プロが教えるわが家の防犯対策術!

下記の質問の続きです。
【「~あまり、~」の使い方について】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10529075.html

 いろいろな問題が関係しているような気がして、「ちょっと時間を下さい」とお願いしたのですが……。
 ↑の質問を再掲します。
===========引用開始
ある日本語教育サイトの「あまり」についての例文に、
「この会社は、働きすぎたあまり病気で倒れる社員が増えている。」
という例文がありました。また、日本語表現辞典(アルク)の「あまり」の項に次のような例文があります。
「試験問題は易しかったのに、考えすぎたあまり、間違えてしまった。」
これらの動詞のタ形に「あまり」が続く表現には違和感があり、タ型ではなく、連体形の方がいいと思うのですが、どうでしょうか。 
===========引用終了

 結局、〈タ形に「あまり」が続く表現〉も〈連体形「あまり」が続く表現〉は同じようなものなのでしょうか。
 それともなんらかの基準で使い分けるべきものなのでしょうか。

質問者からの補足コメント

  • へこむわー

    われながらバカなことを書いている。下記のように訂正します。
    【訂正前】======引用開始
    「あまりの暑さに食欲をなくす」……これはちょっと違う形ですね〈主として「…の―に」の形で〉って何を根拠に……。
    「働きすぎのあまり」にはちょっと異和感があります。
    ===========引用終了
    【訂正後】======引用開始
    「あまりの暑さに食欲をなくす」……これはちょっと違う形ですね〈主として「…の―に」の形で〉って何を根拠に……。
    「あまりの働きすぎに病気で倒れる社員が増えている」には強い異和感があります。 
    ===========引用終了

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/06/17 12:26
  • 質問した段階での当方の推論です。
     コーパス?に関してはグーグルで少し調べてみたのですが。ちょっと言い回しをかえるだけ結果がかわり、なんとも言えないような。
    【「働きすぎるあまり」「働きすぎたあまり」「働きすぎのあまり」 教えて!goo〈2〉】
    https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12383507491.html

      補足日時:2018/06/17 12:49

A 回答 (24件中1~10件)

また書きます。



寺村秀夫の仕事について、誤っていると思われることが書かれているので、一応書いておいたほうがいいと思いまして。
「シタあまり」とは関係のない話になってしまいますが、お許しを。

寺村秀夫は、『日本語のシンタクスと意味Ⅰ』で「本書の目標は実用文法の作成である」と確かに書いています(p.15)が、その後の議論のしかたを読めばわかるとおり、しっかり理論的な議論を積み重ねています。
特に、活用を論じた第Ⅱ巻での議論は、言語学的な考察が積み重ねられていて、「実用」のために理論的側面を軽んじる、などというものではありません。批判はしっかり読んでからにしましょう。

「書いた」を「動詞+助動詞」と考えるのは、一つの分析のしかたとして認められるものですが、それだけが正しい分析だ、というのは、あまりにも言語学をしらなさすぎます。
(もちろん、「屈折語文法」などという怪しげな文法はありません。現在の言語学は世界中の言語を相手に、理論・分析手段を考えています。)

日本語の「助動詞」は(「助詞」もですが)、「語」と言えるかどうか怪しい要素です。
国語学でも、語と認めない考え方はあるのではありませんか?

言語学にとって、「語とは何か」というのは、非常に大きな問題です。これはこれで大変な話になり、私には手に負えませんが、日本語の助動詞「た」が一つの語であるかどうかは、大いに疑いうるところです。

そもそも、形態素分析をすれば、「書く」も一つの要素ではなく、[kak-u]で、それと同じような分析で[ka(k)-i-ta]となり、[u]と[ta]は同等の資格を持つ要素です。
(この[i]をどう考えるかも、私にはわかりません。「音便」というのは、なんの説明にもなりません。結果に名前をつけただけですから。)

「た」が「助動詞」で、[u]は見えないので問題にしない、というのは、要は日本語の表記が音節文字だということによるだけで、文法の分析とは別の問題です。(時枝は、苦し紛れに「零記号」などというのを考え出したのでしょうが)

最新の言語学では、もっと細かい分析をしてしまうので、「かく:かいた」のような形の対立を考えないのでしょうが、まあ、一昔前の言語学的常識の元では、「かく:かいた」でいいでしょう。

時枝の理論は、言語論・言語哲学に興味のある人には、それなりに面白いところもあるのでしょうが、文法理論としては、もう研究してみてもあまりえるところはないものでしょう。
国語学なら、山田文法や松下文法のほうがずっと興味深い観察が見られるのだろうと思います。

時枝が批判したのは20世紀初めのソシュールの言語観ですが、誤解に基づく批判なので今から振りかえる必要もないし、それ以上に、その後の言語学の発達が、特に20世紀後半の理論の進化が大きいので、そのあたりを多少でも勉強してから、(その言語学に基づいた)「いわゆる日本語文法」を批判するのがいいのじゃないかと思います。

寺村は元々英語教師で、英語学の研修(?)に行ったアメリカで構造言語学と(変形)生成文法を勉強して帰国し、日本語文法の研究を始めます。「日本語教育文法」の側面を持っていますが、当時の言語学の分析方法を取り入れた、「理論」的にしっかりした文法を作り上げました。それが、言語学者にも高く評価されるわけです。

初めに戻って、寺村が「実用文法」と書いた時、対立する「理論文法(文法理論)」とはどういうものだったのか。国語学の「理論」ではなく、生成文法の理論でしょう。

当時の国語学の「文法」は、品詞論と形態論をあれこれ議論するだけで、文法の中心である「構文論:シンタクス」はほとんどありませんでした。(これは三上章がくり返し述べていることです)

寺村が書こうとしていた文法と比較できるような文法は、国語学の中にはありませんでした。寺村の頭の中にあったのは、60年代後半から70年代にかけての、黒田・久野・井上・奥津・柴谷などの論文・著書に展開されていた生成日本語文法の大きな成果だったと思います。この時代の日本語生成文法の力は圧倒的なものでした。

しかし、それらは素晴らしいものではありましたが、日本語教育にとってはまだまだ足りない所が大きく、文法全体の考え方も寺村とは違っていたので、寺村は全体的な文法(シンタクス)を書こうとしたのでした。(寺村は、井上和子の本の書評を書いていて、いろいろ疑問を呈しています)

だらだらと書いてきました。一言で言えば、「寺村の文法はその当時、最も理論的によく考えられた文法である」ということでしょうか。

読み返してみて、言わずもがな、という気もしますが、まあ、投稿します。


なお、No.20の回答で紹介された「論文」を読んでみましたが、あれは、どうにもなりませんね。時枝理論と認知言語学を結びつける、なんて面白いかと思いましたが、内容が議論のテイをなしていません。

なによりも、いちばん議論を費やすべき「タの用法」のところがホンの2ページあまりで終わりとは。あっけにとられました。

認知言語学の枠組みは、表面的に利用しようとすればいろいろ使い勝手のいいものかもしれませんが、次のようなことではダメです。

「タ」の「過去」以外の用法を「統一的に」説明しようとして、

   このような予期を内容とする〈起点-経路-到達点〉スキーマは,[想起]
  [完了][要求][単なる状態]でも同様に作用する。

というのはいいのですが、その論証はなく、例えば、

  [完了]では,事態の予期される終了時点の実現の認識が〈到達点〉となり,
  それをタ形が反映する。

というだけです。これで、

  [完了]
   (3)裏の庭で猫がニャーと鳴いた。

をどう説明しようと言うのか。(3)の例で、「事態の予期される終了時点の実現の認識」
って、なんなんでしょうか。著者の頭の中には何かあるのかもしれませんが、そこを
しっかり説明するのが「論証」というものでしょう。

この「論文」には、問題としている事柄の「論証」がありません。時枝と、認知言語学
のラネカーと、認知哲学(?)のジョンソンの論の引用・紹介に多くのページを使い、
肝腎の「タ」の用法の話はほとんど省略しています。そこが聞きたかったのに。

こんな報告を大学の言語学のゼミでしたら、こてんこてんに叩かれて、「出直し」を
通告されます。

とまあ、言いすぎたかもしれませんが、そういう内容です。

もう20年近く、言語学も、日本語文法も、まじめに勉強していない人間が、それ以前の
知識で書きました。いろいろと間違ったところもあるかもしれませんが、ご指摘いただければ。

saburoo
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この回答へのお礼

専門的なコメントをありがとうございます。

>「シタあまり」とは関係のない話になってしまいますが、お許しを。
 すでにそういうコメントがいくつもあるので、お気遣いなく。

 なんだかさらに面妖な反論が入っているようですが……。
 もうすでにご存じとは思いますが、まともに相手をしないほうがよろしいかと。時間のムダです。
 もったいない話の気がします。
 あれだけいろいろ文献を読み漁って、あんな極北にたどり着くとは。

 日本語文法も国文法も、現在の文法は全否定。
 その結果、どこにも通用しない珍説を撒き散らしています。
 日記でやるなら「勝手にどうぞ」とも思いますが、こういう質問サイトでやられるとかなり迷惑です。
 多くの人が批判するのを目にしますが、本人は「自分が正しい」と思い込んでいます。はたから見ると……。
 たまに面妖な主張に丸め込まれる質問者がいるのが可哀想です。
 そんなことをウノミしたら恥をかくのに。

 あの論文は反面教師と例示したようです。だったら、なぜ「努力をされている方」なんて書くんですかね。コミュニケーション能力が低すぎます。当方は、特有の妙な用語が出てきた段階で「お仲間」と考えて読む気になりませんでした(やはり「ませんでした」は美しありません)。

 今後もよくわからない質問をすることがあるかと思いますが、気が向いたときにコメントをいただければ幸いです。

お礼日時:2018/07/07 22:40

>>よく考えてください。


 もともとむずかしい問題を、「わかりやすく説明しよう」と意識がまったくない書き方をしてるんですよ。
 しかも一般の常識とは懸け離れた主張が目立ちます。

当方は誤った易しいと称する俗説を正し、論理的に正しい説を理解してもらうべく回答しています。
一般常識を疑わない所に進歩はありません。その程度の常識もなく「易しい=正しい」では話しになりません。
飴玉をしゃぶってばかりいては虫歯になるだけです。
より良い回答を得たいとの質問と理解しています。

>>そこに致命的なミステイクをして……当方はまた珍説を持ち出したのだろうか、と呆れました。
ミステイクは勇み足で申し訳ありませんが、致命的とは考えておりません。
助動詞「う/よう/まい」が活用しないのは判りかきったことで、活用をもつ付属語との定義の齟齬をどのように考えるのかが問題です。
  
>>そのうえ、「皮肉(イロニー)を解されない」ですか。誰だって誤解しますよ。
 当方の回答を正しく理解すれば容易に理解できるはずです。受け手の理解能力の問題です。

>>誰にも理解できない「主張」や「皮肉(イロニー)」はお控えください。
 迷惑です。

ならば、オープンな場での質問は止め、仲間内で慰め合っていたら良いのでは。現在の学会、学界のように。
迷惑なのは、安易な常識的な回答を真に受けるしかない回答を参照される方々ではないかと思料します。
感情的な反発ではなく、論理的な批判を期待しています。
もう少し、物ごとを論理的に思考する力をつけましょう。■
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この回答へのお礼

ご理解いただけないようなので、繰り返します。
 誰にも理解できない「主張」や「皮肉(イロニー)」はお控えください。
 迷惑です。

 現在の常識に反するコメントはお控えください。
「当方の回答を正しく理解すれば容易に理解できるはず」ですか。そんな人がいるのでしょか。少なくとも当方は理解できません。お引き取りください。
 どうしても書きたいのなら、「仲間内で慰め合っていたら良いのでは」(仲間がいればの話ですが)。
 当方に押し付けるのは迷惑です。

お礼日時:2018/07/11 21:03

>助動詞を「活用を持たない付属語」と定義しなが


 誰がそんな定義をしてるのでしょう。

失礼致しました。うっかり、助詞と混同してしまいました。
当方のミステイクです。

学校文法では、活用を持つ付属語を助動詞、活用を持たない付属語を助詞と定義しています。「う/よう/まい」は活用を持たないにもかかわらず助動詞とされています。これについては、金田一春彦「不変化助動詞の本質」という良く知られた時枝詞辞論の批判がありますが、論の前提が誤っており、それに基づく展開となっているので、別途本質的な批判を展開したいと考えております。
質問者も興味をもたれている、主観/客観、主体的/客体的が明確な定義もなく混乱して用いられています。

>なぜ「努力をされている方」なんて書くんですかね。
皮肉(イロニー)を解されないのでしょうか。

>日本語文法も国文法も、現在の文法は全否定。
別に単純否定している訳ではありません。その限界を明らかにし、現在のソシュールパラダイムが克服され科学的な言語論が展開されなければならないことを明らかにしています。
それが、天道説から地動説へ、万有引力論と運動方程式へと力の本質を明らかにした近代科学革命と同様、人類の世界認識の深化、弁証法的な発展であるからです。■
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この回答へのお礼

よく考えてください。
 もともとむずかしい問題を、「わかりやすく説明しよう」と意識がまったくない書き方をしてるんですよ。
 しかも一般の常識とは懸け離れた主張が目立ちます。
 そこに致命的なミステイクをして……当方はまた珍説を持ち出したのだろうか、と呆れました。
 そのうえ、「皮肉(イロニー)を解されない」ですか。誰だって誤解しますよ。
 誰にも理解できない「主張」や「皮肉(イロニー)」はお控えください。
 迷惑です。

お礼日時:2018/07/09 20:39

《寺村秀夫の仕事について、誤っていると思われることが書かれている》と、NO.19の当方の見解に対し誤っていると思われる評が書かれています。

これは、現在の言語学の限界、非科学性に関する根本的な問題で、助動詞「た」にも関連する本質的な問題ですので一応、回答者の誤りと思われる点について要点を記させていただきます。

寺村の書に関し、

「活用を論じた第Ⅱ巻での議論は、言語学的な考察が積み重ねられていて、「実用」のために理論的側面を軽んじる、などというものではありません。批判はしっかり読んでからにしましょう。」

と記されています。たしかに、理論的ではありますが言語本質を捉えそこねた形式主義、機能主義的な実用文法でしかなく、科学的、本質的な論理展開でないということです。それは、回答者が指摘している活用の捉え方に典型的に表れており、膠着語である日本語の単なる形式の変化に過ぎない活用と意義の変化を伴う屈折という本質的に異なる変化を、同一視する誤った論を展開しているということで、本質的に批判されなければならない非科学的な実用文法論であるということです。

そもそも、回答者が依拠している記述文法そのものが、単なる現象論、機能論でしかなく、その点は寺村文法論や教科研文法、生成文法、認知言語学というしょせんはソシュール言語学のパラダイム下でしかない非科学的な言語論、文法論でしかないことを回答者が認識できていないところに本質的な問題があります。

この点は今回の問題の回答にも如実に表れており、単に事例を羅列するのみで、結論は、

 どう違うか、という点ですが、私は同じ意味を表す、と考えます。はっきりした違いは認められない。(文学的なレベルでの「なにか」が違うことは否定しません。それぞれの書き手が好みの形を使えばいいと思います。)

と、現象を並べ、「文学的なレベル」という理論的でも論理的でもない感性的な結論に終わるしかないところに良く示されています。

それは、次の記述にも明らかです。

「書いた」を「動詞+助動詞」と考えるのは、一つの分析のしかたとして認められるものですが、それだけが正しい分析だ、というのは、あまりにも言語学をしらなさすぎます。(もちろん、「屈折語文法」などという怪しげな文法はありません。現在の言語学は世界中の言語を相手に、理論・分析手段を考えています。)

「書いた」を「動詞+助動詞」と捉えるのは、膠着語である日本語の特性に基づく言語事実で、正しい分析であり、これを理解できないのは世界中の言語を相手に、理論・分析手段を考えている生成文法的な普遍文法を夢想する現在の言語論の欠陥でしかありません。

≪日本語の「助動詞」は(「助詞」もですが)、「語」と言えるかどうか怪しい要素です。≫と記されているように、記述文法では、語とは何か、文とは何かの定義もできずに、形態素などという誤った形式的な概念を弄んでいます。

回答者も、語とは何か、文とは何か、助動詞とは何か、助詞とは何かの定義もできないままに、日本語を論じるという体たらくな状況です。

≪「書く」も一つの要素ではなく、[kak-u]で、それと同じような分析で[ka(k)-i-ta]となり、[u]と[ta]は同等の資格を持つ要素です。≫と記されていますが、「書く」を[kak-u]と音に分割するのは、物理的な音を扱っているのであり、話者はこの形で語尾が変化していることを認識しているわけではありません。

屈折語のように、語尾変化が対象の捉え方の違いを表現している場合ならこのような分解も意味がありますが、日本語の活用をこのように分解してみたところで、それは表現としての基本的な構造を示すことにはなりません。日本語の「書く」の音韻は〔カク〕であって[kak-u]ではありません。「書く」を[kak-u]と[kak]と[-u]に分解すれば、それはもはや音韻ではなくて、単なる音声に過ぎません。英字を用い音声を表示してみせると、何か科学的な分析であるかのように見えるという錯覚に過ぎません。ここに、形態素という音声第一主義に基づく西欧屈折語文法の形式主義的な似非科学論の欠陥が露呈しています。

「書いた」が動詞「書く」の連用形+助動詞「た」であるのは、単純な裸体的概念を表す語を粘着し、句、文を形成する膠着語である日本語の本質に基づく、科学的な分析です。これを一語のように捉え、動詞の過去形などというのは日本語の事実を無視した非科学的な論理でしかありません。

「と、おっしゃいますが。」「で、それがどうした」のように助詞もまた一語であると認識されているのは明らかです。

≪(時枝は、苦し紛れに「零記号」などというのを考え出したのでしょうが)≫と揶揄されていますが、英語の動詞「cut」が、原在形、過去形、過去分詞と同形であり、過去の意味で用いられら場合、話者は過去の認識を持ちながら形には顕れておらず、「零記号」を想定しなければならないのは厳然たる事実です。

≪時枝が批判したのは20世紀初めのソシュールの言語観ですが、誤解に基づく批判なので今から振りかえる必要もないし、それ以上に、その後の言語学の発達が、特に20世紀後半の理論の進化が大きいので、そのあたりを多少でも勉強してから、(その言語学に基づいた)「いわゆる日本語文法」を批判するのがいいのじゃないかと思います。≫

などと、最もらしいことが記されていますが、誤解はソシュールの言語観に依拠したり、それ以上の論理を展開しえなかった服部四郎、金田一春彦、橋本進吉ら当時の言語学者や国語学者の方で、時枝の提起した言語過程説の本質を理解できない教科研文法や記述主義文法がそれまでの国語学の成果からの後退でしかなく、指示詞や取立て詞などという機能的な品詞論を展開して恥ない現状は正しく言語本質を捉えた言語過程説を展開し克服されなければなりません。

生成文法もまた、文のアプリオリな存在を前提とし、語が移動するなどという真面目に論じ、非文などという世評により成否を判断するプラグマティックな似非科学文法でしかありません。

認知心理学者マイケル・トマセロも共同主観などを持ちだし機能主義的な言語論を展開しており、言語過程説の足元にも及ばないお粗末な言語論でしかありません。

なを、紹介させていただいた論文「タ形の意味を考える」は「タ形」などという誤った捉え方をするとどのような論理展開になるかという誤謬の事例として挙げさせていただいたもので、質問者が「タ形」という捉え方に疑問を感じていないことに対する注意を即すためのものです。

当該論文の中で、時枝の論を話者の認識を取り上げた側面を評価し認知言語学の側面から評価していますが、認知と認識は異なり、その点が全く無視された認知言語学の欠陥を露わにする論考です。

記述文法の停滞は、すでに世紀の変わり目に野田尚史が「日本語学の解体と再生」(日本語学会第122回大会余稿集:2001)で表明して以来、三宅友宏<日本語学の課題-「記述」と「理論」の壁を越えて>(『ことばの科学-東京言語研究所50周年記念セミナー』(西山佑司・杉岡洋子[編])や白川博之「日本語研究から日本語教育研究への越境」(『日本語の研究 第14巻2号』:2018.4)他、問題意識にのぼり論じられてはいますが、壁や越境などで越えられるものではなく、現象論、機能論を越える時枝が提起した言語表現の過程的構造という言語学のコペルニクス的転換なしには不可能であり、その点に気付かれていないのが現状です。

ちなみに、この「言語学のコペルニクス的転換」という評価は、三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(雑誌『文学』1968年2月号:『言語学と記号学』所収)によるものです。■
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>そんなことはなみたいですが。



なるほど。助動詞を「活用を持たない付属語」と定義しながら、活用を持たない付属語である「う/よう/まい」を助動詞に入れて恥ないのと同じ、奇妙な論理ですね。

タ形/タ形述語の用法
言語一般<日本語の構造>
過去形のこと。これに対し、現在形を「ル形」「非過去形」などということもある。述語としてのタ形は一般的には過去を表す(「きのう寿司を食べた」)が、その他にも以下のようないろいろな用法がある。

こんな、努力をされている方もあります。

論 文「タ形の意味を考える──日本語学習者の運用能力に貢献する文法研究──」
http://taweb.aichi-u.ac.jp/tgoken/bulletin/pdfs/ …
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この回答へのお礼

>助動詞を「活用を持たない付属語」と定義しながら
 誰がそんな定義をしてるのでしょう。
>活用を持たない付属語である「う/よう/まい」を助動詞に入れて恥ない
 誰の話でしょうか。

 いつも以上に意味不明ですが、何か間違っていませんか。

お礼日時:2018/07/07 21:33

>つまりタ形などという形式的な捉え方は誤り


 つまり、いわゆる日本語文法は「誤り」であると。
 そんな主張を信じる人がいるんですかね。

「いわゆる日本語文法」というのはあいまいな表現で、日本語教育文法である80年代、寺村秀夫らにより第二言語としての日本語学習者を対象として展開された実用文法のことです。これは、寺村がその著『日本語のシンタクスと意味 (第1巻) 』で明記していることですが、本人もいつしかそのことを失念して日本語の学問的解明であるかのように勘違いし、その後継者である現在の新記述文法を説く人々はこの実用文法を学問的解明と誤認、信仰しています。
「行く」と「行った」をル形、タ形として区別する発想は、「動詞+助動詞」を一語とし、屈折語文法の動詞と同一視する誤った単語観に基づくもので、「そんな主張を信じる人」が日本語の話者にいると考える方がどうかしているのは中学生に聞いてみれば明らかでしょう。

国語学ではタ形などという形式的な捉え方はしておらず、学校文法もまた、そこまで形式的な捉え方はしておりません。
これがいかに誤った発想であるかは、「のこった、のこった」「買った、買った」や「尖った山」「曲がった道」を「タ形」として一括りにし、「昨日は学校へ行きました」と一緒に論ずる全くの形式主義的な見方であることでも明らかです。


>現在の形式主義、機能主義的な言語学、文法学ではこの問題に答えられないというのが実情です。
 できれば「現在」の文法でご説明いただけませんか。
「未来」?の文法が理解できるほど特殊な人間ではないもので。

<「未来」?の文法>ではなく、正しい、科学的な文法論です。天動説では人口衛星はおろか、潮汐現象も正しく説明できないように、せいぜい神の御仕業とするしかないでしょう。質問者はそれを望んでいるということでしょうか?
それが、「特殊な人間」でないことは理解できますが。■
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この回答へのお礼

>これがいかに誤った発想であるかは、「のこった、のこった」「買った、買った」や「尖った山」「曲がった道」を「タ形」として一括りにし、「昨日は学校へ行きました」と一緒に論ずる全くの形式主義的な見方であることでも明らかです。

 そんなことはなみたいですが。
http://www.nihongokyoshi.co.jp/manbow/manbow.php …

お礼日時:2018/07/01 17:59

>それは、いわゆる日本語文法を不当に貶めていませんか


文法の解説者をして貶めている・・・・と言われるなら、必ずしも否定はしません。
文法を体系づけた人(たぶん言語学者)の素晴らしさ、すごさ、は改めて感じます。
>そんなむずかしい使い分けをする意識は「微塵もありません」ということです
だから、言語学者のすごさ、理解するに至りません。
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>よく知らない言葉は不用意に使わないほうがよいのでは


また、言葉尻だけですね、よく知らない・・・私自身が認めていますね。
単に知らない、知る必要を認めないので知らない、と二通り有ります。
今一つ、自分の知っているものがすべてと思う、未知のものの存在を知る(認める)、知る範囲が限られていても、二通り有ります。
知らないのなら井の中の蛙じゃないか・・・と言う論法の様ですが。
知らない事は私から言ったハズです、そうです、知らないことを知っています。
これが井の中の蛙なら、多分すべての人が該当するでしょう。
と言うことは、貴方自身もそうです、またまた語るに落ちています。
私が言った言葉尻だけとらえて・・・・それこそが、上げ足取りにもならない、見てくれだけ、とらえての言葉尻取り?。
ネット社会の恐ろしさ?、テレビでも言っていました、都合の悪い意見は排除して、都合の良い意見だけで盛り上がり、飛んでも無い事をやらかしてしまう・・・と。
単独では無いもできない半端ものが複数連んで、反社会的行動に走るのと良く似ています
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>それは「井の中の蛙」とどう違うのでしょ


だから、見てくれ、表面上だけの理解なんです、タ型その他の表面的名分類?は詳細については知る必要がないため知らないだけです。
タ型と言われる表現、言語学者?はなぜ過去形と分類したのか、それを文法解説者が、一つ後ずさりして日本語を知らないもの向けに解説しただけのものです。
>いい加減な使い方をしていると、口の悪い人に〈知ったかぶりの投稿はしないでください〉って言われますよ。
日本語知らない者むけの解説を信じ込んで・・・の方が、知ったかぶりと思いますけど?。
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この回答へのお礼

〈日本語知らない者むけの解説を信じ込んで〉
 それは、いわゆる日本語文法を不当に貶めていませんか。
 国文法しか知らないならそれでもいいでしょうが、知りもしないでそういう書き方をするのは暴論に近いのでは。
 この質問板には日本語教師のかたも多数いらっしゃいます。
 そういう書き方はお控えください。

お礼日時:2018/06/26 20:25

こんにちは。


今ごろになって、という感もありますが、もう一度コメントを。

1 まず、前提として「スルあまり」が一般的な形であるということ。このことに
 反対はありません。日本語教育で有名な「日本語文型辞典」(くろしお)では、
 「スルあまり」の形しか認めていません。

2 で、問題は、前の質問者が「シタあまり」の例が日本語教育サイトと日本語表現辞典
 (アルク)にあったけれども違和感がある、と言っているがどう思うか、ということ
 ですね。(「名詞+のあまり」のことは考えていません)

3 私も、ちょっと違和感がありましたが、アルクの参考書がのせているのか、と思って
 書きことばコーパス(筑波)を調べてみたら、確かに数は少ないけれどもしっかり
 あった。(スルあまり 15:1 シタあまり)
  それぞれの例を見てみると、多少「違和感がある」ものもあり、そうでないものも
 あり。 
  で、その例を多少コピーしてのせてみました。皆さんはどう感じたのか。

4 これだけ実例があれば、「記述文法屋」としては、「シタあまり」の形を認めるのに
 やぶさかではありません。
  どう違うか、という点ですが、私は同じ意味を表す、と考えます。はっきりした違い
 は認められない。
(文学的なレベルでの「なにか」が違うことは否定しません。それぞれの書き手が好みの
 形を使えばいいと思います。)

5 「青空文庫」では「シタあまり」の形はなかったようですが、おそらく(ここからは
 根拠なしの勝手な推測です)戦前、あるいは戦後すぐあたり、あるいは昭和の終わり
 くらいまで、「スルあまり」の形で安定していたのではないか。
  その後、ネットの普及その他で、一般の、それまで文章を公にしてこなかった人たち
 の文章が、ネット検索で拾われるようになった。その中に、「シタあまり」の形が出て
 来ているんじゃないか。
  要するに、言葉の変化の一端ですね。「あまり」は、要するに原因-結果の構文です
 から、「シタ結果」と同じような意識があり、「シタあまり」の形が出てくることに
 不思議はない。(「スル結果」とは言いませんよね)

6 私はもう年寄りですから、ネットで自分と違う(「違和感を感じる」)言葉の使い方
 を見ても、ああ、今はそういう使い方が出てきているのか、と思うだけです。
  特に「きたない」とか「崩れている」と感じるようなものでなければ、へえー、と
 思うだけです。(批判すると、徒然草みたいになってしまいます)
  あと50年もしたら、「シタあまり」が一般的な形で、「スルあまり」は(古風)と
 でも辞書に書かれるようになるのかもしれません。私はそれまで生きていませんが。

7 この前のコメントを書いた時には知らなかったのですが、私がいつも参考にし、信用
 している膨大な文法記述書「現代日本語文法」(くろしお)の第6巻「複文」のp140
 に、「あまり(に)」が解説されていました。

   「あまり(に)」は動詞の非過去形・過去形、名詞+「の」に接続する。感情や
  一時的な状態を表す動詞・名詞に用いられる。形容詞は「さ」によって名詞化され
  たものに接続する。
    ・娘のことを心配するあまり、母親は手術室にまで入ってきた。
    ・心配のあまり、病気になってしまった。
    ・恥ずかしさのあまり、思わず顔を伏せた。  
   (以下略)                    (2008、p.140) 

  「非過去形・過去形」とあります。「シタあまり」の形を認めているんですね。
  おそらく、この部分の執筆者は、コーパスを調べて「シタあまり」の例があることを
 知っていたのでしょう。ただし、用例はあげていません。まだ「一般的な」形ではない、
 という判断なのか、単に省略しただけかはわかりません。
 
8 なお、google の検索のヒット数ですが、あれはまったく信用できません。
  今回の検索結果でも、上に出るヒット数でなく、実際の用例を見ていくと、「スル
 あまり」のほうが多いです。さらに、「シタあまり」のほうの例は、ほとんどが日本語
 解説サイトの解説中の例文のようです。それも、同じ部分がくり返し出ています。

9 以上で私の言いたいことはだいたいおわりです。格別の意見はありませんでしたが。

10 さらに余計なことを書くと、これはずいぶん前にも書いたことですが、物理学などの
 自然科学や、法律学・経済学の話であれば、専門でもなく、専門書を一冊も読んだこと
 がないような人が、あれこれ「自説」を述べることはないだろうと思うのですが(この
 「教えて!goo」だとあるのかな?)、ことばの話、特に文法の話になると、文法書を
 読んだこともなく、文法用語も知らないような人があれこれ「自説」を述べるのは、
 いったい何なんでしょうね。
  もちろん、「ことば」はみんなが使っているものですし、あることば、文法的な形に
 ついて、一般の日本人がどう感じるか、というような、いわば「informant check」の
 ような話題なら、それぞれが日本語の使い手としての意見・感想を言うのはいいことだ
 と思います。
 「スルあまり」と「シタあまり」の例について、「違和感を感じる」かどうかは、日本
 語使用者の内省を知る上で重要なことなので、いろいろ動詞を変えるなどして、その
 「自然さ」を議論するのは興味深いことです。
 しかし、それを、よくわからぬ文法の概念(「テンス」!)を使って説明したりするの
 は、まあ、やめたほうがいいんじゃないかと思うのですが。

 最近、偉そうな書き方になっているようで、反省しておりますが、まあこのままで。

saburoo
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この回答へのお礼

アルクの出版物に関しては、No.10のコメントのお礼に下記をご確認ください。引用のしかたが悪いと思います。」
【「働きすぎるあまり」「働きすぎたあまり」「働きすぎのあまり」 教えて!goo〈3〉】
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12385143267.html

「スルあまり」「シタあまり」の問題ではだけではなく、「すぎルあまり」「すぎタあまり」なので話が複雑になっている気もします。

 ネットの普及にともなって、日本語の乱れの速度がとんでもはやくなっている気がします。
 まあ決定的に破壊されるときには(幸いなことに)立ち会えない気がします。

「シタあまり」は「間違い」などではないでしょう。当方は基本的に使いませんが。

 コメントの「10」の部分に関しては、同感する部分と耳が痛い部分があります。
 当方は「テンス」に関して十分に理解している……なんて恐ろしいことはとても言えません。

〈文法用語も知らないような人があれこれ「自説」を述べるのは、いったい何なんでしょう〉
 それがインターネットの本質(!)のようです。
 ただ、文法書を読み漁ったあげく、訳のわからないことを書く人も相当ホニャララだと思います。

お礼日時:2018/06/26 21:04

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