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仏教でも科学でも因果律と言うものを認めてるかと思うのですが

もし因果律ですべてが反応して行くならば 相互作用して行くならば

もう遠い未来にどうなるか迄決まってるはずですよねえ

果報は寝て待てと言う人や先んずれば人を制すと言う人もちゃんと計算に入っている筈です

人間に自由はあるのでしょうか? 運命が分からないだけなのでは?

出来れば短文で答えてみて下さい。

A 回答 (12件中1~10件)

それ宗教だよね

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未来の運命も一つしかない・・??



生命、死、運命、に関しては「論」を用いなくては
浅い、思い付き、いいかげん、思い込み、適当な結論になります

いかなる「論」を用いての結論かお尋ねしたいのですが


私の場合    
生命活動を 立体的 流動的にとらえた十界互具論
生命の機能 本体 可能性 を説いた十如是論
個性化の原理を説いた  五陰世間論
深層を解明した 九識論
ユングやフロイトの深層心理学  
初歩的な十界論、等を基礎に考えた決論です


 ちなみに十界論とは

十界論は生命観と言う生命の我の主体的な実感を柱として成立しています
この点のみを見れば 主観的カテゴリーと考えられます
しかし その生命観と言う主観的なものをとらえた基準は客観的なものです
このように 主観と客観の上に展開されたものであるがゆえに
十界論は いかなる人といえでも その見事さに
心の底から納得せざるを得ない 生命哲理なのです


人間の究極とも言える問題を、短文で答えを得よう等と思う事自体、
浅い、軽い、甘い、と言わざるを得ません

口の悪いひとは
無知無学無能の偏見、と言うでしょう
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過去世とかあるんですか?僕は無いと思いますが?


であるならば、生まれながらの差別は、偶然、奇跡、たまたま、で
非科学的で、整合性が取れず、道理に反する事になります
運命だけは例外、と言う事になり、説得力に欠けます
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この回答へのお礼

ありがとう

過去世と言うものがどういうものか分かりませんが ないと思います。

生まれながらの差別と言うか 差別は運不運もあるでしょうねえ。

時代によって違うでしょうねえ 差別意識は高まったり低まったりします

運命だけは例外と言う話ではなくて 未来の運命も一つしかないと言う事です。

お礼日時:2019/02/04 10:27

バタフライ・エフェクトって知ってますか? 人生もそれと同じですよ。

分からないのであれば、カオス理論を勉強してください。
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この回答へのお礼

ありがとう

因縁は無数にあって人間には把握できません。バタフライ・エフェクトは知りませんが

兎に角結果が一つしかないのですから。運命は決まっているのです

競馬でさえ当たらないのです 人間に分かる筈がありません。

お礼日時:2019/02/02 22:40

短文での説明は無理です



因果応報、自業自得とか、
運命とか宿業とかの考えからすると
その人の過去世の行いによるもので
過去世までさかのぼらなければなりません
しかし
科学では途中に何かを入れると、
結果が変わります

人生でも、運命は決まっていても
途中に何かを入れれば、運命は変わるはずです

仏教ではそれを「縁」といいます
運命を良い方向に変えるポイント「縁起の法」です

まず 「万物共生の大地」 の イメージを、法華経の薬草喩品第五の 「三草二木の譬え」 から説明されています。
 「共生」 とは、異種の生物が共に生活している状態で、相互に利益があるものを “共利共生”、片一方しか利益を受けないものを “片利共生” という。
 また、仏教では 「共生」 を 「縁起」 と説きます。「縁起」 とは、“因縁生起” ということです。

 縁起について、「縁起」 が、縁りて起こると書くように、人間界であれ自然界であれ、単独で存在しているものはなく、すべてが互いに縁となりながら現象界を形成している。 すなわち、事象のありのままの姿は、個別性というよりも関係性や相互依存性を根底としている。
 一切の生きとし生けるものは、互いに関係し依存し合いながら、生きた一つの コスモス(内的調和)、哲学的にいうならば、意味連関の構造を成しているというのが、大乗仏教の自然観の骨格なのです、
 「共生」 について、その 「関係性や相互依存性を強調すると、ともすれば主体性が埋没してしまうのではないか」 と問題を提起されて、先生は原始仏典の 「己(おのれ)こそ己の主(あるじ)である。他の誰がまさに主であろうか。己がよく抑制されたならば、人は得難い主を得る」 「まさに自らを熾燃(しねん=ともしび)とし、法を熾燃とすべし。 他を熾燃とすることなかれ。 自らに帰依し、法に帰依せよ。 他に帰依することなかれ」 (『真理の花たば法句経』筑摩書房) 等を引かれて、埋没してしまうのではなく 「自己に忠実に主体的に生きよと強く促している」 と述べられています。

 ここでいう 「自己」 は、「エゴイズムに囚われた小さな自分、すなわち 「小我」 ではなく、時間的にも空間的にも無限に因果の綾(あや)なす宇宙生命に融合している大きな自分、すなわち 「大我」 を指しております」 と述べられています。
 大聖人は、「我とは仏界なり」(756P) と仰せです。 大我の確立とは仏界を開発することであります。
 「三草二木の譬え」 にありますように、種々の草木があっても、平等に降り注ぐ仏の慈悲の雨がなければ、草木の成長も、大我の確立も、「万物共生の大地」 も あり得ないのであります。
 
 大乗仏教で説くこの 「大我」 とは、一切衆生の苦を我が苦となしゆく 「開かれた人格」 の異名であり、常に現実社会の人間群に向かって、抜苦与楽の行動を繰り広げるのであります。
 こうした大いなる人間性の連帯にこそ、いわゆる 「近代的自我」 の閉塞を突き抜けて、新たな文明が志向すべき地平があるといえないでしょうか。 そしてまた、「生も歓喜であり、死も歓喜である」 という生死観は、この ダイナミックな大我の脈動のなかに、確立されゆくことであります

 『御義口伝』 に、涅槃経に云く 「一切衆生の異(い)の苦を受くるは悉く是れ如来一人の苦」 と云云(758P) と仰せです。
 あらゆる人々の苦を、ことごとく我が一人の苦として受けとめて、“抜苦与楽の行動を繰り広げる” ものこそ 「開かれた人格」 の人であり、“こうした大いなる人間性の連帯にこそ、いわゆる 「近代的自我」 の閉塞を突き抜けて、新たな文明が志向すべき地平があるといえないでしょうか”
 日蓮の 『御義口伝』 には、「(生老病死という) 四相を以て我等が一身の塔を荘厳するなり」(740P) とあります。
 21世紀の人類が、一人一人の 「生命の宝塔」 を輝かせゆくことを、私は心から祈りたい。
 そして、「開かれた対話」 の壮大な交響に、この青き地球を包みながら、「第三の千年」 へ 、新生の一歩を踏み出しゆくことを、私は願うものであります。 その光彩陸離たる 「人間と平和の世紀」 の夜明けを見つめながら、私の スピーチとさせていただきます。  (1993年9月24日・ハーバード大学講演)
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この回答へのお礼

ありがとう

すみません お腹が痛くて読み切れません。

因は縁も含むのです 因は無数にあるのです。科学でもそうです。

科学は分かり易い様に単純な例を挙げてるだけで 縁の事も考えあわせて結果を導かないと

ロケットは飛ばないのです。

過去世とかあるんですか?僕は無いと思いますが?

お礼日時:2019/02/02 22:35

仏教って難しいですよね



お釈迦さまの説いた仏教と
日本で信仰されている大乗仏教って
やっぱり違ってて
そのあたりも、難しいとこですけど

私が理解している「因果」は
「何かしたら、その影響があるよ」
ってことです

たとえば、私が誰かの悪口をharuさんに、言うとします
それは「言ったら終わり」ではない、のですね

まず「悪口を言う」というのは
あまり良くないことですから
罪悪感を感じます
意識してなくても無意識下には感じています
そういう罪悪感は、心身になにかしらの影響を与えるでしょうし
悪口言ってるのが、その人の耳に入るかもしれない、入らなくても
「入ったらどうしよう」という不安を
(無意識にせよ)感じます

悪口を言うとか、そう言う悪いことだけではなく
良いことをしても、あるいは良くも悪くもないことでも
なにか行動したら、なにかしらの結果をもたらす

それが因果

私がこうしてharuさんに話している、そのことでも
話す前の私と
話している私は同じではなく
変わっている

それが諸行無常ということ

そして、生きていく中で
いろんなことをしていく私は
生まれた時の私とは違っていて
その違っているところ…魂の癖みたいなものが「業」
「業」は生まれ変わっても、そのまま残る

そういう感じですかね

だから
「因果によって未来は決まってる」というより
「因果によって、未来はつくられていく」
というほうが正しいのかな、と

ここに来るのやめよっかなと思っているのは
ある人とのやりとりがきっかけです

その人の言ってることが、ぜんっぜん理解できなくて(矛盾だらけだし論旨がわからない)
失礼なことばっかり言われるしで
お友達に見てもらったら

「これはひどいねー」と
「ひどすぎて吹いた(笑)」って

そのお友達によると
gooはそんな人が多い、と

私もそんな気がするんですよね

で、ほかに居心地の良さそうなところをみつけたので
ここにはあんまり来ないかなーって

とゆるく思っております
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この回答へのお礼

Thank you

そうですねえ 因果応報と言うか 自業自得と言うか

チコちゃんの真似をしたらチコちゃんを叱る声がちらほら

私的には 何でわからないのだろうかと もう長く前から20年前から思ってますけどねえ

熱力学+進化論+存在論+存在性・・・=存在性理論なんですけどねえ。

存在論なんて簡単じゃないですが それが分からなかったら何もわかりませんよ

因果の話は為になりました。もう年でまた忘れるかもしれませんが・・・

仏教も優れていますが今の葬式仏教は仏教の勉強をする余裕もない時に

空海、最澄、法然、親鸞、日蓮等が庶民を救うために信じやすくした仏教で

本当はお釈迦様の仏教ももっと研究が必要だと思います

科学と宗教と哲学が相互に進化して行かなければならないのです

ところが科学は兵器を作ってしまい、宗教は思考停止、哲学は大哲学者の研究に終始して

お互いに擦り合わそうと言う所まで行っていません。

何でこうバラバラになるのでしょうねえ。

私も口を慎まないと袋叩き似合うかもしれません?

お礼日時:2019/02/02 22:31

仏教でも科学でも因果律と言うものを認めてるかと思うのですが


 ↑
仏教の因果律は、それによって秩序を作ろうと
するもので、ここに書かれている因果関係とは
別物です。

科学における因果律ですが、やはりここに書かれて
いるようなことはまだ認められておりません。
そういう説も、かつてあったね、というだけです。




もし因果律ですべてが反応して行くならば 相互作用して行くならば
もう遠い未来にどうなるか迄決まってるはずですよねえ
  ↑
因果律が正しい、と仮定するならその通りでしょう。




果報は寝て待てと言う人や先んずれば人を制すと言う人も
ちゃんと計算に入っている筈です
  ↑
キリスト教カルバン派では、運命は決まっていると考えます。
全知全能の絶対神なんですから、こう考えるのが自然です。
だから、やりたいようにやるか、といえば反対で、
俺は天国行きに決まっているはずだ、ということを
確認したいがために、聖書の教えをよく守るような心理に
なるそうです。
マックスウエーバーによれば、この心理が資本主義を
成功させたといいます。



人間に自由はあるのでしょうか? 運命が分からないだけなのでは?
  ↑
わかりませんし、そんなことを考えても意味
があるとは思えません。
自由があるという前提で生きる方が実存的です。
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この回答へのお礼

Thank you

実存主義は何か主観的すぎる様な気がしますが

もっと客観的な思想の方が 何をすればいいか分かる様に思います

何か客観的に目指すべき目的・目標が在ってそれを目指して生きて行けば

何時かはその理想に近づけるのではないでしょうか?

日本やアメリカや中国にその様な理想状態の認識が在るのでしょうか?

お礼日時:2019/01/26 17:11

仏教の因果、って


「良いことをしたら良いことが起きる」みたいな単純なものではないんですよ…

haruさん

私もう
ここには来なくなるかもです

かも、だけども
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この回答へのお礼

Thank you

ダージリン玄米さん ここに来なくなるのは残念ですねえ・・・

仏教の因果は縁と言うものもあるので 科学で言う因果律とはまた違うようです

仏教はよく知りませんが 般若心経を読んだら良くなると言って十数年読んで良くならない人も居ます

科学でも量子論的にはどうとか言って因果がハッキリしないと言っています。

でも目的・目標さえあればその方向に向かって改革・改善・努力して行けばいいので

革命とか戦争とかするとどうなるか分からないので 少しづつ ゆっくり進化して行けばいいのだと思います。

最近変わった質問が多いですねえ。またお会い出来れば有り難いです。

お礼日時:2019/01/26 17:05

科学の因果律の場合、自然の仕組みや宇宙の摂理といったものには確かに人間の自由意志が入り込む隙間はありませんね。


ただ、個々の人間ではなく人類総体としての自由意志とでもいったようなものは、こうした因果律の一部として組み込まれているような気はしています。

一方で、個々の人間としての自由(意志)はあると思います。
ただ、運命がわかる と言えるのは預言者だけなので、預言者を信じる(=運命がわかる、と考える)者に自由はない。
逆に、預言者を信じない(=運命がわからない、と考える)者は常に自由である、と思う次第。
個々の人間が単体として因果律に(運命的に)関与しているとは考えません。
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この回答へのお礼

ありがとう

ありがとうございます。

>個々の人間が単体として因果律に(運命的に)関与しているとは考えません。

これは 個々の人間が因果律に関与することは出来ない と言う事でしょうか?よく分かりませんでした。

預言者と言うものは 例えば二者択一の時に確率の高い方を言って置けば

当たった人は喜ぶし 当たらなかった人は宝くじの様に思う。

ただ人生経験でこういう人はこういう運命になりやすいと言う様な経験論はあるんでしょうねえ

運命を見通す事は無理でしょうね。

お礼日時:2019/01/26 16:53

因果率に貫かれているのが宇宙ということなのですが、個に選択肢が


ないかといえば、どう考えてもあると思います。

私たちは人生の中で様々な選択を、いや、日々選択をして生きている
はずですが、振り返ってみるとどうもその選択には一定の傾向性があ
るようです。
そして年とともにその傾向性は強まってゆくと思います。

食べ物に好き嫌いがあり、人にも好き嫌いがあり、同じようなタイプ
の女性に目が行く等々。

こういうことが運命の現れだと思います。

すべてのことが運命としてガッチリ決まっていたら、我々の直感はも
っと違うことを感じているだろうと思います。
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この回答へのお礼

ありがとう

私の感覚では何事も運命ですね。既に1兆年先も決まっています。

何故なら今を原因としても結果は一つしかない パラレルワールドなどないのです。

我々は自由に選んでるつもりでも全てそうなる因縁が在るのです

自由の刑に処せられてるなど愚の骨頂です。何が何でも目的の世界を実現するのです

永遠に目的を折って行けば必ず完成します。永遠への存在が完成するのです。

大変失礼いたしましたm(_ _)m

お礼日時:2019/01/25 20:54

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