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世の中のもの大半を信じることができなくて困っています。

べつだん、宗教のような信仰がほしいとか、何者にも屈しない自信がほしいとかというわけではないのです。
本当に日常的に必要な、法律や社会的ルール、あらゆる常識、ニュース、人の助言・・・を逐一疑ってしまいます。どうせ信じられないから、と何も自分の身にならないままです。

自分の場合、AC的に親の顔色を伺いながら優等生的に育ってしまった過去があり、
それを自覚した途端、すべての価値観が狂い、よりどころがなくなったような感じです。人格障害にかなり近い気もするのですが。身動きがとれない感じです。病的なものを感じています。

身内に迷惑をかけながら、なんとか生きていますが、
信じられるものがないので先に進みません。社会と交わるとっかかりがないような感じです。

こういった症状の病気や障害ってありますでしょうか。

なにか思い当たるようなヒントとか助言だけでも・・・あれば・・・お願いします。

A 回答 (13件中1~10件)

疑うというのはとても苦しいことでしょうね。


目に映るものの大半が、意味のない、信じるに足らないと見えるということは、
美しいものを見ても、感動することは難しいし、
悲しさも、どこかベール越しで感じるようなことではないですか?
喜怒哀楽を奪われている状態だと思います。
多分、何かをするという「やる気」も
なかなか沸き起こらないのではないでしょうか。

ACというのは、アダルトチルドレンということでしょうか。
親御さんの顔色を見て優等生でい続けた過去がおありなら、
おそらく、一番心が柔軟で、繊細で、貪欲に吸収する力にあふれた時代を
自分のためにではなく、親御さんのために捧げてこられたのだと思います。
魔法がとけて、さあ、親御さん抜きで自分のための人生を歩いていこうと思っても、
礎(いしずえ)となる自分自身が築かれてきていないのですから、
何をするにつけてもどこか人ごと、実体験に結びつかないようなあいまいさ、
不安を感じるのは無理もないと思います。

これまでの回答者に対するあなたの言葉を拝見しました。
とてもていねいに回答者の方の話に沿って返答されているのに感心しました。
同時に、少し人間の心理を解剖しすぎなのでは、ということを感じました。
言葉を変えますと、
とても、デジタルな部分をあなたから感じました。
アナログ・・・・・・つまり記号や言葉にできない「感動や情熱」そういった部分を、
あなたの文章から、やはり感じないのです。
分析し、理解することに関しては、あなたはとても優れていると思います。
それを、いっそう大きな武器、あるいは魅力にするためには、
人間らしいやわらかな心を取り戻すことが必要だと思うんです。

これからは、親御さんのためではなく、
主役は「私だ」と割り切ってください。
「身内に迷惑をかけながら」という文章からも、
ACと気づいていながら、まだあなたは周囲中心の位置からシフトしていないと思うのです。
迷惑をかけるのは仕方のないこと、恩返しは後で必ずするからと割り切って、
どんどん自分を人生の主役にひっぱってくることです。
手始めに、
美術館やコンサート、あるいはおいしいお店へいって、
積極的に、視覚、聴覚、味覚を楽しみましょう。
感覚を鍛える、と言葉を変えてもいいぐらいです。
映画を何本も見、本をたくさん読みましょう。
これらを実行する上で大事なのは、
理詰めで考える前に、
まず心の声に、素直に耳を傾けることです。
それはシンプルなほどいいんです。嬉しいだとか、悲しいとか、愉快だとか。
解剖してしまうと、感動する余地が残らないからです。
全て理屈で説明してしまうと、
最後は「だからどうだっていうの」という言葉でしめくくらざるを得ないでしょう?

そして、何よりも変化を楽しむことです。
疑うという心理は、変化を本能的に嫌う傾向があると思うんです。(私個人の考えですが)
宮崎駿氏の「風の谷のナウシカ」に、

  「生きることは変わることだ」

というセリフが出てきます。私はこの言葉を読んで、がつんと頭を殴られた気がしました。

変化を追求しなくなったら、
生の喜びはどこで得ることができるでしょう。
安定し続けていても、不思議と人間、落ち着かなくなるものです。
どんなに裕福で心配事がない暮らしをしていても、
変化がなければ、災厄を呼び込んででも人は何かを変えようとする。
あなたが「信じられない」という辛さを訴えるのは、
何かを変えたい気持ちが根底にあるからです。
殻を破って、今まで知らなかった自分を見てみたいという願いはないでしょうか。

感動する力がそなわってきたら、
見るもの聞くもの触れるもの全てがみずみずしく、
積極的に何かをしてみたいという気概に満ちてきます。
変わること、傷つくことをおそれないで、
「信じられない」世界のど真ん中に、勇気を持って飛び込んでみてください。
信じられないものを信じられるようになったときの喜びを、
ぜひあなた自身の力で勝ち取ってください。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。なんと言っていいか・・・恐縮です。見事言い当てられております。特に「おそらく、一番心が柔軟で、繊細で、貪欲に吸収する力にあふれた時代を・・・」のあたり、私が普段感じていることそのものズバリです。一種の虚無感、生のリアリティの無さのようなぼんやりした感覚です。
感情もたしかに無いです。昔、人から「心から笑ったことありますか」と問われ、「ないかもなあ・・・」と内省したことを思い出しました。
この内面の虚無を、今まで付き合いのあった多くの人たちにもそういう印象を持たれていたんじゃないかなと思います。
具体的処方も示してくださって・・・(わかりやすい!やれそう!)。
感覚を養うことにもっと積極的になってもいいみたいですね。すぐに感動する心を取り戻せるかまだわかりませんが、やってみようという気が起きました。これは私自身から出てきた確かな感覚だと思います。
人間は殻を破り続けることで生の実感を得ていくのかも知れませんね・・・。
(ナウシカのコミック版が家にあるから手始めに読んでみようかな)

お礼日時:2004/09/10 22:15

再度の7です。


あと「どうせ」のお話があります。

この「どうせ」というのは、ワクチンのようなもので、
傷つけられる前に、自分で傷つけてしまおうというものです。

「どうせ、俺は駄目だよ」とか
「どうせ、嘘に決まってる」とか
「どうせ、裏切られるんだから」とか
「どうせ、すぐに飽きるに決まってる」・・・・等々

下手な期待や、素直な心を持って裏切られて深い傷を作るよりも、
最初から疑ってかかったほうが傷が小さくて済むから、そのための「どうせ」なんです。

しかし、そうやって傷つくことを避けていられるうちは、まだ良いんですが、
この発想が癖になって、何でも無いのにこのワクチンを打ってしまうようになって、止められなくなってしまうんです。
もしかしたらこういう状態ではないでしょうか?


「どうせ」というのは、本来は期待の裏返しなんです。
期待はあるんだけど、それ以上に傷つくことを恐れているから出る発想なんです。
期待とは、幸福を求める気持です。
幸福に対する執着が強ければ強いほど、裏切られた時の傷が深くなるので怖いんです。
だから「どうせ」ワクチンを打つんです。

やっぱり根底には「自分は幸福では無い」という思い込みがあると思います。
無いから、求めるんです。

で、こちらの6を一読して欲しいんですが、
http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=825107
人間はイメージが全てと言っても言いと私は思っています。

私のHNをクリックしてもらえれば呼吸法と姿勢とイメージを紹介してます。
是非、気長に続けてみてください。

参考URL:http://homepage2.nifty.com/y-ookubo/sub01.html
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
 自虐的発想は期待の裏返し、なるほど本当は期待の中にいる、ということですね。
 微視的に見ると人間の心理は面白いですね。時にこんな逆説を孕んでいるという事実。たぶん私も幸せを切に求めているのだと思います。
 脳におけるイメージのお話拝読しました。ただ、私は脳内物質論といいましょうか・・・、脳の器質的な問題に還元してしまうのには抵抗を持っています。幸福なイメージが幸福な人間を形成していく、そのこと自体は賛成します。ただ、器質的・生理的、要は科学的レベルにまで根拠を持っていったときに、このことを了解して実行に移すには科学を絶対的に信じていることが前提です。私はこの疑り深さから、(現在の一般的な)科学はあまり信じられないのです。
 実は個人的に身体論をかじっていたりするので、呼吸法や姿勢のお話は共感します。Syo-yaさんは研究熱心ですね(プロですかね?)!太極拳も教室に行っていたことがあります。座禅もやりました。両方とも中断してるけど再開しようかな。身体は信じられるのです。
 生意気言って申し訳ありません。でも大変感謝しております。

お礼日時:2004/09/12 00:19

再び160614です。


お礼の言葉をありがとうございました。
すぐには感動できるようにはなれないかもしれないけれど、
chercherさんが目指す限り、確実に日1日と変わっていきます。断言してもいいですよ。
たとえば赤い色。
虚無感の中で見る赤い色は、たった1つの色にしか見えません。
それがほんの少し興味を出して見つめてみたら、
紅色、朱色、えんじ色、ワインレッド、茜色、
さまざまな赤を識別できるようになってきます。
興味を出すことで、視界がぐんと細分化して
今まで1つしか見えなかったものから、瞬時にさまざまな情報を感じることができるようになるんです。
それも、自分にしか分からないオリジナルな感覚が身についてきます。
「わかるかなあ、この感覚」と、人に説明、伝えるのが
じれったいほどのオリジナルです。
これが、個性なんです。

それも、安心してください。
ACの過去を引きずっていようがいまいが、
どんな人でも変われるんです。
たとえば私は絵画鑑賞が趣味なのですが、
陶磁器はさっぱり分かりません。
今まで知ろうとしてこなかったからです。
国宝級の磁器を前にして、「さあ、感動しなさい」と言われても、
私には無理なんです。はっきり言って全然分かりません(笑)
ところが、専門書を読んだり人に解説してもらったり、
全国各地で有名どころを見学して回るなどしているうちに、
手触りの微妙な違い、陶磁器の硬さ、年代、さらには
これは誰の手によって造られたもの、
というようなことまで分かってくると思うんです。
すると、平凡な品に飽きてしまって、少しでも優れたものを見たい、触れたい、味わいたい、
という欲求が強くなってきます。
長い間これこそというものを探しているうち、古道具屋でついに逸品に出会えたら、
これはもう、信じられる世界でなくてなんでしょう、
感動で胸がいっぱいになると思います。
自分の心、魂が呼んでやまないものを見つけることが
一番の近道です。
親御さんや周囲の願いにそって、行動すると、
感動は「かなえてもらった」といわんばかりに彼らがもっていってしまって、
肝心の行動した本人がおいてきぼり状態になるんですよね。
こんな理不尽なことがあるでしょうか。とても悲しいし、悔しいです。
人に期待するというのではなく、応援する、のが正しい周囲のあり方なんですよ。
たとえばオリンピックの成績が悪かった選手に対して
暖かく迎える人と、批判する人と見事に層が別れますよね。
テレビを見ると、いつも「期待」と「応援」の違いを見せ付けられ、複雑な思いにかられてしまうんです。

感動するために登山者は山に登ります。
誰のためでもありません。登った人にしか分からない感動、達成感があって、
それは誰に奪われるものでもありません。
長い時間がかかるかもしれませんが、
自ら求める限り、必ず目の前の霧やベールは取り払われます。
あなたはACとしてここまでこられて、
まだ自分の感性を体験していないだけなんです。
だから、心の底から感動で胸がふるえたときこそ、
あなたのターニングポイントとして、人生観が変わるくらいのインパクトがあると思います。
こんな世界だったのか!と驚く自分がくることを
楽しみにがんばってくださいね。
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この回答へのお礼

160614さんのお話は大変わかりやすいです。
ご自分の体験からくる言葉なのか、必ず霧が晴れるとおっしゃるその言葉が、本当に信じられます。

人が人文的・芸術的感動によって感性が磨かれ、まさに「人間」になるんだろうなという確信がもてます。
それは教養としての芸術の知識や流行への同調のための知識とは違うものなのでしょう。私は今まで知識的側面からしか世界と接して来れなかったのだと思います。

どんな哲学書より、
160614さんの言葉が私の宝になりました。

今までネットでこういうことはありませんでした。
ありがとうございます。

お礼日時:2004/09/11 12:27

今現在あなたと同じような状況に陥っている(と思われる)者です。



>身内に迷惑をかけながら、なんとか生きていますが・・・

とありますが、「身内に迷惑をかけている」という言葉から察しておそらく結婚しているか、独身だが家族と同居しているといった状況でいらっしゃるのでは?

おそらく(貴方も私も)精神的に”病んでいる”のでしょうが、私は、一般的に言う『病気』でかたずけられるものではないと思っています。だから(少なくとも私は)精神科だけには行く気はありません。

独りになる時間が必要なのではないでしょうか。

といっても一日のうちの数時間とかでは足らないと思いますので、
経済的に可能ならどこかしばらく一人旅に出てみたらいかがでしょうか。できれば国内ではなく、海外へ。異文化そのもの、と、異文化に馴染んで人生を楽しんでいる人たちに触れると自分も変われるかもしれません。
あくまでも「状況的に可能なら・・・」の話ですけど。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。同胞の出現に心強いやら・・・奇妙な感覚です。
sendesuさんも旅に出たいけど不可能だと感じてらっしゃるように印象を受けますがいかがでしょうか。

現時点で一人旅は経済的にほぼ不可能です。しかしながら実際、「一人旅」の必要性は感じており、知人に薦められたりもしました。また4年ほど前に欧州や西日本を貧乏旅行したこともあり、そこで得たものは大きかったのですが、また有意義だった故、今の自分に旅は第一に優先させるものではないような気もしています。

本当の意味で独りになるべき時だとは感じています。日常を旅のように感じられるといいのですけど。

こう書きましたが、時期を見てどこかに行こうと画策しております。

どこかお勧めの場所があればご教授ください。

お礼日時:2004/09/10 13:33

精神発達史から見て、自律の入り口にさしかかっていらしゃる方とお見受けしております。

きわめて健康な精神状態と診断します。あなたの周りは、あなたが生きて行くための「活用の材料」を提供しています。発見したり、掘り起こしたりして、苦闘しながら活かすも殺すも、あなたの教養の巾と活力にかかっていると思います。ご健闘を祈っています。この世の中、信じられるものなど、一つもないと認識する所から「進歩・発展」が始まると思います。

この回答への補足

精神発達史とありますが、発達心理学等のことでしょうか。

補足日時:2004/09/10 09:34
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
病的どころか健康という印象を持たれる方もいる、
ということがわかりました。

お礼日時:2004/09/10 09:30

再度の7です。



その本は、タイトルで損をしているんですよね。。。。。
中身はまるで別物ですので、いつか一読してください。
(絶版から復活したという本です)


で、あと思いついたので追記しますが「エゴ」というのもあるんです。つまり「我」ですね。「我」が全てを疑う気持ちを生んでいるとも言えると思います。

で、子供の「我」を無くしてあげる(薄くしてあげる?)ためには、体育会系のように、ある程度の厳しさ(愛情を伴った)が必要になってくるんですが、機能不全の家庭で育っていると、幼い頃は愛玩犬のように過保護、過干渉にされて、我侭を許されて、大きくなってからは罵詈雑言を浴びせられたりして、愛在る厳しさではないので、反抗心が刺激され「我」ばかりが強められてしまったりするんです。

そうすると、世間に出てからも、いろいろなことに対してストレートに発言したり、批判的、査定的であったりして、世間からは「生意気」「我侭」と評されたりしてしまうんです。

まあ、質問者さまがこれに該当するか解りませんが、こういうこともあるにはあるんです。
だから、機能不全家庭で育つと、子供は生き辛い人生になってしまうんです。

こういう機能不全家庭で育った人達を癒そうというのに、アダルトチルドレン(AC)という概念があります。

いろいろ調べてみて下さい。
そして「自分を癒す」という発想に切り替えていくことが大切だと思います。

「インナーチャイルド」でも調べてみてください。
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この回答へのお礼

重ねがさねありがとうございます。
ご推薦の書、ちょっと検索してみるとお経CD付きとのことで、「いきなりお経聞いても・・・」という感じでした。今一度もう少し調べてみるとそれだけではないようですね。般若心経の解説書としてはなかなか人気のようですね(http://health.nikkei.co.jp/column/2cl/index.cfm? …)。
質問本文にも少し書いてますが、AC等も一応勉強済みです。
こういった内的な過去を踏まえ、やっと前進しようとしたときに目の前にあった壁が「自らの疑心」でした。
今、それがどういうものか見極め、外界を見ようとしています。

お礼日時:2004/09/09 20:44

信じられるものが無くて困っているのではなく、


全てを疑う気持ちが辛いんでは無いでしょうか?

私もそうでしたが、成育歴という自分の根本に問題を感じるということは、生まれてから信じてきた親という全知全能の神を裁くことですから、情緒的に不安定になっても無理はないと思います。

まあ、これを病気や障害という括りで括ることも出来るんでしょうが、そうではなくて精神的な発達の途上にあるんだと思います。

親を超えるということは、幼い頃からの自我を超えるということですから、一時的に精神的に不安定になるとは思うんですが、これを病気だと言ったら、人間の成長が病気になってしまいます。

もし良かったら『声に出して読む般若心経』. 山名 哲史著、この本を図書館でご覧ください。
参考になるかどうか解りませんが、何かの気づきに繋がればと思うからです。
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この回答へのお礼

そうですね・・。言われてみれば、
心を刺すのは「なにか信じるものがほしい気持ち」よりも「すべてを疑う気持ち」のほうであるような気もします。
他の方にも指摘されているようですが、僕の幼児性というか発達途上というのはどうやら紛れもないことのようです。
身の回りのことから少しずつ成長したいと思います。
ただお勧めの本は今の僕には少し飛躍している気がします。

お礼日時:2004/09/09 18:32

 あなたは生きている。


これは疑わなくて良い事だとおもいます。
これを手がかりに信じられるものをふやして
いけばよいのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

すみません。それは理解しています。

お礼日時:2004/09/09 18:38

デカルトの世界みたいですね。

デカルトの場合は、
「そうやって全てを疑っている自分が存在していると言う事実だけは信じられる。」
と述べたと思います。日本語で表現すると、ちょっとニュアンスが狂ってしまいますが。。。

実は私も小学校5年生の時に全てを疑い始めた身です。

> 本当に日常的に必要な、法律や社会的ルール、あらゆる常識、ニュース、人の助言・・・を逐一疑ってしまいます。どうせ信じられないから、と何も自分の身にならないままです。

え?信じていたんですか?
現在の日本では「人権」と言う言葉によって、個人を公から、または「家族」等の団体から突き放すような雰囲気を感じます。変だと思って当然だと思います。大いに疑って下さい。
この場合の「疑って下さい。」は、「拒絶しなさい。」ち言う意味ではありません。「鵜呑みにしないで下さい。そして疑問に思って下さい。」と言う意味です。特に大衆情報、マスコミは一部の意見を誇大表現する傾向にあります。ある意味、「真実」を一つの情報から得られる事は稀な事です。行政からの情報、法律、憲法も然りです。

大いに疑って下さい。不信に思って下さい。不信に思っている自分自身を実感して下さい。そして疑問に思った事を勉強して下さい。

私はその結末として、海外に出て暮らしています。私みたいに突拍子も無い結末に至らなくとも、不信を生めるための勉強が、貴方に何らかをもたらすと思います。

但し、カルトには嵌らないように注意して下さい。バランス良く周りを見渡しましょう。

変な日本語になりそうで、申し訳ありませんでした。
何らかのアドバイスの足しになればと願います。
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この回答へのお礼

アドバイスありがとうございます。
たしかに「我思う故に..」です。
個人を団体から突き放すというというshinさんの考え方に興味があります。(この問いとの関連ふくめ)
社会を疑ってきた先人からの、
拒絶せず疑い勉強せよという助言、覚えておきます。

お礼日時:2004/09/09 10:08

 人が他人(物事なども)を信じられるのは、ある程度自分自身の事が信じられるからだと思います。

だから、信じられる自分が、信じるに値すると判断した他人や物事を信じて生きていくのだと思います。

 あなたがどのような性格でどのような人生を送っているのかは判りませんが、これまでは、親が信じていることを無理矢理自分に信じ込ませて生きてきたのではないですか?もしそうであるならば、まだ心が幼いだけかもしれません(人間少なからず、疑心暗鬼になる時期というものがありますよ。反抗期みたいに)。まずは身の回り全ての事を自分で判断し、自分の価値基準を作って下さい。こういう人なら「私は」信じる。こういうものは「私の経験上」嘘だと思う。などといった価値基準は経験で作っていくしかありません。これを今まで親に任せっきりにしていたのだと思います。

はずれていたらごめんなさいね。

私の経験からの意見です。
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この回答へのお礼

・身の回りのことを自分で判断
・自分の価値基準をつくる
抽象的な言葉のようで、しかしやはりこの原則を自らの意思で現実に適用していくしかないようです。
幼稚だという印象を与えるということも再認識しました。ありがとうございます。

お礼日時:2004/09/09 10:12

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