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世界史
独ソ戦でソ連に敗れたドイツ軍は、ソ連兵に連れ去られた9万人のドイツ兵はその後、どうなったのでしょうか?

A 回答 (4件)

何を根拠に、ソ連兵に連れ去られたドイツ兵の数が9万人だと言っているのかわかりませんが、実際に捕虜になってソ連に連れていかれたドイツ兵の数はその数十倍に上りました。

 

「戦争捕虜は、戦中と特に戦後において、ソ連にとって労働力であるだけでなく、国家の経済に利用できる人材でもあった」と歴史家のウラジーミル・フセヴォロドフは述べています。 非人道的とはいえ、ソビエト政権はドイツ人捕虜をソ連が失った国民の代わりの労働力として見ていたのです。 

1943年のテヘラン会談でスターリンはソ連が必要とする捕虜の数を定めました。 彼の主張では、ソ連は「代用分子」、つまり約400万人のドイツ人を必要としていました。 破壊されたソ連の都市の再建と産業の復興を彼らにさせるというわけです。 歴史家のエレーナ・シュマラエワによれば、この数字はテヘラン会談当時のソビエト兵戦死者・行方不明者の概数、約400万人に基づいていたと言います。

ソ連は1944年までにドイツ人捕虜に対する強制労働計画を作成しました。  
 「毎年ドイツの国内経済から数千人を引き抜けば、必ずその経済と軍事力を弱める効果があるだろう」と外務人民委員のヴャチェスラフ・モロトフはスターリンに宛てて書いています。 しかし実際には戦時中300万人以上のソ連人が捕虜としてドイツに連行され、重労働をさせられており、ソ連はそうした捕虜や、戦場で命を落とした数百万人の埋め合わせを必要としていました。 ソ連は独ソ戦が始まる前にすでに捕虜抑留者管理総局を組織していました。 1941年までにソ連には8つの捕虜収容所ができましたが、捕虜の増加は緩やかで、1941年と1942年には約1万人でした。 しかしスターリングラードの戦いとドン地方でのソ連の猛攻の後、捕虜の数は急激に増えました。 1943年には20万人以上、終戦までに80万人以上になったのです。 公式には、ドイツ人捕虜は捕らえられた場所から前線の一時収容所に送られ、そこから中央の収容所に移されることになっていました。 しかし実際には、戦時中多くの捕虜が過ごした一時収容所というのは、しばしば単なる小屋や地下壕でした。 

戦後1946年までにソ連にはさまざまな国籍の捕虜を入れる労働収容所が240ヶ所作られ、百万人以上が収容されました。 しかしこれでも目標の400万人には届かず、ソ連は国外から捕虜を連行するようになりました。

1944年、赤軍がルーマニア、ユーゴスラビア、ハンガリー、ブルガリア、チェコスロバキアに入った後、ソ連国防人民委員部から「これらの国々に居住するドイツ系住人、17~45歳の男、18~30歳の女全員を国籍にかかわらず動員して抑留するように」という指令が出されましたた。 歴史家のパーヴェル・ポリャンによれば、これらの国々から11万2000人がソ連に連行され、労働を強いられたと言います。 

前述の歴史家エレーナ・シュマラエワによれば、戦後最大3800万人のドイツ人捕虜がソ連に抑留されました。 約240万人が捕虜収容所に入れられた兵士と将校で、残り(主に東欧諸国から連行されたドイツ系住人)は「労働大隊」に送られました。 彼ら捕虜は工場を再建し、ダムや鉄道、港などを建設しました。 彼らは家屋を新築・再建し、内務省職員のアパートも建てました。 例えば、ドイツ人捕虜はモスクワのディナモ・スタジアムを建てました。 彼らはモスクワ郊外のルィトカリノのガラス工場でも働きました。 モスクワ州クラスノゴルスクの記録保管所はドイツ人建築家パウル・シュピーゲルの設計で建てられました。

シュピーゲルのように技能資格を持つ専門家には、複雑な課題の解決が委ねられました。 歴史家のステファン・カーナーによれば、1946年までに1600人以上の高度な技能を持つ専門家、すなわち「570人の技師、260人の民間の技師と建築家、約220人の電気技師、110人以上の物理・数学・工学博士」がソ連のさまざまな産業で仕事をさせられたと言います。 彼らは労働収容所や「労働大隊」よりも良い条件で暮らせました。 自分の働く工場や研究機関から近い都市部に住み、給料(半分はドイツマルク)も支払われました。 しかしどの専門家も、仕事が政権の気に入らなければ収容所に送り返される可能性がありました。 建設現場などで働く普通のドイツ人労働者や元兵士も、ソ連で暮らすための給料を受け取っていました。 例えば、元兵卒は月に7ルーブル、元上級士官は10~30ルーブルを与えられていました。 
 一瓶の牛乳が2ルーブル、きちんとした靴一足が150ルーブル以上だったことを踏まえれば、これは微々たる額でした。 このため専門的な技能を持たない普通の捕虜は生き延びる道を探らなければなりませんでした。

収容所の労働環境ももちろん酷いものでした。 「初め我々は一度のシフトで2両の車両に木材を積み込まなければならなかったが、それからノルマが3両になった。日曜日や祝日も含め、一日16時間働いた。収容所に戻るのは晩の9時か10時で、真夜中になることもよくあった。水っぽいスープをもらって眠り、翌日朝5時には仕事に出かけるのだった」というドイツ人捕虜ラインホルト・ブラウンの言葉をエレーナ・シュマラエワは引用しています。 「腹が何より問題だった」と将校のハインリヒ・アイヒェンベルクは綴っています。 「一皿のスープか一つのパンのために魂と体が売られた。空腹が人間をだめにし、腐敗させ、獣に変えた。仲間から食事を盗むのは日常茶飯事だった」と。

ドイツ人捕虜は到達の難しい遠隔地で木の伐採や鉄道の敷設をさせられました。 鉱山労働にも従事し、特にドン川流域の鉱山でウランや石炭、鉄鉱石などを採掘しました。

労働収容所でのドイツ人の死亡率は高いものでした。 ソ連の統計では、1945年から1956年までに58万人が捕虜収容所で死亡しましたが、うち35万6000人がドイツ人でした。 そのおよそ7割が1945年から1946年にかけての冬に命を落としていました。 ちなみに歴史家のヴィクトル・ゼムスコフによれば、戦時中にドイツで死亡したソ連人捕虜は約180万人でした。

1956年のソ連の公式統計によれば、第二次世界大戦後に200万人のドイツ人捕虜が母国に送還されたということです。 しかしこの大きな数字に確証はありません。 他の資料によれば、戦時中に68万人の捕虜が解放されたと言いますが、そこにはルーマニアやスロバキア、ハンガリーなどの出身者が含まれています。 またソ連の統計によれば、35万6678人がソ連の収容所で死亡し、うち3700人は戦争犯罪で処刑されたと言います。

実際、本国送還が始まったのは1945年6月で、最初に「病気で弱った」捕虜22万5000人が返されました。 うち19万5000人がドイツ人でした。 1945年8月、70万人以上(うちドイツ人41万2000人)が捕虜の身分から解放されました。 エレーナ・シュマラエワによれば、送還される者は金を持って行けなかったため、母国への道中で何かと交換できるよう、貯金で菓子やたばこなどを買い占めようとしました。 

ソ連の抑圧制度からの最後の餞別とでも言うように、移送の環境はまさに労働収容所そのものでした。 送還される者は、ロシアから出国する列車の中で数日間食料も飲料も与えられなかったのです。 ドイツ人捕虜が最初に到着したのはフランクフルト(オーダー)にあったソ連の強制収容所で、彼らはここで二、三日過ごし、それぞれの場所へと送られました。 1947年時点でこの収容所の7割の捕虜が病気でした。 ドイツ人捕虜のソ連からの本国送還は公式には1950年5月5日に完了したことになっています。 タス通信によれば、1945年以降、193万9063人のドイツ人捕虜が送還されました。 しかし実際には、ソ連には1万~2万人ほどのドイツ人捕虜が残っており、彼らは1950年から1956年にかけてようやく帰国の途に就いたのです。 ロシア人は今でも1950年代の建物を見ると、「この建物はドイツ人捕虜が建てたのだ」と敬意を込めて言います。 その中には実際にドイツ人が建てたものもあります。 捕虜の身にありながら、ドイツ人労働者は自分たちの仕事に最善を尽くしたのです。
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独ソ戦で捕虜になったドイツ兵は9万なんて生ぬるいものではなく、200万以上です。

シベリアに送られて、強制労働に従事されられました。待遇は日本軍捕虜より悪かったので多くの死者を出しました。
しかし、ドイツ軍の捕虜になったソ連兵の方が酷い扱いを受けています。毎年数百万のソ連兵ご捕虜になりましたが、奴隷労働に従事させられてほとんどが死んでいます。『大脱走』という有名な映画がありますが知っていますか?映画では描かれていませんが、原作小説では、主人公たち西側連合国捕虜が収容される捕虜収容所の建設をソ連軍捕虜にやらせているんです。ナチスドイツは露骨な人種差別をおこなっていたので、西欧諸国の捕虜は比較的人道的に扱われましたが、劣等民族とされたスラブ人は奴隷として死ぬまでこき使われたのです。
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互いに捕虜を虐待していたのですけどね。



・食料を与えぬ長距離行軍
・食料を与えぬ重労働

https://gendai.media/articles/-/66675?page=3

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%93 …

>ソ連兵に連れ去られた9万人のドイツ兵

その数の最小4倍以上から、最大11倍までの説があります。
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この回答へのお礼

そうなのですねΣ(゚д゚;)ありがとうございます...!!

お礼日時:2024/03/05 23:00

人命軽視国家なんで、


強制労働か、殺害か、どっちかでしょう
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この回答へのお礼

そうなのですね...ありがとうございます( ´;ω;` )

お礼日時:2024/03/05 23:00

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