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日本史
縄文時代、中部、関東地方では原始農耕は中期に始まったという説がある。とありますが原始農耕が始まったのは後期じゃないんですか?地方や説が関係してるんですか?

後期の古墳には遺体を収める玄室がある。これは、玄室ではなく石棺だと思いました。違いがよくわかりません。

卑弥呼は明帝から金印紫綬と銅鏡をもらった。銅鏡が穴埋めで三角縁神獣鏡だと思ったんですが違うんですか?

最後に伴造と国造の違いがよくわかりません。また、それぞれが行なっていることも教えていただけると嬉しいです

A 回答 (2件)

> 縄文時代、中部、関東地方では原始農耕は中期に始まったという説がある。

とありますが原始農耕が始まったのは後期じゃないんですか?地方や説が関係してるんですか?

歴史も「説」です。 事実・過去の事実に関して、「こういうことがあった・こうだった」という説を言っているのです。 特に、文書のようなモノが残っていない場合には、遺跡や遺物など発掘、発見したものから、研究者などが推理したのが歴史です。
また、牧畜でも、農耕でも、遺跡でも、遺物でも、同じ時代のものが、どこにでも発見できることはなくて、南北の差、海岸部と内陸部の差などがあります。 地方と無関係に、◇世紀の半ばには、○○があった、▲▲に代わったというようことは言えません。
農耕と原始農耕の差は、おそらく、農業技術や農耕具、農地の利用方法を見分けているのだと思います。 自然に生育し成熟する果実や穀物を収穫するという段階ではなくて、農地を整備し、種まき、除草、水やり、収穫という行程を計画的に人手などで、社会で連綿と行ったらしいと推定することができると、原始と付けずに、ただ農耕というのでしょう。 農耕は、水稲栽培のために簡単でも灌漑をする水田を作ったとされる弥生時代になるので、縄文時代だと、原始農耕ということになるでしょう。
縄文時代の中期、末期とはいつなのか、どこのことを言っているのか、それさえも、説はいろいろです。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87 …
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%9C%E7%95%91 …

> 後期の古墳には遺体を収める玄室がある。これは、玄室ではなく石棺だと思いました。違いがよくわかりません。

玄室は「暗い部屋・外とは区別された光の入らない空間」です。石棺は石造りの「遺体を入れるケース」です。人が出入り可能な構造をしているのが玄室です。石棺は遺体の周辺に遺品などを置き納める程度のすき間があっても、そこに人が出入りできるほどのスペースはなく、通常は箱に蓋をするような構造をしています。

> 卑弥呼は明帝から金印紫綬と銅鏡をもらった。銅鏡が穴埋めで三角縁神獣鏡だと思ったんですが違うんですか?

「穴埋め」の意味がわかりません。 三角縁神獣鏡は、平面の鏡かやや凸の鏡で、鏡の裏側の円形周縁部が厚みをもった盛り上がりがあって、ごちゃごちゃした模様を鋳造で浮き出すようにつくったものです。この模様が神獣らしいのですが、ピンとこないのが多いです。三角縁神獣鏡が、中国からもらった銅鏡であるかどうかは疑問視されています。もらったものではないだろうという説にはかなり説得力があります。

> 最後に伴造と国造の違いがよくわかりません。また、それぞれが行なっていることも教えていただけると嬉しいです

いい加減・適当に理解するのであれば、「伴・品部とよばれる専門技能集団を率いてヤマト政権の重要な地位を世襲していた豪族や大王家の子孫」⇒伴造、「地方の特定のクニ・国を支配して中央のヤマト政権を支えた地方長官」⇒国造
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説など山ほどある



お部屋と棺、違いが分からないと言われても

どの鏡かは分かっていない、そもそも鏡100枚が同型のものだったのかも不明

ヤマト王権のお伴と、他で国を造ってたやつ
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