プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

1. 民主制では わざわざクウキを読む必要はなく クウキをかたちづくる
必要もない。それこそ民主制の雰囲気は 空気のようなものだ。

2. ところが 日本人にあるまじき KY だ・ニートだと言って それを読め・
それに従えという意味でのクウキは このいわば白紙であるという意味での空
気のさらに上に別の訴える手段を持ちこもうとした結果状態であり その手段
じたいであるだろう。

3. いろんな意味での党派の意向を 民主的な対話や話し合いという過程の
中に持ち込み人びとを丸め込もうとするときの思潮やまた圧力と感じられもす
る雰囲気のことである。

4. この国には お上には逆らえない・長いものには巻かれろ・寄らば大樹
の陰といった《アマアガリ・シンドローム(公民アマテラスへの出世指向)》
が人びとの心の中に見られる場合がある。

5. あるいはそのアマテラス公民のおこなうことは《あやまち得ない》とい
う無謬性なる神話が浸透していて アマテラス公民を無条件に信奉するという
《アマテラス予備軍症候群》がしばしば見られる。

6. これらの風潮がはびこっている――と ようやくその権威づけられた威
光がやや落ち目になってきた今 あらためて取り上げてみよう。

6-1. つまり この《伝統》なる風潮を読まないという KY は じつは 
未来社会への旗手である。

6-2. 引き籠もりは クウキに対する志向性に関する限り すでにいまシ
ャッターが押されて陰画として現われた未来社会の風景である。

7. たぶんその場合にも KY はダメだと言われるときのクウキはそれをも
読むことだけは読んでおいたほうがよいはずだが 読んだ結果として KY と
いう現象が起きても構わないし 起きたほうがひとは よりいっそう自由であ
る。

☆ どう考えますか?




8. なお最後にですが あらためて定義です。:

  ○ KY の定義 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  広い意味での会議において 会議としての意志決定をするときに 
  言論をとおしてというかたちを超えて 
  おもにヨリ高い権限を有する者の意向を人々がすでに汲み取って
  ――必ずしもまだ発言されていなくとも噂で流されているところの
  意向をすでに忖度して―― 
  多くの参加者の意向がそれになびいていくとき 
  そのような同調という風潮を意に介さない傾向および志向性。
  
 ○ ニートや引き籠もりは そのクウキなる風潮に生理的にさえ嫌悪
  をも催す現象の結果あらわれる状態ではないか。また 佐渡へ佐渡
  へと草木もなびく群れを目の前に見せられては やってらんないよ
  と言った状態。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

質問者からの補足コメント

  • BAと言ったのは 茶化したかも知れません。

    よかったですか? そうだとすれば それはよかった。
    と思います。


    注文などありましたら おしえてください。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/04/12 23:17

A 回答 (8件)

いいえ、そこではなく


「引き籠もりが未来社会のネガであり、それがそのままポジになる」これは完全に喩の表現ですよね。

比喩という表現の方法は、直喩と隠喩とを問わず、それによって比喩される言葉の機能に新しい生命を与え、新しい任務を付与するとも言えます。比喩する言葉の思いがけない提出によって比喩される言葉の習慣的な意味のシンボルを破壊し、その衝撃によって、隠されていた言葉本来の意味や態度を、読む人の感覚の前に新しく引き出してくれます。
隠喩には、隠喩によってしか把握されない微妙な事物の関係やニュアンス、または啓示的な照応があり、単なる説明をもってしてはなかなか言い尽くせないものがあります。
主観的断定と呼ばれる性格も隠喩のひとつの特性です。たとえば

渡らねば明日へは行けぬ暗緑のこの河深きかなしみの河

この場合、「かなしみの河」が隠喩。言葉(かなしみ)とその具体化のイメージ(河)が直接つながっていて、隔たりがない。「河のようなかなしみ」ということもできるが、「かなしみの河」とすることで、悲しみがそのまま河となって存在するという、より強い効果を得ることができる。

満員の介護施設と一両の汽車すれ違う時のはざまを

これは私が作った歌です。全体が喩になっています。一瞬の間にイメージが沸いたので、自分でも何を言っているのかわからないのですが、喩にはこういう性質があると思います。

「引き籠もりがネガであり」ここでネガは、いったいどのような状態を指して言われているのか。
「そのままポジになる」とは、真逆の状態になるということ。
確か以前に「アース役はつらいよ」でしたっけ。で、その解消が表明されていたと思いますが。
ネガでありポジになる。とは、ちょっと考えただけではとても難しいことだと思うのですが。
そこに超自然的な関与があるということでしたよね。少し飛躍があると思いました。
「引き籠もりは 未来社会のネガ(陰画)であ」の回答画像8
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 比喩という表現の方法
☆ の問題は おおよそおっしゃるとおりでしょう。復唱しません。

なかで敢えて言うとすれば:
★ ~~~~
満員の介護施設と一両の汽車すれ違う時のはざまを

これは私が作った歌です。全体が喩になっています。一瞬の間にイメージ
が沸いたので、自分でも何を言っているのかわからないのですが、喩には
こういう性質があると思います。
~~~~
☆ こういった場合は――馬場あき子の歌集のときのように―― 連作に
よるとか 前書きを添えるとか あるいは解説で補うとかしないと 詠み
手の主観として 或る種の達成感があるでしょうが 聴き手には 分かり
づらいと思います。







★ 「引き籠もりがネガであり」ここでネガは、いったいどのような状態
☆ か? と言えば いまはまだポジ(陽画)に成っていない状態だとい
うことです。でも すでにその光景は まさにネガとして現実であるとも
言っています。

その本人のささやかな意志と心がその実現に向けて動き出しています。

同調圧力としてのクウキに――ほとんど意識せずになのかも分かりません
が―― 抵抗しているその姿は 兆しとしてだけでも 貴重だと。



★ 確か以前に「アース役はつらいよ」でしたっけ。で、その解消が表明
されていたと思いますが。
☆ いえ。ガミガミ役との役割りが逆転するというのではなく そうでは
なくガミガミ役からのガミガミ電波(いろんなハラスメント)が――その
ガミガミ氏の自省と自己還帰をとおして―― 消えてなくなる。という意
味です。

この場合は ネガとポジの関係とは別です。ガミガミもアースも ネガで
はありません。



★ そこに超自然的な関与があるということでしたよね。少し飛躍がある
と思いました。
☆ 人間の能力と努力とだけでは 基本として言えば人間の成すことの何
ごとも成就しない。
――という《飛躍した》見方をも ふつうの哲学の見解に盛り込んでいる
というかたちです。

お礼日時:2019/04/15 08:27

確かにそうですね。


私たちは、他人との共同のあり方に没入し、知らない間に他人の支配を受けています。そして自分自身を見失っているのが、悲しいことに日常茶飯事です。
しかし、この他人の支配というのですが、特定の他人ではない。「ひと」「世間」と言えると思います。
新聞やテレビなどのマスコミが伝達する場合の相手は特定の誰でもなく、しかも誰でもがそれであるような他人、私がその一人であるような他人であり、しかも世論とか視聴率とかで、この伝達を支配するのもこの他人「ひと」です。
その他、交通などの公共機関、政治経済などの諸機構などを支配するのも「ひと」。
日常生活の中で、私たちはいつも他人と自分を比較してはいないでしょうか。負けないように、また優位に立とうと躍起になることがあると思います。私たちはいつも、他人との差異に関心を持ち、そのことによって不安にされています。この差異によって起こってくる感覚が、他人によって支配されていることを示すものです。

しかし、ネガとなっているが、やがてそのままポジになるとは。そこらへんがちと難解だわ。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ しかし、ネガとなっているが、やがてそのままポジになるとは。
そこらへんがちと難解だわ。
☆ いまはもう写真は DPEなんてことないんですかね?

現像したら ネガ(陰画)になって出て来ます。白黒などが逆になって
いる。焼き付けすると ポジ(陽画)つまり ふつうの色で写真になり
ます。

ですから いまはまだ兆しが出て来たという意味で ネガの状態ではな
いかと。


☆ あとの社会の分析は そのとおりだと思います。

世の中は一般に なんらかのクウキがただよって かなりその雰囲気が
優勢な風潮をかたちづくっていて その方向へとわれわれはみちびかれ
ることがあります。

最近では LGBTなどというかなり変な風潮がある程度支配的になって
いると思います。何らかのいぢめを受けているのをひっくり返そうとす
るウゴキでもありますが これを逆転させようとして 別の支配的なク
ウキをつくろうとしているかに思われる部分があると思います。

お礼日時:2019/04/14 23:26

そうですか。

自我が強ければ聖霊が働く余地がないとも思うのですが、その点はどうなんでしょうか。
「自我」とは他人と違う自分。しかし「我執としての自我」とは、頑ななニュアンスがあるように思いますが。
肝心の質問の、引きこもりは未来社会の陰画、KYは草の根民主制への第一歩である、という文脈についてははっきりわかりません。もう少し、わかりやすく説明してください。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ そうですか。自我が強ければ聖霊が働く余地がないとも思うのですが・・・
☆ ヒラメキや良心のハタラキ(=すなわち ヤマシサ反応もしくは恥ぢ意識 )
が 人間たるわたしの意志にも先んじて 例外なく起きます。

自我は 我執として――あるいは一点特定しようと思えば 《神のごとくいかな
る者の下にも立つまいと堅く誓った》人間のその生存欲また支配欲として――は
たらくわたしの・むしろ理性です。

良心がはたらいている。けれど そのよからぬ理性が 良心に逆らい聖霊の呼び
かけをも乗り越えて行こうとします。

出来心や衝動による不法行為の場合は 何らかのかたちで自我=我執にかかわる
とは見られるものの 良心のハタラキを容易に取り戻します。


★ 「自我」とは他人と違う自分。
☆ 自我とは 《 das Ich ( the 'I' ; わたしであること)》です。意味が広がり
自我が強いと言えば 押しが強いことであり 時に我執のことであり 自我を確
立するというのは おのれの意志また存在が 相手のそれらとひとしくとうとい
と知ることです。

同じたぐい(存在)であると同時に 自由意志の自由さが互いに異なるというこ
と。つまり ひと・人間・わたしと言うのと違わないでしょう。

自我という訳語が 混乱をもたらしています。



★ 肝心の質問の、引きこもりは未来社会の陰画、KYは草の根民主制への第一歩
である、という文脈についてははっきりわかりません。もう少し、わかりやすく
説明してください。
☆ 《神のごとく如何なる者の下にも立つまいと堅く誓った》人間は 支配欲に
よってむしろ支配されていて 押しがつよい。自分はゆづりません。あるいは自
分が勝つために 一たんゆづることをします。

そうして 世の中のクウキを利用します。アマアガリ・シンドロームに罹った人
間と呼んでいますが 言わばガミガミ役のことです。これに対して受動的な立ち
場は アース役になります。

アース役になることが 不当なことだと思えば KY に成ります。さらにガミガ
ミ役とそれに支配された世の中の情況では やってらんないよと――無意識の内
にも――宣言したのが 引きこもりやニートだと見ます。

かれらは いまネガ(陰画)となっている。やがてそのままポジ(陽画)になり
ましょう。

お礼日時:2019/04/14 20:52

弱さの中にある力は、聖書に語られていますーコリントⅡ12:9-10


「わたしの力は弱いところに完全に現れる」強いところには現れません。なぜか。強さと強さが反発するのではないでしょうか。人間が本来持っている性格は頑固でかたくなで、神はそれを打ち砕かなければなりませんでした。自我が壊されたところに新しい実存ができる。私たちは存在の語りかけに応答し、その要求に従うことが大切。
「実存とは、自己を脱し我執を捨てて存在の明るみの中に立ちいでることである」というハイデッガーの主義主張ですね。

「ゆづる」という行為は確かにそのような見えない力も、働いていると思います。
相手から威圧的な力を受けた時、自分を守るために「ゆづってしまう」ということが起きてくるからです。
それは日常的には、「すみません」「ありがとうございます」という声かけにも表れていますよ。
「すみません」は詫びるとき、「ありがとうございます」は感謝、でも、今は何か面倒なことを回避したいときも、しばしば発せられる言葉となりました。初めにこれを付け加えてから発話すると、会話がスムーズに運び、相手の心証も壊さずに済みます。ハラスメントの多い世の中になってしまいました。
「引き籠もりは 未来社会のネガ(陰画)であ」の回答画像5
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 弱さの中にある力は、聖書に語られていますーコリントⅡ12:9-10
★ 人間が本来持っている性格は頑固でかたくなで、神はそれを打ち砕
かなければなりませんでした。
☆ ここまで分かります。

★ 自我が壊されたところに新しい実存ができる。
☆ これも 言わんとするところは分かります。かたくななところを砕
くという意味において。

ただ 《自我》は そもそも初めから無い――なぜならそれはただ《わ
たし〔なること〕》を言うのみだから――と言いたいですし またある
いは別様にもし《我執やこだわり》のことであってそこから離れること
を言おうとしているとすれば それも どこか違うと思っています。

離れるのではないと思います。我執としての自我をなくすことが よい
人格だというのは うそです。

自然本性としてのわたしを無くすことなど出来っこありませんし そこ
につくられたへそ曲がりだとか自己チューだとかを直すというのも ど
こかウソくさいです。そんな考えを持っています。


早い話としては 自己満足なり自己顕示欲なりの余計な部分としてのわ
たしについては それらをよく利活用すればよいわけです。そのために
自然本性のよき部分があります。神の宮であるという――想定じょうの
――部分。

しかもそのチカラは わたしの弱いときに・わたしの弱さの中から現わ
れて来ると言います。

わざわざ強い子になって 人格を作り上げることはない・・・のではな
いか?


★ 私たちは存在の語りかけに応答し、その要求に従うことが大切。
☆ これは 基本として自然本性のふつうの要求でしょうね。ですが:
★ 「実存とは、自己を脱し我執を捨てて存在の明るみの中に立ちいで
ることである」というハイデッガー
☆ これは ウソっぽい。《自己が自己を脱する》のですか? よわい
わたしが我執を捨てるのですか?

といったことを思います。自然本性に余計な手をかけることが 特には
ブディズムのオシヘをつうじて これまでには大きく叫ばれて来たので
はないでしょうか?



また そういう意味でも《ゆづる》という手がひとつに考えられるかも
分かりません。もう少ししっかりといろんな情況や《ゆづる》ことの可
能性を考えて見なければならないかとは思います。


草々にて。

お礼日時:2019/04/13 14:32

働きかける力というのには、相手に配慮して相手の気持ちを汲み取ることが大きな鍵になります。

単に話好きなだけでは、双方向のコミュニケーションとならないので、意思疎通が成り立ちません。
働きかけられる力というのは、そうですね、守ろうとする力を引き出す力、かなと思います。つまり、弱さの中にある力と言えるでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 働きかける力というのには、相手に配慮して相手の気持ちを汲み取る
ことが大きな鍵になります。
☆ なるほど。能動的なチカラとその作用にうったえるときすでに 相手
の受け身として示す反応を予期し予想するという。

しかもそれは 打算のためではなく 相手の思想や置かれた情況に配慮し
て 互いに心をかよわせたコミュニケーションのためであると。


★ 単に話好きなだけでは、双方向のコミュニケーションとならないので、
意思疎通が成り立ちません。
☆ ううーん。すでに初めの段階で 双方向というのはじつは 互いに向
き合うかたちで それぞれ・ともに《はたらきを受けるチカラ》の発揮と
いうことを織り込んでいるのだということのようですね。



★ 働きかけられる力というのは、そうですね、守ろうとする力を引き出
す力、かなと思います。つまり、弱さの中にある力と言えるでしょうか。
☆ 《よわさの中にあるチカラ》とは 神崎の論文には触れられていなか
ったかと思うのですが まさにパウロ的ですね。



コミュニケーション論で 進展があったかも分かりません。




あっ。《ゆづる》というのは 相手からすでに不当な行動に出られている
とき・あるいは理不尽な要求を突き付けられたときの《受け身のチカラ》
の発揮のひとつとして 考えられるのかも知れません。

お礼日時:2019/04/13 11:48

皆さんに誤解されないように、 KYの重要な定義をWikiから引用しておきます。



「朝日新聞珊瑚記事捏造事件(あさひしんぶんさんごきじねつぞうじけん)とは、1989年(平成元年)に沖縄県西表島において、朝日新聞社のカメラマン・本田嘉郎が自作自演で珊瑚に落書きによる傷をつけ、その写真をもとに新聞記事を捏造した虚報事件である[1]。落書きの文言「K・Y」を取って、KY事件とも呼ばれる。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5 …
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


▲ (ヰキぺ:朝日新聞珊瑚記事捏造事件) ~~~
§ 2 事件の背景
・・・西表島に偶然『K・Y』というイニシャルの有名ダイバーがいて、彼が
憤慨して調査を始めたことが捏造が発覚するきっかけであったとされる。
~~~~~~~

☆ これが 事実だとすれば そのようにひとりの人間の心と社会的生命と
を踏みにじろうとするという朝日新聞記者の心が 分からない。



まさか 朝日新聞系からの回し者ではないでしょうね。まだまだ 朝日は権
威を持っているんだ そのクウキを読みたまえ・・・という投稿内容ではな
いですよね?

お礼日時:2019/04/13 08:47

核心をついてると思います。


うちは100人ぐらいの職場ですが、10年前は比較的働きやすいと思っていたのに、人手不足やら経費削減やらで、人間関係もぎすぎすしてきたり、すべてのおいてロボット化してきたと思います。業務命令に逆らうことはゆるされないというか。私なんかは会議では言いたいことを言いますよ。そんな雰囲気がいやだから。人手不足だから、辞めさせられないのはわかっているからね。ブラジュさんが言ってること正解。やはり世の中自体変わった。だから、どこでもその流れを受けざるを得ない。流されながら抵抗してるようなもんだわ。まったく。非力だなと思う。みんなその流れを感じて黙ってるのよ。どうしたらいいんだろうね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ やはり世の中自体変わった。
☆ 変化はしている・・・のですね。《クウキが希薄化したか》は まだ分か
らないとしてもですね。かすかに《落ち目》の徴候はありましょうか。
☆☆(趣旨説明欄) ~~~~
6. これらの風潮がはびこっている――と ようやくその権威づけられた威
光がやや落ち目になってきた今 あらためて取り上げてみよう。
~~~~


★ 私なんかは会議では言いたいことを言いますよ。そんな雰囲気がいやだか
ら。人手不足だから、辞めさせられないのはわかっているからね。
☆ たのもしいとともに 時代の流れに即応しているのですね。



けれども・ただし むろん問題ものこっている。:
★ 流されながら抵抗してるようなもんだわ。まったく。非力だなと思う。み
んなその流れを感じて黙ってるのよ。どうしたらいいんだろうね。
☆ わたしは 《♪ あぁ アース役はつらいよ》の大合唱を提唱しています。

こんな考え方を取り上げたことがあります。どうぞ。
【Q:《ゆづりあひ》のいきほひは 《力への意志》を凌駕するか?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10923549.html

お礼日時:2019/04/13 08:32

パチパチパチ。

この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ベストアンサーだね。

お礼日時:2019/04/12 22:24

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