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形容動詞という品詞が学校文法(橋本文法)で設定されているため、広辞苑を除き各辞書もこれに従っている。このため、本欄での品詞に関する質問の回答者も辞書の解説の引用、並べ替えをもって回答しようとする人々がこの誤った品詞観に依拠し回答するため、混乱、混迷することになる。

日本語教育文法もまた、形容動詞観をもとに、「ナ形容詞」と呼び換え教育に当たっているため、こちらも同根である。一番の問題は、学校文法にあり、この誤った品詞観に悩まされ、卒業後もこれに呪縛されていることである。これは、一般人のみならず、言語、国語、文法研究者もこの誤りを引きずり思考している。

この根源は、形式主義/機能主義的な現在の言語論、文法論と骨がらみとなり、橋本文法の機能的な品詞定義と癒着しているため、ここだけ正すということが困難であることも大きく関係している。

しかし、これを放置することは、益々文法論の混迷を招くだけであり、本欄での回答の混乱、混迷に繋がっていく。

最近の事例に基づきこの混迷を指摘し、文法関連の回答者の意見を問うものである。

格好の事例が、≪「無意識{で/に}やる」「真面目{で/に}取り組む」≫である。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11208724.html

ここでは、<大前提として「真面目に取り組む」の「真面目に」が、形容動詞であっても、名詞であっても、大きな違いはない。ただ、この場合は形容動詞と考えるのが一般的ではないか、と思います。名詞と考える理由があるのでしょうか。>と質問されている。

これに対し、No.15の回答では、

>>真面目に」の品詞は
「真面目」だけでも使われますよ、このときの品詞は?、使い方が正しいかと言われれば確かに疑問もあります。形容動詞の活用語尾と断定の助動詞「だ」の活用の形が同じですね、なぜ同じなのかと考えてみる必要もありそうです。

>>形容動詞は非論理的な考え方で間違っている
これには、確かに同意しかねますね、これを言ってしまうと、個人的には動詞も否定する必要もありそうです
「姿・形」と「立ち居・振る舞い」、確か形容詞と形容動詞の違いを表す言葉だったと記憶しています。
形容詞はカメラで撮った静止画像で確認できます、実際は、硬い、やわらかい、・・視覚以外の五感で感じるものは画像では認識できませんが、五感が感じさえすれば認識できます/

と、形容動詞否定説に対し、論理的な根拠もなく、感覚的な回答、疑問と初歩的な品詞分類に対する謬見が披歴されている。

さらに、
>>ただ、言葉そのものは、動きに不可欠な時間そのものは表現できません、動詞でも同じです、動詞も形容動詞も動きについては概念を伝えるだけです。概念とは何だ?

と、言語表現の基本概念に対する無理解が示されている。

残念ながら、この程度の認識で文法の回答がなされ、議論されているのが現状である。

この疑問に正しく回答することが先ず第一で、その上で議論を進めないと最初の質問自体の回答には進めないのは明らかである。

①まず、「確かに同意しかねますね」という、形容動詞否定論とは何かを明確にしよう。

形容動詞説は、「綺麗だ」「平和だ」「健康だ」を一語とし、「だ」を活用語尾とするものである。しかし、活用語尾とは、次に続く語による語の形の変化であり、この変化により語の意義が変化するものではない。この点は、屈折語の屈折とは根本的に異なるところで、「be」が「is」や「was」に変化すれば、人称、時制の意義の変化を表すものである。

しかし、膠着語である日本語は「行く」が「行か」や「行き」に変化したところで「行く」に意義が加わり、意義が変化するものではない。単なる形の変化である。

「綺麗だ」と「綺麗に」は明らかに「綺麗」とは意義が異なる。「綺麗だ」は「綺麗」という属性表現の語に、判断辞「だ」が付加されたもので、判断の意義が加わっており、これを一語とするのは、日本語の単語の定義に反するものである。さらに、「綺麗が売りだ。」「健康が取り柄だ」の場合は、「綺麗」「健康」は実体認識を表しており、名詞である。つまり、「綺麗」「健康」が一語であり、形容詞と同じ属性認識を表す場合と実体認識としての名詞の場合があり、一語で、多義であることを無意識に認識し使い別けているのである。

②このように見てくれば、「個人的には動詞も否定する必要もありそう」でないことは明らかである。

「姿・形」と「立ち居・振る舞い」は連用形名詞の複合であり、形容詞、形容動詞とは無関係である。

③形容詞はカメラで撮った静止画像で確認できます

静止画像でなくとも、動画でも絵でも色は表現でき、この感性的な属性を概念化したのが語である。形容詞とは時間的に変化しない属性の表現であり、動詞とは時間的に変化する属性の概念化である。

あやふやな記憶を基に、曖昧な回答は混乱を招くだけでしかない。そして、この本来の質問者は辞書を盲信し、この引用、並べ替えが回答だと誤認し、それに気付いていない。

なぜなら、〔【「形容動詞は非論理的な考え方で間違っている。ナ形容詞が正しい」なんて、まともな日本語教師は言わないと思うよ。〕などとピンボケなコメントをしているのでも明白である。「まともな日本語教師」は形容動詞などという誤った品詞観を正さなければならないのである。

述べたいことは多多あるが、まずはこの点のご意見を伺えればと思います。■

質問者からの補足コメント

  • 先の質問のNo.13でも回答の通り、接尾語の「さ」で、「長さ」「軽さ」「良さ」「騒がしさ」「やりきれなさ」「男らしさ」「かたじけなさ」また「頑固さ」「大胆さ」「惨忍さ」「不思議さ」などと使用します。

    これは、属性の存在自体を独立の対象として扱うことが必要になり、しかも属性それ自体として把握して【質的】に扱う場合と、実体化・凝結化して把握して【量的】に扱う場合と二つが要求されていて区別して表現しなければなりません。

    前の場合の<接尾語>が「み」、後の場合の<接尾語>が「さ」です。
    「暖かみ」「暖かさ」「高み」「高さ30m」「重み」「重さ60Kg」「明るみ」「明るさ10ルックス」「可愛さあまって憎さが百倍」などと使用します。

    このように、属性表現の語である静詞に「み」「さ」が付加され、【質的】に扱う場合と、実体化・凝結化して把握して【量的】に扱う場合と二つの用法が生まれています。■

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/07/22 16:50
  • なお、静詞はNo.1のコメントで述べたように属性表現の語で、名詞ではありません。「真面目」も属性であり、それを実体化して量的に捉え表現する時に「真面目さ」と表現します。

    これを直接実体的に捉えた表現が、「真面目が取り柄」などの名詞としての用法です。

    対象を実体として捉え表現するのが名詞で、その属性を捉え表現するのが動詞、形容詞で、動詞は時間的に変化し発展する属性の概念化、形容詞は属性を静止し固定し変化しないものとして捉え概念化しています。

    学校文法の形式主義/機能主義的な品詞定義では、この辺も不明確で、時枝の品詞理解にも機能主義的な面があり、形容動詞語幹を名詞と決め付ける誤りを犯しています。■

      補足日時:2019/07/22 18:31
  • NO.6 への補足です。

    また、格助詞「で」は何を表し、判断辞「だ」の連用形「で」は何を表し、格助詞と同形の「で」が何故異なる意義を持つのかを明らかにすべきです。

    この点が、現在の辞書では曖昧で、混乱しているのは、先に指摘した通り「ので」の語釈を見てみれば明らかなことです。

    こういった点を指して『基本的な理解の誤りが根底にある』と指摘しているものです。■

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/07/23 15:19
  • 6.
    >>つまり「東京=着点」ということなのであって、~格助詞「に」が必要になる、というのがこの文の構造。

    何度も言いますが、文の構造や意味を問題にしているのではなく、格助詞「に」の意義を論じています。格助詞「に」がなくとも、「東京 行く」で、意味が伝わらないわけではありません。「行く」であれば「東京」が着点であることは判ります。

    https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/questio …

    で、「お見舞いに行きました
    上の文で助詞(に)の意味が知りたいです
    わかりやすく説明してくれると助かります」

    という質問が出るように、「お見舞い=着点」では回答になりません。

    7.
    >>様々な解釈に通底する意味があるのは当然と言えば当然でしょう。

    当然で、これが格助詞「で」「に」の意義です。
    #14へ

    No.13の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/07/25 22:46
  • >>「手段・条件」こそが思い付きではない正しい解釈である、ということを【論理的に】説明していただきましょう。できますか?

    これまでの説明で明らかと思いますが、若干疲れ気味なので別途とさせていただきます。

    >>お礼欄が短いと思うので回答欄をわけておきますね。

    御高配痛み入ります。

    >>判断辞「だ」とは、助動詞「だ」を指すと思われます。

    おっしゃる通りです。したがって、「綺麗だ」の「だ」は助動詞ということになります。

    >>「元気で」という連用形に格助詞「で」が絡んでいるのは明らかでしょう。※

    「元気で」という連用形ではなく、静詞「元気」という一語+格助詞「で」という一語の計2語の句であり、これを一語とすることは誤りだということです。絡むとは何を言われているのでしょうか。
    当方の提起を良く読んで下さい。
    また、活用とは何かを正しく理解して下さい。

    #15のお礼のことばへ

    No.14の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/07/25 23:49
  • 上の補足の続きです。

    膠着語である日本語は、屈折語と異なり、単純で裸体的な意義を持つ語を粘着し文を組み立てるもので、屈折語のように活用により意義が変化したり、加わったりするのではありません。

    しかし、「綺麗だ」は活用語尾とされる「だ」「で」「な」がそれぞれ意義を持ち、活用語尾ではなく一語です。従って、「綺麗だ」は二語であり、形容動詞という一語とするのは根本的な誤りということです。■

      補足日時:2019/07/25 23:54
  • どう思う?

    上記の補足です。
    1.
    もう少し判り易くするために「に」に関し次の質問をしておきます。

    東京【に】行く。
    大阪から東京【に】行きます。
    大阪から東京まで行きます。
    東京へ着くまで【に】なんとかして下さい。
    明日まで【に】提出して下さい。
    東京は日本のどこ【に】ありますか。

    これらの「に」の意義と、「から」「まで」の相違と関連を述べて下さい。

    2.
    素晴らしい舞台で、時間の経つのを忘れた。

    この舞台と時間は同じでしょうか。

    3.
    彼はとても元気だった。
    すっかり元気になった。

    「だ」「に」の意義を述べて下さい。■

      補足日時:2019/07/27 07:39
  • 少し、補足させていただくと形容動詞については、まずその定義が何であるのかをきちんと理解して下さい。

    そして、助詞、助動詞については、再三再四指摘しているように、付属語などという形式的な定義ではなくそれが何を表わすものであるのかを理解しない限り平行線をたどるしかありません。

    この点については、「付属語、自立語という誤り」のNo.1のコメントに主体的表現、客体的表現の定義を引用しておきましたので参照下さい。この内容が実感として理解できないと前に進めません。これが、ソシュールパラダイムを克服する第一歩なので、論理的に了解できるまで読み込まなければなりません。■

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/07/27 20:22

A 回答 (33件中11~20件)

#20です。


#23からの続き。

3.
>「だ」「に」の意義を述べて下さい。

h.彼はとても元気だった。

助動詞「だ」については、
➊([活用]だろ/だっ・で・に/だ/な/なら/○)
「にてある」から「である」、「であ」、「だ」と転じて室町時代に成った語で、関西の「じゃ」に対して関東で盛んとなった。断定を表す。(広辞苑)
となっており、

「にて」に関しては、
㊀《格助詞》文語。{格助詞「に」に、本来は接続助詞である「て」がついたものか。体言につく}
(場所や時あるいは)事態を示す。…にあって。
◆此歳この身分にて叶ふべきにあらず、〔樋口一葉・たけくらべ〕(学国)
という記述がある。

・「元気だ」⇒元気(名詞)+格助詞「に」+接続助詞「て」+「ある」⇒元気(名詞)+格助詞「で」+「ある」⇒元気(名詞)+助動詞「だ」

という構造。
基本的に

・元気(名詞)+助動詞「だ」

と捉えてよいのではないかと思います。
「元気」が形容詞性名詞であるのは誰の目にも明らかですが、その思いが強すぎて、いっそのこと形容動詞とするほうが良かろう、と考える人もいるということ。

i.すっかり元気になった。

助動詞「なり」には、
◆格助詞「に」に文語動詞「あり」の付いた「にあり」の転。(明鏡)
という注釈がある。
このことから、

・「元気なり」⇒元気(名詞)+格助詞「に」+「あり」⇒元気(名詞)+助動詞「なり」

という構造であることがわかる。
この場合、「元気」を単なる名詞とは区別して「形容性名詞」と捉える考え方があってもまったく不思議ではなく、そこから形容動詞という発想が生まれたのでしょう。

⇒形容動詞「元気なり」

の誕生です。
つまり、「(元気)に」は格助詞でもあり、助動詞連用形でもあり、形容動詞連用形でもある。
血がつながっているのだから親戚同士でいがみ合っても不毛である、ということ。
因みに、助動詞も形容動詞も「ナリ活用」をすると考えて良いと思います。

・すっかり、着点としての「元気という状態」に至った。

という意味。
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#20です。


#22からの続き。

2.
>この舞台と時間は同じでしょうか。
g.素晴らしい舞台で、時間の経つのを忘れた。

違いますね。
「舞台」=演劇・音楽・舞踊などを演じるために設けられた場所。また、そこで行われる演技・演奏。(明鏡)
「時間」=〔空間と共に、種種の現象が生起する舞台であるが、空間と異なり 時間は 一つの方向にわれわれの所を過ぎ去って行くように 意識される〕。(新明解)

・素晴らしい演奏だったので、通常は意識するはずの [ 空間と共に、過ぎ去っていくように意識される種種の現象が生起する舞台 ] を意識することを忘れた。

という意味。
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この回答へのお礼

#25~6です。

丁寧な応答をありがとうございます。

私見を記させていただきます。

>>『「に」自身に方向の意義』がある、と誰がどこで言ったのです

着点とは、始点→着点という方向を含む認識です。
小学生(には無理で中学生か?)でも理解できるはずですが?

>>「向かう先」が異なるのだ、ということは理解したのではないんですか?

そんなことは最初から言っている通りです。
「に」が着点を表わすと言うため混乱しているだけです。
何度言えばわかりますかね?

>>『「舞台=場所」は了解です。でも時間、時刻ではありません。』という発言は取り消しますか?

<「舞台=場所」≠時間、時刻>は、小学生でも理解できるはずですが?

>>という構文に着目することで「に」の意義が明らかになる。
という点には反論なさらない、つまり、お認めになる、ということなんですね?

以前にも指摘していますが、抽象の過程を理解しましょう。明らかになる過程と、結果は区別しなければなりません。時枝も陥っている欠陥ですが、

>>「5時という着点に至った時に始まる」

始るのが着点?
日本語大丈夫ですかというレベルです。
小学生(には無理で中学生か?)でも理解できるはずですが?

>>「学生=学校の生徒」です。

ですよね、だから、「で=手段、方法」ですよね。
日本語に対する基本的な理解ができていないようです。

6.
>>文が違うのですから、表わすものが違って当然では???

なのに、同じ「で」が使用されるのは何故かということですが。

7.
>>これが経緯です。

その通りです。

>>これもおかしいですよね?

可笑しいのは、形容動詞の定義と単語とは何かという基本的な理解ができずにとやかく言っていることです。

9.
>>「元気な」の「な」は、助動詞「なり」の連体形ではない、とおっしゃるのですか?

「な」は、助動詞「なり」の連体形で、「元気な」という形容動詞の活用語尾ではないということです。
この基本的相違が理解できていません。
活用語尾とは何かを正しく理解しましょう。

10.
>>どんな誤謬が生じるのか?

それを問題提起していますが、それを理解せず、自己の思い込みを語られても単なる趣味の問題、言葉遊びに帰してしまいますよ。■

お礼日時:2019/07/28 08:16

#20です。


補足拝見。

1.
>もう少し判り易くするために「に」に関し次の質問をしておきます。
これらの「に」の意義と、「から」「まで」の相違と関連を述べて下さい。

意義はひとつでは?
『「(これ)ら」の意義』というものはありません。
ただ、おっしゃりたいことはわかるので、それに拘って先に進まない、なんてことはわたしはしません。

「に」の意義は【着点を表わす】です。
「から」の意義は【起点を表わす】です。
「まで」の意義は【限度・範囲を表わす】でしょう(たぶん)。

a.東京【に】行く。
⇒「に」=着点としての場所を表わしている。
・到着場所(着点)としての東京に行きます。
という意味。

b.大阪から東京【に】行きます。

「から」=起点としての場所を表わしている。
「に」=着点としての場所を表わしている。
・大阪を起点として、到着場所(着点)としての東京に行きます。
という意味。

c.大阪から東京まで行きます。

「から」=起点としての場所を表わしている。
「まで」=限度としての場所を表わしている。
・大阪を起点として、東京(という地域的限度)を超えない場所まで行きます。
という意味。
それ以上東に行くわけではない、というニュアンス。

d.東京へ着くまで【に】なんとかして下さい。

「まで」=範囲としての時間を表わしている。
「に」=着点としての状況(場面)を表わしている。
・『現時点から「東京へ着く時刻」』という範囲内に、「何とかする」という動作が着地する(完了する)ようにしてください。
という意味。
「に」は、【『現時点から「東京へ着く時刻」』という範囲】が、「何とかする」という動作の、着点としての状況であることを表わしている。

e.明日まで【に】提出して下さい。

「まで」=範囲としての時間を表わしている。
「に」=着点としての状況(場面)を表わしている。
・『現時点から「明日」』という時間的範囲内に、「提出する」という動作が着地する(完了する)ようにしてください。
という意味。
「に」は、【『現時点から「明日」』という時間的範囲】が、「提出する」という動作の、着点としての状況であることを表わしている。

f.東京は日本のどこ【に】ありますか。

「に」=着点としての場所を表わしている。
・東京の存在場所を探っていくなら、着点として日本のどこに到達しますか?
という意味。
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この回答へのお礼

再々の応答有難うございます。

私見を記させていただきます。

>>「に」=着点としての状況(場面)を表わしている。

では、起点、始点は何、どこ?でしょうか?

>>「提出する」という動作の、着点

では、起点、始点は何、どこ?でしょうか?

>>着点として日本のどこに到達しますか?

では、起点、始点は何、どこ?でしょうか?

>> [ 空間と共に、過ぎ去っていく

「時間と共に」の誤りでは?

>>助動詞「だ」については、

断定、つまり肯定判断を表わします。

>>「にて」に関しては、

「に」の意義を問題にしているのであり、「て」は確認の助動詞です。

>>・元気(名詞)+助動詞「だ」
と捉えてよいのではないかと思います。

元気は名詞ではなく、人である彼の属性表現の語です。「形容性名詞」という造語は誤りです。
二語とするのは正しいのですが、それはつまり(一語と捉える)形容動詞という品詞の否定です。

>>「(元気)に」は格助詞でもあり、助動詞連用形でもあり、形容動詞連用形でもある。

品詞区分の否定です。区分する意味がなくなります。

>>着点としての「元気という状態」に至った。

まあ、下手な比喩表現というレベルです。■

お礼日時:2019/07/27 20:43

#20です。


お礼欄用コメント。
今日も暑いですが、台風は何とか避けられそうです。

私は回答者ではありますが、基本的に教えていただく立場と思っています。
疑問点を挙げた際には、論点に沿って的確に答えていただきますようお願いします。
そうでないと浅学の身としては理解が難しくなる可能性がありますので。
初歩を知らない者に、いきなり本質【だけ】を説いても通じませんよね?
初歩に関する質問に答えられないまま本質を説いても、誰にも信用されませんよ。
一歩づつ外堀から埋めていかれるよう希望いたします。
また、間違い勘違いにお気づきになった場合は素直に認めてください。
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この回答へのお礼

9.
>む?むむむ?どゆこと?(笑)

む?むむむ?どゆこと?(笑)
形容動詞とは何かを理解せずにあれこれ言っても始りません。問題提起で次のように記しています。きちんと理解して下さい。

①まず、「確かに同意しかねますね」という、形容動詞否定論とは何かを明確にしよう。

形容動詞説は、「綺麗だ」「平和だ」「健康だ」を一語とし、「だ」を活用語尾とするものである。しかし、活用語尾とは、次に続く語による語の形の変化であり、この変化により語の意義が変化するものではない。この点は、屈折語の屈折とは根本的に異なるところで、「be」が「is」や「was」に変化すれば、人称、時制の意義の変化を表すものである。

、もう少し判り易く説明すると、<形容動詞>という品詞は、「元気だ」を一語とし、「元気」をその語幹とし、「だ」を単語ではなく活用語尾とするものです。

>>「元気な」の「な」は、どんな『一語』なのですか?
助動詞「なり」の連体形ではない、とおっしゃるのですか?

「な」は判断の助動詞「なり」という単語の連体形「なる」か「な」に転成したものです。
以前から説明していると思いますが。

なので、「元気な」は「元気」という単語+「な」という単語の二語であり、形容動詞という一単語ではないということです。

理解、いただけましたでしょうか。■

お礼日時:2019/07/27 19:22

#19です。



1.
(「先生に褒美をもらう」)
>受け取ったのが生徒なので、始点は「先生」です。「私(生徒)」からどこへ行ったのですか。

繰り返しになりますが、物(褒美)に着目してしまうため誤謬につながっています。
「に」についての論議ですから、「に」の係る先(=もらう という動詞)に着目しないと意味がありません。
この点については意外かもしれませんが文化庁<敬語の指針>16ページがご理解に資すると思われます。
ただ、どうしても物に目先を奪われがちなのはよくわかります。
先にお示しした敬語の指針でも「動作の向かう先」という概念の難しさをわかっているからこそ、あえて下記のような注釈を載せているわけです。
下記に再掲しますので、素直な気持ちでじっくりお読みになってください。
この説明が理解できるなら、わたしの申し上げている意味もわかっていただけるものと思います。

ご存知でもありましょうが、謙譲語1の定義は「相手に向かう自分側の行為をへりくだって表現することで相手に敬意を表わす」です。
その上で、下記のような記述があります。
※ 「先生からご褒美をいただく(もらう)」という場合、 「もらう」という行為について見れば「先生」は「出どころ」ではあるが、「もらう」という側から見れば、その<向かう先>である。※

2.
>付け加えるためには、「に」以外の要素に触れることになります。つまり、「に」自体の意義ではないということです。

「に」の意義が着点を示すであることに触れるのは間違いである、というご見解は、まったく理解できませんね。

3.
>「共に」ということは、異なる要素について述べるのであり、同一であれば「共に」とは言いません。
この程度の理解ができませんか?

何をおっしゃっているのか、ご自分でわからなくなっていませんか?
誰が同一であると言ったのですか?
論点が明確になるような形で質問しているのですから、捻じ曲げないで素直に答えてください。

「時間」
・空間と共に、種種の現象が生起する舞台(広辞苑)

この語釈は、

・時間は、(空間と共に、)種種の現象が生起する舞台である。

という意味ではないのですか?
つまり、

・時間は舞台である。

という意味ではない、とおっしゃるのですか?

4.
(「に」の意義を明らかにするためには、)
>[ 「に」の係る先 ] に着目する必要がありますよね?
⇒「に」の前の要素に注目しているのではないですか?「東京」「先生」

「~に行く」
「~にもらう」
という構文に着目することで「に」の意義が明らかになるのでは?
「~」部は何でも良いかと。

5.
>ニュアンスはどうでもいいので意義と意味の関係を論じて下さい。

「会議が始まって時刻が進んでいき、5時という着点に至った時に終わります」という意味になる。
と言い換えても構いませんよ。
これなら理解できますか?

6.
>誰も「で=客体」などと言っていませんよね?
⇒手段、方法も客体の概念化ですが。

わからんお人ですなあ。(笑)

・誰も「で=手段、方法」などと言っていませんよね?

と言い換えても構いませんよ。

・「で」=「拠り所」「手段、方法」を表わす。

と言っている、ということです。
「表わす」という日本語の意味から勉強し直してください。

7.
>「家で仕事をする」という文においては、「拠り所=空間的場所」
⇒そうですね。「で」自体の意義ではなく、文の意味を言われていますよね。

「で」の意義⇒「(動作の)拠り所」を表わす。
従って、この文における「で」は、「(「する」という動作の)拠り所=空間的場所=家」を表わす。
極めて自然で当たり前の論理かと。

8.
>活用語尾とは言ってませんが?
⇒では単語ですよね。

単語じゃないと、どの箇所を見て思われたのですか?

9.
>「(元気)な」は「(元気)なり」の連体形じゃないのですか?
⇒ちがいます。それは、「なり」が活用語尾だということです。。

む?むむむ?
どゆこと?(笑)
形容動詞をお認めになるのですか?

『「綺麗だ」は活用語尾とされる「だ」「で」「な」がそれぞれ意義を持ち、活用語尾ではなく一語です。』
と補足でおっしゃってますよね。
「元気な」の「な」は、どんな『一語』なのですか?
助動詞「なり」の連体形ではない、とおっしゃるのですか?
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

毎回丁寧な応答を有難うございます。

1.
>>謙譲語1の定義

なので、「に」と直接関係ありません。当然というだけです。

>>「もらう」という側から見れば、その<向かう先>である。※

当然というだけです。
「に」が着点だといいたいために方向を云々されていますが、最初から言っているように「に」自身に方向の意義はありません。先の質問の通り、

「東京から、大阪まで行く間に食べよう。」では、始点、着点は「から」「まで」が表わすのであって、この「に」は「間」を位置付けて表現しているだけです。

2.
>>「に」の意義が着点を示すであることに触れるのは間違いである、というご見解は、まったく理解できませんね。

1.の質問文でも判る通り、「に」が着点や方向を表わすのではないということです。個別の文の意味として触れるのは間違いではありませんが、「に」の意義だというのが間違いということです。


3.
>>
・時間は、(空間と共に、)種種の現象が生起する舞台である。
という意味ではないのですか?

この文自体は正しい表現ですが、時間=空間ではなく、比喩表現だということです。

4.
>>「~」部は何でも良いかと。

変節ですね。以前は、しきりに、「東京」「先生」「生徒」を論じられていましたが。

5.
>>「会議が始まって時刻が進んでいき、5時という着点に至った時に終わります」という意味になる。
と言い換えても構いませんよ。
これなら理解できますか?

では、「5時に会議が始ります。」の場合は、「終わります」ではなく、「始る」なので、始点ですよね。

6.
>>・「で」=「拠り所」「手段、方法」を表わす。

わからんお人ですなあ。(笑)
「で=手段、方法」と言っていますよね。<「学生]=[学校の生徒を表わす。]>、つまり「学生=学校の生徒」です。

7.
>>「で」は、「(「する」という動作の)拠り所=空間的場所=家」を表わす。

わからんお人ですなあ。(笑)
この文ではそうですが、「べんで書く。」の「で」が、「(「書く」という動作の)拠り所=空間的場所=家」を表わしますか。ペンで書くのは、文字、そして紙やノート【に】書きます。

8.
>>単語じゃないと、どの箇所を見て思われたのですか?

「活用語尾とは言ってませんが?」です。語尾でなければ、単語ですよね?

以下、#21

お礼日時:2019/07/27 19:20

#15、#16です。



1.
>「A=先生」「B=生徒」で、「先生にもらった」は物の始点A、動作の発生した源はAを特定する表現です。

「に」の係る先、つまり述部に着目しないと「に」の意義を述べることはできません。
「もらった」という動作自体は、あくまで「私(生徒)の側」に発生したものである点にご留意ください。
つまり、「もらった」という動作の始点は「私(生徒)」なのです。
しかし、「もらう」という動作は「私(生徒)」が一人で発生させることはできません。
誰かがくれないと発生しない。
そこで、誰がくれたのかと源を辿っていく必要が生じます。
すると「先生」という人物に辿り [着き ] ます。
つまり、

「もらった」という動作(の源)は先生に辿り着きます。

という意図で、

「先生にもらった」

と表現するわけです。
【「もらった」という動作】に着目する場合、「先生」は、「もらった」という動作主の私から見てあくまで着点であり、始点ではありません。
【物の移動】に着目したければ、

「先生からもらった」

と起点の格助詞「から」を使います。

「先生にあげました」の場合、「あげた」という動作は「私(生徒)」が一人で発生させたものなので源を辿る必要はありません。
誰にあげたのかと、その動作の先を辿っていけば、先生に辿り着きます。
という単純な構図です。

2.
>「に」自体は方向を指しているのではありません。

そうですね。
「あげる」という動作の方向が辿り着いた先、つまり着点が「先生」であることを示しています。
「移動する方向を指す」ではなく「移動する先を指す」でしょう。

3.
>・どのような『空間的な位置付け』かというと、それは【着点という位置づけ】である。
というのが格助詞「に」の意義なのです。
⇒というのは誤りです。

・「に」は空間的な位置付けの【認識】を表わす。

これだけで「に」の意義(本質)は完結しているとおっしゃるのですか?
どんな位置づけなのかについて付け加えるのは間違いだと断言されますか?

4.
a.
>「時間」
・空間と共に、種種の現象が生起する舞台(広辞苑)
⇒空間と「共に」とあるように、空間と「時間」とは別と認識されていということです。

この広辞苑の語釈を、

・時間は、(空間と共に、)種種の現象が生起する舞台である。

と解釈するのは間違いだとおっしゃるのですか?

b.
>舞台ではなく、時刻の表現で、何故、意味、意義ではなく何故趣旨?舞台を持ちだすこと自体?です。
:
「時間」
・空間と共に、種種の現象が生起する舞台。
という広辞苑の語釈と【(会議は5時に)終わります。】という文の関係性について、再度照合してみてください。
そんなに難しいこととは思われませんが。

5.
>「本」や「会議」に着目してしまうと誤謬につながる。
⇒hakobulu サンがどこに着目しようと自由ですが、話者は「本」や「会議」に着目しています。

繰り返しになりますが、「に」について論議していることをお忘れのようです。
[ 「に」の係る先 ] に着目する必要がありますよね?

6.
>その舞台が「訪れる」のは5時という時刻に達したときである
⇒新たな、戯曲を作られるのでしょうか。「会議はいつ始りますか?」という戯曲を作成して下さい。
<・「会議が始る」という現象が生起する舞台は5時に訪れる。>のは確かですが、それは会議の「始り」の舞台です。

重要なのは、発話が常に現時点でなされているという点です。

「会議は5時に終わります」の場合は、すでに会議が始まっている状態を想定して答えるため、「会議が始まって時刻が進んでいき、5時という着点に至った時に終わります」というニュアンスになる。

「会議は5時に始まります」の場合は、まだ始まっていない状態を想定して答えるため、「時刻が進んでいき、5時という着点に至った時に始まります」というニュアンスになる。

7.
>「会議は5時に始ります。」の<「に」は「(着点としての)場所を表わす>と教えては、外人の日本語学習者には理解不能です。

少なくとも、

<「に」は空間的時間的な位置付けの意識>

よりは分かりやすいと思いますが。
まあ、見解の相違なのでしょう。

8.
>「ペン」なら手段・方法ですが
⇒ここも、微妙なところですが、手段・方法自体を表わすのではなく、対象を手段・方法として捉えているということを表わしています。
「助詞は客体を表わすのではありません。この根本的なところが理解できないのがパラダイムの呪縛です。」というところを深く考えて下さい。

助詞「で」が客体を表わす。

という日本語の意味をよくお考え下さい。
誰も「で=客体」などと言っていませんよね?
パラダイム云々以前の問題です。

9.
>◎「家で仕事をする」という項目で述べている
⇒これは、個別の項目、文で、格助詞「で」の意義を問題にしており、個別の項目、文の意味から語の意義を抽象しなければなりません。

ですから、それは「拠り所」であると申し上げたはずですが?
「家で仕事をする」という文においては、「拠り所=空間的場所」であると言っているだけ。

10.

まず、「元気」という漢語の場合、その変化形に関して、
(ア) にあり⇒助動詞「なり」(元気なり)
(イ) にてある⇒である⇒であ⇒助動詞「だ」(元気だ)
という2つのパターンを想定して良いと思われます。
⇒その変化とは何を言われているのでしょうか。「なり」は判断の助動詞として一語であり、活用語尾ではないと最初から指摘していますが。

活用語尾とは言ってませんが?
「なり」は終止形(基本形)なのですよね。
「(元気)な」は「(元気)なり」の連体形じゃないのですか?

11.
>金田一の結論は、【活用の形態が一つしかない不変化助動詞「う」「よう」「まい」は、話者のその時の心理の主観的表現である】というものですが、ここに、hakobulu サンと同じ、規範としての語の意義と文の意味の混同があることがお判りになるでしょうか。

現時点では無理っぽいですね。(笑)
山頂に一歩づつ近づきたいのですが、途中ですいかを食べようとすると、案内役が「すいかを果物というのは間違いで野菜と言わないとならない」などと、明らかに関係のないことでごねるので、うまく先に進めていない状況ですかね。(笑)
認めるところは認めていただかないと、「であれば~~~」というように先に進むことができません。
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この回答へのお礼

丁寧な応答を有難うございます。
一応、見解を下記させていただきます。


>>「もらった」という動作の始点は「私(生徒)」なのです。

受け取ったのが生徒なので、始点は「先生」です。「私(生徒)」からどこへ行ったのですか。

>>述部に着目しないと「に」の意義を述べることはできません。

だから、個別の文の解釈に過ぎないし、その解釈も誤っているということです。

2.
>>つまり着点が「先生」である

着点は方向を表わします。

3.
>>どんな位置づけなのかについて付け加えるのは間違いだと断言されますか?

付け加えるためには、「に」以外の要素に触れることになります。つまり、「に」自体の意義ではないということです。

4.
a.
>>・時間は、(空間と共に、)

「共に」ということは、異なる要素について述べるのであり、同一であれば「共に」とは言いません。
この程度の理解ができませんか?

>>[ 「に」の係る先 ] に着目する必要がありますよね?
「に」の前の要素に注目しているのではないですか?「東京」「先生」

b,
>>文の関係性

語の意義について論じているのですが。

6.
>>ニュアンスになる

ニュアンスはどうでもいいので意義と意味の関係を論じて下さい。

8.
>>誰も「で=客体」などと言っていませんよね?

手段、方法も客体の概念化ですが。

9。
>>「家で仕事をする」という文においては

そうですね。「で」自体の意義ではなく、文の意味を言われていますよね。

10.
>>活用語尾とは言ってませんが?

では単語ですよね。

>>「(元気)な」は「(元気)なり」の連体形じゃないのですか?

ちがいます。それは、「なり」が活用語尾だということです。。

活用とは何かを最初の提起で触れているので、きちんと理解して下さい。この、根本的な所を曖昧に理解していては話しになりません。■

お礼日時:2019/07/26 22:56

#17です。


一部だけ修正しようとずぼらをかましたばかりに間違いました。
以下のように再訂正いたします。

×
>アスb.⇒対象自体の物の移動は「先生→生徒」で変わりません。

焦点を当てるべきは、『対象自体の物の移動』なのですよ。
主格である私の「もらった」という動作の向かう先(動作の源)を空間的に始点と位置付ける意図が無意識的に発生するため、格助詞「に」を使うわけです。


>アスb.⇒対象自体の物の移動は「先生→生徒」で変わりません。

焦点を当てるべきは、『対象自体の物の移動』ではありません。
主格である私の「もらった」という動作の向かう先を、「動作の源」である着点として空間的に位置付ける意図が無意識的に発生するため、格助詞「に」を使うわけです。
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この回答へのお礼

#17より

ご参考

「金田一春彦(1953)不変化助動詞の本質:主観的表現と客観的表現の別について」

https://hjl.hatenablog.com/entry/2018/09/12/090000

「大木 一夫」

https://www.sal.tohoku.ac.jp/jp/research/researc …

「マイケル・トマセロ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4 …

お礼日時:2019/07/26 20:28

#16です。


読み返していて訂正があります。

×
2~~
焦点を当てるべきは、『対象自体の物の移動』なのですよ。


2~~
焦点を当てるべきは、『対象自体の物の移動』ではありません。
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この回答へのお礼

色々応答いただきありがとうございます。

色々、批判がましいことを述べ失礼致しております。

現在の言語学が形式主義/機能主義のパラダイム下にあることを論じていますが、現在纏めようとしているのが、金田一春彦が昭和28年に『国語国文』(22-2, 3)に発表した「不変化助動詞の本質:主観的表現と客観的表現の別について」という論文の批判です。これは、現在も、大木一夫(2012.9)「不変化助動詞の本質、続貂」『国語国文』(81-9)が、「この論文は、日本語文法論の金字塔といっても過言ではない。」などと絶賛していますが、その内容を見ると、正にhakobulu サンと同じ発想をしています。

金田一の結論は、【活用の形態が一つしかない不変化助動詞「う」「よう」「まい」は、話者のその時の心理の主観的表現である】というものですが、ここに、hakobulu サンと同じ、規範としての語の意義と文の意味の混同があることがお判りになるでしょうか。「う」「よう」「まい」とは単語で、その意義は規範としての辞書に記されるものです。しかし、「話者のその時の心理」は個別の話者の概念認識に対応する文に表わされるものです。この結論は、これを同一のものとして混同する言語実体観の発想です。

先の大木一夫は現在、大学院文学研究科・文学部 日本学専攻 日本語科学講座 日本語学分野所属の教授ですが、この点に気付くことなく先の賛辞を呈しているのが現状です。

如何に、形式主義/機能主義のパラダイムが強固で、避けがたいかが御理解いただけると思います。

これは、何も日本だけの問題ではなく欧米もまた同根で、アメリカ合衆国の認知心理学者。ドイツ・ライプツィヒのマックス・プランク進化人類学研究所の所長であるマイケル・トマセロ(Michael Tomasello、1950年1月18日 - )も、「共同注意(ジョイントアテンション)を初めとする社会的・コミュニケーション的な側面の果たす役割の重視を特徴としている。」ように、言語規範を捉えらえないお粗末な理論を展開しています。

このような現状ですので、落ち込まずに、三浦つとむ『日本語はどういう言語か』他を熟読いただき、世界の最先端へ向けパラダイム転換を図られんことを願っております。/

→#18のお礼欄へ

お礼日時:2019/07/26 20:26

#13、#14です。


まず、冒頭に申し上げますが、度重なる真摯なご返信に心より感謝申し上げております。
浅学の素人相手で何かとご迷惑をおかけしていることと存じます。(笑)

また、こちらも大事な点ですが、ご返信は本当にまったく急ぎませんので。
当回答に対するご返信も、いつでも構いませんし、また、特に返信なさらなくても差し支えありません。
一旦、収束という形をとって、気の向かれたときにでも、別質問として立てていただくなども一法かと存じます。
まったく問題ありません。
今回とりあえずということで、形だけ応答させていただくことにいたします。

1.
>「行く(という動作)」が、始点から【着点】への移動を表わしている。

始点から【着点】への《物(動作ではなく)》の移動なので、正しい日本語です。それを言うのであれば、「動作の移動先」ではなく、「動作による移動先」が正しい日本語です。

『それを言うのであれば、』と他人事のようにおっしゃいますね。(笑)
まあ、それはどうでも良いですが、『《物(動作ではなく)》の移動なので』というのは誤った認識です。
「動作の移動先」がお気に召さなければ、「動作の向かう先」とお考え下さい。
「動作の向かう先」であれば「始点」にはなり得ないだろう、とお考えになるかもしれませんが、そもそも「もらう」というのは誰かの「くれる」という動作の結果として発生するものです。
「もらう」という動作の発生した源を特定する、というような意味に捉えていただくとよいでしょう。

2.
hako⇒「先生から本をもらった。」「先生に本をもらった。」~どちらも先生が始点とのことですが、この両者の違いは何ですか?
>アスa.⇒「から」と「に」の相違で、「から」は始点としての【認識】を表わし、「に」は空間的な位置付けの【認識】を表わします。

そのとおりです。

・どのような『空間的な位置付け』かというと、それは【着点という位置づけ】である。

というのが格助詞「に」の意義なのです。
「から」にしたって、
・空間的な位置付けの始点としての【認識】を表わすのですよね?
「に」の場合だけ、
・空間的な位置付けの【認識】を表わす。
という説明は不合理でしょう。

>アスb.⇒対象自体の物の移動は「先生→生徒」で変わりません。

焦点を当てるべきは、『対象自体の物の移動』なのですよ。
主格である私の「もらった」という動作の向かう先(動作の源)を空間的に始点と位置付ける意図が無意識的に発生するため、格助詞「に」を使うわけです。

3.
>動作の方向は「先生が生徒に本を渡す」『先生→生徒』でしかありません。それ以外に何があるのでしょう?

詳しくは上ですでに述べましたので繰り返しませんが、物の移動ではなく、動作の向かう先(動作の源)とお考えいただけばご納得いただけると思います。

4.
>「舞台=場所」は了解です。でも時間、時刻ではありません。

「時間」
・空間と共に、種種の現象が生起する舞台
という広辞苑語釈を前提にして申し上げたところですのでご確認を。

5.
>【会議は5時に始ります。】は、5時を始点とする会議で、【会議は5時に終わります。】は5時を終点(着点)とする会議です。時計の針の動きを表現しているのではなく、会議について述べています。時間というか時刻の表現です。何故、突如時計の針が出て来るのか?です。

そもそもですが、格助詞「に」について論議しているのですから、その「に」が係る先、つまり、
「(先生に本を)もらった。」
【(会議は5時に)終わります。】
に着目する必要があります。
「本」や「会議」に着目してしまうと誤謬につながる。

「会議はいつ終わりますか?」と尋ねられた場合、我々は「何時間後かに訪れるはずの終了時刻」について、「それはいつだったか?」と無意識的に思い出そうとします。
【(会議は5時に)終わります。】と答える場合、

・「会議が終わる」という現象が生起する舞台は5時に訪れる。

という趣旨があります。
その舞台が「訪れる」のは5時という時刻に達したときである、つまり、5時という時刻を着点として示す意図で【(会議は)5時に(終わります。)】と表現するわけです。

6.
hako⇒格助詞「に」の意義を正しく説明すると、どういった内容になりますか?
アス⇒いまさら、何を言われているのでしょうか。健忘症でしょうか。

若いころに比べると物覚えは確かに悪くなったかもしれませんね。(笑)
ただ、「に」の意義についてのアスナロウさんのご主張が<空間的時間的な位置付けの意識>であることは、何とか覚えています。
しかし、今回、改めて確認させていただいたのは、私の主張が外人の日本語学習者には理解不能である、というご自身の批判を受けてのものです。つまり、

<「に」は空間的時間的な位置付けの意識>
というアスナロウさんの説明のほうが、
<「に」は(着点としての)場所を表わす>
という私の説明よりも、外人の日本語学習者にとってわかりやすい表現だとおっしゃるのですか?
とお尋ねしたわけです。

7.
〉「お見舞いに行きました
上の文で助詞(に)の意味が知りたいです
わかりやすく説明してくれると助かります」
という質問が出るように、「お見舞い=着点」では回答になりません。

下記のような補足説明は必要になりますが、十分回答になりますし、これこそが本質です。以下に模範解答を示しておきましょう。(笑)

『お見舞いに行きました』
「に」は(着点としての)場所を表します。
因みに「場所」とは、「何かが、その上にある(で行われる)と認められる広がり(広辞苑)」を意味する。
例文の場合、「お見舞い」という行為内容が、「行く」という動作の着点であることを表わしています。
行く先に「お見舞い」という着点がある。
「お見舞い」が着点であるのは、それが「行く」という動作の目的であるからに他ならない。
「お見舞い」が目的であることを示すため、「お見舞い」を着点として位置付けているわけです。
着点として位置付ける意図で、格助詞「に」を使って表現している。

8.
>「ペン」が「拠り【所】」でないのは明確でしょう。再三、再五指摘しているように、助詞は客体を表わすのではありません。この根本的なところが理解できないのがパラダイムの呪縛です。

都合の良い例のみを挙げておられますが、「元気ですごす」が手段・方法じゃないことも明らかでしょう。
「ペン」なら手段・方法ですが、手段・方法の本質こそ、まさに「拠り【所】」なのです。「条件」と言っても良いでしょうが。
こうした本質としての無意識に気づけるかどうかということです。

9.
hako⇒どうも文脈を把握するのが苦手のようですね。
アス⇒文脈や文の意味を問題にしているのではなく、格助詞「で」の意義を問題にしており、文、文脈の意味から語の意義を抽象しなければなりませんが、抽象とは何かが理解されていないということです。

またまた文脈を把握しておられないようです。
そんなことは言ってませんよ。

(ペンで書く・元気ですごす)などではなく、
◎「家で仕事をする」
という項目で述べていることがおわかりならないのですか?

と申し上げたはずです。

10.
>思い付きは大切ですが、それが論理的に実証される必要があります。全く、実証がなされていません。前提となる論理が俗流の発想に過ぎないからです。

論理を理解するある程度の能力が聞き手には必要になるでしょうね。
あとは想像力でしょうか、自らの無意識に対するところの。
これは個人差がありますので、ある程度は致し方ない面もあります。

11.
>辞書編纂者の感覚の相違があるだけ
⇒感覚の相違ではなく、論理が誤っているということを指摘しています。

論理というものは、ある感覚を論理的に説明するためにも使われます。
多様な編纂者が、それぞれの感覚を、それぞれの立場で論理的に語っているのが辞書です。
つまり、それを論理的であると思うか否かは、結局のところ感覚に帰す、ということです。

12.
>これまでの説明で明らかと思いますが、
>「元気で」という連用形ではなく、静詞「元気」という一語+格助詞「で」という一語の計2語の句であり、これを一語とすることは誤りだということです。絡むとは何を言われているのでしょうか。
>『語とは何か、自立語、付属語の相違とは何かを明確』にすることなしに、感覚的な見解を述べられてもどうしようもありません。

#5では、
格助詞
助動詞連用形
形容動詞連用形
の関係について、辞書語釈を引きつつ述べさせていただきました。
間違いだとおっしゃるなら、【どの箇所がどのように違っているのか】教えていただきたい、ということです。
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この回答へのお礼

#15のお礼欄より

>>その舞台が「訪れる」のは5時という時刻に達したときである

新たな、戯曲を作られるのでしょうか。「会議はいつ始りますか?」という戯曲を作成して下さい。
<・「会議が始る」という現象が生起する舞台は5時に訪れる。>のは確かですが、それは会議の「始り」の舞台です。

6.
>><「に」は(着点としての)場所を表わす>
という私の説明よりも、外人の日本語学習者にとってわかりやすい表現だとおっしゃるのですか?

教え方は考えなければなりませんが、「会議は5時に始ります。」の<「に」は「(着点としての)場所を表わす>と教えては、外人の日本語学習者には理解不能です。

7.
>>行く先に「お見舞い」という着点がある。

み‐まい〔‐まひ〕【見舞(い)】
1 病人や災難にあった人などを訪れて慰めたり、書面などで安否をたずねたりすること。
【デジタル大辞泉の解説】

で、行く先にあるのではなく、行為自体を指す言葉です。

8.
>>「ペン」なら手段・方法ですが

ここも、微妙なところですが、手段・方法自体を表わすのではなく、対象を手段・方法として捉えているということを表わしています。
「助詞は客体を表わすのではありません。この根本的なところが理解できないのがパラダイムの呪縛です。」というところを深く考えて下さい。

9.
>>◎「家で仕事をする」という項目で述べている

これは、個別の項目、文で、格助詞「で」の意義を問題にしており、個別の項目、文の意味から語の意義を抽象しなければなりません。

11.
>>結局のところ感覚に帰す

ろんり【論理】
① 思考の形式・法則。議論や思考を進める道筋・論法。
② 認識対象の間に存在する脈絡・構造。
【大辞林】
です。

12.
>>【どの箇所がどのように違っているのか】教えていただきたい
まず、「元気」という漢語の場合、その変化形に関して、
(ア) にあり⇒助動詞「なり」(元気なり)
(イ) にてある⇒である⇒であ⇒助動詞「だ」(元気だ)
という2つのパターンを想定して良いと思われます。

その変化とは何を言われているのでしょうか。「なり」は判断の助動詞として一語であり、活用語尾ではないと最初から指摘していますが。■

お礼日時:2019/07/26 19:03

#14です。


特に急ぎませんので、と申し添えるためと、念のため、お礼欄を追加しておきます。

わたしは北海道なのですが、昨日からやっと夏本番めいてきたようで、クーラーの本格的な出番が訪れています。
ビールが、と言っても発泡酒(笑)ですが、美味くなるのは有難いですね。
昨日は、冷凍して小分けにしてあったうなぎ、と言っても輸入物(笑)を使って、うな丼を食しました。
大金持ちではないので、みみっちい消費性向が身についているようです。(笑)
アスナロウさんにおかれましても、盛夏のおりご自愛ください。
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この回答へのお礼

丁寧な応答有難うございます。
#16について

1.
>>「もらう」という動作の発生した源を特定する、というような意味に捉えていただくとよいでしょう。

「もらう」という動作は、A→Bの物の移動をBの立場から捉えた表現です。従って、始点はA、着点はBで、動作の発生した源はAです。「A=先生」「B=生徒」で、「先生にもらった」は物の始点A、動作の発生した源はAを特定する表現です。

逆に、「先生にあげました」は、A→Bの物の移動をAの立場から捉えた表現で、従って、着点はBで、動作の発生した 源はAです。この場合は、「A=生徒」「B=先生」で、「先生にあげた」は物の着点B、動作の発生した源Aを特定する表現です。

つまり、「に」自体は方向を指しているのではありません。したがって、

・どのような『空間的な位置付け』かというと、それは【着点という位置づけ】である。
というのが格助詞「に」の意義なのです。

というのは誤りです。

>>「動作の源」である着点
日本語?

みなもと【源】
〔「水みの本もと」の意〕
① 川の水の流れ出る所。水源。 「川の-をさぐる」 「槍ヶ岳に-を発している」
② 物事の起こるはじめ。起源。根源。源流。 「この行事は-を平安時代に求めることができる」
【大辞林】です。

2.
>>「に」の場合だけ、
・空間的な位置付けの【認識】を表わす。
という説明は不合理でしょう。

いいえ不合理ではありません。「に」と「から」は形式が異なり、異なる意義を持っているので当然です。

3.
>>動作の向かう先(動作の源)とお考えいただけば

1.で説明の通り、「動作の向かう先(動作の源)と」考えても誤りです。「に」の意義を問題にしていることを忘れないで下さい。

4.
>>「時間」
・空間と共に、種種の現象が生起する舞台

空間と「共に」とあるように、空間と「時間」とは別と認識されていということです。

5.
>>「本」や「会議」に着目してしまうと誤謬につながる。

hakobulu サンがどこに着目しようと自由ですが、話者は「本」や「会議」に着目しています。

>>・「会議が終わる」という現象が生起する舞台は5時に訪れる。
という趣旨があります。

舞台ではなく、時刻の表現で、何故、意味、意義ではなく何故趣旨?舞台を持ちだすこと自体?です。

→#16へ

お礼日時:2019/07/26 19:00

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