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質問の表題のとおりです。
よろしければどこで終わったのかも教えていただけるとうれしいです。

A 回答 (3件)

下記のように旧社会主義国で民主化革命が行われました。


簡単に説明いたします。後はご自分でお調べ下さい。
【ハンガリー動乱】
1956年10月23日、首都ブダペストで知識人、学生、労働者による大規模な反体制デモが実施される。
鎮圧のためにソ連軍戦車が出動。市民達は市街戦を繰り広げたが最後は踏みにじられてしまった。

【チェコ動乱】
1968 年 1 月ドゥプチェク 党第一書記は、
〈人間の顔をした社会主義〉のスローガンのもとで自由化路線を推進した。
それを支持した知識人らが〈二千語宣言〉を発表したが、急速な自由化はソ連を警戒させた。
チェコスロバキアの共産圏からの離脱と自由化の他の東欧諸国への波及を恐れたソ連は、
8月にワルシャワ条約機構 5 ヵ国軍を率いて、チェコスロバキアに侵入し全土を占領した。

【ポーランドの反体制運動】
ポーランドでは、1980年7月に食肉が40~60%値上がりしたことがきっかけとなり
、ワルシャワで労働者の賃上げストが起こり、全国に広まった。
8月14日にはグダニスクの造船所で1万6000人の労働者が
賃上げ・労働組合運動の自由化などを要求してストに突入し、
バルト海沿岸一帯にストは拡大した。
ギエレク統一労働者党第一書記は経済政策の修正を約束してスト中止を呼びかけた。
その後ヤギエルスキ副首相とワレサ統一スト委員長との間で交渉が行われ、
8月末に政府は自主管理労組(新しい自由な労働組合)の設立とスト権を認め、
ワレサはスト終結を宣言した。

【ベルリンの壁】
ソ連のペレストロイカ・東欧諸国で民主化が進展する中で、
東ドイツ市民の間では政治体制や西側との経済格差に対する不満が高まり、
西ドイツへの亡命を求める市民の数が急増した。
東ドイツ国内では、10月にはいるとライプチヒで大規模な民主化を要求するデモが起こり、
10月18日にホネカーが退陣し、18年間に及んだ独裁が終わった。
ホネカー退陣後も民主化要求デモは激化し、10月23日にはライプチヒで30万人のデモが、11月4日にはベルリンで100万人のデモが起こった。
11月8日、クレンツ書記長は自由選挙の実施と市場経済の導入を表明したが、
時すでに遅く、翌11月9日に東ドイツ政府はついにベルリンの壁を開放し、東西ドイツ間の自由な通行を認めた。
ベルリンの壁崩壊の翌日には15万人の東ドイツ市民が西ベルリン・西ドイツへ出国した。

【アルバニア社会主義体制の崩壊】
1990年末、東欧民主化等の東西冷戦構造の終結や、
国内の経済沈滞を受け、労働党、政府は政策を大転換。
一党独裁下の社会主義鎖国体制を捨て、複数政党による民主化、国際社会への復帰による外資導入を目指すこととした。
また宗教活動も許可した。
しかし 1997年初頭にアルバニア国内に広まっていたネズミ講組織が破綻。
大量の破産者が出現、国内は混乱したが、
イタリア、ギリシアを含む8ヵ国から成る多国籍軍が
人道援助物資の配給路の安全確保等のため派遣・展開されて、収拾に向かった。

一応アルバニアで民主化運動は終わりと思います。

参考URL:http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/mokuji04.html
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フルシチョフのスターリン批判以降、東ヨーロッパのソ連衛星諸国内に自立の動きが出てきます。



「民主化革命」と呼べるかどうかは分かりませんが、最初はポーランドのポズナニで暴動(ポズナニ暴動・反ソ暴動)が起き、それがハンガリーに波及してハンガリー暴動につながりました。

終わりは、、どこでしょうか。。
ユーゴの場合は民主化革命と呼べるのか、ちょっと疑問です。
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 こんにちは。



 ハンガリーで起こった,民主化に取り組む市民団体の運動である「ヨーロッパ・ピクニック計画」が発端だったと思います。これが後のベルリンの壁の崩壊に繋がっていきます。

http://www.city.kazuno.akita.jp/kokusai/sopron/p …
 
 終わりは,セルビア・モンテネグロ(旧ユーゴスラビア)ですね。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/yugoslavia/kank …

参考URL:http://www.city.kazuno.akita.jp/kokusai/sopron/p …
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