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中国側が、満州開発や列強からの利権回収を進める中で、日本の軍部や右翼はなぜ「満蒙の危機」を喧伝したのですか?分かりやすく教えていただけると助かります。

A 回答 (2件)

この回答は、質問者様は↓事をご存じであるという前提でのものです。



イ:日本は朝鮮と共同でロシアに対抗しようとしていた。その為の支援もしていた。
ロ:しかし、朝鮮は自国内をまとめられず身内の政争を繰り返し、それにロシアが介入した為に日露戦争が起きた。
ハ:日露戦争後も朝鮮は迷走を続けたために日本は保護国にした。
二:朝鮮はその後も失政を繰り返して国は破綻させ日本に併合を要請し、日本はそれを受け入れた。

イについて、日本はロシアの防波堤として朝鮮を利用したと語る意見もありますが、
そもそも 日本が危なくなる→朝鮮が侵略されている という事です。
そして、当時の朝鮮はロシアに対抗する力はありませんでした。
日本は朝鮮を近代化の為に多大な支援をしており、これ=悪 というなら、全ての外交は「悪だくみ」になると思います。

私は、外交や国際協力とは、お互いを利用し合うものでしかないと思っています。
しかし、このような協力は、外交=仲良しごっこ と思って集団的自衛権に反対しているお花畑さんには理解できないかもしれません。


日本の大陸や半島での行為について批判する意見がありますが、
彼らは、それらの原因は当時の支那と朝鮮が衰退した国家だった為にロシアの侵略を誘致した事であるということを理解しているのでしょうか。
私は支那と朝鮮がロシアの南下を食い止める力があったら、日清戦争も日露戦争も起こらず、日本が大陸に出る事もなく、アジアの歴史は全く違ったものになっていたと思います。



1:>中国側が、満州開発や列強からの利権回収を進める中で、日本の軍部や右翼はなぜ「満蒙の危機」を喧伝したのですか?



1→わざわざ「右翼」と言う言葉を使う意図が不明です。
もしかしたらあなたの望むような回答はできないかもしれません。


回答:中国側が、満州開発や列強からの利権回収を進めた為に、実際に危機だったからです。
自分で言っていてわからなかったのでしょうか。
もしかして質問者様は、彼らの「利権回収」の内容や手段をご存じではないのでしょうか。



まず「満蒙」とは【満州地方】(遼寧省、吉林省、黒竜江省)と【内蒙古】(現在のモンゴル国と東側で隣接しているモンゴル高原東部の一部地域)の事です。

「満蒙の危機」とは、1930年前後から始まった満蒙地域で日本の保有する権益が脅かされている事態のことです。

当時の満蒙には日本国の財産や権益が存在していました。
(遼東半島の一部の土地、南満州鉄道会社とその会社の所有する土地等)
しかし、1930年以降は以下の理由で利益が減少し、現地の政権との関係も悪化しました。

A:満州産の大豆輸送による利益の減少
B:張学良と国民党が勝手に満州鉄道と競合する鉄道を施設。
  (国民党は日本と南満州鉄道の付近に並行する鉄道は敷かない約束をしていました)
C:張学良と国民党の関係強化→日本との関係悪化
D:満州地域での日本製品の排斥運動の発生。
E:国民党による満州地域での反日やテロ行為。

C~Eについて
当時の支那大陸ですが、清国の滅亡により、複数の軍事政権が独自に各地を支配する無法地帯でした。
その後、南部に発生した蒋介石の国民党が勢力を伸ばします。
国民党は列強に取られた権益を取り戻そうと、各地で暴動を起こします。
(当時の国民党に、ソ連は支援をし、共産党員を浸透させていました。
なので、国民党の行動はソ連の対日工作でもあります)
列強はそれらに武力で対抗しようとしましたが、日本は消極的でした。
彼らは、そのような日本の態度を見て、攻撃を日本に集中するようになり、↓のような日本人が被害にあう事件が多発しました。



【漢口事件】(1927年)
漢口で日本の租界が襲われ、暴民による掠奪が行なわれた。
日本政府は漢口の日本人居留民2000人以上を上海に退避させた。


【南京事件】(1927年)
支那の北伐軍に浸透していた共産党員が南京で行った虐殺事件。
日本・イギリス・アメリカの領事館や学校、企業、外人住宅を襲って、虐殺、暴行、掠奪を行ないました。女子供を含む数百名の一般市民も略奪に参加していました。

この暴動に対して英米両国は日本に「一緒に行動しよう」と呼びかけたが、日本政府から「支那を刺激してはならない」という訓令の為に、日本の軍艦は避難しようとする日本居留民を見捨てて揚子江を下って帰還しました。
居留民保護の為に共同出兵をしようというイギリスの提案にも応じませんでした。

日本が攻撃しない事を知った支那兵は日本領事館に押しかけ、暴行と掠奪を行ないました。
領事夫人は27人に輪姦され、30数名の日本人婦人は少女に至るまで陵辱されました。
日本領事館員も日本の軍人は、武装していなかったために抵抗できませんでした。

南京事件の結果、揚子江流域の日本人は財産を放棄して内地に引き揚げざるを得なくなりました。


【間島暴動】(1930年)
ソ連から支援を受けていた満州と朝鮮人の反日・共産主義諸団体が間島地方で暴徒が交通機関や発電所などを破壊し、日本の領事館や親日朝鮮人の家が襲われた事件。
この後も日本の施設や親日朝鮮人に対する攻撃が続いた為に、現地朝鮮人から日本の武力行使を要望する請願が出されました。
ところが、日本の対応は消極的だった為に彼らは増長し、大陸での反日・侮日は激化していきました。


満州事変は、このような状況下で満州の居住民と満州鉄道を守る為に起きたものです。




その後も国民党の反日暴動は続きました。

【日本人僧侶殺害事件】(1932)
上海で日本人法華宗僧侶2名、信徒3名が300名の支那人に襲われ、2名が死亡し3名が重傷を負った事件。これがきっかけで第一次上海事変が勃発しました。


【親日社長暗殺事件】(1935年)
日本と満州に友好的な「国権報」と「振報」の社長が暗殺された事件。
調査の結果、国民党の関与と、犯人が国民政府によって上海のフランス租界に匿われたことがわかりました。



【通州事件】(1937年)
冀東政府の保安隊千数百人が、日本守備隊と日本人居留民(韓国合後の朝鮮人も含む)を襲撃して虐殺した事件。
当時の通州は日本軍主力が出動した為100人くらいしか残っていませんでした。

「通州事件の目撃者による口述書の一部引用」

守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。
某飲食店では、一家ことごとく首と両手を切断され、婦人は14、5歳以上は全部強姦されていた。
旭軒という飲食店に入ると、7、8名の女が全部裸体にされ、強姦射刺殺され、陰部にほうきを押しこんである者、口中に砂を入れてある者、腹部を縦に断ち割ってある者など見るに堪えなかった。
東門の近くの池では、首を電線で縛り、両手を合わせて、それに八番線を通し、一家6名数珠つなぎにして引き回した形跡歴然たる死体が浮かんでおり、池の水は真っ赤になっていた。
夜半まで生存者の収容に当たり、『日本人はいないか』と叫んで各戸ごとに調査すると、
鼻に牛のごとく針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが、そこそこのちり箱の中やら塀の陰から出てきた。

この事件に日本の世論は沸騰し、支那への感情は取り返しの付かないほど悪化しました。



【大山大尉虐殺事件】(1937年)
上海で車で視察中の大山勇夫海軍中尉が支那の保安隊に包囲され、機関銃で撃たれ殺された事件。大山中尉は機関銃弾を浴びて殺された上に、頭を青竜刀で割られていました。
「中国側が、満州開発や列強からの利権回収を」の回答画像2
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この回答へのお礼

とても詳しい解説ありがとうございました、大変分かりやすく助かりました!

お礼日時:2019/03/04 16:18

日清戦争の頃から、日本の仮想敵国はロシアであり、南下してくるロシアを日本の周辺で迎撃したくなかったんです。

本土が戦火に巻き込まれますから。

それで緩衝地帯として朝鮮を併合したは良いけれど、開発して発展していくうちに、朝鮮が戦火に巻き込まれるのが、もったいなくなって、次なる緩衝地帯として満州に進出した。しかし満州を開発していくうちに、また満州を戦火で失うのが、もったいなくなって。ちょうど日本も不景気で、農家の次男や三男は行き場もなく、そうした人たちを満州に厄介払いするのにも、ちょうど良かったんです。
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この回答へのお礼

さまざまなバックグラウンドが絡み合ってるんですね、、ありがとうございました!

お礼日時:2019/03/04 16:18

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