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姫路城の鬼門と裏鬼門についての歴史の時系列がおかしい疑問があります。

疑問1:
姫路城の中心は天守閣ではなく備前丸に建造されていた御殿であった。その御殿はなぜ喪失したのですか?何があったのか歴史を教えてください。

疑問2:
姫路城の鬼門は歳徳神社で間違いがないですが、なぜ姫路城が建造された後に鬼門が作られたのか不思議です。

普通は姫路城を建てる際に更地にした時点で鬼門の神社を作る習わしだったはずです。

それなのに歳徳神社は姫路城より後に作られている。

疑問3:
最大の疑問が姫路城の鬼門の神社です。

裏鬼門として十二所神社と言う人と長壁神社という人が二分しています。

どちらが本物の裏鬼門でどちらが偽物の裏鬼門神社ですか?

正式な裏鬼門神社を教えてください。

疑問4:
姫路城の鬼門と裏鬼門の結界が東側寄りに作られて西方向は無防備なのはなぜですか?

徳川家康は鬼門と裏鬼門の結界を名古屋城を囲むように作りました。

豊臣秀吉は大阪城の結界を正式なルールに則って正しく北東に鬼門神社、南西に裏鬼門神社の2つを作った。

徳川家康はビビリなのか、いっぱい結界になる裏鬼門神社をたくさん作った。鬼門神社は1つだけ作った。

姫路城の鬼門、裏鬼門の疑問について教えてください。

A 回答 (2件)

備前丸の御殿は、姫路城を築城した池田輝政が建てた居館です。


三代目池田光政が鳥取に転封されるまで存在したと言われていますが、次の城主である本田忠正の時に取り壊された可能性があります。(元禄年間には、すでに取り壊されていたようですが、はっきりした記録はありません)
表鬼門守護社については、秀吉は、長壁神社を移設、秀長が、歳徳神社をお祀り、鬼門守護とする、池田輝政は、日吉神社(野里)を再興しています。(後、長壁神社を本丸に八方堂として再建)
本田家においては、天門の鎮守として千姫天満宮をさらに建立しています。
秀吉の改築時に、長壁神社は、築城範囲にあったので、移設されたとされています。(長壁神社は、何度も移動していて、城内と城下を移動していますが、現在は、城内・城下の2社となっていますが)
長壁神社は、元々城内にあったので、鬼門守護と言うより、鎮守社と言うべきでしょうが、秀吉は鬼門守護としても、お祀りしていたと言う事でしょう。
姫路城は、秀吉の改築以前にもあったわけですから、最初の表鬼門守護が、長壁神社だったのかもしれません。
秀長は、新たに表鬼門守護として、歳徳神社をお祀りしたので、秀吉の改築以後となったと言う事です。
池田輝政は、日吉神社を表鬼門守護として、再興しましたが、病に倒れた際に、長壁神社を城内に再建しました。
後に、松平忠明が、再び城下に移し、榊原忠次が、天守内の社殿を再建しました。
したがって、城下の長壁神社は裏鬼門では無いでしょう。(池田光政の時は、備前丸の居館に対して、日吉神社が表鬼門守護社でしたが、その後に本丸に長壁神社を再建しました、松平忠明が城下に移した位置が、結果的に裏鬼門のような位置に見えると言う事です)
十二所神社は、1175年に遷座したとされていますが、藩政時代に遷座したと言う説もあるので、藩政時代に遷座したとすれば、裏鬼門守護と言えると思います。
日吉神社と十二所神社であれば、特に西方向が無防備とは言えないと思いますが?
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この回答へのお礼

ありがとうございます

姫路 日吉神社とGoogleマップで打つといっぱい出てくるのですがどこの日吉神社ですか?

お礼日時:2018/09/12 19:08

お礼ありがとうございます。


回答に記載したとおり、野里の日吉神社です。(姫路市野里888)
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