親子におすすめの新型プラネタリウムとは?

私の親族(京都市、大正12年生まれ)が沖縄にて戦死しておりまして(第22連隊)、その戦死資料(京都府保管の兵籍簿と厚生労働省保管の留守名簿)を取り寄せしましたら、

昭和19年3月に独立守備歩兵第22大隊第1中隊に入営(現役兵)
昭和19年4月に歩兵第22連隊第5中隊に転属編入
昭和19年8月門司港出帆、沖縄県那覇港上陸
昭和20年6月20日沖縄本島伊敷にて玉砕

と記載がありました。

ウキペディアの歩兵第22連隊を見ましたら松山の部隊で、独立守備歩兵第22大隊に入営、朝鮮半島へ移動後すぐに満州東安でどうも第22連隊へ転属になったのかと思いましたが、独立守備歩兵第22大隊と歩兵第22連隊について個別に詳しい方、又戦史資料など残っているのか解る方いらっしゃいましたらどうか教えて頂けませんでしょうか。
この兄弟4名の内2名が戦死、2名は何とか戦地から生還し、現在かなりの高齢ではありますが元気で暮らしておりまして、もし詳しい事が解れば今度話をしてあげたいと思っております。よろしくお願い致します。

A 回答 (3件)

独立守備歩兵第22大隊(補充担任:甲府:東部第63部隊)は、昭和19年3月当時、第6独立守備隊隷下にあって東安省東安において満鉄要路警備に従事していました。


 
 歩兵第22連隊(補充担任:松山:西部第62部隊)は、昭和19年3月当時、第24師団隷下にあって東安省西東安において国境警備及び教育訓練に従事していました。

 さて、親族の方は同年4月に現役兵として徴集されたわけですが、兵隊としての教育訓練は内地の兵営ではなく、直接満洲の現地部隊へ入営して受けることになられたようです。
 
 そこで入隊したのが第22大隊だったわけですが、同大隊はまもなく4月8日、第10派遣隊として豪北のハルマヘラ島へ向け動員されることとなったため、未教育兵は東安に残置されることになったと考えられます。

 第22連隊はそれより先の同年2月、中部太平洋のメレヨン島へ向け動員された第7派遣隊へ第3大隊を抽出しており、連隊の約三分の一が欠員となっていました。

 したがって、第22大隊の未教育兵は、第22連隊の欠員補充を兼ねて転属となり、教育訓練を受けられたと推測されます。
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この回答へのお礼

これはまた詳細な情報有難うございました。凄いですね。
選無き事ですが第22大隊はハルマヘラ島へ動員されたその後はどうなったかご存知でしょうか?

お礼日時:2019/02/22 13:52

独立守備歩兵第22大隊(部隊長:田村中佐 陸士29期)(通称号:満洲第428部隊)は、第10派遣隊へ編入のため、東安を出発し旅順着。


 
同地にて佳木斯から到着した第10歩兵団司令部、林口から到着した独立守備歩兵第23大隊、哈爾濱から到着した独立守備歩兵第30大隊をもって派遣隊を完結して隷下に入り通称号を輝5043部隊に変更。
 
同地にて待機したのち5月11日に出発し朝鮮釜山着。さらに約一週間待機してハルマヘラ島に向け出発し門司、台湾を経てルソン島マニラ着。
 
同地にて大隊は派遣隊隷下から離れ、ミンダナオ島ダバオをへてセレベス島(現スラウェシ島)(サンギ)上陸。第1・第4中隊は同島南部へ転進後独立混成第57旅団編合に入り、大隊本部及び第2・第3中隊はサンギにて停戦。 

第6独立守備隊司令部(通称号:満洲第331部隊)は東安に残留したのち牡丹江省牡丹江へ移駐。同年8月に現地復帰し(復員)し、第103警備司令部へ編入となった。
 
第10派遣隊(通称号:輝5445部隊)は、同年6月ハルマヘラ島ガレラに上陸。その後モロタイ島の敵上陸軍に対して逆上陸斬り込み戦を実施しながらハルマヘラにて停戦となった。

 以上です。
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この回答へのお礼

早速の詳しいご説明有難うございました。m(_ _)m

お礼日時:2019/02/26 21:06

アジア歴史資料センター C12121067500 に独立守備歩兵22大隊が載っています。


16.7.16特編 
19.4.8 以下が判読不能ですがこの日に24師団歩兵22連隊に転属になったのでしょう。
19.5.29 に部隊は復員しています。

アジア歴史資料センター C12122489900 沖縄方面部隊 
第24師団歩兵22連隊略歴 19.7.6動員下令 19.7.14東安出発 19.8.7那覇上陸 20.3.22戦闘配備 20.6.22連隊長戦死 6.24軍旗焼却
※独立歩兵22大隊が載っていますが独立守備歩兵22大隊とは違いますのでご注意下さい。
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この回答へのお礼

早速のご連絡と詳しいご説明有難うございました。
この様なケース(第9師団の様な逆のケースも含めて)は多々あったと思いますが、沖縄に行った部隊に転属になったとは人生の綾と言いますか何とも言い表す事の出来ない気持ちです。有難うございました。

お礼日時:2019/02/21 15:54

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Q豊臣秀吉は朝鮮半島南部くらいなら支配できたのではないですか?

豊臣秀吉の朝鮮出兵ですが、朝鮮の首都(漢城)はすぐに陥落し、次に明軍との戦争になり、明・朝鮮連合軍との戦争になって最終的に撤退することになります。

でも、いくら秀吉軍が強いといっても、さすがに明を征服できる力があったようには思えません。

明との衝突を避け、目的を朝鮮半島南部の支配に限定すれば、目的が達成できた可能性が高いと思いますが、どうでしょうか。
そして、毛利や島津、徳川といった、後で逆らってきそうな大大名を朝鮮南部に配置すれば、邪魔者を追い出せますし、一挙両得のように思います。

Aベストアンサー

文禄慶長の役は征明嚮導とか仮道入明と言われたように、
朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
秀吉が朝鮮南部だけ統治するということはまずありません。
ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
不利になったのは事実と言えなくはないですが、
文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
ほとんどの戦いで明(と朝鮮連合軍)には戦術的に勝っています。
ちなみに、文禄の役の時に碧蹄館の戦いで大損害を出した明は、
以後は朝鮮の意向を無視して講和に方針転換しています。
さらに慶長の役が終わった後、明史では

  (前略)喪師數十萬,糜餉數百萬,
  中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息
 (明史 朝鮮伝(320巻)26年11月)

  10万の兵を失い、100万の糧食を浪費したけど
  中朝(中国)と属国(朝鮮)には勝算が無かった。
  関白(秀吉)が死んだから終わってくれた。

と書かれていたくらいです。
このように、明とはそれなりの勝負はできているので、
本格的に準備をすればいい勝負はしたと思います。

余談ですが、南原城の戦いで見ても判るように
明は朝鮮南部まで軍を進めています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
講和がうまくいった場合など、状況にもよりますが、
朝鮮南部だから明が来ないというわけではありません。


日本が勝てなかった理由は兵站が続かなかったから。
(慶長の役を含めるなら秀吉が死んだから)
当時、兵糧はある程度を現地調達するのが常でしたが、
朝鮮はそもそも春窮という言葉があるくらい貧しく、
耕作に適する土地が少ないので収穫は期待できません。
戦時には日本・朝鮮・明がそれぞれ徴発したから
ますます何もなくなりました。
たとえ朝鮮南部に限定して支配しても、
長大な国境線を長期にわたって維持するのは
(明側が意図しなくても)焦土戦術となって
かなりの負担で益は無いと思われます。


ちなみに、今の韓国の歴史認識に惑わされて
朝鮮人は果敢に抵抗した事を憂慮する方が多いようです。
確かに住民の反乱はそれなりにてこずりましたが、
日本が漢城に到着した時、国王は逃走し、町は既に焼かれていて
王子二名を捕虜にしたのは朝鮮人の働きなのは有名な話。
碧蹄館の戦いに先立つ第三次平壌城の戦いで
「日本側の戦死者を調べるとほとんど朝鮮人でした」
というオチが朝鮮王朝実録に書いてあるくらい。
  是日天兵當陣斬獲一千二百八十五級、生擒二名、
  竝擄浙江人張大膳、奪馬二千九百八十五匹、
  救出本國被擄男婦一千二百二十五名。
  (中略)
  李如松 平壤之役、所斬首級、半皆朝鮮之民、
  焚溺萬餘、盡皆朝鮮之民
政策さえ誤らなければ統治できなくはないと思います。

文禄慶長の役は征明嚮導とか仮道入明と言われたように、
朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
秀吉が朝鮮南部だけ統治するということはまずありません。
ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
不利になったのは事実と言えなくはないですが、
文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
ほとんどの戦いで明(と朝鮮連合軍)には戦術的に勝っていま...続きを読む

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上杉征伐の途中に石田三成の挙兵を知り、軍を西に向けた徳川家康の背後を上杉景勝は何故攻めなかったのですか?
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神武天皇から推古天皇までは33人の天皇を選んだのでしょうね。皇統譜を組むときにね。だから神功天皇、飯豊天皇は日本書紀が外したのでしょうね。3が二つ並んで縁起がいいということですね。当時の日本人は語呂合わせが好きだったのでしょうな。
天皇は通常男子が成るのが普通でしたが、ほかになり手がない時は一時的に女子を建てようという政治的意図で女帝が出ただけ。いわば、候補者が決まらぬ時のつなぎ。
あのー、神功天皇とか飯豊天皇を認めるのはいいですが、歴代天皇を数えるときは入ってないですよ。今は125代とか言いますが、あの場合の125代の中に、神功天皇、飯豊天皇の2人は入っていません。日本書紀が外して続日本紀以降、神功皇后だけ歴代に追加したみたいですが、明治になってまた外しましたね。となれば、論じるなら8人の女帝といった方が現実的な気がする。まあ追加してくれるのはありがたいですが、質問者さんは進歩的ですな。
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神武天皇から推古天皇までは33人の天皇を選んだのでしょうね。皇統譜を組むときにね。だから神功天皇、飯豊天皇は日本書紀が外したのでしょうね。3が二つ並んで縁起がいいということですね。当時の日本人は語呂合わせが好きだったのでしょうな。
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あのー、神功天皇とか飯豊天皇を認めるのはいいですが、歴代天皇を数えるときは入ってないですよ。今...続きを読む

Q朝鮮はどうして独立を維持できたのでしょうか。

朝鮮半島を見ていて、いつも不思議に思うことがあります。それは、中国はどうして朝鮮半島を取り込もうとしなかったのか。逆に言えば、朝鮮はどうして独立を維持できたのかという事です。中国が帝国主義であることは紛れもなく、広大な国土に加え、今でも「台湾の独立は認めない」、「チベットの自治は認めない」と言っています。普通に考えれば、朝鮮半島は海に突き出ていて立地条件も良く、何としても手に入れたい土地だと思うのです。独立というのは口で言うほど簡単ではなく、国力がなければできません。力関係で言ったら、朝鮮は中国(清)にとても敵わなかったはずです。朝鮮半島は、かつては百済、新羅、高句麗と三つに分裂していました。なおさら取り込まれ易かったはずです。それを思うと不思議でなりません。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

朝鮮は中国の冊封体制に組み込まれた属国の一つで、
独立国のように見えますが、冊封国と言われるものです。
つまり、すっかり取り込まれていたのです。



華夷思想において、中央は高貴なものとされたのに対し、
周辺の地域は東夷・西戎・南蛮・北狄といわれ、
辺境の蛮族扱いされていました。
このような辺境は直接統治より冊封による間接統治が
効率的と考えられていました。
辺境の国家は冊封されないと国として認められないので
多くは交易もできない状況でした。
冊封国は基本的に中国から内政・外交の干渉は受けませんが、
子分になって中国の強い影響下にあることを認めたものです。
詳しくは冊封(国)で調べてみてください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81

朝鮮の始祖である太祖李成桂は高麗から王位を簒奪した時に
明に報告すると「王朝が交代したなら国号を改めよ」といわれ、
「朝鮮」と「和寧」のどちらが良いかを洪武帝(明の皇帝)に
選んでもらいました。
朝鮮の国号からしてこのような状況です。
また、朝鮮は国王の交代があっても中国の事前承認を重視しました。
拒否した実例はありませんが、中国の許可なく王になれなかったのです。
これは朝鮮だけで、冊封国には越南(ベトナム)や琉球も含まれますが、
他の冊封国は自分たちで国王を決めてからの事後承諾でした。
近年では朝鮮最後の皇帝(注:独立後大韓帝国を名乗りました)である
純宗が立太子の時(皇太子への就任)認めてもらうために
清との交渉が行われました。

冊封国にも序列があり、王の服の色や描かれた竜の数などで表され、
朝鮮の序列は低くはありませんでした。
しかし、東北の金(後金)を下位にみていたため
明が衰え金の勢力が強くなっても明の庇護を頼りに
強気で臨んだため丁卯胡乱と丙子胡乱で完敗し、
三田渡の盟約で清の属国であると認めさせられ、
皇帝ではない清からの勅使に対しても
(朝鮮)王が三跪九叩頭の礼により迎えました。
ちなみに、三跪九叩頭は1度ひざまずいて3回土下座を3セット
都合9回土下座をするもので、清の皇帝が臣下にさせた儀礼です。
余談ですが台湾出兵の後始末で日本の使者が皇帝に対するとき
皇帝への儀礼として要求されましたが拒否しています。

朝鮮が清の冊封から脱したのは日清戦争の結果で、
下関条約の第1条は清からの独立を認めさせるもの。
一般の方にも読める「朝鮮紀行」(講談社学術文庫)には
この時に無理やり独立することで清の庇護下から解放させられて
ガクブルの高宗の様子が書かれています。(P319~P341 )

現在の韓国では、属国ではなく「兄弟国」という表現が多いのですが、
実際には壬午軍乱(1882年)の後始末で真に結ばされた
「中朝商民水陸貿易章程」でも属国であることが確認されました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9C%9D%E5%95%86%E6%B0%91%E6%B0%B4%E9%99%B8%E8%B2%BF%E6%98%93%E7%AB%A0%E7%A8%8B

朝鮮が冊封国を維持できたのは、清による虎の威を借りたから。
現在の韓国の国旗である太極旗の原型(諸説あります)は、
1882年に訪日使節団が使ったものです。
そこには日本になめられないように「大清国属」と書かれ、
清の支配下にあることを自称していたことがわかります。



現在の中国がチベットなどを侵略するのは
現代において価値があるから。
紛争で注目される尖閣諸島も、1970年代に国連の調査で
海底資源が指摘されるまで無関心どころか
国の機関紙に日本領と書いていたくらいです。
価値があって与しやすいと思われれば侵略されます。

朝鮮は中国の冊封体制に組み込まれた属国の一つで、
独立国のように見えますが、冊封国と言われるものです。
つまり、すっかり取り込まれていたのです。



華夷思想において、中央は高貴なものとされたのに対し、
周辺の地域は東夷・西戎・南蛮・北狄といわれ、
辺境の蛮族扱いされていました。
このような辺境は直接統治より冊封による間接統治が
効率的と考えられていました。
辺境の国家は冊封されないと国として認められないので
多くは交易もできない状況でした。
冊封国は基本的に中国から内政・外交の干渉...続きを読む

Qこの忠魂碑について、 ・人数 ・誰が建てたのか(文字を書いたのか) が知りたいです。 他にもある限り

この忠魂碑について、
・人数
・誰が建てたのか(文字を書いたのか)
が知りたいです。

他にもある限りの情報が欲しいので、知っている方教えてください!
説明のあるサイトなども教えて欲しいです




1番左の石には「明治二十七年八戦捷記念碑」、真ん中の石には「明治三十七八年戦捷記念碑」と書いてあります。場所は、埼玉県大里郡寄居町立原です。

Aベストアンサー

こんばんは。
「明治二十七年八戦」というのは日清戦争、「明治三十七八年戦」は日露戦争のことを指している様ですね。
Wikiで日清戦争、日露戦争で調べると、明治27年、明治37年に戦争が起こったことが分かります。
埼玉県だけでなく、その様な名前の記念碑は他の県にもあちこち、あることがネットで調べると分かりますよ。

分かり易く書かれていた記念碑について書かれているURLが
【引用】広島ぶらり散歩 三役戦捷記念碑(http://yutaka901.fc2web.com/page5esx08.html)
に書かれていました。
埼玉県慰霊碑の情報はこれも引用ですけど、一覧で丁寧にまとめられていました。
【引用】(http://oukanokizuna.web.fc2.com/cyukonhi/cyukonhi-kenbetu-saitama-1.html)

ご参考まで。

Qなぜ戦後の日本人はGHQを疑わなかったのか?

日本は第二次大戦の敗戦後、価値観が180度変わり、旧軍を悪とみなす風潮になったとされています。マスコミも負けた途端言うことがガラッ変わりました。でもそれを疑う人っていなかったのでしょうか?
 日本が負けてから政治もメディアも教育も、GHQの統制下にあることは国民も知っていたはずです。だからメディアがいくら「日本の軍部はこんなに悪かった!アメリカの民主主義は素晴らしい!」みたいなことを言っても、「今のメディアはアメリカに都合の良いことしか言えないよう統制されている。これは占領政策の一環で、国民を洗脳するための陰謀だ。」と疑ってかかるのが普通だと思います。なぜ当時の人は疑わずに180度違う価値観を受け入れてしまったのでしょうか。

Aベストアンサー

でもそれを疑う人っていなかったのでしょうか?
 ↑
勿論おりましたよ。
でも、そうした意見はマスコミが取り上げず
表にでることはありませんでした。
ネットがあれば出たでしょうが。




日本が負けてから政治もメディアも教育も、GHQの統制下にあることは
国民も知っていたはずです。
だからメディアがいくら「日本の軍部はこんなに悪かった!アメリカの民主主義は
素晴らしい!」みたいなことを言っても、
「今のメディアはアメリカに都合の良いことしか言えないよう統制されている。
これは占領政策の一環で、国民を洗脳するための陰謀だ。」
と疑ってかかるのが普通だと思います。
なぜ当時の人は疑わずに180度違う価値観を受け入れてしまったのでしょうか。
 ↑
それを受け入れたのが、日本の支配層であり、
指導層だったからです。
多くの国民は、日本は負けたから悪者にされた、なんて
ことは百も承知でした。
そういう意見は総て封殺されたのです。

では、どうして指導層、支配層は受け入れた
のか。

表面だけ従うように見せておき、米国の
影響が無くなったら元に戻そう、と考えて
いたのです。

ところが、GHQが、洗脳工作に、当時盛ん
だった社会主義者を使ったので、彼らが
マスコミなどの要職に就き、
見せかけが本当になってしまいました。


■1945年7月に作成された対日心理作戦報告によれば、占領軍に友好的な
「自由主義者」として、野坂参三、鹿地亘らの共産主義者を挙げて活用した。

マッカーサーの政治顧問付補佐官であったエマーソンの米上院での証言によれば、
野坂らの提唱で設立された日本人民解放連盟の中国での
日本兵捕虜洗脳教育を対日心理戦に利用できると確信し、
WGIPのモデルとなった。

エマーソンは「日本国内の戦争反対分子を励まし、内部崩壊を早める」
よう提言し実行されたが、同証言で「共産主義の目的についての理解がなかった」
と弁明している。

日米合作の太平洋戦争史観とコミンテルン史観との奇妙な癒着が戦後の
「反日」歴史教育の土壌となり、戦後の「反日日本人」のルーツ、温床となった。

でもそれを疑う人っていなかったのでしょうか?
 ↑
勿論おりましたよ。
でも、そうした意見はマスコミが取り上げず
表にでることはありませんでした。
ネットがあれば出たでしょうが。




日本が負けてから政治もメディアも教育も、GHQの統制下にあることは
国民も知っていたはずです。
だからメディアがいくら「日本の軍部はこんなに悪かった!アメリカの民主主義は
素晴らしい!」みたいなことを言っても、
「今のメディアはアメリカに都合の良いことしか言えないよう統制されている。
これは占領政策の一環で...続きを読む

Q戦国時代のドラマを見てると軍議の席で武将達がやたら声を張り上げて意見交換してる場面があります。 実際

戦国時代のドラマを見てると軍議の席で武将達がやたら声を張り上げて意見交換してる場面があります。
実際の軍議もあんな大きめの声を出してたと思いますか?
当時の武将達も声が小さめの人や、言葉を噛む人とかいたと思うのですが…
普通の声のトーンで話さなかったのですかね?

Aベストアンサー

実際の軍議もあんな大きめの声を出してたと思いますか?
 ↑
そういう人が多かったと思います。
1,軍議は自己アピールの場でもあります。
 声が大きい方が目立つし、意見も通りやすいのは
 今も同じです。
2,戦国時代の武将の声はとてつもなく大きかった
 と言われています。
 広い戦場で自分の名前をCMするのですから
 大きいことが要求されたのです。



当時の武将達も声が小さめの人や、言葉を噛む人とかいたと思うのですが…
  ↑
そりゃいたでしょうね。



普通の声のトーンで話さなかったのですかね?
  ↑
徳川家康は、部下の自由なディスカッションに任せ
それろじっと聞いていて、最後は自分で決める、
そういう軍議をしていたという話があります。
声がでかくないと、主君の耳に入りません。

Q1950年代の日本ってもうかなり普通の暮らししてましたか?

1950年代の日本ってもうかなり普通の暮らししてましたか?

Aベストアンサー

東日本大震災から8年、いまだにこの様です。
戦争が終わったのが1945年、日本中が震災に合ったようなものでしょう。「もはや戦後ではない」と言われたのが1956年、10年かかって戦争の後処理がようやく終わった感じだったのではないでしょうか。

Qもし日本に原爆が落とされていなかったら・・

どうなっていたでしょう・・

本土決戦で

アメリカ人が日本本土に侵攻、占領し

ベトナムのような略奪、日本女たちをレイプ、、

ハーフの子供ばかりで

我々純粋な日本人が少なくなっていたように思いますし

『親アメリカ』!!な風潮ではなく!!

【反アメリカ】!!!な憎しみだけが渦巻く風土になっていたように思いますが

みなさんどう思いますか。

Aベストアンサー

あなたは、沖縄に米軍が上陸を行います
地上戦が行われた事を知っているのかな?

基地問題は別にして、沖縄の人達と米軍・米国との関係を見れば自ずと分かるのではないか?

沖縄県とそれ以外の日本とが、別だという認識なのかな?


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