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癖があります。
どうも子供の頃から、そうした心境に陥るような環境に、半ばどうしようもなくて親しんだせいか、物悲しくても、虚無でも、退廃的でも、そこが居るに慣れた所として存在していた為、そうであっても落ち着くという、顛末が逆立ちしたような精神の状態が常態化し板についてしまったという、やるせない二極なのです。
やはりこんな人は、一生こうなのかなぁと思ってもしまうのですが、やはり三つ子の魂百までですよね。
久しぶりに会った人も、そう性格も変わっていない事から、やはりそうした基底的プログラムのように人の心を巣食っているフォーマットである可能性を感じます。
皆さんはどう思いますか?

A 回答 (3件)

何となく分かるような気がします。

皆さんのような名文は書けないので、上手く言い表せません。人はそれぞれその様な精神状態になることはありますよ。船村徹先生の「都の雨に」(ちあきなおみ、鳥羽一郎と船村先生が歌ってます)「・・ひび割れた心引きずり うつむいて生きる夜更けに 一人聞く雨のわびしさよ・・」私はいつも夜になるとこの歌を聞いてます。それとですね「二次元画像」を検索してみてください、貴方の思い描く世界の画像がありますから。
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この回答へのお礼

闇の中に真実はあり、真実は闇の中に確かに存在する。

お礼日時:2019/02/18 21:20

結論から申し上げますと、健康などに被害がないのならば、直さなくても今のままでいいと思います。


もの悲しい虚無の廃墟が逆に落ち着くという二極は客観と主観の交錯なのではないでしょうか。
質問者様にとって非常に落ち着く心の状態であり、子供の頃から変わらない心情
でも客観的に見ればそれは虚無感ただよう廃墟のような心情なのではないかと疑ってしまう。
だって友達や他の人はそんな心情をもっている人がいないから。悩みは多かれ少なかれあるかもしれないけれど自分には他の人の心情に鮮やかな色がついているように見えるから。

心のありようは皆人それぞれだと思います。
今まで生きてきた中で虚無の退廃の中に咲く一輪の花のように、小さくても幸せだと思う瞬間はありませんでしたか。
いますぐに変わりたいのなら努力する必要もあるかもしれませんが、無理に変わる必要はないのではないでしょうか。
人生は長いのでゆっくりそのことについて考えながら生きていくのもまた一つの幸せだと思います。
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この回答へのお礼

あなたは私の心を少し解ってくれたのかもしれないな…と思いました。

>虚無感ただよう廃墟のような心情

そう、廃墟とまでではないのですけれども、人の行かないような、誰もいないような所に行く事が、なんだか落ち着く為に、誰にも言った事は無いのですけれども、落ち着いて好きなんだなと自分で感じていたりしました。
そういう所に行っても、誰もいないのです。
でもそうなるのです。

>だって友達や他の人はそんな心情をもっている人がいないから。悩みは多かれ少なかれあるかもしれないけれど自分には他の人の心情に鮮やかな色がついているように見えるから。

そう、友達や他の一般の人はそんな心情をもっている人なんて、滅多殆どいません。
今までに私の心を理解した人は皆無でしたから…つまり、居なかった、会った事など無いです。
他の人の心情には鮮やかな色がきっとついているのだだろうなと思う時はあります。
私のような、ダークな灰色がかった夕暮れ後の誰も気付かない暗闇の片隅に心を寄せる人なんていませんし。
そもそも、そのような心を持っている片鱗を見せると、大体は理解以前に殆ど嫌われ、去られる事が多いです。

私は私の心がその先に何を求めようとしているのか私すらよくわかりません。

お礼日時:2019/02/17 21:44

虚無とはどのような感覚の虚無ですか?



- 生きる意味の不在
- 仕事の無意味さ
- 存在の無意味さ
- 未来の不確かさ

その手の虚無ですが、20世紀の例で言えばラッセルのパラドクスの発見などの事件が類似しています。
当時絶対に確実なもの、完全なものと思われていた数学の基盤に欠陥が見つかり「完全性」(これはおそらくキリスト教的な神の比喩)に疑いが出てきました。そこからたくさんの数学者が必死に解決策を探したのですが、結局完全は数学者が無理だ、という結論を出してしまった。(ゲーデルのパラドクス) そこから数学者はある意味で完全、絶対を失った後のニヒリズム状態を生きているそうです。ここから先、新たな絶対性を見つけようという人、諦めて別の方法(曖昧さ許容論理)を探そうという人、数学をやめて哲学に行く人などに別れました。

この話は哲学や神学闘争ではもっと古く、ニーチェの「神は死んだ」もそれだと思いますし、もっと古くは全能のパラドクスなどもそれです。

この手の「完全性」を諦めた後に人々はどうやって生きて行くべきか、というのは20世紀の主要研究テーマだったらしく、経験主義や実務に行く人、百科事典主義のようなより広範囲の知的探求をする人などに分かれるようです。

具体的にどのような虚無感を抱えているかによって読むべき本が変わりますが(哲学、政治哲学、歴史、社会学など)、少し気になるテーマを探求してみてはどうですか?ちなみに虚無感を抱えたところで心理学と精神医学に乗り出すのはやめたほうがいいです。カウンセラーと精神科医に精神疾患が多すぎ、また、たまに殺人スパイも入っています。気をつけてください。
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この回答へのお礼

虚無とはどのような感覚の虚無かですが。

- 生きる意味の不在もおよそありましょうし、
- 仕事の無意味さも少なからずですがあります。
- 存在の無意味さ、これは感じる事が多いですね、慣れましたが。
- 未来の不確かさについては、懸念しない月はありません。

完全、絶対を失った後のニヒリズムの状態ですか。
ニーチェ「神は死んだ」の衝撃は酷かったですね。
人間故、陥りかねない誰にも知らされていない真実の思い違いの衝撃的な罠。
勿論、罠などとして作った存在の存在はない。
諦めた後に人々はどうやって生きて行くかについて、自覚にも達し得ずにひたすらにひたすら彷徨う人は多く存在するのではないでしょうか。

>どのような虚無感を抱えているかによって読むべき本が変わります

気になるテーマを探求してみようとも少し以上に思いました。
その場合、目立ちはしませんがきっとですが命がけになる可能性も十分感じますね。

お礼日時:2019/02/17 22:04

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