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甘く見すぎな人多すぎ

もっと低コスト低賃金で脳を使うよ

のうはもう社会

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意見の表明ではありません。
誤りを知りたい。
なぜこれは間違いなのか?

A 回答 (6件)

表面的な能率至上主義一辺倒の脳の鍛え方は


試行錯誤による未知の開拓力をないがしろにするやり方
だと思います。
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この回答へのお礼

無理のないやり方。
開拓します。
お礼遅れて失礼しました!

お礼日時:2019/06/19 18:07

この質問が何を言っているのか、ちっともわからない私なので、ブラジュロンヌさんとの《対決》も理解できていません。



ただ、他の回答から思ったのは、文学的にはd_y_nさんの言語は詩的な表現で、小説はオーバーヘッド的表現になる、という解釈をしてみました。

当たってますか?
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この回答へのお礼

「ある処理を行うために間接的にかかってしまうコスト」のことを言いたかったのです。

いずれにしても、最近うつ気味でぱっとしません。
ありがとうございます!

お礼日時:2019/06/19 18:05

どこまでが言語学で、どこからが言語哲学なのか、その境界は、


どこまでが丼で、どこからが茶碗なのか、その境界に似ていて、
fuzzy集合論なる20世紀の最新数学の問題に還元されるんです。
面白いよ。
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この回答へのお礼

ゲシュタルト崩壊なんですよ。自分の死とは。自分の生の。

お礼日時:2019/06/04 10:51

これって科学論文の掲載までの過程と同じですね。

科学論文は正しい結果を正しく書けば専門誌に掲載してもらえるというわけではない。オーバーヘッドに費やすことは重要なのです。それを理解できずに勘違いしている未熟者が掲載を拒否されて絶望している風景を私は数多く見てきました。専門雑誌に自分の論文が載るか載らないかは、研究者として生き残れるか生き残れないかの重要な要素として考えられているので、研究者にとって最重要な事柄の一つです。

なぜ、科学論文は正しい結果を正しく書いても専門誌に掲載してもらえるというわけではないのか。その理由は以下の通りです。

専門雑誌の編集者が掲載の可否を判断するには査読者の意見が重要になります。査読者は編集者がその提示された論文の内容に関連した分野の専門家の中から複数人、通常2〜3人を選んで査読者としての可能性を打診します。

重要なのは、査読者は無償で査読をする点にあります。研究者は自分の研究で忙しいのですが、お互い様なので、特殊な事情がない限り査読を引き受けます。何せ無償なので、査読者はじっくりその論文を読んでくません。斜め読みして掲載の可否の判断を下してしまうことがしばしば起こります。ですから、いちいち読み返さずに斜め読みされても、こちらの言いたいことが正しく相手に伝わって行くように文章を構成しておかないと、査読者に誤解され、難癖をつけられてしまいます。査読者に向かって、

「私の言っていることは正しい。よく読んでくれ、あなたは誤解している」

なんて言ってしまったら、査読者はへそを曲げてしまい、ますます難癖をつけられてしまいかねません。

ですから、論文を投稿する前に多大な時間を費やして推敲を繰り返し、行きつ戻りつのような論理構成にならないように文章の構成を整え、意味が透明で判りやすく、斜め読みされても誤解されないように文章を書かなくてはならない。そのように前もって時間を費やしておく、すなわち文章構成に対する多大なオーバーヘッドを費やしておくと、査読者とのやりとりが短縮できて、すんなり掲載が許される可能性が増します。

また、査読者の誤解に基づいた批判に対しても、査読者の誤解を指摘するのではなくて、

「そのように誤解させてしまった文章を書いたことに気付かせてくれた査読者に感謝します」

というようなゴマスリのの表現を混ぜながら査読者とやりとりた方が良い。そしてどんなつまらない誤解でも、そのような誤解を招かないように文章の再構成するという、これまた別種のオーバーヘッドを加味したものを再提示します。そうすると査読者からの難癖が減ります。

その反対に、十分な推敲というオーバーヘッドなしで短時間で書き上げた論文を提示してしまうと、たとえその内容が正しく、さらに重要な発見であっても、査読者との不愉快なやりとりが続き、結局掲載の許可が降りるまでに多大な時間を費やさなくてはならない羽目になります。

私の経験では、内容が正しかった場合には、論文を書き始めてから掲載の許可が降りるまでの時間には保存則が成り立ちます。すなわち、はじめに十分推敲した時と推敲が不十分だった時とで、掲載が許されるまで同じぐらいの時間が掛かっていました。ただし、推敲が不十分だと査読者との喧嘩が長引き、さらに、掲載不可の裁定が降りやしないかとの不安に苛まれてしまいます。だから、推敲というオーバーヘッドを十分にしておけと若い研究者を指導しています。

要するに、高コスト高賃金で脳を使うと、こちらの言いたいことが誤解なくすんなりと相手に伝わり、余計な不安に苛まれずに済んで来たというのが私の経験です。
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この回答へのお礼

紫檀の木目

お礼日時:2019/06/04 10:50

あなたが きちんと自己表現するようになればよいだけ。

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この回答へのお礼

ほう。

お礼日時:2019/04/30 08:30

間違いとは思わないけど。


>のうはもう社会 つまり、脳も働き方改革の時代なんだ。

効率性ということを考えれば、オーバーヘッドは無駄かもしれない。
でも、そう簡単に自分の思考を言い表せないのも人間。
哲学自体が、そういうオーバーヘッドを課した分野なのではないか、とも言える。
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この回答へのお礼

だいたい言葉に拘る人って外国語で同じ内容書けるんですかね?
中身が重要でしょ
さらには相手に伝わること
相手が納得することあるいは納得しなくても変化してくれること
手段は日本語にこだわることじゃないとブラジュさんにも教えてあげて下さい
僕的には彼が変わらずにいる事を期待しています興味深い対象として

お礼日時:2019/04/30 08:32

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