下記の質問の続きです。
【「~あまり、~」の使い方について】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10529075.html
いろいろな問題が関係しているような気がして、「ちょっと時間を下さい」とお願いしたのですが……。
↑の質問を再掲します。
===========引用開始
ある日本語教育サイトの「あまり」についての例文に、
「この会社は、働きすぎたあまり病気で倒れる社員が増えている。」
という例文がありました。また、日本語表現辞典(アルク)の「あまり」の項に次のような例文があります。
「試験問題は易しかったのに、考えすぎたあまり、間違えてしまった。」
これらの動詞のタ形に「あまり」が続く表現には違和感があり、タ型ではなく、連体形の方がいいと思うのですが、どうでしょうか。
===========引用終了
結局、〈タ形に「あまり」が続く表現〉も〈連体形「あまり」が続く表現〉は同じようなものなのでしょうか。
それともなんらかの基準で使い分けるべきものなのでしょうか。
No.21ベストアンサー
- 回答日時:
また書きます。
寺村秀夫の仕事について、誤っていると思われることが書かれているので、一応書いておいたほうがいいと思いまして。
「シタあまり」とは関係のない話になってしまいますが、お許しを。
寺村秀夫は、『日本語のシンタクスと意味Ⅰ』で「本書の目標は実用文法の作成である」と確かに書いています(p.15)が、その後の議論のしかたを読めばわかるとおり、しっかり理論的な議論を積み重ねています。
特に、活用を論じた第Ⅱ巻での議論は、言語学的な考察が積み重ねられていて、「実用」のために理論的側面を軽んじる、などというものではありません。批判はしっかり読んでからにしましょう。
「書いた」を「動詞+助動詞」と考えるのは、一つの分析のしかたとして認められるものですが、それだけが正しい分析だ、というのは、あまりにも言語学をしらなさすぎます。
(もちろん、「屈折語文法」などという怪しげな文法はありません。現在の言語学は世界中の言語を相手に、理論・分析手段を考えています。)
日本語の「助動詞」は(「助詞」もですが)、「語」と言えるかどうか怪しい要素です。
国語学でも、語と認めない考え方はあるのではありませんか?
言語学にとって、「語とは何か」というのは、非常に大きな問題です。これはこれで大変な話になり、私には手に負えませんが、日本語の助動詞「た」が一つの語であるかどうかは、大いに疑いうるところです。
そもそも、形態素分析をすれば、「書く」も一つの要素ではなく、[kak-u]で、それと同じような分析で[ka(k)-i-ta]となり、[u]と[ta]は同等の資格を持つ要素です。
(この[i]をどう考えるかも、私にはわかりません。「音便」というのは、なんの説明にもなりません。結果に名前をつけただけですから。)
「た」が「助動詞」で、[u]は見えないので問題にしない、というのは、要は日本語の表記が音節文字だということによるだけで、文法の分析とは別の問題です。(時枝は、苦し紛れに「零記号」などというのを考え出したのでしょうが)
最新の言語学では、もっと細かい分析をしてしまうので、「かく:かいた」のような形の対立を考えないのでしょうが、まあ、一昔前の言語学的常識の元では、「かく:かいた」でいいでしょう。
時枝の理論は、言語論・言語哲学に興味のある人には、それなりに面白いところもあるのでしょうが、文法理論としては、もう研究してみてもあまりえるところはないものでしょう。
国語学なら、山田文法や松下文法のほうがずっと興味深い観察が見られるのだろうと思います。
時枝が批判したのは20世紀初めのソシュールの言語観ですが、誤解に基づく批判なので今から振りかえる必要もないし、それ以上に、その後の言語学の発達が、特に20世紀後半の理論の進化が大きいので、そのあたりを多少でも勉強してから、(その言語学に基づいた)「いわゆる日本語文法」を批判するのがいいのじゃないかと思います。
寺村は元々英語教師で、英語学の研修(?)に行ったアメリカで構造言語学と(変形)生成文法を勉強して帰国し、日本語文法の研究を始めます。「日本語教育文法」の側面を持っていますが、当時の言語学の分析方法を取り入れた、「理論」的にしっかりした文法を作り上げました。それが、言語学者にも高く評価されるわけです。
初めに戻って、寺村が「実用文法」と書いた時、対立する「理論文法(文法理論)」とはどういうものだったのか。国語学の「理論」ではなく、生成文法の理論でしょう。
当時の国語学の「文法」は、品詞論と形態論をあれこれ議論するだけで、文法の中心である「構文論:シンタクス」はほとんどありませんでした。(これは三上章がくり返し述べていることです)
寺村が書こうとしていた文法と比較できるような文法は、国語学の中にはありませんでした。寺村の頭の中にあったのは、60年代後半から70年代にかけての、黒田・久野・井上・奥津・柴谷などの論文・著書に展開されていた生成日本語文法の大きな成果だったと思います。この時代の日本語生成文法の力は圧倒的なものでした。
しかし、それらは素晴らしいものではありましたが、日本語教育にとってはまだまだ足りない所が大きく、文法全体の考え方も寺村とは違っていたので、寺村は全体的な文法(シンタクス)を書こうとしたのでした。(寺村は、井上和子の本の書評を書いていて、いろいろ疑問を呈しています)
だらだらと書いてきました。一言で言えば、「寺村の文法はその当時、最も理論的によく考えられた文法である」ということでしょうか。
読み返してみて、言わずもがな、という気もしますが、まあ、投稿します。
なお、No.20の回答で紹介された「論文」を読んでみましたが、あれは、どうにもなりませんね。時枝理論と認知言語学を結びつける、なんて面白いかと思いましたが、内容が議論のテイをなしていません。
なによりも、いちばん議論を費やすべき「タの用法」のところがホンの2ページあまりで終わりとは。あっけにとられました。
認知言語学の枠組みは、表面的に利用しようとすればいろいろ使い勝手のいいものかもしれませんが、次のようなことではダメです。
「タ」の「過去」以外の用法を「統一的に」説明しようとして、
このような予期を内容とする〈起点-経路-到達点〉スキーマは,[想起]
[完了][要求][単なる状態]でも同様に作用する。
というのはいいのですが、その論証はなく、例えば、
[完了]では,事態の予期される終了時点の実現の認識が〈到達点〉となり,
それをタ形が反映する。
というだけです。これで、
[完了]
(3)裏の庭で猫がニャーと鳴いた。
をどう説明しようと言うのか。(3)の例で、「事態の予期される終了時点の実現の認識」
って、なんなんでしょうか。著者の頭の中には何かあるのかもしれませんが、そこを
しっかり説明するのが「論証」というものでしょう。
この「論文」には、問題としている事柄の「論証」がありません。時枝と、認知言語学
のラネカーと、認知哲学(?)のジョンソンの論の引用・紹介に多くのページを使い、
肝腎の「タ」の用法の話はほとんど省略しています。そこが聞きたかったのに。
こんな報告を大学の言語学のゼミでしたら、こてんこてんに叩かれて、「出直し」を
通告されます。
とまあ、言いすぎたかもしれませんが、そういう内容です。
もう20年近く、言語学も、日本語文法も、まじめに勉強していない人間が、それ以前の
知識で書きました。いろいろと間違ったところもあるかもしれませんが、ご指摘いただければ。
saburoo
専門的なコメントをありがとうございます。
>「シタあまり」とは関係のない話になってしまいますが、お許しを。
すでにそういうコメントがいくつもあるので、お気遣いなく。
なんだかさらに面妖な反論が入っているようですが……。
もうすでにご存じとは思いますが、まともに相手をしないほうがよろしいかと。時間のムダです。
もったいない話の気がします。
あれだけいろいろ文献を読み漁って、あんな極北にたどり着くとは。
日本語文法も国文法も、現在の文法は全否定。
その結果、どこにも通用しない珍説を撒き散らしています。
日記でやるなら「勝手にどうぞ」とも思いますが、こういう質問サイトでやられるとかなり迷惑です。
多くの人が批判するのを目にしますが、本人は「自分が正しい」と思い込んでいます。はたから見ると……。
たまに面妖な主張に丸め込まれる質問者がいるのが可哀想です。
そんなことをウノミしたら恥をかくのに。
あの論文は反面教師と例示したようです。だったら、なぜ「努力をされている方」なんて書くんですかね。コミュニケーション能力が低すぎます。当方は、特有の妙な用語が出てきた段階で「お仲間」と考えて読む気になりませんでした(やはり「ませんでした」は美しありません)。
今後もよくわからない質問をすることがあるかと思いますが、気が向いたときにコメントをいただければ幸いです。
No.22
- 回答日時:
《寺村秀夫の仕事について、誤っていると思われることが書かれている》と、NO.19の当方の見解に対し誤っていると思われる評が書かれています。
これは、現在の言語学の限界、非科学性に関する根本的な問題で、助動詞「た」にも関連する本質的な問題ですので一応、回答者の誤りと思われる点について要点を記させていただきます。寺村の書に関し、
「活用を論じた第Ⅱ巻での議論は、言語学的な考察が積み重ねられていて、「実用」のために理論的側面を軽んじる、などというものではありません。批判はしっかり読んでからにしましょう。」
と記されています。たしかに、理論的ではありますが言語本質を捉えそこねた形式主義、機能主義的な実用文法でしかなく、科学的、本質的な論理展開でないということです。それは、回答者が指摘している活用の捉え方に典型的に表れており、膠着語である日本語の単なる形式の変化に過ぎない活用と意義の変化を伴う屈折という本質的に異なる変化を、同一視する誤った論を展開しているということで、本質的に批判されなければならない非科学的な実用文法論であるということです。
そもそも、回答者が依拠している記述文法そのものが、単なる現象論、機能論でしかなく、その点は寺村文法論や教科研文法、生成文法、認知言語学というしょせんはソシュール言語学のパラダイム下でしかない非科学的な言語論、文法論でしかないことを回答者が認識できていないところに本質的な問題があります。
この点は今回の問題の回答にも如実に表れており、単に事例を羅列するのみで、結論は、
どう違うか、という点ですが、私は同じ意味を表す、と考えます。はっきりした違いは認められない。(文学的なレベルでの「なにか」が違うことは否定しません。それぞれの書き手が好みの形を使えばいいと思います。)
と、現象を並べ、「文学的なレベル」という理論的でも論理的でもない感性的な結論に終わるしかないところに良く示されています。
それは、次の記述にも明らかです。
「書いた」を「動詞+助動詞」と考えるのは、一つの分析のしかたとして認められるものですが、それだけが正しい分析だ、というのは、あまりにも言語学をしらなさすぎます。(もちろん、「屈折語文法」などという怪しげな文法はありません。現在の言語学は世界中の言語を相手に、理論・分析手段を考えています。)
「書いた」を「動詞+助動詞」と捉えるのは、膠着語である日本語の特性に基づく言語事実で、正しい分析であり、これを理解できないのは世界中の言語を相手に、理論・分析手段を考えている生成文法的な普遍文法を夢想する現在の言語論の欠陥でしかありません。
≪日本語の「助動詞」は(「助詞」もですが)、「語」と言えるかどうか怪しい要素です。≫と記されているように、記述文法では、語とは何か、文とは何かの定義もできずに、形態素などという誤った形式的な概念を弄んでいます。
回答者も、語とは何か、文とは何か、助動詞とは何か、助詞とは何かの定義もできないままに、日本語を論じるという体たらくな状況です。
≪「書く」も一つの要素ではなく、[kak-u]で、それと同じような分析で[ka(k)-i-ta]となり、[u]と[ta]は同等の資格を持つ要素です。≫と記されていますが、「書く」を[kak-u]と音に分割するのは、物理的な音を扱っているのであり、話者はこの形で語尾が変化していることを認識しているわけではありません。
屈折語のように、語尾変化が対象の捉え方の違いを表現している場合ならこのような分解も意味がありますが、日本語の活用をこのように分解してみたところで、それは表現としての基本的な構造を示すことにはなりません。日本語の「書く」の音韻は〔カク〕であって[kak-u]ではありません。「書く」を[kak-u]と[kak]と[-u]に分解すれば、それはもはや音韻ではなくて、単なる音声に過ぎません。英字を用い音声を表示してみせると、何か科学的な分析であるかのように見えるという錯覚に過ぎません。ここに、形態素という音声第一主義に基づく西欧屈折語文法の形式主義的な似非科学論の欠陥が露呈しています。
「書いた」が動詞「書く」の連用形+助動詞「た」であるのは、単純な裸体的概念を表す語を粘着し、句、文を形成する膠着語である日本語の本質に基づく、科学的な分析です。これを一語のように捉え、動詞の過去形などというのは日本語の事実を無視した非科学的な論理でしかありません。
「と、おっしゃいますが。」「で、それがどうした」のように助詞もまた一語であると認識されているのは明らかです。
≪(時枝は、苦し紛れに「零記号」などというのを考え出したのでしょうが)≫と揶揄されていますが、英語の動詞「cut」が、原在形、過去形、過去分詞と同形であり、過去の意味で用いられら場合、話者は過去の認識を持ちながら形には顕れておらず、「零記号」を想定しなければならないのは厳然たる事実です。
≪時枝が批判したのは20世紀初めのソシュールの言語観ですが、誤解に基づく批判なので今から振りかえる必要もないし、それ以上に、その後の言語学の発達が、特に20世紀後半の理論の進化が大きいので、そのあたりを多少でも勉強してから、(その言語学に基づいた)「いわゆる日本語文法」を批判するのがいいのじゃないかと思います。≫
などと、最もらしいことが記されていますが、誤解はソシュールの言語観に依拠したり、それ以上の論理を展開しえなかった服部四郎、金田一春彦、橋本進吉ら当時の言語学者や国語学者の方で、時枝の提起した言語過程説の本質を理解できない教科研文法や記述主義文法がそれまでの国語学の成果からの後退でしかなく、指示詞や取立て詞などという機能的な品詞論を展開して恥ない現状は正しく言語本質を捉えた言語過程説を展開し克服されなければなりません。
生成文法もまた、文のアプリオリな存在を前提とし、語が移動するなどという真面目に論じ、非文などという世評により成否を判断するプラグマティックな似非科学文法でしかありません。
認知心理学者マイケル・トマセロも共同主観などを持ちだし機能主義的な言語論を展開しており、言語過程説の足元にも及ばないお粗末な言語論でしかありません。
なを、紹介させていただいた論文「タ形の意味を考える」は「タ形」などという誤った捉え方をするとどのような論理展開になるかという誤謬の事例として挙げさせていただいたもので、質問者が「タ形」という捉え方に疑問を感じていないことに対する注意を即すためのものです。
当該論文の中で、時枝の論を話者の認識を取り上げた側面を評価し認知言語学の側面から評価していますが、認知と認識は異なり、その点が全く無視された認知言語学の欠陥を露わにする論考です。
記述文法の停滞は、すでに世紀の変わり目に野田尚史が「日本語学の解体と再生」(日本語学会第122回大会余稿集:2001)で表明して以来、三宅友宏<日本語学の課題-「記述」と「理論」の壁を越えて>(『ことばの科学-東京言語研究所50周年記念セミナー』(西山佑司・杉岡洋子[編])や白川博之「日本語研究から日本語教育研究への越境」(『日本語の研究 第14巻2号』:2018.4)他、問題意識にのぼり論じられてはいますが、壁や越境などで越えられるものではなく、現象論、機能論を越える時枝が提起した言語表現の過程的構造という言語学のコペルニクス的転換なしには不可能であり、その点に気付かれていないのが現状です。
ちなみに、この「言語学のコペルニクス的転換」という評価は、三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(雑誌『文学』1968年2月号:『言語学と記号学』所収)によるものです。■
No.23
- 回答日時:
>助動詞を「活用を持たない付属語」と定義しなが
誰がそんな定義をしてるのでしょう。
失礼致しました。うっかり、助詞と混同してしまいました。
当方のミステイクです。
学校文法では、活用を持つ付属語を助動詞、活用を持たない付属語を助詞と定義しています。「う/よう/まい」は活用を持たないにもかかわらず助動詞とされています。これについては、金田一春彦「不変化助動詞の本質」という良く知られた時枝詞辞論の批判がありますが、論の前提が誤っており、それに基づく展開となっているので、別途本質的な批判を展開したいと考えております。
質問者も興味をもたれている、主観/客観、主体的/客体的が明確な定義もなく混乱して用いられています。
>なぜ「努力をされている方」なんて書くんですかね。
皮肉(イロニー)を解されないのでしょうか。
>日本語文法も国文法も、現在の文法は全否定。
別に単純否定している訳ではありません。その限界を明らかにし、現在のソシュールパラダイムが克服され科学的な言語論が展開されなければならないことを明らかにしています。
それが、天道説から地動説へ、万有引力論と運動方程式へと力の本質を明らかにした近代科学革命と同様、人類の世界認識の深化、弁証法的な発展であるからです。■
よく考えてください。
もともとむずかしい問題を、「わかりやすく説明しよう」と意識がまったくない書き方をしてるんですよ。
しかも一般の常識とは懸け離れた主張が目立ちます。
そこに致命的なミステイクをして……当方はまた珍説を持ち出したのだろうか、と呆れました。
そのうえ、「皮肉(イロニー)を解されない」ですか。誰だって誤解しますよ。
誰にも理解できない「主張」や「皮肉(イロニー)」はお控えください。
迷惑です。
No.24
- 回答日時:
>>よく考えてください。
もともとむずかしい問題を、「わかりやすく説明しよう」と意識がまったくない書き方をしてるんですよ。
しかも一般の常識とは懸け離れた主張が目立ちます。
当方は誤った易しいと称する俗説を正し、論理的に正しい説を理解してもらうべく回答しています。
一般常識を疑わない所に進歩はありません。その程度の常識もなく「易しい=正しい」では話しになりません。
飴玉をしゃぶってばかりいては虫歯になるだけです。
より良い回答を得たいとの質問と理解しています。
>>そこに致命的なミステイクをして……当方はまた珍説を持ち出したのだろうか、と呆れました。
ミステイクは勇み足で申し訳ありませんが、致命的とは考えておりません。
助動詞「う/よう/まい」が活用しないのは判りかきったことで、活用をもつ付属語との定義の齟齬をどのように考えるのかが問題です。
>>そのうえ、「皮肉(イロニー)を解されない」ですか。誰だって誤解しますよ。
当方の回答を正しく理解すれば容易に理解できるはずです。受け手の理解能力の問題です。
>>誰にも理解できない「主張」や「皮肉(イロニー)」はお控えください。
迷惑です。
ならば、オープンな場での質問は止め、仲間内で慰め合っていたら良いのでは。現在の学会、学界のように。
迷惑なのは、安易な常識的な回答を真に受けるしかない回答を参照される方々ではないかと思料します。
感情的な反発ではなく、論理的な批判を期待しています。
もう少し、物ごとを論理的に思考する力をつけましょう。■
ご理解いただけないようなので、繰り返します。
誰にも理解できない「主張」や「皮肉(イロニー)」はお控えください。
迷惑です。
現在の常識に反するコメントはお控えください。
「当方の回答を正しく理解すれば容易に理解できるはず」ですか。そんな人がいるのでしょか。少なくとも当方は理解できません。お引き取りください。
どうしても書きたいのなら、「仲間内で慰め合っていたら良いのでは」(仲間がいればの話ですが)。
当方に押し付けるのは迷惑です。
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【訂正前】======引用開始
「あまりの暑さに食欲をなくす」……これはちょっと違う形ですね〈主として「…の―に」の形で〉って何を根拠に……。
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===========引用終了
【訂正後】======引用開始
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