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Schopenhauerの主著「Die Welt als Wille und Vorstellung」を、日本では「意思と表象としての世界」と訳していますね。

しかし、正しくは、「意思としての世界と表象としての世界」ではないでしょうか?

本日、図書館で原書の中身を見物していて確信するに至ったのですが、タイトルだけを見れば、どっちに訳しても良いのでしょうか?

ドイツ語は共通部分を繰り返さず、因数分解しちゃう傾向が強いのですが、日本語に訳す時は、展開して、少々冗長な訳にしてやらないと、原義が伝わらないと思いまして、ドイツ語に詳しい方よりアドバイスいただきたく、質問させていただきました。

どうぞよろしくお願いします。

質問者からの補足コメント

  • 中身はこのような具合で、それぞれの世界を別の章立てで論じています。

    「「意思と表象としての世界」は誤訳ではない」の補足画像1
      補足日時:2018/03/28 13:50

A 回答 (2件)

そうですねえ、まあ英語は


The World as Will and Representation
そのままですね。

ところがフランス語では
Le Monde comme volonté et comme représentation
als にあたる comme を繰り返しています。

ところがところがスペイン語とポルトガル語では
El mundo como voluntad y representación
O Mundo como Vontade e Representação
と英語と同じ。

ついでに中国語も見てみると、
作为意志和表象的世界
「和」と「と」にあたるので、やっぱり英語と同じ。



>「意思としての世界と表象としての世界」ではないでしょうか?

それだと、世界が二つあることになっちゃいます。
そうではなく、一つの世界に二つの側面があると言うことですよね。

あえて言えば「意思としての、そして表象としての世界」ではないでしょうか?
でもまあ、売れないかな。



>日本語に訳す時は、展開して、少々冗長な訳にしてやらないと、原義が伝わらないと思いまして、
>ドイツ語に詳しい方よりアドバイスいただきたく、

それなら、ドイツ語じゃなくて、日本語に詳しい人の方がよくないですか?


『眠れる森の美女』が「眠れる森にいる美女」なのか、「森にいる眠れる美女」なのか、曖昧であるとはよく言われることです。
でもそれが問題にならないのは、読めば分かるから。
「「意思」と「表象としての世界」」なのか、「「意思と表象」としての世界」なのか、確かに曖昧です。
でも誤訳ではない。
どっちなのかは目次を見れば分かる。

タイトルだけで何か分かったような気にさせるなら、それはそれで悪訳だろう。
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この回答へのお礼

フランス人が一番良い訳を当てましたね。

大変参考になる情報、どうもありがとうございました。

お礼日時:2018/03/31 21:56

私が付け加えることは残っていないので、投稿しなくてもいいんですが、


ネットを見ていると、これは誤訳だ、とすぐに言いたがる人があまりにも多いので、
ちょっとうるさいことを言ってみようと思います。

これは、ドイツ語の問題でもなければ誤訳の問題でもないんですよ。
外国語を訳す時にどうしても出てくるジレンマです。
理系の人に多いような気がしますが、外国語の訳をするとき、論理的整合性にこだわりすぎて、
原文の意味を正確に出すことだけにしか目がいかなくなる人がいます。
でもこれは「書名」ですから、あまり説明的にはできませんし、
パッと見て読んだ時の響きやリズムだって問われるわけです。

「因数分解」なんて数学用語を持ち込んでほしくないですけれど、
Die Weltっていうのは、我々が住んでいるこの世界一つのことであって、
それを、意志として、また表象としての二つの観点から考察しようというわけでしょう。
だからDie Weltは一つだけで、alsのあとに二つの語があるんです。
それは前の方が書いている通りで、もし二つの別の世界として論じているのなら、
Die Welten als Wille und Vorstellung と複数形にします。ですから、
「意思としての世界と表象としての世界」の方が完全な誤訳になると思いますよ。

確かに私も、この日本語の訳題には昔からしっくりいかない印象は持っていました。
それは、「~として」という語はどうしてもひとまとまりに感じ、
「と」+「して」と分解して考えにくいので、
「と」のところで切れたように感じてしまうからです。
たとえば、医師でもあり教師でもある人は、
「私は医師として、教師としてこう考える」とは言えますが、
「私は医師と教師としてこう考える」とは言わないでしょう。
それに、「意志としての世界」とは何なのか、知識のない人にとっては、
世界そのものが意志であるかのように聞こえ、だから「意志」と「世界」がうまくつながらず、
「と」でいったん切れるように感じる、ということもあるかもしれない。

そもそも、そこまで原義に忠実というなら、訳語自体だって突っ込みどころはあります。
「意思と表象の世界」と書いておられますが、「意思」と「意志」は、
意味が似ているとはいえ、個人が何かをやろうとする場合は「意志」で、
「意思」という語は「考え」に近くなります。「賛成の意思を表示する」とかいう場合です。
ドイツ語のWilleは「意志」の意味ですし、ショーペンハウアーは、
「個の意志」とはっきり書いてもいるのですから、「意志」でしょうね。
「表象」はどうなんでしょう。本来はこれも、「象徴」に近い意味ではないですか。
ただ哲学の方で、Vorstellungの訳語に「表象」を当てようと決めただけですから。
明治時代の訳では「意志と現識としての世界」となっています。
「現識」というのも無理に作った訳語でしょうし、古臭くてもう使えないでしょうけれど、
なんとなくこの方がVorstellungのイメージに近いような気もしますね。
明治時代の初期の訳が、「~と~としての」となっていたので、
それが踏襲されたということもあるのではないですか。
明治時代の翻訳はまだまだですから、この題名の訳にも苦心したのだと思います。
どうしても「と」が引っ掛かるのならば、「意志および表象としての世界」の方がいくらか誤解を避けられます。
しかし、「意志と表象としての世界」はもう長いこと定訳になっていますし、
「と」の繰り返しがある方が、響きがいいですから、このままでしょうねえ。
それに、「意志と表象」なら7音節で言いやすい。
ですから、「原義が伝わらない」とおっしゃいますが、
ドイツ人がオリジナルのタイトルを見ても、本文を読まなければその意味は分からないですよ。
タイトルだけ見てもわかるように意味を伝えろということであれば、
「個の意志としての、また自己の意識の中に思い描くものとしての世界」とでもしないとね。
でもこんなの、「余計なお世話」じゃないですか。

こういう議論はよくあって、たとえばシューベルトの「美しき水車小屋の娘」という歌の題もそうです。
美しいのは水車小屋か娘か、という議論です。
これは誤訳だ、「水車小屋の美しい娘」が正しい、と言う方を知っているのですが、
この方も理系の人で、意味の正確さだけでそう言っているわけです。
でも、歌の題名として、「水車小屋の美しい娘」ではあまりにも説明的、散文的すぎますし、
リズムも悪いので、これは使えません。
この例はネットにも出ていますが、「美しい、水車小屋の娘」と点を打てば、意味ははっきりする、とも書いてあります。
しかしこれは、散文中ならできますが、タイトルにはならないのでだめですね。
それならば、文法や語順ばかり考えていないで、訳語を変えるという発想の転換をしたらどうなのか。
「美しい」ではなくて「麗しき」にすれば、
「麗しき水車小屋」とはあまり言わないので、「麗しき娘」と連想しやすくなると思いませんか。

こういう思い違いはいくらでもあって、これも音楽の例ですけど、
マーラーという作曲家に「亡き子をしのぶ歌」という歌曲集があります。
ところがある時期から、これは誤訳だという意見が出てきました。
たぶん、東大理系出身の作曲家、音楽学者だったと思うのですが、
ドイツ語の書物の翻訳もしていた人です。
原題はKindertotenliederで、直訳するなら「子供の死の歌」が正しい、と言うんですよ。
これをそのまま引用している人も多いのですが、直訳しても「子供の死の歌」にはならないのです。
Totenliedというのは、Grabgesangと同じで、埋葬の時に歌う嘆きの歌です。
「死の歌」では意味が全然分からない。こっちの方が誤訳です。
三つの語をバラバラにして直訳してしまったので、そういうことになったのです。
だから、なるべく原義に近く訳せというのなら、「亡き子を送る歌」か「亡き子を悼む歌」でしょう。
しかしこれは、二人の子供をたて続けに亡くした詩人が書き続けた428篇の詩で、
事実からいっても内容からいっても「亡き子をしのぶ歌」が誤訳とはいえません。
歌のタイトルとしてはこれが一番いい。

以前ここでも話題にしたのですが、某大学のドイツ語の先生が、
ドイツ国家の歌詞の「世界に冠たるドイツ」は誤訳で、「ドイツが一番大事」という意味だとネット上で騒いでいました。
でもその根拠を読んでみたら、比較している例文には、意味を変える別の動詞が入っていて、話になりませんでした。
ナチス・ドイツが制作したプロパガンダ映画のタイトルがDeutschland über allesでしたし、
メルケル首相が一番影響力を持っていたころにイギリスの新聞に出た記事のタイトルにも、
Merkel über allesと書いてありましたから、元の訳であっているんです。

最近見かけた翻訳家のミスは、リュディガー・ザフランスキーの「ロマン主義」という書物の副題です。
Eine deutsche Affäreを「あるドイツ的事件」と訳してあるのですが、
著者自身の対談などを聞くと、「ドイツの浮気」という比喩的な意味で、「結婚」と対比して使っています。
この場合、不定冠詞は、「ある」とか「一つの」という意味にはならないので、訳出する必要はなくなります。
Affäreという語は、政治的な事件などにも使いますし、「浮気」という語が連想しにくかったのかもしれませんが、
本の表紙に印刷されるタイトルですから、ちょっとまずかったですね。

言葉ってもともと論理的にはできていませんから、つまずくことは多いです。
ドイツ語は論理的な言語だと思っている人も多いと思いますが、決してそんなことはありません。
言葉が論理的であれるかどうかは、使う人の頭が論理的か否かで決まります。
この世には、浜の真砂の数ほどの誤訳がありますが、
指摘するときには、よほど周到に検証してからでないと藪蛇になります。
そして、「正しい訳」と「良い訳」が必ずしも完全に重ならないケースもあるということですね。
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この回答へのお礼

Shoene Muellerinを「美しき水車小屋の娘」と訳したのは想像力豊かな文学者ではないかな。
これは、Shoener Muellerを「美しき水車小屋の息子」と訳す様なもので、極めて恣意的・文学的な創作と言うべきでしょう。

ドイツ語としては、
Shoene Muellerinは「美しき粉ひき女」であり、
Shoener Muellerは「美しき粉ひき男」でないと言語翻訳の一貫性は維持できないですね。

ま、ご想像通り、私は理科系の人間として生きてきて、昨年の4月より2度目の大学で人文学を学ぶようになったのですが、どうも人文学ってのは恣意的で、学門というよりも、創作に近い気がしています。

学門の方が創作より上等だというつもりは毛頭ないのですが、創作なら創作として、個人の創意工夫を推奨すれば良いところ、あたかも学門の様に正誤があるような勘違い教育がまかり通っている印象です。

で、外国語の翻訳は創作で良いのかどうか、ですけど、これは色々意見があるでしょう。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2018/03/31 21:56

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