都や北海道だって中国とは縁もゆかりもありません。

その話の出典をあきらかにしてください。

Q川中島の戦いについて教えてください!

今、川中島の戦いについて調べているんですけど、(五回とも川中島の戦いとして)
・室町時代なのか安土桃山時代なのか(またいでいる?)
・川中島はどこなのか
・四回目が一番有名ですが、そのわけは?
ということが知りたいです。

それと、私の教科書では室町→安土桃山となっていましたが「南北朝時代」「戦国時代」というのは載っていないんです。一緒に説明してくださるとうれしいです。

Aベストアンサー

はじめまして、
#1さんの書かれているwikiをごらんになればわかる内容ですが、せっかくご質問されているので簡潔に回答します。

>室町時代なのか安土桃山時代なのか(またいでいる?)
安土桃山時代は1573年に織田信長が足利将軍を京都から追放した年を始めとしています。これで室町幕府が名実ともに終了したということですからね。川中島の戦いは1550年代から1560年代ですから、当然に室町時代です。

>川中島はどこなのか
千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地ですから現在の長野県長野市になります。

>四回目が一番有名ですが、そのわけは?
両軍の主力が激突した大規模な戦闘が行われ、双方に最大の戦死者がでたからです。他の戦いは小競り合いの域をでません。

>「南北朝時代」「戦国時代」
南北朝時代は、室町時代の初期に朝廷が北朝・南朝と分裂していた時期のなまえです。同じく戦国時代は応仁の乱から室町幕府の終焉の時期をいいます。普通の歴史教育では双方とも室町時代にはいっています。

ここで聞かれるよりも、ネットで各々のキーワードで検索すればもっと詳しいことがわかりますよ。

はじめまして、
#1さんの書かれているwikiをごらんになればわかる内容ですが、せっかくご質問されているので簡潔に回答します。

>室町時代なのか安土桃山時代なのか(またいでいる?)
安土桃山時代は1573年に織田信長が足利将軍を京都から追放した年を始めとしています。これで室町幕府が名実ともに終了したということですからね。川中島の戦いは1550年代から1560年代ですから、当然に室町時代です。

>川中島はどこなのか
千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地ですから現在の長野県長野市になります。

>...続きを読む

Qこの前日本史の先生が言っていたのですが、道鏡って巨根なんですか?

この前日本史の先生が言っていたのですが、道鏡って巨根なんですか?

Aベストアンサー

俗説です。
孝謙天皇(女性)が入れ込んで天皇の位を譲ろうとしたほどだったので、女性が惚れ込んだのはよほどの巨根だったのだろうという、非常に安易な発想の下賤な話です。

経緯などはwikiにゆずるとして、孝謙天皇は幼いころから勉強熱心で、つまり中国の事情を良く知っている人でした。中国では、治世が悪いと天子が変わり、それで国が何度か変わってきたという思想の国です。片や日本は天皇一家が代々替わることなく継いできており、彼女にはいよいよ行き詰ってきたと思えたようです。「わが国と違い、かの国は、重い職にある人は、その分だけ賢うございます」とは1000年後の勝海舟の言葉ですが、彼女も同じことを考えたわけです。そこで天子(日本では天孫ってことになってますが)を、徳のある道鏡に代え日本を治めてもらおうと考えた、ってのが、どうやら正しいところのようです。(所説ありますので、妄信はしないでください)

Q義経を殺すように命令したのは誰?

義経を殺すように命令したのは誰なのでしょうか?

義経が官位をもらい、それに納得しない頼朝が殺すように命令を出したのでしょうか?

Aベストアンサー

兄の源頼朝

Q北海道函館は、かなり昔は、箱館と書いたそうですが、今の函館になった事の、歴史を、教えて下さい。

北海道函館は、かなり昔は、箱館と書いたそうですが、今の函館になった事の、歴史を、教えて下さい。

Aベストアンサー

明治元年に佐幕派の大鳥圭介隊と土方歳三隊の両隊が、箱館府の五稜郭を占拠し、明治二年に箱館政権を樹立し、箱館戦争が起こり、日本政府から分離独立というところまでいきました。既に他の方が書かれているよう に、箱館が函館に改称されたのは、この戦争の直後です。
「箱」という字義に、蓋と本体を分離する構造という意味があるため、あわや日本から分離するかというところまでいった土地の地名に、この「箱」という漢字をそのまま使うのは縁起が悪いと当時の明治政府関係者は思ったこと でしょう。ですから、これを機に、蓋と本体が分離するという意味の「箱」を、 蓋と本体がくっ付いているという意味の「函」に変えたと考えられるのです。

また、正式なものとしては、それまで併用されてはいたが、明治4年(1871年)には「函館出張開拓使庁」という名称になっており、それ以降「函館」が用いられるようになってますね。

参考まで。
https://pucchi.net/hokkaido/history/hakodatename.php

Q聖徳太子は中国の呉の中国人だったのでは? 伎楽の呉女の髪型と聖徳太子が連れてた子供の2人が同じ髪型で

聖徳太子は中国の呉の中国人だったのでは?

伎楽の呉女の髪型と聖徳太子が連れてた子供の2人が同じ髪型ですよね?

聖徳太子は呉から渡来した渡来人だったのでは?

Aベストアンサー

日本人がアメリカ人の真似をするのと同じで
当時は中国というのは
日本人にとっては憧れの国だったのです

なんでも真似をしていました

Q歴史についての質問です。 今、大航海時代について調べているのですが、マゼランの世界一周について疑問が

歴史についての質問です。
今、大航海時代について調べているのですが、マゼランの世界一周について疑問があります。
資料には、フィリピンで住民に殺され、その後、部下が世界一周を果たした、という旨の記述があったのですが、この時代、指導者なしで部下が世界一周できたのは単に部下が優秀であったのか、それとも他に理由があるのか、ちょっと気になっています。
様々な解釈があるかと思いますが、どういう説が有力なのか教えてはもらえないでしょうか?

Aベストアンサー

船は本来その船が籍を置く国の一部とみなされ、その国の法律が適用される(飛行機も同じ)。したがって、船というものは軍民問わず、船長を頂点に強固な指揮命令系統を持つ。そうしなければ自然環境の変化や、(軍ならば)戦闘・操船に遅れをとることになる。海兵隊ももともとは強権を発動する船長を守るために配置された。

 仮に船長が死亡するなりして指揮不全に陥った時、すぐに船の指揮権は副船長以下引き継がれ、それがダメな場合でも、次に引き継ぐメンバーはあらかじめ決めて置く。

 したがって”指導者なしで部下が…”というのはありえない。必ず次席、次々席は設定されている。

 例ならいっぱいある。米国大統領が所在不明になれば、次席は国防長官…というふうに、全閣僚へと続く。ハインラインの「宇宙の戦士」では帆船時代の交戦中に、倒れた指揮官を助けようとした准士官が、持ち場を離れたということで”敵前逃亡”に問われた例が引用されている。


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