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私は絶対善はあると主張していますが、多くの人は絶対善などない、善は相対的なのだと主張します。

ではあなた達の言う「善は相対的である」と言う例を示してくれませんか? どのようなことが相対的といわれるのでしょうか? 皆さんにも分かり易く書いてください。

質問者からの補足コメント

  • 私が気付いたことは正しい、正しくないは問題があるから必要になる。そうでしょう? 善悪は何か問題があるからあるのです。

    また気付いたことはあらゆる社会的問題はみんなの為にあると言うことです。これこそ絶対的なことなのです。ですから絶対的に正しいことは「公(みんな)の為」なのです。つまり絶対善は「公の為」です。
    あらゆる社会的問題はみんなの為に合致する答えが正しいとなるのです。
    例えば死刑にしても人権に合致しないから正しくないと言っていますが、それは間違いであり、みんなの為になる答え、社会の安寧秩序に合致する答えが正しいのです。
    核問題も核廃絶が正しい答えではなく日本国民みんなの為になる答えが正しいのです。ですから核保有も日本国民の為になるならばそれが正しいとなるのです。

    このようにあらゆる社会的問題において絶対的に正しいことは公(みんな)の為なのです。例外はありません、絶対なのです。

      補足日時:2019/04/07 19:57

A 回答 (16件中1~10件)

では、僕はあなたの言う絶対善というものが理解できるまで、貴殿に従っていればいいんだ。


社会秩序を守るために、公の善の中に埋没されていけばいいんだ。
批判はできても「公のため」ということで弾圧されちゃいそうなんだ。

「あきらめなさい、時期をまちなさい」って。
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残念にもならない。


放置されてしまう程度の、独善的な解釈です。

夢を見ることや、想像の理想を思い浮かべることは自由ですが、
それに当てはまらない個人を差別的な扱いをしないことを望みます。

僕の思想は、あなたの前に不自由で人権として発言を否定される。
それでいいし、それも然りだけれど、誰も僕の内心に影響を与えられない。
けれど、貴殿は「絶対善」というもので、内心までも押し付けてくるのではないですか。

どうでもいいけど。
マジ、どうでもいい。
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この回答へのお礼

私の言っていることに何の矛盾があるの? 相対善などないのよ。公共的な問題に対しては。

あらゆる社会的な問題は国民みんなの為になる答えが正しいのです。国民みんなの為にならない答えなど答えではない。相対的な答えはない、国民みんなの為になる答えしかない。絶対なのだよ。

それが分からないなら、あなたにはまだ理解できる巡り合わせがないのだよ。諦めなさい。時期を待ちなさい。

お礼日時:2019/04/15 21:46

>相対主義で生み出したものはヒトラーやスターリンや誰かさんのようなノータリンぐらいなものである。

私の言う絶対善は今後、社会において多くの成果を出すであろう。

いやいや、貴殿怖いから。
貴殿こそ、要素があるから、ファシズムの。
多様性を認めるというのは難しいことだけれど、社会秩序を守っていくことと人権と自由を守っていくことを並行して行うには、必要なこと。
貴殿の発想は、秩序は守れても人権・自由を無くしてしまう事になりそう。公のためにはそれでもいい、と貴殿は言いそう。
社会制度は「そういう時期もある=戦争の主導とか」かもしれないけれど、それをいかに回避していくかの知恵を「多様性」から出し続ける不断の努力。
善を語れば、悪が現れる(それに気づかない方は、馬鹿である)。
悪を滅せば、善のみになるか?成らないんだなぁ。悪の中にも善がある。どちらも協力仕合い、自然の在り様がある。
歴史は戦争を繰り返すが、永遠に戦争や争い状態が続かない。
戦争のない状態も、ずっとではないでしょう。
争いをいかに回避していくかを検討し続けても、いずれ、はあり得る。けれど、努力して回避しようとする。

「貴殿の言う絶対善は、虫や葉っぱにとっても、善ですか?」
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この回答へのお礼

>貴殿の発想は、秩序は守れても人権・自由を無くしてしまう事になりそう。<

それではあなたの思う人権と自由の意味は何ですか?あなたの人権、自由が間違っているのでしょう。

>善を語れば、悪が現れる(それに気づかない方は、馬鹿である)。<

意味が分かりません、あなたは善が分かっていないのでは?

>悪の中にも善がある。どちらも協力仕合い、自然の在り様がある。<

悪の中に善? ありません、あなたは善悪とは何にも分かっていない。


>「貴殿の言う絶対善は、虫や葉っぱにとっても、善ですか?」<

私の絶対善を知っているの? 言ってみてw

お礼日時:2019/04/14 21:47

★ (№12お礼欄) 道徳的正しさは価値観ですから絶対はありません。


絶対的です。
☆ 《絶対》と《絶対的》とを区別するという意味ですか? そういう――
定義というより――用法が出来ないわけではないですが まぎらわしいでし
ょうね。

つまり 《絶対性》は 《超経験・超自然・あるいは無限》という概念と同
じく《有る無しを超えており 因果関係から自由である何ものか》を言いま
す。

そして 相対性とは 完全に《絶対の》へだたりがあります。

次の用法は 絶対性の領域から経験世界へと降ろして来て 経験的なことが
らについて《強調するために》使うものです。気持ちとしての確信がつよい
ことを表わします。

★ しかし「人は皆絶対死ぬ」というのは絶対と言ってはならないのですか?
☆ 経験世界において これまでに《例外がない》ということを言っていま
す。そのことをさらに強調して示そうとした用法です。

例外がないことに間違いないと言っているわけですが これからもひとしく
そうであるだろうという《経験的な推量による判断》にもとづくものですか
ら それは 《因果関係から自由なことがら》とは別です。




★ 良心という本能はすべての人の遺伝子に絶対的に書き込まれている、と
言ってはいけないのか。
☆ これは すでに《良心》が おおよそ推定して――または証明抜きで公
理として立てるがごとくに―― 一般にみとめられた概念です。そして ここ
での《絶対的に》という表現も 経験事象をめぐって《われは確信を持つ》
という程度の意味を表わすものです。本来の定義から 経験事象に用いるた
め派生させた用法です。


★ 何故カラスは絶対的に黒いと言ってはならないのか、突然変異で白いカ
ラスが数羽いればカラスは黒いというのは間違いなのか?
☆ 経験事象ゆえです。

たとえば 《永遠》は 経験し得ません。けれども 経験事象について用い
るように派生させて 《わが愛は 永遠なり》といった・やはり一種の強調
用法があります。それといっしょです。

社会において 《絶対的》を強調用法として使うのは ふつうです。
それと同時に しかも 哲学において用いるときには 定義にのっとって用
いることになります。違反してはいけません。学問としての決まりです。


★ そんな非現実的なことで絶対的という言葉を拒否するのは正しいのか? 
☆ 学問を知らないからでしょう。


★ いい加減そんなバカらしい議論は止めるべきである。
☆ わたしは もうしっかりと言いました。したがうかどうかは あなた次
第です。


★ 「人は皆死ぬ」と言えば「いや死なない人もいるかもしれないじゃない
か」という。そういうなら200年間でも生きているやつを連れてこい!!
☆ たとえば 《わたしは死んでも生きる》といった表現が成され得ます。
それは 哲学の用法ではありません。


今後 同じことの繰り返しになるときには 放っておきます。
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この回答へのお礼

>《わたしは死んでも生きる》といった表現が成され得ます。それは 哲学の用法ではありません。<

死んでも生きる?なんだそれ誰が言ったの? 私が言うのは人は皆死ぬ、絶対に!だ。これは事実である。それでは私たちは「人は絶対に死ぬ」ということは言ってはならないのか?この社会においてそれは認められるだろう、ならば私の言う絶対善もそれと同じくらい確かなことであるから絶対善という言葉も許されるのだ。

哲学とは常に現実社会に即したものでなければならない。勿論、論理学も厳密的なものにおいては必要であろうが、私たちは論理学の世界で生きているのではない。ユークリッド幾何学は平面上においては絶対的に正しいのである。ニュートン力学も我々の一般社会においては絶対的に正しいのである。絶対はあるのである。

私の考えが学問ではないというなら、その論理学という学問で正しいとは何か?また何故人を殺してはいけないのか?を説明してもらいたい。偉そうに学問というなら答えられるだろう。

相対主義者は絶対的なものはあるとしたソクラテスにコテンパンにやられてきた。相対主義で生み出したものはヒトラーやスターリンや誰かさんのようなノータリンぐらいなものである。私の言う絶対善は今後、社会において多くの成果を出すであろう。

お礼日時:2019/04/10 20:32

★(№10お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 >仮りに愛や思いやりが すべての善に共通に含まれていたとしても 
 そういう普遍性は 絶対性とは別の話です。<

そうですか? あらゆる善なる行為には絶対的に愛や思いやりが含まれて
いるのですよ。含まれてないものはない、つまり絶対的に含まれている、
絶対的に。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この《絶対的に》というのは 《例外がなく》という意味です。

言いかえると その場合の:
★ すべての善
☆ というときの《善》がすでに 限りのある人知によっておこなう人間
の経験的・相対的な行為なのです。

つまり そのように人間の成す善が けっきょく程度問題の範囲におさま
るところの相対的なものであるというのは わたしの回答№9にすでに述
べています。

素粒子やあるいは細胞が それぞれしかるべくすべてのものに共通である
というのは 相対的な経験事象として例外がない というたぐいの意味に
なります。――《絶対性》の問題ではありません。


経験事象についても 一般性があり例外のない普遍性があり得ます。

けれども それは 《人知を超えた絶対性》だとは言いません。

このように哲学では 相対性と絶対性とを峻別します。

この表現の問題は ゆるがせにすることは出来ません。
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この回答へのお礼

道徳的正しさは価値観ですから絶対はありません。絶対的です。しかし「人は皆絶対死ぬ」というのは絶対と言ってはならないのですか?

良心という本能はすべての人の遺伝子に絶対的に書き込まれている、と言ってはいけないのか。何故カラスは絶対的に黒いと言ってはならないのか、突然変異で白いカラスが数羽いればカラスは黒いというのは間違いなのか?
そんな非現実的なことで絶対的という言葉を拒否するのは正しいのか? いい加減そんなバカらしい議論は止めるべきである。

「人は皆死ぬ」と言えば「いや死なない人もいるかもしれないじゃないか」という。そういうなら200年間でも生きているやつを連れてこい!!

お礼日時:2019/04/09 21:20

お礼、ありがとうございます。



『善とは正しい事、絶対善とは絶対的に正しい事です。絶対的に正しいこと(目的)は群れの存続、群れ社会の安寧秩序を守る事、つまり公(みんな)の為です。
 またそのための絶対的に正しい行為、方法(手段)が「私欲を抑え公の為と考えること」です。』
  ↑
上記の記載は、大枠として理解できますし、賛成です。

しかし、疑問が湧きます。

「絶対的に正しいこと」は、どなたが「判断」されるのでしょうか?

例えば、「辺野古」の件です。
私は、「国家の利益」のために、辺野古移設は「全く正しい。」と思っています。
しかし、辺野古には反対運動が現存し、騒いでいます。

仮に、「絶対善」と言う視点から考えれば、私から見て、狂ったように騒いでいる反対派は、
有無を言わさず、即刻排除、抹殺しなければなりません。
「絶対善」では、「正しいこと」以外は、存続出来ないでしょう。

これは、私一人の勝手な判断なので、私の判断は、「絶対善」にはなり得ません。

一方、選挙を見ても、一般的に「対立候補」が存在します。
この場合、選挙民が「絶対善」を総意として、選択すると見ることも出来ます。
一度それが「絶対善」と認識されたら、対立者を葬り去るのでしょうか?
例えば「維新」です。
大阪の有権者は維新を選択しました。
大阪という地域で「都構想」というのは、正しい、と有権者が判断した結果でしょう。
しかし、対立候補も票を集めました。

何が言いたいか、と言うと、物事には常に「反対者」が存在する、ということです。
「絶対善」が揺るぎなく正しいのであれば、誰かがその「絶対善」を定義しなければ
ならないし、その合意を集団の規範として成立させようとすれば、必ず「異端者」が
存在する、ということです。

「絶対善」が存在可能なのは、独裁者が「絶対善」を決める場合でしょう。
北朝鮮のように、個人の「絶対善」に反するものは、粛清する必要がでます。

社会の到るところに「善」は存在しますし、「ゆるやかな規範」によって、
社会秩序が保たれています。

「絶対善」の本来の意味は、「ゆるやかな規範」の「根本原理」が
存在する、と言う意味のように感じますが、「絶対」と言う言葉は、
とても強くて、「無条件に他を排除する。」と言うニュアンスも
含みます。

でも、少し考えさせられました。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

>「絶対的に正しいこと」は、どなたが「判断」されるのでしょうか?<

ある社会的問題が出た時に絶対的に正しいことはみんなの為です、決まっています。そのために最も優れた方法が「私欲を抑え公の為とみんなで考えること」です。ですから皆さんで決めることになります。
また絶対善は正しい方法を示しているのであり絶対的に正しい結果を出せると言うことではありません。絶対的に正しい結果が出せるというなら、それは神です。そんな定義を人間が出来るはずはありません。絶対善は最も優れた方法、手段を示しています。ですから絶対善でやれば最も正しい結果になる確率が高いということです。


>「絶対善」と言う視点から考えれば、私から見て、狂ったように騒いでいる反対派は、有無を言わさず、即刻排除、抹殺しなければなりません。「絶対善」では、「正しいこと」以外は、存続出来ないでしょう。<


絶対善とは最も社会がうまくいく方法であり手段です。ですから辺野古問題は私欲を抑え公(国民)の為にとみんなで考えれば一番正しい答えが出てくるのです。どちらが正しいのか絶対善で話し合えばどちらが正しいかすぐに分かります。しかし辺野古反対という私欲を捨てきれない人達には絶対善は通じません。彼らは日本人の仲間ではないですからね。
このように問題は仲間でなければ正しい答えは導けません。仲間なら、何とか最後にはみんなの為にと妥協できるのです。

>大阪という地域で「都構想」というのは、正しい、と有権者が判断した結果でしょう。しかし、対立候補も票を集めました。<

選挙においては短期ですので絶対善は機能しません。どちらの立候補者の意見が正しいのか「私欲を抑えて公(大阪)の為」と話し合うことが良いのです。大阪の人、一人一人が橋下が好きとか嫌いとかそう言う私欲をできるだけ抑えて本当にどちらの候補の意見が大阪の為になるのかとみんなで話しあえればどちらの候補者が正しいかが分かるのではないでしょうか。絶対善は本来の正しい民主的政治のあり方も示しているのです。


「絶対」と言う言葉は、とても強くて、「無条件に他を排除する。」と言うニュアンスも含みます。

そうですか。それでも絶対的に正しい教育、絶対的に正しい政治を求めなければなりません。いい加減な正しさで多くの人が不幸になるのです。どう思いますか?

お礼日時:2019/04/08 19:31

★(№9お礼欄) あらゆる善なるものに内包しているのが「私より公を優先


すること、つまり愛や思いやり」なのだよ。
☆ だから 《公=みんな》は 中身があいまいである。

もし《すべての人・世界のすべて》という普遍性を言うなら 或る意味で(つ
ねに当てはまるという意味で・表現の問題をゆるがせにするなら)《絶対的な
善》だとなるのかも知れません。

でも 《公=みんな》という概念は 内容がさだまっていません。ゆえに相対
的な善だとなります。

それに《愛や思いやり》は 人間の考えおこなうものごとであるなら 絶対的
なものではあり得ません。絶対性とは 人知を超えているナゾの何かです。

せいぜい 人間にとって善とみとめられるコトには 愛や思いやりという要素
が 共通にふくまれているようだ というまでです。




★ 全ての善なるものに内包しているから絶対である、ゆえに絶対善である。
☆ すべてのものに 細胞があり遺伝子があると言っても そういう共通の要
素があるというまでであって それは 相対的なものとしての要素です。絶対
ではありません。




★ 「私より公を優先すること」はあらゆる善なる行為に内包している。
☆ 仮りにそうだとしても そういう要因が共通に含まれているというのみで
す。

公と言っても《わたし》たちがみとめる《みんな》のことであり そのような
曖昧な公を《優先する》と言っても どの程度そうするか? どのようにそう
するか? などなどにおいてやはり 質や量の差が出て来ます。

つまり相対的なものであると言わざるを得ません。




★ そうではないというなら善なる行為で「思いやりや愛」がないものを示し
てごらんなさいといっているのです。
☆ 共通の要素・要因である愛や思いやりは 限りがあり程度問題として差が
あると見ざるを得ない相対的なものごとであるという視点を申し上げています。

仮りに愛や思いやりが すべての善に共通に含まれていたとしても そういう
普遍性は 絶対性とは別の話です。

すべてのモノが 同じ素粒子から成っていると言っても それらは 経験的な
ものごとであり 移ろいゆかざるを得ないものであって絶対ではないというご
とく 愛や思いやりなる要素も 相対的なものとしてすべての善に共通だとい
うのみです。絶対ではありません。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

>だから 《公=みんな》は 中身があいまいである。<

ですから公は問題により決まります。曖昧ではありません。消費増税問題は国民みんなが公。地球温暖化は世界各国のみんなが公、家族の問題なら家族みんなが公、このよう問題により公は自然と決まってしまいます。曖昧ではありませんよ。


>仮りに愛や思いやりが すべての善に共通に含まれていたとしても そういう普遍性は 絶対性とは別の話です。<

そうですか? あらゆる善なる行為には絶対的に愛や思いやりが含まれているのですよ。含まれてないものはない、つまり絶対的に含まれている、絶対的に。

お礼日時:2019/04/08 19:18

1. ものごとの良し悪しは:



① 基本的に ひとりの人の主観真実として決められます。ひとは 自
由意志の主体であるとされています。

② おのれのまこととして良しとするのは 恥づかしくないということ。
または ヤマシサ反応に逆らっていない思想と行動を言うようです。

③ みんな(これは あいまいな概念のまま使います)が それは恥ぢ
だと思う必要はないよと言ってくれる思いやオコナヒは その主観が共
同化されていると見られます。

④ この共同主観(コモンセンス)〔の内容〕が だいたい人間の世の
中の《善》だと受け留められているようです。恥ぢ意識やヤマシサ反応
から自由な心のあり方としての内容だと思われます。

⑤ それは 《良心にかなうこと》だということに成るようです。ただ
し この良心(共に・知るというコンシャンス)は 人びとの社会的な
行動とその錯綜関係(また 縁起共生)の結果状態を見て 後づけした
ものとも見られます。



2. 《善》は 《みんなのみとめるところ》と捉えるとき 《みんな》
が ほぼ全部を言うのかあるいは過半数かといったようにあいまいであ
るからには いつ・いかなる時と場所でも通用するかと問えば はっき
りしません。その意味でも相対的なものです。

3. あるいは 一般によからぬ思いを心にいだきさらにはこれを実行
しようとすると胸の高鳴りが激しくなり顔は赤らみ舌はしどろもどろに
なるというヤマシサ反応は それでは すべての人に例外なくひとしく
起こるかといえば これも 心許ないことです。この意味でも 善は相
対的なことだと言わざるを得ません。

4. ヴェジタリアンは 動物のいのちを犠牲にすることを善としない
とすれば そうでない人とのあいだで 善の規定に相違が出ます。くぢ
らを食べることに異常なほど特殊に《善をそこなう》要因を見ようとす
る向きもあります。




5. 《良心》というものが もしただ人間の考えだけによって常識と
されているのではなく言わば天与の自然本性でありそのハタラキである
とされるのならば その良心にしたがう思いとオコナヒは 或る意味で
経験的な相対性であることを超えている部分があるかも分かりません。

6. 良心が 人間性を超えたハタラキとしての・それでも時には現象
しうる・めづらしき自然本性なるチカラだとなれば 《あたかも絶対的
な善》として見られるよすがと成っている。のかも分からない。

6-1. 恥づかしくて顔を赤らめるのは なにも好き好んで――自分
の意志で――おこなっているのではないとすれば どこか絶対性の領域
につながっているのかも分からない。


7. ただし 人間は その絶対性について何も知っていないのだから
わざわざこの・良心にしたがう善を 絶対善だと規定するいわれも資格
もない。のではないか?

7-1. そういう・絶対善の存在を主張する主観真実は――自分自身
の心の内部であり得たとしても―― みんなのみとめるところとは 成
りにくい。なぜなら 《絶対》観・つまり要するに《神とは何か?》論
が みんなのあいだでさだまっていないからだ。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

>7.ただし 人間は その絶対性について何も知っていないのだから、わざわざこの良心にしたがう善を 絶対善だと規定するいわれも資格もないのではないのか?<

だから絶対善は「私より公を優先すること」だと私が見つけたのさ。キリストの愛、孔子の仁、つまり思いやり、そして釈迦の慈悲心などのあらゆる善なるものに内包しているのが「私より公を優先すること、つまり愛や思いやり」なのだよ。全ての善なるものに内包しているから絶対である、ゆえに絶対善である。
「私より公を優先すること」はあらゆる善なる行為に内包している。そうではないというなら善なる行為で「思いやりや愛」がないものを示してごらんなさいといっているのです。

お礼日時:2019/04/07 21:27

質問4コメント


>(原爆投下について)世界の為に正しい答えを出さねばならないのです。アメリカと日本だけの問題ではないのです。
こらこら、矛盾したことを書かないでください、
以前、質問で、こう書いています。(要点のみに編集しました。)
>すべては公(みんな)の為にあると私は主張しています。
>公の為とは種族(群れ、民族)保存の為ということです。
>公とは仲間を言います。小さくは家族、...最大の仲間とは日本でいえば日本国民を言います。
>ゆえに他国は基本的に仲間ではありません。
世界のため、というのは、当然、他国を含んでおり、それ仲間じゃ無い、とあなたは言っています。
よって、日本のためとアメリカのためで善悪は違う、ということであなたへの反論となるはず。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。
 
>世界のため、というのは、当然、他国を含んでおり、それ仲間じゃ無い、とあなたは言っています。よって、日本のためとアメリカのためで善悪は違う、ということであなたへの反論となるはず。<

何の矛盾もありませんよ。基本的に問題は仲間内の為にあります。自分たちの問題に他国が干渉してはなりません。しかし世界的な問題もありますので、世界は仲間ではないけれども仮に世界を仲間として考えなければならないのです。他国に原爆を落とすという問題は世界的問題ですからアメリカも日本も自分の方が正しいという私欲を抑えてが原爆を使うことは本当に世界の為になるのかと考えれば正しい答えが出るでしょう。

日本国内で温暖化問題を議論すれば何とか妥協して結論が出ます、しかし世界は仲間ではないのでアメリカや中国はどうしても二酸化炭素排出制限を受け入れません。このように仲間でない人たちが話し合ってもよい結果は出ないのです。やはり絶対的に正しい結果を出すためには私欲を抑え公の為とみんなで考える環境がなければ無理なのです。

私欲を抑えてみんなの為と考えられるのは仲間だからこそ何とか妥協できるのです。ですから絶対善は基本的に仲間に対して有効なのです。世界は仲間ではないが仮に仲間として考えれば正しい答えは出せますが、仲間ではないのでなかなか妥協はできないでしょう。ですから世界的問題の多くは絶対的に正しい答えは出せないのです。

お礼日時:2019/04/07 21:26

良くわからないのですが・・・・・。



「絶対善」とは、何でしょうか?
それこそ、事例を教えていただけませんか?

「善」というものは、何で定義されるのでしょうか?
「善」を定義するためには「悪」の存在が必要な気がしますが?

では、「絶対悪」なるものは、存在可能なのでしょうか?

それは、「善」の存在を前提としないと定義が出来ないのではないか、と
思います。

しかし、「絶対」と言う言葉は、「他者に依存」するのでしょうか?

「善」と「悪」の関係は、それ自体で「相対的」だと思いますが、どうでしょうか?

「光が無ければ、闇も認識出来ませんし、闇がなければ光も認識できません。」

良くわかりませんが・・・・・。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

>「絶対善」とは、何でしょうか?それこそ、事例を教えていただけませんか?<

善とは正しい事、絶対善とは絶対的に正しい事です。絶対的に正しいこと(目的)は群れの存続、群れ社会の安寧秩序を守る事、つまり公(みんな)の為です。またそのための絶対的に正しい行為、方法(手段)が「私欲を抑え公の為と考えること」です。
電車で妊婦さんなどに席を譲るのも善です。このような行為が群れの安寧秩序に貢献するのです。


>では、「絶対悪」なるものは、存在可能なのでしょうか?<

絶対善の反対が絶対悪です、難しく考えなくてもいいのです。絶対善だけ考えればよろしい。


>「善」と「悪」の関係は、それ自体で「相対的」だと思いますが、どうでしょうか?<

相対的ではなく相対主義を聞いているのです。相対主義とは絶対的なものなどないという考え。でも絶対善も絶対悪もあるではありませんか。何故絶対善なんてないというのだろうか。

お礼日時:2019/04/07 21:26

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