親子におすすめの新型プラネタリウムとは?

ポリュビオスの政体循環論やキケローの国家論を見ても、古代のローマではあれだけ高度な政治制度論が議論されていました。
また、支配した領域では植民市、自治市、同盟市などパワーバランスを上手くコントロールしながら支配の安定性を図っていったと思います。そしてローマ帝国の時代、多民族を包括する世界帝国を建設するに至ったわけですが、ここで一つ疑問に感じたことがあります。
それは、なぜローマ帝国はこれだけ広大な領土・多民族を包括する国になり、かつ政治制度論に対して天才的な輝きを示していたのに、それが発展して「代議制」という仕組みの発明に至らなかったのでしょうか?

この場合、ローマは代議制を実践しなかっただけでなく、代議制の思想自体もついに思い至ることはなかったのでしょうか。
お詳しい方がいればお知恵を拝借したいと思います。よろしくお願い致します。

A 回答 (4件)

ひとつには「当時の社会技術では代議制が難しかった」と言う点があります。



ギリシャではすでに直接民主制を採用する都市国家もありましたが、これは徴兵と選挙権をどのように運営するか、という観点から「投票権を持っている人々が直接集まって決める」ことを優先したからです。逆をいえば「代議制」にすると「代議員を選ぶこと」「選ばれた代議員が仕事した結果を有権者に知らせること(そしてその結果でまた選挙で選ばれるかどうか決めること)」などを実行する技術がまだなかったからです。

ローマも王政を廃止後、王宮に残っていた官僚や貴族などを中心に直接民主制を捕っていた時期がありますが、近隣の都市国家をローマに編入させ、イタリア半島の半分程度をローマ化した時点で「直接民主制」自体が機能しなくなっていきます。

なぜなら直接民主制というのは「敵国と戦争をするか」などを決めるもので、徴兵に行く人々が直接多数決で決めているから有効になるものですが、イタリア半島の半分ぐらいをローマが指導するとなると「うちのポリスは戦争に反対だから兵を出さない」と言うことがゆるされなくなっていく、という事情があったからです。

したがって「戦争を含めた政治的な決断はローマにおいてのみ議論し決定する」ことになり「各都市の代議を受け入れる」と言うやり方にはならなかったからです。

これにはもうひとつ「元老院」の立場もありました。古代ではそもそも読み書きを習うだけでも大変でさらに「軍事指揮官として訓練を受けること」や「政治を行うだけの知識や経験」を得るためには特殊な階級が必要だったからです。
つまりほとんどの庶民は農民として勉強しないで働いて年貢を納め、一部の選ばれた特権階級が子供に教育を与えて政治や軍事の判断をする、というシステムを取らざるをえなかった、ということです。

つまり代議制にするために「誰でも立候補できる」というやり方を取ること自体が古代では不可能だったのです。
となれば各ポリスにおいて「議論に参加できる能力をもつ特殊階級」は全体の数パーセントしかいないことにもなり、庶民は「誰が政治家としてふさわしいか」を選ぶ情報も能力も無かったといえますから、元老院という「集団体制」ぐらいが民主制で実現できる限界でもあったのです。

またローマ領土がヨーロッパじゅうに広がる頃になるとローマ市民権として護民官の選挙権などやローマ貴族として元老院に出席できる地方部族の指導者階級も非常に広範囲に散らばっていることになります。
 この時点になるとすでに元老院による「広く集めた知恵」ですらローマ領域全体のモノではなくなったため、カエサルからアウグストスによる皇帝制へと変化していったのです。

現代のような代議士による間接民主制は少なくとも「紙があること」「選挙民が文字を読み書きできること」「情報を伝える新聞紙などのシステムが整っていること」が必要なのです。
 これらがほとんど無かった古代では直接民主制は可能でしたが間接民主制は実現自体不可能だったのです。
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そういう総論はほとんど意味がないです。



ローマは、王政、共和制、帝政と変化しますが、1000年続いた国家です。元老院ひとつとっても、名門貴族で占められた時代から、勝ち取った属州の代表にまで開放された時代もあり、名前が同じなだけで実態は変わっている。執政官や護民官も、時代ともに、選ばれ方も、権限も、全然意味が違う。

帝政は、カエサルが構想し、アウグストゥスが確立し、ティベリウスが頑強にした制度ですが、帝政の名前とはちがって、制度上は行政長であり、元老院や市民が承認してはじめて公式になる制度。市民の第一人者で、軍事の長で、終身護民官で・・・でも、法律を決めるのは元老院など。現在のアメリカの制度に、そっくりとも言えます。

ある面をとれば普通に代議制だし、詳細に現在の制度と比べると、そうではない・・・・と見えるだけ。

つまり、いつの時代の、何をもって、代議制云々を言うのかを上げないと、なんとでもいえる空論になります。
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王政ローマの反省から、執政官+元老院という組織が生まれ


執政官+元老院と庶民との乖離が起きた反省から護民官が生まれた

が、執政官+元老院+護民官という集団指導体制が、広大な領土と他民族国家という国の運営と
周辺国への対処(外交や戦争)に於いて機動的ではないというデメリットとか

訂正ローマへと転換していった

代議制に戻るためには、それなりの社会的な要請や環境の変化が必要だっただろう

変化が起こってないと言うことは、必要性がなかったと言うことだろう
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元老院という制度は、ある種の代議制でした。



もっとも貴方が言いたい『代議制』というのは、選挙によって民衆が投票して、という形式だけを想定しているのだと思いますが。
そもそも明治の選挙権の推移を勉強すれば分かる通り、たった100年ちょっと前の時代ですら、一定以上の納税をした男性にしか選挙権が無かったのです。

元老院のように、主に貴族が、パトリキと呼ばれる平民達を代表して元老院議員となり議会で議論する制度は、代議制であったと言って良いでしょう。それとは別に護民官という完全に直接投票で選ばれる役職もありました。

そもそもローマ帝国の以前にはギリシアのアテネ等の一部地域において直接民主制が機能していましたし、共和政ローマはギリシアの学問を良く勉強していましたから、そういう政体がある事は分かった上で、共和制ローマおよびローマ帝国は、そういう政体を選択しなかったのです。

本村 凌二さんの本を読んでみて下さい。
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