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イスラムの断食(ラマダーン)は、開祖ムハンマドの苦労を追体験するものです。(satoumasaru様のご回答です)
ところで、仏教・キリスト教の開祖の釈迦・キリストとも断食という修行を行いました。
なぜ、仏教・キリスト教では、(少数の信者以外の)ほとんどの信者は、開祖の追体験としての断食を行わないのでしょうか?

A 回答 (13件中1~10件)

こんにちは。



禅宗では、開祖・釈迦の追体験として、毎年、12月になると、お坊さんは臘八摂心(ろうはつせっしん)というものがあり、12月1日から8日朝までを一日とみなし、不眠不休の坐禅を行ない食事も制限され生活します。一般の参加も許されていたと思います。

しかし、仏伝では、お釈迦様が断食して肉体を苦しめても何もならないといって、禅定を解いてミルク粥をもらうわけです。それから、もう一度、禅定をやり直したという伝説が残っています。その粥を与えた娘の名前が、ご存知の「スジャータ」というわけです。

周りの人は、挫折したと非難したけれども、お釈迦様は、何事にも極端に走らない「中道」が大事だというのです。大乗仏教にも出てくるお話ですが、上座部仏教のパーリ語(経集3)のお経にもあります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
1.<禅宗では><不眠不休の坐禅を行ない食事も制限され生活>もあるのですね。
2.<断食して肉体を苦しめても何もならないと><お釈迦様が>体験し悟ったのですね。<「中道」が大事だと>いうことですね。<お釈迦様>らしい(私には)心温まるお話ですね。

お礼日時:2018/12/11 19:58

WindFaller さん、と otasuke3900z さんの補足をしたいと思います


大乗でも天台宗 真言宗では断食が行われているようです
なぜ釈尊が却下した修行を行じるのか そこには、やはり釈尊を追体験する意味合いも、ある
のか知れません 却下するまでは断食されてましたので 断食中の釈尊を表した彫像や絵画
なども大乗各宗で普及していますし
臘八のお話しがありましたが12月8日の払暁に釈尊が悟りをひらかれた、その追体験です
そして絶食絶水はしません わたしは曹洞宗でして 身心を整えていなければ仏道は成らず、
という教えです なので絶食絶水の荒行は、むしろ妨げだろうと思えます
しかし 僧堂では脚気対策をしていないらしく、その点はいかがなものか、と感じます
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
<大乗でも><釈尊が却下した修行を行じるのか そこには、やはり釈尊を追体験する意味合い>なのですね。
<身心を整えていなければ仏道は成らず><絶食絶水の荒行は、むしろ妨げだろう>もあるのですね。
私のような宗教を遠くから眺めているだけの者には、荒業・断食の良さは理解が難しいです。

お礼日時:2018/12/27 07:41

異端宗教イスラム教のコーランは父アブラハムの子イサクが跡継ぎになってない、イシマエルに聖書の話変えている、否定している三位一体、父と子とマリア、父と子と聖霊が分かってない、断食強制はしてない、美味しい豚肉食えない、うなぎ食えない、断食やっても偉くはなれない。

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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。
<異端宗教イスラム教のコーラン>では、<断食強制はしてない>のですか。後世の信者が創った戒律なのですか。

お礼日時:2018/12/24 19:21

イエス・キリスト体験はしたくない遠く及ばないから、仏陀、ムハンマド、考えたこともない、

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
キリストに対しては、敬いながらも遠ざかるのですね。(敬遠)

お礼日時:2018/12/24 19:18

プロテスタントでは一般に断食は行われませんが、カトリックや正教会や聖公会では、復活祭前の40日間(カトリックでは四旬節、正教会では大斎、聖公会では大斎節と呼ぶ)に食の節制をします。

(完全に食を断つわけではありませんが、肉など特定の食物は食べない、40日の間の特定の日には一日中ごく少量の食べ物しか摂らない、など。)
これは、聖書に書いてあるイエスの40日間の荒れ野での断食に倣って行うものなので、開祖の追体験としての断食と言えるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
<カトリックや正教会や聖公会では>、<食の節制>をするのですね。
これは<開祖の追体験としての断食>に該当するのですね。
理屈ではなく、同じ体験を通して教祖の教えに迫ろう、ということですね。

お礼日時:2018/12/19 19:29

信者も人間だからね。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
<信者も人間だから>易きにつきやすいですね

お礼日時:2018/12/19 19:18

「断食」


って言ったって、

死ぬまで断食するわけで無いっしょ?

いい加減って言えば
いい加減ですネ。

でも、
いい加減が
「良い加減」なんですね。

「究極の求道」が戒律だったら、
みんな死んでますって!
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございました。
断食といっても<「良い加減」>なのですね。そうでしょうね、教義も即身仏のイスラム版を求めているわけではない、ですからね。

お礼日時:2018/12/15 16:44

腹減るからね。



修行は
その程度
そこそこ中庸で
良いんじゃ無いかいッ?

余り突き詰めると
原理主義で
信者も
「付いてゆけない」って事になるんでは?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
<修行はその程度>なのですね。一般信者が<「付いてゆけない」>ことはない程度の実践なのですね。そうはいっても、<腹減るからね>。

お礼日時:2018/12/15 16:32

イスラム教徒です。


ラマダンは『断飲食して、貧困の人の飢えの苦しみや気持ちを身を持って知りましょう。そしたら貧困者を見かけた時に(気持ちが分かるゆえに)直ぐに助けの手を差し伸べてあげられるでしょう?』という意味のものです。

キリスト教は分かりませんが、ミャンマーなどの仏教のお坊さん達は断食してると耳にした記憶があります(曖昧ですいません)。
ユダヤ教にも断食はあったはずですよ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
<断飲食>は、<気持ちが分かる>すなわち共感の実践なのですね。
仏教やユダヤ教でも(一部かな)<断飲食>を行っているようなのですね。俗世とは別な世界を体験する、ということでしょうかね。

お礼日時:2018/12/15 16:27

私はキリスト教系大学を卒業したのですが、入学試験にはそういうものは全くなく、ただの学科試験だけでした。

入った後にいろいろ聞かれて教会もあってさらに同窓生や担当教授とよく議論したけど、信者にもなりませんでした。それでも通用はしていて、単位ももらえて、キリスト教を教える科目でも問題なかった。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
紹介して頂いたご体験を考えているのですが、信仰における高尚なことは、公に学校で教えたり議論をする。しかし、あまり高尚でないことは、信仰者の実施(俗的な)に任せている、と無理やりまとめました。(自分で書いていても少しも確信が持てませんが)

お礼日時:2018/12/14 17:34

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