映画のエンドロール観る派?観ない派?

哲学カテゴリの質問を見てみると、その質問内容は多岐にわたっています。メンタルヘルス、日常のふとした疑問、井戸端会議、社会問題、個人的な考や主張の是非を問うもの、自分の考えの布教、物理もどき、およそ7,8割は哲学ではないんじゃないかと思うくらい、多岐にわたった質問が哲学カテゴリになされていて、非常に見難くなっています。行き場のない質問がここに不法投棄されていっているようで、とても使いづらくなっていると感じています。そのことによって、哲学に関する質問を集めそれに回答するという本来の哲学カテゴリの機能が大きく阻害されていると思うのですが、どう思われますでしょうか。要するに、ここはかなり荒れていると思うのです(盛り上がっているのではなく)。哲学とは何かという定義(範疇)にも幾らか幅はあるにせよ、その幅を全く無視した質問と回答が入り乱れています。
このことに関して、ユーザーや運営の見解を聞いてみたいと思いました。このままでいいのか、それともこのままでは好ましくないのか。
よろしくお願いします。

質問者からの補足コメント

  • ここらへんで一旦、ご回答いただいた皆様に、お礼を申し上げたいと思います。ご回答ありがとうございました。現状を肯定できる方、現状の起こった理由を解説してくださった方、同じように考えられた方、いろいろとご意見いただけたことをありがたく思っています。カテゴリ自体の盛衰はあるかと思いますが、個人的には、また、様々な哲学知見が得られるようなカテゴリになって欲しいと思っています。そしてそれも、流れに任せたものとならざるを得ないかもしれませんが、一ユーザーとして見守りたいと思います。

      補足日時:2018/01/24 15:44
  • これにて質問を締め切らせていただきます。皆さまありがとうございました。

      補足日時:2018/01/29 21:46

A 回答 (31件中21~30件)

ご質問の回答にならないかもしれませんが、私の感じている事実を一つ。



このご質問のすぐ前に、”愛について”と、”芸術は破壊か”という質問がありまして、私は、回答を描き始めましたが、途中で辞めました。

愛については、バイブルではどんな場面で、一番最初に”愛”という言葉が使われ、その後、それが、イエス・キリストと人間そして神との関係性の理解に必要になってくるか、書き始めたのですが、途中で、あほらしくなってやめました。キリスト教関係の回答は、こちらでは歓迎されないので。

芸術と破壊については、ギリシア芸術と、ビザンチン芸術がいかに徹底的に破壊されたか、目の当たりにしてきたので、人間の破壊性と、芸術の関係性について、考察を始めましたが、これも、質問者さんから、ろくなご返事をいただいたことがないのでやめました。

私は、米国在住のキリスト教徒で、必ず、”米国は、原爆を落としておいて何を言う”ふうな、あるいは、”キリスト教徒は後進国を蚕食した”というふうな、ご回答が、私の回答のあとに現れることもあります。

偏見と哲学の関係性について、考えると、哲学は、真理とは何かを追求する学問なので、真理を見る目が曇ったら、そこで、お終いではないか、と危惧します。

ご自分の健康に関しての質問は、そちらのカテゴリーに移動したら、もっと良い回答がつくのではないかと思います。”専門家の回答”というのは、最近どうなっているんでしょうか。
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この回答へのお礼

そうでしたか。それでも、ciaopolpo2さんの色々な回答を読んで見たかったですね。

哲学とは真理を追求する学問である故に、真理を見る眼が曇ってしまっては終わりだというのには同意できます。しかし人々の目は節穴だったり曇っていたりするのが普通とも言え、だからこそ真理を見通す眼を欲するのではないかとも思えます。つまり、出来ないので、出来るようになろうとする動機が生まれるのではないかと。

また、健康についての質問が結構多いですが、適切なカテゴリで質問された方が良い回答が集まると私も思います。

お礼日時:2018/01/20 21:08

補足ですが、カテゴリーを哲学学とすれば、哲学そのものを扱えなくなるので、そういうカテゴリーを作る方法もあります。


哲学としてしまうと、誰も主張していない独自の説や、哲学的問題設定自体が該当してしまいますから、独自の主張をしている人の方が、文字通りの「哲学」の質問をしている事になります。
回答する側も、質問者の説や問題設定の深い部分を理解しないと、回答できませんから、なかなか難しいです。
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この回答へのお礼

このカテゴリ設定は運営の定義に甘んじる他ないでしょう。
しかし、独自、ユニークである事と独りよがりは違うと思います。独りよがりになるのは哲学云々以前の問題でしょう。
さらに言えば、他についての知識の無さを前提として自分の見解を構築する事を独自性があると言うのでしょうか?また、自分の知らない事について批判をすることが可能でしょうか?
もっと単純な喩えをすれば、りんごという果物について、新しく名前を「独自に」つければりんごの発見者になるのでしょうか?

新しい概念の発見や解釈は哲学の流れの中に存在するものでしょう。ここでもそれはあり得る。しかし他の批判を受け入れられず、自己の主張のみを押し通す態度しかないなら、それは独りよがりに堕するでしょう。学問以前の話です。

お礼日時:2018/01/20 01:25

お礼ありがとうございます。


独自の理論ですから、独自でかまわないと思います。
このカテゴリーの説明上、独自の理論は検証される為に質問されていると思いますから、回答したい人は、その独自の理論のどこに欠陥があるかを説明してあげれば良いと思います。
あと、スマホアプリなどで、質問者の意図によらず、違うカテゴリーに投稿されてしまう場合もあるので、この場合は質問者の責任では無いでしょう。
そうでは無いのに、あきらかにカテゴリー違いの質問があった場合は、放置すれば良いだけです。(通常は、運営が適切なカテゴリーに移動します)
カテゴリー移動がなされない場合は、運営は適正な質問と認識していると思われます。
なお、不適切な質問は、きちんと運営が削除していますから、あまり心配しなくても良いと思いますよ。(これは、間違って回答した場合に、質問が削除された場合は、きちんとメールが来ますから、確実に行われています)
なお、一見無意味な質問に見えて、実は深い内容を持っている場合もあるので、なかなか見過ごせない面もあります。(ただ、その深い内容ゆえに回答が付かない場合も多々あります)
個人的には、質問文にきちんと主張の詳細を書かないで、個人のリンクへ誘導などは、あまり好ましくないと思いますが、投稿エチケットから、営利目的で無い場合は、禁止事項から除かれましたから、これも認められている事になります。
これらの緩和事項により、一時期よりは、質問の削除は減ったように見えますが、実際はかなりの量の質問が削除されていると思いますし、回答が付かなければ、一定期間で締切になりますから、自然に淘汰されると思います。
さすがに、哲学とは言えない、人生相談などは、あまり好ましくは無いでしょうが、これもまた人生の哲学と言えなくも無いですから、回答したい人は回答すれば良いだけなんだと思います。
宗教関係は、宗教学でも良いような気もするんですが、実は宗教学カテゴリーは、宗教学なんで、宗教そのものは、質問対象じゃないんですよね。(そういう意味で、信仰対象とか信仰に関する質問は、哲学カテゴリーが適切となってしまいます)
カテゴリーの設定は、運営なんで、運営に直訴するしか方法は無いでしょう。
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この回答へのお礼

公共性の維持を全て運営に任せるのは現実的ではないでしょう。ユーザーのモラルや社会性がそれを担うのは妥当なことです。現状の全てを否定するわけではありません。ですが、活発な投稿をする事と、モンスター化することは区別せねばならないでしょう。
質問の持つ意味の深浅については、どのレベルの意味を捉えるかは回答者に委ねられていることで、そのレベルの設定は任意で良いと思います。質問者以上に回答者の方が、その質問を深く理解している場合もあるでしょう。
独自性については私は、それが独自であると主張するだけではそれを証した事にはならないと考えます。

お礼日時:2018/01/20 00:51

哲学カテゴリーの説明は以下のとおりです。


「哲学とは世界や人、神など万人共通の普遍的・根源的なものを深く追求した結果得られた独自の結論とその結論を求める行為のことです。クオリア(感覚質)とはどう理解したらいいかわからない、思想と哲学の違いを教えてほしい等ことらに投稿してみましょう。」
この説明なら、このカテゴリーの質問は、全てあてはまっていると言えるのでは無いでしょうか?
元々、独自の結論を表現する事も許容されているようなので、むしろ運営の意図には合っているのでは無いでしょうか?
つまり、「哲学」カテゴリーの説明自体が、このような状況を生み出しているような感じがします。
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この回答へのお礼

私もこの説明は読みました。
この説明に仮に納得したとしても、このカテゴリの質問はすべてこの説明に当てはまっているとは言えないでしょう。訳の分からないカテゴリ違いの質問もありますから。そして何より、独自の結論と、ただそう思いたいだけというのは違います。本人がその結論は独自だと思っているだけで独自性があると認められるのでしょうか?もしそうなら言ったもん勝ちの、非常に質の低い問答ばかりが量産されてしまいます。
学問としての哲学があまりに軽視されています。アカデミックなものを擁護したいというのではなく、その心構えを問うているのです。正しいとまでは言わないまでも、それを為す妥当な知的探求心によって哲学は営まれるはずであり、それについてここの哲学カテゴリの現状は、不当なものが多すぎる気がします。どのように不当かというと、知りたいのではなく知らしめたい、このような動機で質問が起きるのが不当だというのです。知らしめたいのであるならば自分のブログなり著作なりでやっておればよいのではないでしょうか。布教活動に公共の場を利用するなら、街頭でやかましく強引に宣伝する極右や新興宗教の連中と変わりなく、それは自己批判、自浄力ある哲学の態度ではないと私は思います。

草野球ならぬ草哲学を否定するつもりはありません。自分で考えることは楽しいことです。それに一生懸命になるのも否定しません。また、大リーグを観戦したり野球をあまり知らない人に解説するのも、それを聞くのも楽しいことでしょう。哲学も同じです。過去や現代の優れた哲学者の哲学を、哲学を知らない人に解説したり、それを横で聞くことは、哲学をあまり知らない人にとっても楽しいことです。
今のこのカテゴリの現状は、そういった楽しみの生まれる可能性を破壊していると思います。何によって破壊しているかというと、我のこの考えこそが優れているのだと激しく主張することによって破壊しているのです。人類社会にある思想や哲学が供与するはずの公共の益を、他の人が得られる機会を破壊しておいて、自らの考えの認められることのみを追求するのは、邪道です。

お礼日時:2018/01/19 22:51

こんにちは、如月さん。




このご質問を立ててくださりありがたうございます。
わたしも気になつてをりました。


質問の件数自体、減りましたね。
質問するに当たっての熱意も減り、熱意ある質問の密度も下がり、
ゴミ処理場のやうになつてゐるやうな気がします。


結果、真剣に問い求めをする質問があつても埋まつてしまい、
わたしはそのことを残念に思ひます。


しかし【玉石混交】という状態も、おもしろいと思います。
ガラクタ・廃棄物・埃・ゴミ・屑や破片に囲まれた部屋で、
純度の高いダイヤモンドやアメジストやルビーやエメラルドや
金やプラチナをたまたま発見できると幸運に思ひます。

___________


なお、ガラクタなのか宝石なのか、判断するのは参加者です。
参加者にはいろいろな人が居ます。

★これはガラクタである、だからわたしは捨てる。
★これは宝石である、だからわたしは拾う。
★これはガラクタであるけれど、おもしろいので眺める。
★これは宝石であるけれど、つまらないので無視する。
★これがゴミなのか宝石なのか分からないけれど、
 そんなことはどうでもよろしく、【これ】そのものに興味を持ち
【これ】に対して知りたくなり、【これ】に意見を述べたくなる。



___________


話が変わりますが、
確かに【カテゴリ】は豊富にあり詳細分野に分かれてゐますね。


たとへば【悩み相談・人生相談カテ】だけでも、
「恋愛相談」「結婚」「家族」「社会」「学校」「職場」など、
【第一地図】が大量に用意されてをり、

さらに、それぞれの【第一地図】の中に、
「高齢者・シニア」「いじめ・人間関係」「知人・隣人」などの
【第二地図】も用意されてをります。



わたしは利用者さんが適切なカテゴリを選んでくださることを望みます。


___________



と申しつつ、わたしは哲学カテゴリが好きなので、
明日もいつも通り、このカテを覗きに来ると思ひます。
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この回答へのお礼

玉石混交、という面は私もそうかなと思っていました。
誰かたった一人にとって玉であるなら、そのQAの存在意味もあるでしょう。
しかし、今のこのカテゴリはそのような親切心ややさしさ、真摯さはあまり見られないというのが率直な感想です。ただ自分勝手なふるまいが顕著で、自分で提出し自分に帰結すると言ったような、なんの進展もない戯論が少なくないと思います。
放っておけばいいという意見もあるでしょうが、このサイトの公共性というものを鑑みるに、放っておくのは良くないことだろうとも思えます。喩えば道路を暴走族が占拠していて、道を迂回しなければならなくなった。暴走族は自由をはき違えているわけですが、それによってこの道路が使用不能になるのは公共の益に反します。あまり自分のことばかり考えずに、もうちょっと周りのことを考えてほしいというのが素直な気持ちです。
質問は質問者のためにするのは間違ってはいないのですが、その実は回答を募っているのではなく、ただ自分の欲望、自分が自分が、自分の考えこそが、こういう動機だけで質問していて、質問者のためにすらなっていないという場合も見られます。それは疑似質問であり、質問の体をとってはいるが、質問ではないのです。そのような質問が哲学を称することで、哲学の実際が現れず、他の方も仰っていますが、哲学カテゴリは吹き溜まりとか、neutralingさんのいうゴミ処理場と形容されるに堕ちてしまっています。それは残念なことです。本来の哲学の魅力というものがあるはずであり、それは何でもありというわけではないのだと思います。人のために、世界のためにと叫ぶ割には、人のため世界のためになる質問一つろくに現れてはいないのではないか。私は、綺麗な理想を謳いつつ、同じ口で自分のことしか考えてない質問が為されているのを見て、空しさを覚えているのだと思います。

お礼日時:2018/01/19 22:09

No.4です。



「しかし、人生の意味はこうだ!と結論を持って、質問を立てるような行為は解せません。本来ここはアンサーを求める場ですが、クエスチョンと称して自説を流布したり、共感を得たいだけの偽の質問も多くあります」
⇒その通りですね。

「完全に潔癖な場である事を要求しているのではありませんが、今述べたような、場を汚すアクションが多いのは否めないでしょう。これは哲学に関する知識の多寡によって起こるのではなく、ユーザーの心得違いによって起こっているのではないでしょうか。」
⇒ご指摘の通りです。

哲学カテで自説を述べる場合でも、異論のある回答に対しては丁重に対応しなければなりません。
それであれば、全国で閲覧されている方々も納得されるのではないでしょうか。

そもそも、ご指摘にあるような、ただただ自説を述べるだけの質問は規約違反ですからね。
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この回答へのお礼

公共性というものを無視した自分勝手なふるまいも見られますね。そうなると他のユーザーからは相手にもしてもらえなくなってきますね。このカテゴリに人が寄り付かなくなることで、生じる損失というものに注目してもいいのかなと思いました。

お礼日時:2018/01/19 21:34

参加する人のためになればいい。


参加する人に使いやすければいい。
その結果、社会の役に立てばいい。
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この回答へのお礼

料理が美味しければ、中華料理屋でパスタが出てきても文句は言わない。そういう人も居るでしょう。

しかし今回は、参加者の為にならず、使い難く、ここのQAが社会の為にもなってない事があまりにも多いのではないかと思って質問しました。

お礼日時:2018/01/19 13:34

キサラギXさん、いい質問ですね。



「哲学カテゴリの質問を見てみると、その質問内容は多岐にわたっています」
⇒確かに、その通りです。

「行き場のない質問がここに不法投棄されていっているようで、とても使いづらくなっていると感じています。・・・・本来の哲学カテゴリの機能が大きく阻害されていると思うのですが、どう思われますでしょうか。要するに、ここはかなり荒れていると思うのです(盛り上がっているのではなく)」
⇒書かれているお気持ちはよく分ります。

「哲学とは何かという定義(範疇)にも幾らか幅はあるにせよ、その幅を全く無視した質問と回答が入り乱れています」
⇒確かに、そうですね。

私は二つのことを感じています。

①ここの哲学は、教育・科学・学問のカテゴリーになっています。
このサイトを企画した方々は、最初は純粋なアカデミックな質疑の場を想定したのでしょうね。
そういう観点でみると、アカデミックでないものを受け入れる別のカテゴリーを用意する必要もあるでしょうね。

②哲学は、本来人間の生き方を論ずるものです。
ということは、複雑な現代社会で悩みをもつ多くの方々の気持ちが投稿されるのは広義の意味で哲学の範疇だとも思います。
自由な社会である日本でも、自由を感じない人、自分が何故こんなに辛い人生をおくっているのかと思っている人に対して、まさに哲学が答えてあげるものだとも感じています。
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この回答へのお礼

②は優しい回答だと思いました。ですが、上手くいかない人生の言い訳探しが、哲学になるとは私には思えないのです。人生の意味を求める質問がここに立つ事は少なくありませんし、それは自然だと思います。しかし、人生の意味はこうだ!と結論を持って、質問を立てるような行為は解せません。
本来ここはアンサーを求める場ですが、クエスチョンと称して自説を流布したり、共感を得たいだけの偽の質問も多くあります。
完全に潔癖な場である事を要求しているのではありませんが、今述べたような、場を汚すアクションが多いのは否めないでしょう。
これは哲学に関する知識の多寡によって起こるのではなく、ユーザーの心得違いによって起こっているのではないでしょうか。

お礼日時:2018/01/19 13:29

哲学とは別に「哲学史」というカテゴリーを作成し、死んでしまった哲学者の話とか彼らが残した著作に関しては、この「哲学史」のカテでやって貰う。



上記以外のしょうもない哲学的問いは、いままでどおりこの吹き溜まりで扱うのがええよ。
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この回答へのお礼

哲学には体系と文脈というものが存在するでしょうから、哲学史というカテゴリを作って分離してしまうのは却ってややこしい気がします。

どのカテゴリにも属さない質問は、その他の質問カテゴリに投稿されれば良いと思うのですが、何故か哲学カテゴリに吸い寄せられるようです。

お礼日時:2018/01/19 13:12

行き場のない質問がここに


不法投棄されていっているようで
   ↑
これには笑いました。
面白いたとえだと感心しました。
上手いね。



このままでいいのか、それともこのままでは好ましくないのか。
  ↑
ワタシは、このままでいい、と
考えています。

どんなに細分化されても、行き場の無い質問という
のは出て来ます。
それが、哲学カテに流れ込んでくるのは
哲学的です。
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この回答へのお礼

ユーザーが哲学に求めるものと、哲学が提供できるものとの間に大きな齟齬があるように思います。哲学カテゴリはカウンセリングルームでは無いですし。
行き場のない質問が哲学に答えを求めて来るのは、その質問自体が何を問うているのかさえ理解されていないからではないかとも思います。質問をカテゴライズするのは哲学の仕事なのでしょうか。
あとは、哲学と言って仕舞えば考えてる気になると言うのもあるかと思いました。ですがこれは大きな勘違いであるでしょう。

お礼日時:2018/01/19 13:07

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