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 最近の邪馬台国論争を見ていると、奈良の纏向遺跡が邪馬台国の都として最有力視されていますが、なぜ纏向遺跡が邪馬台国の都なのでしょうか。
 邪馬台国のライバルとして後漢書や魏志倭人伝に記述されている狗奴国の存在はどこにいってしまったのでしょうか。倭人の国であるが邪馬台国を宗主とする倭人連合の国々には属せず一線を隔していた狗奴国。邪馬台国とは仲が悪かったそうですが、そもそも力関係が均衡していないとこのような関係にはなってなかったと思います。
 どちらの国も所在地が明確でないので、少なくとも纏向遺跡のような都市が同時代に最低でも2つ存在していたと考えられそうな気がします。なぜこれほど最有力視されるのか解りません。

 トンデモ論かもしれませんが、興味のある方、回答をお願いします。

A 回答 (5件)

纏向遺跡のような「クニ」は当時各地にあったんだろうと思います。



邪馬台国が7万戸と言われますが、その途中にあったと思われる投馬国が5万戸、
奴国でも2万戸です。

そういった「クニ」の中心にはそれぞれに神を祀る施設があり
政を執り行う施設があったはずです。

当然狗奴国にもあったでしょうし
狗奴国を盟主とする「クニ」のグループがあったとすれば、魏志倭人伝に記載されているよりも
もっともっと多くの「クニ」があったことでしょう。

今回纏向遺跡が邪馬台国の都ではないかともてはやされていますが
もっと大規模な遺跡が発見されれば、今度はそちらがもてはやされることでしょう。
邪馬台国九州説に立てば、纏向遺跡のほうが狗奴国の都かもしれないわけです。

とにかく考古学というのは文書資料が出てこないかぎり結論は出せないんです。
ただこれまで邪馬台国の場所について長年にわたる論争があったことから
話題になっているということでしょうね。
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この回答へのお礼

 ありがとうございました。祀と政はクニの根幹に関わるものなんですね。
 倭人のクニで百余のうち大陸側と交流があった三十余のクニが邪馬台国を中心とする倭国連合とされているくらいのもので、ましてや文字の記録が乏しいので現実にはよくわからない事のほうが多いということですね。想像の範囲を出ないですね。

お礼日時:2013/07/10 13:35

関東から九州までの広範囲の地域の土器が出ている。


遺跡がでかい。

このことからこの遺跡が多くのクニを治める中心地であるということがわかります。
これだけ大規模(関東から九州まで影響力がある?)なクニだったら邪馬台国だろうという当て推量以上のものはありません。
当て推量といえどもほかに候補がなければ最有力ですからね。

当時この規模のクニが一つなら邪馬台国なんでしょうし、あるいは複数あるならこれが狗奴国であったり他のクニなのかもしれませんし、それはわかりません。
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この回答へのお礼

 ありがとうございました。少なくとも様々な土器があるということは、色々な地域の人々がやってきた、そこに人の行き来があり、大きな政治・宗教都市、クニだったということですね。銅矛・銅戈、銅鐸の線や三角縁神獣鏡の線、お墓の線を探ってみても決め手になるものはないし。日本人は外から入ってくる宗教を上手く生活に受容させてますからこのあたりはうまく説明できないですね。
 ああ、できれば中国皇帝からの手紙とか出てこないかなあ。

お礼日時:2013/07/15 15:39

魏志倭人伝を読む限り九州を出る事はないのですが、残念ながら有力な説もまだ存在していない(私の説は有力なのだけど世間にあまり知られていないw)という現状を踏まえ、一番の理由は邪馬台国や卑弥呼のネームバリューでしょう。

これに関連するというと一般の人の関心は数百倍に高まり、予算の獲得にも有利に働きます。

第二の理由は、天皇大好き人間の不思議というか、日本は天皇が歴史が始まる前から治めていなければならないから、どうがんばっても記紀に書かれていない卑弥呼を皇族の誰かにしたくてたまらない。私としては纏向遺跡はそれだけで素晴らしい遺跡だと思いますが、この手の人はこの遺跡のことなどどうでもいいから、(卑弥呼が天皇と繋がりのある誰かであるために)纏向遺跡が邪馬台国であるべきだという考えをします。私にはとても不思議です。
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この回答へのお礼

 ありがとうございました。
 ん?回答者さんは、学者か作家かジャーナリストの類ですか?個人的な詮索はしませんが。
 しかしながら、こういう業界にもダーティーな話はついて回るものなんですね。お金がなければ人も物も動かないですけど、これじゃあ学問どころか、政治になってしまいますね。残念です。
 私も日本だけが、天皇家だけが特別だとは思いませんね。イギリス王家にしてもエジプト王家にしても途中で血統が断絶してるみたいですし。

 個人的になりますが、私は学問とは自分が疑問に思うことに仮説を立てて、それが実証可能かどうか、いろいろなことを想定するものと考えてましたから、考古学とは相いれないことがよくわかりました。辛いです。

お礼日時:2013/07/11 14:09

卑弥呼が中国の国王から貰った「漢倭奴国王」の金印が出土すればすべて解決します



卑弥呼の弟は天皇ですよね(崇神天皇だっけ)
という事は 邪馬台国は当時の日本の都と考えるのは普通です
その後の大和朝廷が奈良に出来たことを考えればまきむく遺跡が邪馬台国とも考えられます

一時吉野ヶ里遺跡も邪馬台国かと考えられましたが
肝心の卑弥呼の墓と思われるものは近くから見つかってません
もしかすると吉野ヶ里は狗奴国かもしれませんよ

まぁ まきむく遺跡の近くの箸墓古墳も卑弥呼の墓という確定はありませんが
当時の女性で高貴な地位にあった とするなら 
まきむくが邪馬台国と考えていいのかな と
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この回答へのお礼

 ありがとうございました。邪馬台国=大和と考えるのが大勢なのですか。何故か、倭も日本も大和もやまとと呼びならわしますね。親魏倭王の印は奴国の印と同様に純金なら錆びることはないけど、邪馬台国は魏が滅びた後、晋との交流があるから返した可能性もあります。
 狗奴国=吉野ヶ里ですか。うーん、有り得るかもしれないですね。文字の記録が乏しいから、あとは考古学的成果を求めるしかないのでしょうか。謎です。

お礼日時:2013/07/10 14:33

纏向遺跡から出土する土器にはかなり遠隔地からの搬入時が多いことが分かっています。


この状況から少なくとも纏向遺跡が当時の中心地域であったことは確実です。
さらに近年の発掘調査で大型の建物跡が見つかり始めたため「考古学的には纏向遺跡周辺が邪馬台国であることは確実」という人さえいます。
そしてこのような他地域の土器が多量に持ち込まれているような遺跡が他には見つかっていないのです。
無論、まだ未発見で他にもあるかもしれませんが、それを言い出したら「卑弥呼」「邪馬台国」と書かれた文字資料でも出ない限り邪馬台国をを特定するのは不可能となってしまいます。
また、邪馬台国を奈良地域に否定すると3世紀後半に古墳文化が畿内中心になっていることが合理的に説明できます。
纏向遺跡あるいはその周辺に邪馬台国を比定した場合、狗奴国は東海地域あるいは北陸地域に比定されています。

●都市が同時代に最低でも2つ存在していたと考えられそうな気がします。
○現段階で纏向遺跡のような遺跡が見つかっていないので推測でしかありません。
 考古学は「発見されている遺跡(遺構・遺物)」を研究し、推測していく学問なので「あるかもしれない」という仮定や前提で議論を進めても砂上の楼閣になってしまいます。
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この回答へのお礼

 ありがとうございました。纏向遺跡やその周辺に邪馬台国があったとすると、狗奴国は東海や北陸あたりになるんですか。纏向遺跡に搬入されている地方由来の土器のうち五割近くが伊勢・東海由来だそうですが、これなら、日本書紀の記述から多くの后を輩出しているとされるかなり親密な大勢力だったことになります。でもどうやって邪馬台国と狗奴国は歩み寄ることができたのか説明がつかないです。どちらもブレーンがついていたとは思いますが。解らないですね。

お礼日時:2013/07/10 13:51

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