![](http://oshiete.xgoo.jp/images/v2/pc/qa/question_title.png?e8efa67)
形容動詞という品詞が学校文法(橋本文法)で設定されているため、広辞苑を除き各辞書もこれに従っている。このため、本欄での品詞に関する質問の回答者も辞書の解説の引用、並べ替えをもって回答しようとする人々がこの誤った品詞観に依拠し回答するため、混乱、混迷することになる。
日本語教育文法もまた、形容動詞観をもとに、「ナ形容詞」と呼び換え教育に当たっているため、こちらも同根である。一番の問題は、学校文法にあり、この誤った品詞観に悩まされ、卒業後もこれに呪縛されていることである。これは、一般人のみならず、言語、国語、文法研究者もこの誤りを引きずり思考している。
この根源は、形式主義/機能主義的な現在の言語論、文法論と骨がらみとなり、橋本文法の機能的な品詞定義と癒着しているため、ここだけ正すということが困難であることも大きく関係している。
しかし、これを放置することは、益々文法論の混迷を招くだけであり、本欄での回答の混乱、混迷に繋がっていく。
最近の事例に基づきこの混迷を指摘し、文法関連の回答者の意見を問うものである。
格好の事例が、≪「無意識{で/に}やる」「真面目{で/に}取り組む」≫である。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11208724.html
ここでは、<大前提として「真面目に取り組む」の「真面目に」が、形容動詞であっても、名詞であっても、大きな違いはない。ただ、この場合は形容動詞と考えるのが一般的ではないか、と思います。名詞と考える理由があるのでしょうか。>と質問されている。
これに対し、No.15の回答では、
>>真面目に」の品詞は
「真面目」だけでも使われますよ、このときの品詞は?、使い方が正しいかと言われれば確かに疑問もあります。形容動詞の活用語尾と断定の助動詞「だ」の活用の形が同じですね、なぜ同じなのかと考えてみる必要もありそうです。
>>形容動詞は非論理的な考え方で間違っている
これには、確かに同意しかねますね、これを言ってしまうと、個人的には動詞も否定する必要もありそうです
「姿・形」と「立ち居・振る舞い」、確か形容詞と形容動詞の違いを表す言葉だったと記憶しています。
形容詞はカメラで撮った静止画像で確認できます、実際は、硬い、やわらかい、・・視覚以外の五感で感じるものは画像では認識できませんが、五感が感じさえすれば認識できます/
と、形容動詞否定説に対し、論理的な根拠もなく、感覚的な回答、疑問と初歩的な品詞分類に対する謬見が披歴されている。
さらに、
>>ただ、言葉そのものは、動きに不可欠な時間そのものは表現できません、動詞でも同じです、動詞も形容動詞も動きについては概念を伝えるだけです。概念とは何だ?
と、言語表現の基本概念に対する無理解が示されている。
残念ながら、この程度の認識で文法の回答がなされ、議論されているのが現状である。
この疑問に正しく回答することが先ず第一で、その上で議論を進めないと最初の質問自体の回答には進めないのは明らかである。
①まず、「確かに同意しかねますね」という、形容動詞否定論とは何かを明確にしよう。
形容動詞説は、「綺麗だ」「平和だ」「健康だ」を一語とし、「だ」を活用語尾とするものである。しかし、活用語尾とは、次に続く語による語の形の変化であり、この変化により語の意義が変化するものではない。この点は、屈折語の屈折とは根本的に異なるところで、「be」が「is」や「was」に変化すれば、人称、時制の意義の変化を表すものである。
しかし、膠着語である日本語は「行く」が「行か」や「行き」に変化したところで「行く」に意義が加わり、意義が変化するものではない。単なる形の変化である。
「綺麗だ」と「綺麗に」は明らかに「綺麗」とは意義が異なる。「綺麗だ」は「綺麗」という属性表現の語に、判断辞「だ」が付加されたもので、判断の意義が加わっており、これを一語とするのは、日本語の単語の定義に反するものである。さらに、「綺麗が売りだ。」「健康が取り柄だ」の場合は、「綺麗」「健康」は実体認識を表しており、名詞である。つまり、「綺麗」「健康」が一語であり、形容詞と同じ属性認識を表す場合と実体認識としての名詞の場合があり、一語で、多義であることを無意識に認識し使い別けているのである。
②このように見てくれば、「個人的には動詞も否定する必要もありそう」でないことは明らかである。
「姿・形」と「立ち居・振る舞い」は連用形名詞の複合であり、形容詞、形容動詞とは無関係である。
③形容詞はカメラで撮った静止画像で確認できます
静止画像でなくとも、動画でも絵でも色は表現でき、この感性的な属性を概念化したのが語である。形容詞とは時間的に変化しない属性の表現であり、動詞とは時間的に変化する属性の概念化である。
あやふやな記憶を基に、曖昧な回答は混乱を招くだけでしかない。そして、この本来の質問者は辞書を盲信し、この引用、並べ替えが回答だと誤認し、それに気付いていない。
なぜなら、〔【「形容動詞は非論理的な考え方で間違っている。ナ形容詞が正しい」なんて、まともな日本語教師は言わないと思うよ。〕などとピンボケなコメントをしているのでも明白である。「まともな日本語教師」は形容動詞などという誤った品詞観を正さなければならないのである。
述べたいことは多多あるが、まずはこの点のご意見を伺えればと思います。■
No.14
- 回答日時:
#13です。
引き続き。
前回の7で、
・元気ですごす。
・元気にすごす。
の違いについて論を進めてまいりましょう。
と申し上げましたが、
ご質問本文の、
>「綺麗だ」は「綺麗」という属性表現の語に、判断辞「だ」が付加されたもので、判断の意義が加わっており、これを一語とするのは、日本語の単語の定義に反するものである。
:
ということに絡めて考えていきたいと思います。
前回の11で申し上げた、
【#5の回答内容に沿って具体的に】ご指摘いただくと勉強になると思います。
という点にも絡んでくるでしょう。
『日本語の単語の定義に反する』ともおっしゃるわけですが、具体的に何を指すのか浅学のわたしにはよくわかりません。
判断辞「だ」とは、助動詞「だ」を指すと思われます。
#5の1-(イ)で以下のように述べさせていただいてます。
※(イ)
助動詞「だ」については、
➊([活用]だろ/だっ・で・に/だ/な/なら/○)
「にてある」から「である」、「であ」、「だ」と転じて室町時代に成った語で、関西の「じゃ」に対して関東で盛んとなった。断定を表す。(広辞苑)
となっており、
「にて」に関しては、
㊀《格助詞》文語。{格助詞「に」に、本来は接続助詞である「て」がついたものか。体言につく}
(場所や時あるいは)事態を示す。…にあって。
◆此歳この身分にて叶ふべきにあらず、〔樋口一葉・たけくらべ〕(学国)
という記述がある。
・「元気だ」⇒元気(名詞)+格助詞「に」+接続助詞「て」+「ある」⇒元気(名詞)+格助詞「で」+「ある」⇒元気(名詞)+助動詞「だ」
という構造。
「元気で」という連用形に格助詞「で」が絡んでいるのは明らかでしょう。※
この記述を批判する形で、どういった点が『日本語の単語の定義に反する』のか、具体的にご教授いただけると幸いに存じます。
#14の補足からの続き
これが、語の規範としての意義として共有されているということです。
>>なかなか難しいところではありますね。
これを、「なかなか難しい」ではなく論理的、科学的に明確にするのが文法論です。
8.
>>どちらが広範囲に意義を網羅しているか?
「ペン」が「拠り【所】」でないのは明確でしょう。再三、再五指摘しているように、助詞は客体を表わすのではありません。この根本的なところが理解できないのがパラダイムの呪縛です。
9.a.
>>「家という場所に依拠して仕事をする」
「ペン」が場所でないのは明らかで、「で」は場所を表わすのではありません。再三、再五指摘しているように、助詞は客体を表わすのではありません。この根本的なところが理解できないのがパラダイムの呪縛です。
b.
>>どうも文脈を把握するのが苦手のようですね。
文脈や文の意味を問題にしているのではなく、格助詞「で」の意義を問題にしており、文、文脈の意味から語の意義を抽象しなければなりませんが、抽象とは何かが理解されていないということです。
>>思い付きであることを理由に一蹴しようとするのは、論理的思考とは程遠いものと言わざるを得ません。
思い付きは大切ですが、それが論理的に実証される必要があります。全く、実証がなされていません。前提となる論理が俗流の発想に過ぎないからです。
10.
>>辞書編纂者の感覚の相違があるだけ
感覚の相違ではなく、論理が誤っているということを指摘しています。
「言語の発現は無意識に生じるものなの」ではなく個別の対象認識を判断することにより生まれるものです。夢遊病者は無意識に言葉らしきものを発しますが、意味を持ちません。
11.
>>【#5の回答内容に沿って具体的に】ご指摘いただくと勉強になる
《「元気」が形容動詞か否かというのは、本質的な問題ではないというのが私の考えです。そうではなく「に」と「で」の使い分けによって、どのような意味の違いが生じるのか、という点こそが重要ではないですかね。》という考えが誤りであることを、最初に質問として提起していますが、『語とは何か、自立語、付属語の相違とは何かを明確』にすることなしに、感覚的な見解を述べられてもどうしようもありません。
i以下、補足へ
No.13
- 回答日時:
#11、#12です。
1.
>イエスノーという単細胞的な発想で、言語、文法を理解しようとすること自体が誤りです。
:
しかし、『>辞書はそう主張していますが、それは誤りです。』とおっしゃっていますよね?
これは取りも直さず『ノー』ということに他なりません。
わたしが知りたかったのはこの点であり、別に『単細胞的な発想』と言われる筋合いは無いかと。
あれこれ言わなくとも『ノー』という簡潔な一言で済むということです。
実際、アスナロウさんは『ノー』と言っていることになるのですが、そのことのご自覚はしておられるのかな、という気がしますね。
2.
>【自分の】動作の移動先
⇒日本語ですか。動作が移動?
:
『自立語である動詞「行く」が、始点から【着点】への移動を表わしているからです。(#9お礼欄)』
これはアスナロウさんご自身の記述です。
「行く(という動作)」が、始点から【着点】への移動を表わしている。
という意味になりますが、これも日本語ではない???
3.
>『先生→生徒』という解釈をしたい場合は、先生を起点として、・「先生から本をもらった。」
⇒解釈の問題ではなく、物自体の移動は、『先生→生徒』です。したがって、物の移動の【始】点は先生です。
その事実をどう表現するかは、話者の認識によります。それを表わすのが格助詞「に」「から」です。
:
「物の移動」ではなく「動作の移動(方向)」という観点で捉えないと正しい理解にはつながりづらいと思います。
ではお尋ねしましょう。
「先生から本をもらった。」
「先生に本をもらった。」
どちらも先生が始点とのことですが、この両者の違いは何ですか?
4.
>「場所」とは、何かが、その上にある(で行われる)と認められる広がり。(新明解)
です。「その上」の「その」が「空間的な場所」であると限定しているわけではありません。
⇒【「場所」とは】というのは場所の説明で、空間に於ける位置付けです。時間と空間は(x,t)と異なる次元で、空間は3次元、時間は4次元目です。
:
「時間」
・空間と共に、種種の現象が生起する舞台(広辞苑)
という意味にお考え下さい。
「舞台=場所」ですから、ご納得いただけますよね?
ところで、肝心なのは、お示ししたところの、
『現時点から会議が始まる時間までを念頭においた表現です。時計の針が回っていき「5時」という時刻を着点として会議が始まります。』
という解釈ですが、こちらに関してはご納得いただけた、ということでよろしかったでしょうか?
5.
>格助詞「に」の意義を正しく説明します。
:
格助詞「に」の意義を正しく説明すると、どういった内容になりますか?
<「に」は(着点としての)場所であることを表わす>という私の見解に対する批判として、このようにおっしゃったわけですから、その対案を出さないとフェアじゃないですよね?
6.
(どこに着くのかを(つまり着点を)表わすために格助詞「に」を使うのです。)
>「どこ【に】着くのか」の「どこ(つまり着点を)」を表わしているのは「東京」です、「大阪」ではないので。「に」ではありません。まったく勘違いなさっておられます。
:
「表わす」に対する基本的な理解が欠けておられますね。
おそらく、「東京は着点を表わす」とお考えなのだろうと思います。
しかし、これは違います。
「東京は着点」なのです。
つまり「東京=着点」ということなのであって、「東京が着点を表わす」わけではありません。
「東京=着点」であることを示すために格助詞「に」が必要になる、というのがこの文の構造。
「東京が着点を表わす」なら「に」という格助詞は無くても良いことになる。
7.
>◎「元気ですごす」⇒「で」の意義とは「(限定する意味での)拠り【所】」
⇒語が限定などするのであればそのプロセスを明らかにするようにお願いした筈ですが。
:
(限定する意味での)という部分は聞き手の理解に資するために付加した補足部分です。
「拠り所」だけでも全然構いませんよ。
⇒格助詞「で」については、辞書では、<動作・作用の行われる状態を表す。「みんなで研究する」「笑顔であいさつする>(デジタル大辞泉の解説)となっていますが、正しくは「対象を手段・条件として認識し表現する。」というべきもので、その手段・条件が「元気」だということです。
:
以前は、たしか「手段・方法・理由」が「で」の意義だとおっしゃっていたと思いますが、今回新たに「条件」を加える必要性に思い至った、ということのようです。
さすがに、「元気(という手段)ですごす」はあり得ないとお気づきになったようで、一歩前進と言えるでしょう。
「元気(という条件下)ですごす」なら、まだ許容範囲です。
まあ、同じひとつの格助詞ですので、様々な解釈に通底する意味があるのは当然と言えば当然でしょう。
どちらが網羅的に本質(意義)を表わしているのか、ということは、我々が「で」という語を発する際の無意識的判断(具体的にはブローカ野の神経作用)なので、なかなか難しいところではありますね。
「で」の網羅的本質(意義)について、
私は「(限定する意味での)拠り所」だと思う。
アスナロウさんは「手段・条件」だと思う。
という【見解の相違】がある、というだけのことです。
この点に関しては水掛け論になりがちですので、ここまでにして、当初の課題、
・元気ですごす。
・元気にすごす。
の違いについて論を進めてまいりましょう。
8.
>(「ペンで書く」)
「道具に依拠する」のですから「手段・方法」と具体的に言っても良いでしょう。
⇒これも論理が逆転しており、「手段・方法」と認識するから道具であり、結果的に依拠ということになります。
:
どちらが広範囲に意義を網羅しているか?
という点に関する見解の相違なのでしょう。
結果は明らかだと思いますけどねえ。
9.
>>空間的限定ですから、その意味で「(依拠する)場所を表わす」と言うことも可能でしょう。
a.
⇒これも論理が逆転しており、「手段・方法」と認識する対象が家なので、場所というだけのことです。
:
「家で仕事をする」とは、
「家という手段・方法で仕事をする」
「家という場所に依拠して仕事をする」
どちらの意味に解釈するのが自然か、ということになるでしょう。
日本語学習者に説明するにしても、どちらの説明が妥当とお考えですか?
b.
⇒ペンや元気が場所でないのは明らかかと。「拠り【所】」」などと、思い付きの言葉ではどうしようもありません。
:
どうも文脈を把握するのが苦手のようですね。
◎「家で仕事をする」
という項目で述べていることがおわかりならないのですか?
また、真理は思い付きによって明らかな姿を見せることが往々にしてあることをご存知ないようです。
偉大な真理はほとんど思い付きやひらめきによって見出されてきました。
この「拠り所」がそれに該当するか否かは別にして、思い付きであることを理由に一蹴しようとするのは、論理的思考とは程遠いものと言わざるを得ません。
10.
>なお、「で」については辞書の解釈が如何に混乱しているかを、
:
わたしはまったく混乱などしていけません。
辞書編纂者の感覚の相違があるだけであって、それを読者がどのように解釈できるか、という問題に帰するからです。
複数の辞書の中から、もっとも妥当と思われる語釈を見つけられるかどうか、ということにすぎない。
そもそもですが、言語の発現は無意識に生じるものなのであり、その無意識の仕組みを解明しようとするのが辞書である以上、解釈が異なることによって生じる混乱が多少あるのは、むしろ理の当然でしょう。
11.
>まず、語とは何か、自立語、付属語の相違とは何かを明確にし、論理的に展開することなく、感覚的な思い付の言葉を並べても何の進展もありません。
:
わたしとしては、#5において、
・形容動詞連用形
・助動詞連用形
・格助詞
の成り立ちについての見解を述べています。
『語とは何か、自立語、付属語の相違とは何かを明確』にするについては、アスナロウさんのほうが詳しそうですので、教えていただければと思います。
しかし、このような紋切り型の表現ではなく、【#5の回答内容に沿って具体的に】ご指摘いただくと勉強になると思いますので、よろしくお願いしたいところです。
「で」の意義について、
「(限定する意味での)拠り所」は思い付きの誤った解釈であり、
「手段・条件」こそが思い付きではない正しい解釈である、ということを【論理的に】説明していただきましょう。
できますか?
お礼欄が短いと思うので回答欄をわけておきますね。
#14へのコメントです。
丁寧に応答いただきありがとうございます。
2.
>>「行く(という動作)」が、始点から【着点】への移動を表わしている。
始点から【着点】への《物(動作ではなく)》の移動なので、正しい日本語です。それを言うのであれば、「動作の移動先」ではなく、「動作による移動先」が正しい日本語です。
>>「先生から本をもらった。」「先生に本をもらった。」~どちらも先生が始点とのことですが、この両者の違いは何ですか?
「から」と「に」の相違で、「から」は始点としての【認識】を表わし、「に」は空間的な位置付けの【認識】を表わします。これは、話者による対象の捉え方、認識の相違で、対象自体は同じです。この、「対象→認識→表現」の過程的な構造を捉えられないのが言語実体観、言語道具説というパラダイムです。対象自体の物の移動は「先生→生徒」で変わりません。
>>「動作の移動(方向)」という観点
これは、何を言わんとするのか不明です。動作の方向は「先生が生徒に本を渡す」『先生→生徒』でしかありません。それ以外に何があるのでしょう?
>>「舞台=場所」ですから、ご納得いただけますよね?
「舞台=場所」は了解です。でも時間、時刻ではありません。
>>時計の針が回っていき~という解釈ですが、こちらに関してはご納得いただけた、ということでよろしかったでしょうか?
いいえ。【会議は5時に始ります。】は、5時を始点とする会議で、【会議は5時に終わります。】は5時を終点(着点)とする会議です。時計の針の動きを表現しているのではなく、会議について述べています。時間というか時刻の表現です。何故、突如時計の針が出て来るのか?です。これは、近くの人や、中学生にでも確認して下さい。否定する人はいません。文の意味が判る人であれば。
5.
>>格助詞「に」の意義を正しく説明すると、どういった内容になりますか?
いまさら、何を言われているのでしょうか。健忘症でしょうか。
【「で」と「に」についてなのですが、どちらも《状態》を表す助詞ですよね】その3
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11193115.html
のベストアンサーに選んでいただいた、No.24、No.19他を参照下さい。ひょっとして、同じ「hakobulu」さんではなく、別人の方でしょうか。
No.12
- 回答日時:
#7~#9です。
1.
「に」の語釈について、ほとんどの辞書は、
・「に」は場所を表わす。
あるいは、
・「に」は場所を示す。
としています。
アスナロウさんが「表わす」という日本語の意味を理解されていないため、あれこれ角度を変えて述べてきたのですが、どうも水掛け論になりそうです。
いつかお気づきになるかもしれませんので、確認の意味で再度記しておきますね。
ほとんど辞書語釈を不必要に否定なさらなくても大丈夫ですよ、ということです。
アスナロウさんは、以下の内容を否定なさる、ということで間違いありませんね?
あくまで以下の日本語の内容についてイエスノーで端的にお答えください。
・「に」は場所を表わす。
という辞書語釈は、
・「に」は(その前の語が着点としての)場所(であること)を表わす。
という意味である。
「東京に行く」
という文においては、
・「に」は、「東京」が(着点としての)場所であることを表わしている。
ということになる。
2.
a.
【先生に本をもらった。】
hako:<「先生」が(着点としての)場所であることを表わしている。>
アス:>「先生」は人で、移動物である本は先生→生徒で、着点は生徒です。
:
本の移動先ではなく、「もらう(もらった)」という【自分の】動作の移動先に着目されるとよいでしょう。
「もらう」という事態が自分に発生していることをまず押さえます。
その事態の元を辿っていくなら「先生に」辿り着く、という解釈です。
『先生→生徒』という解釈をしたい場合は、先生を起点として、
・「先生から本をもらった。」
と表現します。
文化庁国語審議会発行の<敬語の指針>から抜粋した以下の内容をよく吟味なさってみてください。
発想のご参考に多少はなるでしょう。
※ 「もらう」という行為について見れば「先生」は「出どころ」ではあるが、「もらう」という側から見れば、その<向かう先>である。※
b.
【会議は5時に始ります。】
hako:<「5時」が(着点としての)場所であることを表わしている。>
アス:>「5時」は場所ではなく時間で、開【始】時間であり、【着】点ではありません。
中学生でも判ることです。
:
「場所」とは、
何かが、その上にある(で行われる)と認められる広がり。(新明解)
です。
「その上」の「その」が「空間的な場所」であると限定しているわけではありません。
現時点から会議が始まる時間までを念頭においた表現です。時計の針が回っていき「5時」という時刻を着点として会議が始まります。
c.
>そして、外人の日本語学習者に<「に」は(着点としての)場所であることを表わす>と教えたら、上記の二文の解釈は全く不能です。
:
アスナロウさんなら、どのように教えますか?
d.
>何故そうなってしまうのかというと、「先生に本をもらった。」では、物の移動を表わしているのは自立語である動詞「もらう」で、これが移動の方向を表わしており、付属語の「に」が表わしているのではないからです。
:
まったく勘違いなさっておられます。
たしかに「もらう」は移動の方向を表わしていますが、その移動した先に誰が存在するのか、ということはわかりませんよね。
それを表わすために着点を表わす「に」を使うわけです。
e.
hako:「東京に行く」の<「東京」が(【着点】としての)場所であることを表わしている。
アス:のは、自立語である動詞「行く」が、始点から【着点】への移動を表わしているからです。この動詞が「もらう」になれば、方向は逆になります。
時間の場合も、変化の方向を表わしているのは、動詞「始まる」「終わる」です。付属語「に」が表わしているのではないということです。
:
これも「に」の意義を無視した勘違いです。
たしかに、『動詞「行く」が、始点から【着点】への移動を表わしている』のは確かでしょう。
しかし、いくら自立しているといっても、その着点が何かまではわかりませんよね?
どこかに着くのだな・・・ぐらいしかわかりません。
どこに着くのかを(つまり着点を)表わすために格助詞「に」を使うのです。
『時間の場合も、変化の方向を表わしているのは、動詞「始まる」「終わる」』のもまたたしかですが、その変化の方向がどこに向かっているのか、つまり、着点をどこに求めているのか、ということまではわかりません。
それを表わすために、着点を示す「に」を使うわけです。
f.
><「で」の意義とは、このような内容で、従って、この文の場合はこのような意味になります。>という説明にならなけれなりません。ところが、貴説明や、辞書の語釈はこの逆になっているということです。
:
すでに#9で説明していると思いますが、ご指定の書式に則って再度申し上げてみましょう。
非常に大事な論点なので無視したり逃げたりはしませんよ。
以下の説明以上にすぐれた説明を当然していただけるものと期待しております。
このような質疑の繰り返しによって、内容が多少なりともブラッシュアップされていけば良いですね。
◎「元気ですごす」
⇒「で」の意義とは「(限定する意味での)拠り所」で、従って、この文の場合は、「すごす」という動作が「元気」という様態(様子)に依拠している、という意味になります。
同じ「すごす」でも、ただ漠然と「すごし」ていることを言っているのではなく、「元気」という様態(様子)を拠り所(背景)としてすごしています、というニュアンス。
◎「ペンで書く」
⇒「で」の意義とは「(限定する意味での)拠り所」で、従って、この文の場合は、「書く」という動作が「ペン」という道具に依拠している、という意味になります。
「道具に依拠する」のですから「手段・方法」と具体的に言っても良いでしょう。
◎「家で仕事をする」
⇒「で」の意義とは「(限定する意味での)拠り所」で、従って、この文の場合は、「仕事をする」という動作が「家」という場所に依拠している、という意味になります。
外に出ずに・・とか、会社ではなく・・、といった意味で「家」という場所を限定しているニュアンス。
空間的限定ですから、その意味で「(依拠する)場所を表わす」と言うことも可能でしょう。
No.11からの続きです。
>>どこに着くのかを(つまり着点を)表わすために格助詞「に」を使うのです。
「どこ【に】着くのか」の「どこ(つまり着点を)」を表わしているのは「東京」です、「大阪」ではないので。「に」ではありません。まったく勘違いなさっておられます。
>>◎「元気ですごす」⇒「で」の意義とは「(限定する意味での)拠り【所】」
語が限定などするのであればそのプロセスを明らかにするようにお願いした筈ですが。
格助詞「で」については、辞書では、<動作・作用の行われる状態を表す。「みんなで研究する」「笑顔であいさつする>(デジタル大辞泉の解説)となっていますが、正しくは「対象を手段・条件として認識し表現する。」というべきもので、その手段・条件が「元気」だということです。
>>「道具に依拠する」のですから「手段・方法」と具体的に言っても良いでしょう。
これも論理が逆転しており、「手段・方法」と認識するから道具であり、結果的に依拠ということになります。
>>空間的限定ですから、その意味で「(依拠する)場所を表わす」と言うことも可能でしょう。
これも論理が逆転しており、「手段・方法」と認識する対象が家なので、場所というだけのことです。ペンや元気が場所でないのは明らかかと。「拠り【所】」」などと、思い付きの言葉ではどうしようもありません。
なお、「で」については辞書の解釈が如何に混乱しているかを、<接続助詞「ので」という誤り>で、問題提起しておきましたので参照下さい。
まず、語とは何か、自立語、付属語の相違とは何かを明確にし、論理的に展開することなく、感覚的な思い付の言葉を並べても何の進展もありません。■
No.11
- 回答日時:
#9です。
たびたび申し訳ありません。
表現力が乏しいため、読み返すと言い直したくなる箇所がよく出てきます。(笑)
×
(カ)~~~~~~~~。
学校という場所を表わしている、と言うこともできるでしょう。
〇
(カ)~~~~~~~~。
依拠する対象として、学校という場所を表わしている、と言うこともできるでしょう。
「に」の「着点として、学校という場所を表わしている」に対応させないとダメですよね。
No.12へのコメントです。
水掛け論ではなく、当方の論理的な展開が理解できず、それを受け入れられないというだけのことです。
この問題を、イエスノーという形式論理に解消しようという発想自体が誤りなので、簡単なコメントを付けさせていただきます。
>>ほとんど辞書語釈を不必要に否定
否定ではなく、誤りを指摘しているもので、それは真理への転化の契機を含んでいます。イエスノーという単細胞的な発想で、言語、文法を理解しようとすること自体が誤りです。
>>・「に」は場所を表わす。という辞書語釈は、・「に」は(その前の語が着点としての)場所(であること)を表わす。という意味である。
辞書はそう主張していますが、それは誤りです。
>>「東京に行く」という文においては、
・「に」は、「東京」が(着点としての)場所であることを表わしている。
ということになる。
【この文での意味】にしか過ぎず、「に」の意義ではありません。
>>【自分の】動作の移動先
日本語ですか。動作が移動?
>>『先生→生徒』という解釈をしたい場合は、先生を起点として、・「先生から本をもらった。」
解釈の問題ではなく、物自体の移動は、『先生→生徒』です。したがって、物の移動の【始】点は先生です。
その事実をどう表現するかは、話者の認識によります。それを表わすのが格助詞「に」「から」です。「文化庁国語審議会発行の<敬語の指針>」を見るまでもないことです。
>>「場所」とは、何かが、その上にある(で行われる)と認められる広がり。(新明解)
です。「その上」の「その」が「空間的な場所」であると限定しているわけではありません。
【「場所」とは】というのは場所の説明で、空間に於ける位置付けです。時間と空間は(x,t)と異なる次元で、空間は3次元、時間は4次元目です。
>アスナロウさんなら、どのように教えますか?
格助詞「に」の意義を正しく説明します。
>>その移動した先に誰が存在するのか、それを表わすために着点を表わす「に」を使うわけです。
移動した先に存在するのは先生ではなく、生徒です。「もらう」の意義を理解していますか。
まったく勘違いなさっておられます。
→No.12 のお礼欄に続きます。■
No.10
- 回答日時:
No.9 の応答の続きです。
>>これも同様ですが、【この文では】という字が目に入っておられないようです。
最初から言っているように、文の意味ではなく、格助詞の意義を問題にしているのに、【この文では】と言わなければならないのは語の意義ではなく、説明になっていないということです。<「で」の意義とは、このような内容で、従って、この文の場合はこのような意味になります。>という説明にならなけれなりません。ところが、貴説明や、辞書の語釈はこの逆になっているということです。
文化庁<敬語の指針>など持ち出す場合ではありません。■
No.9
- 回答日時:
#7、#8です。
要点のみに特化するため思い切り論点を絞ります。
応答すべき点が他にあれば、その旨ご指摘ください。
1.
>・「〇〇に」の「に」は、「〇〇」が場所であることを表わす。
⇒「先生に本をもらった。」「会議は5時に終わります。」の「に」が<「〇〇」が場所であることを表わす。>のでしょうか。こんな、「に」や「で」の意義の解釈で、文の意味や相違を明らかにすることはできません。やって、見せて下さい。
:
アスナロウさんは、こうした論点のすり替えを平気でやるんですよね。(笑)
a.
まずですが、これは、
3.(東京に行く。この「に」は場所を表わす。)
という項目で述べた内容のはずです。
・「に」は場所を表わす。
という記述の意味を勘違いしておられるので、それを指摘するため、
・「〇〇に」の「に」は、「〇〇」が場所であることを表わす。
と述べたわけです。
つまり、
・「に」は場所を表わす。
という語釈は、
・「東京に行く」の「に」は、「東京」が(着点としての)場所であることを表わしている。
ということを意味している、ということ。
「に」=場所自体。
という意味になるだろう、という誤解を解くため解説した部分ですが、この点はご理解いただけたのでしょうか?
b.
何度も申し上げていますが、場所も含めた本質(意義)としては【着点】です。
(ア)「先生に本をもらった。」⇒「もらう」という動作は先生に向かっています。つまり、その動作の着点は先生です。
「先生に向かっている」という表現がひょっとするとややこしいかもしれません。この点については意外かもしれませんが文化庁<敬語の指針>16ページがご理解に資すると思われます。
ご存知でもありましょうが、謙譲語1の定義は「相手に向かう自分側の行為をへりくだって表現することで相手に敬意を表わす」です。
その上で、下記のような記述があります。
※ 「先生からご褒美をいただく(もらう)」という場合、 「もらう」という行為について見れば「先生」は「出どころ」ではあるが、「もらう」という側から見れば、その<向かう先>である。※
(イ)「会議は5時に終わります。」⇒会議が続いている状態を念頭においた表現です。時計の針が回っていき「5時」という時刻を着点として終了します。
2.
【・元気ですごす。】
>格助詞「で」については数回お示ししていると思いますが、この文では「様態を表わす」です。
⇒「ペンで書く」「家で仕事をする」の「で」が様態を表していますか。
:
これも同様ですが、【この文では】という字が目に入っておられないようです。
「で」の本質としての意義は、(自慢するわけじゃありませんが)何度も申し上げているようにわかりません。
ただ、未検証なのであまり言いたくありませんが、あえて言うなら「(限定する意味での)拠り所」かな、という気はしています。
(ウ)「ペンで書く」⇒「書く」という動作が「ペン」という道具に依拠していることを表わしている。「道具に依拠する」のですから「手段・方法」と具体的に言っても良いでしょう。
(エ)「家で仕事をする」⇒「仕事をする」という動作が「家」という場所に依拠していることを表わしている。外に出ずに・・とか、会社ではなく・・、といった意味で「家」という場所を限定しているニュアンス。
空間的限定ですから、その意味で「場所を表わす」と言うことも可能でしょう。
(オ)
>様態を表わしているのは「元気」で、「で」が様態を表わすと言ってみてもだれも了解できません。
:
了解できない、という感覚がまったく理解できません。
これは感覚の相違と申し上げるしかなさそうですが、わたしの説明をよくお読みいただければ、納得していただけるはず、というかすかな希望もまだ捨ててはいません。
・元気な様子ですごす。
という意味が理解できないのですか?
3.
>貴説では、「に」は着点を表わし、「で」は様態を表わすそうですが、この質問にどのように答えるのでしょうか。「学校」は様態でしょうか?
:
まずお断りしておきますが、様態を表わすのは「元気ですごす」の場合ですよ。
文脈を捻じ曲げないでいただきたい。
どうしても意義を一言で、ということであれば、上記2で申し上げましたように、「(限定する意味での)拠り所」ですかね。
(カ)「学校で過ごす」⇒「過ごす」という動作が「学校」(という場所)に依拠していることを表わしている。学校という場所を表わしている、と言うこともできるでしょう。
(キ)「学校に行く」⇒これが着点であることに説明は不要でしょう。
(ク)>「彼に本をもらった。」の「に」が着点でしょうか?
:
上記の1ー b ー(ア)をご参照頂ければと思います。
再々の応答ありがとうございます。
>>3.(東京に行く。この「に」は場所を表わす。)
:
「に」=場所自体。
という意味になるだろう、という誤解を解くため解説した部分ですが、この点はご理解いただけたのでしょうか?
気持ちはわかりますが、、単にあれこれ言い換えているに過ぎないということです。
再三再四指摘している通り、助詞である付属語と形容詞などの自立語の本質的な相違は何かが理解できていないので、その枠内で循環しているだけということです。付属語は、対象である実体や属性を表わすのではないということです。これが理解できないため、「に」が場所や着点である客体を表わすという、誤った発想を生み出します。
丁度、事例も揃っているので、今三度、その誤りを指摘します
・<「東京に行く」の【に】は、「東京」が(着点としての)場所であることを表わしている。ということを意味している>としましょう。
では、「先生に本をもらった。」「会議は5時に始ります。」で、
<「先生」が(着点としての)場所であることを表わしている。>
<「5時」が(着点としての)場所であることを表わしている。>
になるかということです。「先生」は人で、移動物である本は先生→生徒で、着点は生徒です。
「5時」は場所ではなく時間で、開【始】時間であり、【着】点ではありません。
中学生でも判ることです。そして、外人の日本語学習者に<「に」は(着点としての)場所であることを表わす>と教えたら、上記の二文の解釈は全く不能です。
何故そうなってしまうのかというと、「先生に本をもらった。」では、物の移動を表わしているのは自立語である動詞「もらう」で、これが移動の方向を表わしており、付属語の「に」が表わしているのではないからです。
「東京に行く」の<「東京」が(【着点】としての)場所であることを表わしている。>のは、自立語である動詞「行く」が、始点から【着点】への移動を表わしているからです。この動詞が「もらう」になれば、方向は逆になります。
時間の場合も、変化の方向を表わしているのは、動詞「始まる」「終わる」です。付属語「に」が表わしているのではないということです。■
No.8
- 回答日時:
#7ですが、再度。
>格助詞「に」自体が何を表しているのかを明確にすべきです。
:
何度も申し上げているように、
・格助詞「に」自体が表しているのは着点です。
ただし、
・格助詞「に」が表しているのは着点自体です。
と言ってるわけではありませんので、勘違いなさいませんように。
丁寧に応答ありがとうございます。
若干、コメントが前後しますがご容赦下さい。
>>形容動詞云々は別にして、上記2文の違いについて、バチッと決めてみませんか?
問題は個別の文の意味ではなく、そこから、各話者が無意識に規範として認識している内容を抽象し理解、解明することで、格助詞の規範としての意義を明らかにすることです。
>>いずれにせよ、「で」の場合も「に」と同様で、格助詞・助動詞連用形・形容動詞連用形どれにも当て嵌めても良い。
品詞分類とは何かが全く理解されていません。文の意味の解釈と語の意義の解明とは次元が異なりますが、この基本的な点が理解されていません。
>>『膠着語である日本語の単語とは何か』という本質は本質で別に論じていけばよろしいのではないですかね。
「日本語の単語とは何か」を明らかにすることなく、品詞分類が可能と考えること自体が非論理的です。実際、そのため現在の言語論は混乱、混迷しており、その一端に貴助動詞、形容動詞の混乱した論理が展開されているということを指摘しているのですが。
>>・「〇〇に」の「に」は、「〇〇」が場所であることを表わす。
「先生に本をもらった。」「会議は5時に終わります。」の「に」が<「〇〇」が場所であることを表わす。>のでしょうか。こんな、「に」や「で」の意義の解釈で、文の意味や相違を明らかにすることはできません。やって、見せて下さい。
>>・元気ですごす。
格助詞「で」については数回お示ししていると思いますが、この文では「様態を表わす」です。
「ペンで書く」「家で仕事をする」の「で」が様態を表していますか。
>>どのような『誤り』が実際に生じるのか、
・元気ですごす。
という文に即して【具体的に】お示しください。
様態を表わしているのは「元気」で、「で」が様態を表わすと言ってみてもだれも了解できません。
よくある質問は「学校で過ごす」「学校に行く」の「で」と「に」は何が違うのですか、両者とも場所を表わしていますがというものです。貴説では、「に」は着点を表わし、「で」は様態を表わすそうですが、この質問にどのように答えるのでしょうか。「学校」は様態でしょうか?
或る時は、学校が着点であり、また様態であるというのは恣意的な、ご都合主義です。
「彼に本をもらった。」の「に」が着点でしょうか?■
No.7
- 回答日時:
#6です。
1.
>>文脈からして「形容動詞の語幹」を意味することはわかりきったことでしょう。
⇒その曖昧な理解が形容動詞という誤った品詞理解を延命しています。
形容動詞の語幹と語尾を曖昧にし、表現したり、しなかったりという扱い自体が誤りです。
:
いやはや驚きますな。
アスナロウさんが、それほど厳密な日本語の使い分けをしているとは到底思えませんが。(笑)
そもそも、
・「元気」が形容動詞
と言っただけでは、
「元気」が形容動詞(の語幹)
という意味に理解することは難しい、とおっしゃるのですか?
2.
>>>「元気」が形容動詞(の語幹)か否かというのは、本質的な問題ではないというのが私の考えです。
⇒それが、膠着語である日本語の単語とは何かという根本の理解を誤った本質的な問題だということを明らかにするため、本質問を提起しているものです。
:
『膠着語である日本語の単語とは何か』という本質は本質で別に論じていけばよろしいのではないですかね。
それはそれ、これはこれです。
繰り返しになりますが、
・元気にすごす。
・元気ですごす。
の違いを明確に、わかりやすく解説するほうが優先されるべきで、また、当初文を読んでいただければ形容動詞に基づいて解説しているわけでないことは容易にご理解いただけるはずです。
なのに、形容動詞が不合理であることだけに拘って、上記2文の違いについての論点には触れようとしない。
本末転倒じゃないでしょうか?
形容動詞云々は別にして、上記2文の違いについて、バチッと決めてみませんか?
>「元気だ」の「だ」が有っても無くても良いような扱いをしたり、「だ」自体が意義を持つのか否か、持つとすれば、それは活用では無いという論理矛盾になることに気付かないのが問題です。
:
そういう抽象的なことではなく、
・元気にすごす。
・元気ですごす。
という文において、どのような意味の取り違えが発生するのか、取り違えられると想定される意味をそれぞれ一文づつ、【具体的に】示してください、と申し上げている。
私は#5で、かなり詳しく述べたはずです。
反論は、その内容に沿って展開していただかないと食い違いが生じやすくなる。
3.
(東京に行く。この「に」は場所を表わす。)
>勘違い(あるいは曲解)ではなく、<「に」が場所【自体】を表わす>と言っていることに気付かないため、本質的な論議がなかなか進まないのが根本的な問題です。でないと云うのであれば、格助詞「に」自体が何を表しているのかを明確にすべきです。
:
曲解が止みませんね。(苦笑)
・「に」は場所を表わす。
という命題は、
<「に」が場所【自体】を表わす>
という意味ではありません。
・「〇〇に」の「に」は、「〇〇」が場所であることを表わす。
という意味なのです。
「表わす」には、たしかに、
・五輪マークはオリンピックシンボルを表わす。
という使い方もありますが、この場合の「表わす」とは意味が異なることに、いい加減お気づきになっていただきたいものです。
この場合は、おっしゃるように「五輪マーク=オリンピックシンボル自体」ですね。
4.
>また、格助詞「で」は何を表し、判断辞「だ」の連用形「で」は何を表し、格助詞と同形の「で」が何故異なる意義を持つのかを明らかにすべきです。
:
a.
・元気ですごす。
格助詞「で」については数回お示ししていると思いますが、この文では「様態を表わす」です。
「に」の着点のように一言ですべて網羅する語義を示すには至っていません。
すくなくとも手段・方法・理由ではありませんし、そもそも、手段と理由は別物ですので。
判断辞「だ」の連用形「で」の場合は、
・私は元気で、夏をエンジョイしています。
のように連用中止形として、文中で陳述を後ろにつなげる用法でしょう。
・元気ですごす。
に該当しないのはむろんです。
『何故異なる意義を持つのか』とのことですが、浅学の私としては「用言に係る」というのが連用形の用法だからと言うしかないですね。
b.
>こういった点を指して『基本的な理解の誤りが根底にある』と指摘しているものです。
:
2でも申し上げましたが、ここでも念を押させていただきます。
どのような『誤り』が実際に生じるのか、
・元気ですごす。
という文に即して【具体的に】お示しください。
応答いただきありがとうございます。
1.
>>・「元気」が形容動詞と言っただけでは、「元気」が形容動詞(の語幹)という意味に理解することは難しい、とおっしゃるのですか?
当然です。難しいのではなく、誤りだということです。「元気だ」が一語の終止形であるならば、語は「元気だ」なので、「元気」を単独で扱うというのは、語幹ではなく、一語だと言っているのであり、品詞の定義と矛盾しています。これが矛盾と思えないところに問題があります。
動詞で云えば、「食べる」「走る」の「食べ」「走(はし)」を問題にするということです。
>>それほど厳密な日本語の使い分けをしているとは到底思えませんが。(笑)
最初から、論理的な展開をしており、それを理解できずに、自己流の感覚的な理解で対応されるところに問題があります。
2.
>>格助詞「で」については数回お示ししていると思いますが、この文では「様態を表わす」です。
文の意義ではなく、格助詞「で」の意義を明らかにすべきもので、「様態」は対象の在り方であり、格助詞は対象を表すものではありません。最初から、何度も説明していますが、助詞とは何かを理解されているのでしょうか。そこから、意義もそれに沿った内容にならなければなりません。
>>「用言に係る」というのが連用形の用法だからと言うしかないです
用法は結果でしかありません。なぜ、その様な用法がなされるのかが問題です。当然、その「意義」を媒介として使用されることになります。これが、事実に沿った、論理的な理解です。
>>・元気で過ごす。
前項で述べたように、因果関係、媒介の関係が誤って理解されています。語と文の関係が誤って理解されています。様態とは対象自体の在り方で、対象をどのように捉えるかという、対象の間の関係認識を表すのが格助詞で、この場合、「で」は元気と「過ごす」の関係認識を表しています。様態自体を表しているのは「元気」です。
この、助詞とは何かの『基本的な理解の誤りが根底にある』ため、それ以降の論理が誤ることになります。■
No.6
- 回答日時:
#5です。
1.
><「元気」が形容動詞>ではありません。これは、形容動詞の語幹です。したがって、<「元気」が形容動詞か否かというのは、本質的な問題ではない>というのは基本的な誤認に基づく誤った認識です。
:
「だ」は時枝言うところの零記号と考えれば済むことでは?
そうでなくとも、文脈からして「形容動詞の語幹」を意味することはわかりきったことでしょう。
2.
>この「元気だ」を一語とする形容動詞という品詞区分は「元気」という属性表現の語と「だ」という判断を表す全く異なる意義を持つ語を一纏めにするという、単純で裸体的な語である日本語の単語を屈折語の単語と同様に解釈した、活用と屈折の相違を理解できない根本的に誤った品詞区分であるということです。
:
なるほど。
ただ、前回冒頭に申し上げたように、「元気」が形容動詞(の語幹)か否かというのは、本質的な問題ではないというのが私の考えです。
語というものはあくまで、(むろん、それ単独の場合も含めて)文中においてこそ、その意義を発揮できるわけです。
「語」の意義を言いたいのであれば、
・元気にすごす。
・元気ですごす。
これら両文の違いをわかりやすく理解できるような方向での説明が為されなければ意味がありません。
この点を肝に銘じていただけるなら、もう少し建設的なご見解を示していただけるのではないか、という気がします。
つまり品詞区分云々と言う前に、『一纏めにする』ことによって、どのような意味の取り違えが発生するのかという点について、取り違えられると想定される意味を【具体的に】示さないと説得力がほとんどありませんよ。
3.
>hakobuluサンと格助詞の意義について見解が分かれたのは、このような日本語の単語に対する基本的な理解の誤りが根底にあることが良くわかりました。
:
たとえば、アスナロウさんは、
・「に」は場所を表わす。
は誤りであり、
・「に」は場所を(結果的に)表わす。
と表現する必要がある。
といったことに執拗に拘りますよね。
また、
・「に」は場所を表わす。
は、
・「に」は場所【自体】を表わす。
という意味だという勘違い(あるいは曲解)を何度も繰り返す。
このため、本質的な論議がなかなか進まないのが要因です。
こういった点を指して『基本的な理解の誤りが根底にある』とおっしゃるのであれば、そのようですね、と申し上げるしかない。
早速の応答ありがとうございます。
1.
>>「だ」は時枝言うところの零記号と考えれば済むことでは?
時枝の云う零記号とは認識としては存在するが、表現されていない記号を指すもので、意義を表すのではない活用語尾を云うものではありません。これは、零記号の意味も活用語尾とは何かの理解も誤った混乱した理解です。
>>文脈からして「形容動詞の語幹」を意味することはわかりきったことでしょう。
その曖昧な理解が形容動詞という誤った品詞理解を延命しています。
形容動詞の語幹と語尾を曖昧にし、表現したり、しなかったりという扱い自体が誤りです。
2.
>>「元気」が形容動詞(の語幹)か否かというのは、本質的な問題ではないというのが私の考えです。
それが、膠着語である日本語の単語とは何かという根本の理解を誤った本質的な問題だということを明らかにするため、本質問を提起しているものです。
>>これら両文の違いをわかりやすく理解できるような方向での説明が為されなければ意味がありません。
当然のことで、文の意味の相違と語の意義の相違を混同しないことが第一です。
>>『一纏めにする』ことによって、どのような意味の取り違えが発生するのかという点について、取り違えられると想定される意味を【具体的に】示さないと説得力がほとんどありませんよ。
上記のように、日本語の単語とは何かという根本の問題を誤り、その結果、助詞とは何か、その意義とは何かが貴論に見られるように曖昧になってしまいます。「元気だ」の「だ」が有っても無くても良いような扱いをしたり、「だ」自体が意義を持つのか否か、持つとすれば、それは活用では無いという論理矛盾になることに気付かないのが問題です。
>>・「に」は場所を(結果的に)表わす。
結果的であろうとなかろうと、<「に」は場所を(結果的に)表わす。>は日本語としては、<「に」=場所>と云うことです。
>>・「に」は場所【自体】を表わす。
という意味だという勘違い(あるいは曲解)を何度も繰り返す。
勘違い(あるいは曲解)ではなく、<「に」が場所【自体】を表わす>と言っていることに気付かないため、本質的な論議がなかなか進まないのが根本的な問題です。でないと云うのであれば、格助詞「に」自体が何を表しているのかを明確にすべきです。 → 以下補足へ
No.5
- 回答日時:
1.
・元気にすごす。
・元気ですごす。
「元気」が形容動詞か否かというのは、本質的な問題ではないというのが私の考えです。
そうではなく「に」と「で」の使い分けによって、どのような意味の違いが生じるのか、という点こそが重要ではないですかね。
以下、順に述べてみます。
まず、「元気」という漢語の場合、その変化形に関して、
(ア) にあり⇒助動詞「なり」(元気なり)
(イ) にてある⇒である⇒であ⇒助動詞「だ」(元気だ)
という2つのパターンを想定して良いと思われます。
(ア)
助動詞「なり」には、
◆格助詞「に」に文語動詞「あり」の付いた「にあり」の転。(明鏡)
という注釈がある。
このことから、
・「元気なり」⇒元気(名詞)+格助詞「に」+「あり」⇒元気(名詞)+助動詞「なり」
という構造。
この場合、「元気」を単なる名詞とは区別して「形容性名詞」と捉える考え方があってもまったく不思議ではなく、そこから形容動詞という発想が生まれたのでしょう。
⇒形容動詞「元気なり」
の誕生です。
つまり、「(元気)に」は格助詞でもあり、助動詞連用形でもあり、形容動詞連用形でもある。
血がつながっているのだから親戚同士でいがみ合っても不毛である、ということ。
因みに、助動詞も形容動詞も「ナリ活用」をすると考えて良いと思います。
そういうことよりも、ここで着目したいのは、
助動詞「なり」には同形の、
【▽形・▽態】
〘名〙
❶ 物の形。形状。(広辞苑)
という名詞があることからもわかるように、「なり(にあり)」自体が【状態を表わす】意味を持っているということです。(「である=だ」は断定であり、この意味はありません。)
これは、格助詞「に」の「状態、または付帯的状況を表わす」という用法からきていると考えて良いと思われます。
総合的に、
【・元気にすごす。⇒元気という内面の状態をキープしつつすごす。】
元気という状態が主体の内面にあることを示唆している。
というニュアンスと捉えるのが妥当でしょう。
(イ)
助動詞「だ」については、
➊([活用]だろ/だっ・で・に/だ/な/なら/○)
「にてある」から「である」、「であ」、「だ」と転じて室町時代に成った語で、関西の「じゃ」に対して関東で盛んとなった。断定を表す。(広辞苑)
となっており、
「にて」に関しては、
㊀《格助詞》文語。{格助詞「に」に、本来は接続助詞である「て」がついたものか。体言につく}
(場所や時あるいは)事態を示す。…にあって。
◆此歳この身分にて叶ふべきにあらず、〔樋口一葉・たけくらべ〕(学国)
という記述がある。
・「元気だ」⇒元気(名詞)+格助詞「に」+接続助詞「て」+「ある」⇒元気(名詞)+格助詞「で」+「ある」⇒元気(名詞)+助動詞「だ」
という構造。
「元気で」という連用形に格助詞「で」が絡んでいるのは明らかでしょう。
この場合の「で」は、
❹ 動作を行うときの様態を表す。
「急ぎ足で歩く」
「笑顔で答える」(明鏡)
という用法。
いずれにせよ、「で」の場合も「に」と同様で、格助詞・助動詞連用形・形容動詞連用形どれにも当て嵌めても良い。
【・元気ですごす。⇒元気という様態(様子)ですごす。】
元気という様子が客観的にうかがえることを示唆している。
というニュアンスと捉えるのが妥当。
2.
【・無意識にやる。⇒無意識という精神状態をかかえた状況のままやる。】
無意識という精神状態が主体の内面にあることを示唆している。
【・無意識でやる。⇒無意識という様態(様子)でやる。】
無意識という様態(様子)が客観的にうかがえることを示唆している。
3.
【・真面目に取り組む。⇒真面目という心理をかかえた状態のまま取り組む。】
真面目という心理状態が主体の内面にあることを示唆している。
【・真面目で取り組む。】とは基本的に表現しないが、これは形容詞性の極めて強い名詞であるため、様態(様子)と捉えることが基本的にそぐわないからだろうと思います。(こうした品詞が静詞の概念に近いのかも)
未検証ではありますが、「真面目さ」という名詞がなじんでいることなどからも、そう言えるかと。
逆に「本気さ」とは(おそらく形容詞性が比較的弱いため接尾語をつける必要性に乏しく)あまり言わないはず。
4.
以上、見てきたように、「に」と「で」の違いを明確に解説しようとすれば、(おそらく)原点に立ち返り、
・格助詞+「に」=状態を表わす。
・格助詞+「で」=様態(様子)を表わす。
と捉えるのが合理的であると思う次第です。
形容動詞や助動詞として解説しても構わないが、構造としては同じことになる、ということです。
違いを聞かれた場合に、どちらも連用形なのだから、格助詞としての用法を説明しないと答えきれなくなるでしょう。
とりあえずは見切り発車ということで。
コメントありがとうございます。
膠着語である日本語に関する基本的な理解が欠けているようです。
英語などの屈折を持つ屈折語と、膠着語である日本語は語の性格が根本的に異なります。
それは、英語やフランス語が分かち書きで、単語が空白で区切られますが、日本語はカナ漢字混じりで、語を粘着し表現することからも明らかです。
このため、一語とは何かが形式的に明確でなく、文法を論じる場合にまず単語とは何かが問題になります。
日本語の単語は、単純な裸体的な一概念を一語として表します。しかし、屈折語である、英語は「be」が「am」「is」「was」と変化するように、単に存在の概念だけではなく人称、時制の概念も一語に癒着しています。
膠着語である日本語は、「ある」「赤い」「は」「が」「に」「で」など、各語が単純で、裸体的な意義を持ち一語となっています。但し、語の続きにより語の形が変化する活用を持っていますが、これは単なる形の変化で、意義は変化しません。これが、日本語の単語の基本的な特徴です。
そして、この裸体的で、単純な語を話者の個別認識の概念を表現するために、文法を媒介とし粘着し文に表現します。
このため、語単独の意義と文に表現された意味は関係はあるが異なります。この基本的な表現としての言語の本質を正しく理解しないと議論が混迷します。
形容動詞という品詞分類は、「元気だ」を一語とし、「だ」を活用語尾とするもので、<「元気」が形容動詞>ではありません。これは、形容動詞の語幹です。したがって、<「元気」が形容動詞か否かというのは、本質的な問題ではない>というのは基本的な誤認に基づく誤った認識です。
この「元気だ」を一語とする形容動詞という品詞区分は「元気」という属性表現の語と「だ」という判断を表す全く異なる意義を持つ語を一纏めにするという、単純で裸体的な語である日本語の単語を屈折語の単語と同様に解釈した、活用と屈折の相違を理解できない根本的に誤った品詞区分であるということです。
hakobuluサンと格助詞の意義について見解が分かれたのは、このような日本語の単語に対する基本的な理解の誤りが根底にあることが良くわかりました。■
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これは、属性の存在自体を独立の対象として扱うことが必要になり、しかも属性それ自体として把握して【質的】に扱う場合と、実体化・凝結化して把握して【量的】に扱う場合と二つが要求されていて区別して表現しなければなりません。
前の場合の<接尾語>が「み」、後の場合の<接尾語>が「さ」です。
「暖かみ」「暖かさ」「高み」「高さ30m」「重み」「重さ60Kg」「明るみ」「明るさ10ルックス」「可愛さあまって憎さが百倍」などと使用します。
このように、属性表現の語である静詞に「み」「さ」が付加され、【質的】に扱う場合と、実体化・凝結化して把握して【量的】に扱う場合と二つの用法が生まれています。■
なお、静詞はNo.1のコメントで述べたように属性表現の語で、名詞ではありません。「真面目」も属性であり、それを実体化して量的に捉え表現する時に「真面目さ」と表現します。
これを直接実体的に捉えた表現が、「真面目が取り柄」などの名詞としての用法です。
対象を実体として捉え表現するのが名詞で、その属性を捉え表現するのが動詞、形容詞で、動詞は時間的に変化し発展する属性の概念化、形容詞は属性を静止し固定し変化しないものとして捉え概念化しています。
学校文法の形式主義/機能主義的な品詞定義では、この辺も不明確で、時枝の品詞理解にも機能主義的な面があり、形容動詞語幹を名詞と決め付ける誤りを犯しています。■
NO.6 への補足です。
また、格助詞「で」は何を表し、判断辞「だ」の連用形「で」は何を表し、格助詞と同形の「で」が何故異なる意義を持つのかを明らかにすべきです。
この点が、現在の辞書では曖昧で、混乱しているのは、先に指摘した通り「ので」の語釈を見てみれば明らかなことです。
こういった点を指して『基本的な理解の誤りが根底にある』と指摘しているものです。■
6.
>>つまり「東京=着点」ということなのであって、~格助詞「に」が必要になる、というのがこの文の構造。
何度も言いますが、文の構造や意味を問題にしているのではなく、格助詞「に」の意義を論じています。格助詞「に」がなくとも、「東京 行く」で、意味が伝わらないわけではありません。「行く」であれば「東京」が着点であることは判ります。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/questio …
で、「お見舞いに行きました
上の文で助詞(に)の意味が知りたいです
わかりやすく説明してくれると助かります」
という質問が出るように、「お見舞い=着点」では回答になりません。
7.
>>様々な解釈に通底する意味があるのは当然と言えば当然でしょう。
当然で、これが格助詞「で」「に」の意義です。
#14へ
>>「手段・条件」こそが思い付きではない正しい解釈である、ということを【論理的に】説明していただきましょう。できますか?
これまでの説明で明らかと思いますが、若干疲れ気味なので別途とさせていただきます。
>>お礼欄が短いと思うので回答欄をわけておきますね。
御高配痛み入ります。
>>判断辞「だ」とは、助動詞「だ」を指すと思われます。
おっしゃる通りです。したがって、「綺麗だ」の「だ」は助動詞ということになります。
>>「元気で」という連用形に格助詞「で」が絡んでいるのは明らかでしょう。※
「元気で」という連用形ではなく、静詞「元気」という一語+格助詞「で」という一語の計2語の句であり、これを一語とすることは誤りだということです。絡むとは何を言われているのでしょうか。
当方の提起を良く読んで下さい。
また、活用とは何かを正しく理解して下さい。
#15のお礼のことばへ
上の補足の続きです。
膠着語である日本語は、屈折語と異なり、単純で裸体的な意義を持つ語を粘着し文を組み立てるもので、屈折語のように活用により意義が変化したり、加わったりするのではありません。
しかし、「綺麗だ」は活用語尾とされる「だ」「で」「な」がそれぞれ意義を持ち、活用語尾ではなく一語です。従って、「綺麗だ」は二語であり、形容動詞という一語とするのは根本的な誤りということです。■
上記の補足です。
1.
もう少し判り易くするために「に」に関し次の質問をしておきます。
東京【に】行く。
大阪から東京【に】行きます。
大阪から東京まで行きます。
東京へ着くまで【に】なんとかして下さい。
明日まで【に】提出して下さい。
東京は日本のどこ【に】ありますか。
これらの「に」の意義と、「から」「まで」の相違と関連を述べて下さい。
2.
素晴らしい舞台で、時間の経つのを忘れた。
この舞台と時間は同じでしょうか。
3.
彼はとても元気だった。
すっかり元気になった。
「だ」「に」の意義を述べて下さい。■
少し、補足させていただくと形容動詞については、まずその定義が何であるのかをきちんと理解して下さい。
そして、助詞、助動詞については、再三再四指摘しているように、付属語などという形式的な定義ではなくそれが何を表わすものであるのかを理解しない限り平行線をたどるしかありません。
この点については、「付属語、自立語という誤り」のNo.1のコメントに主体的表現、客体的表現の定義を引用しておきましたので参照下さい。この内容が実感として理解できないと前に進めません。これが、ソシュールパラダイムを克服する第一歩なので、論理的に了解できるまで読み込まなければなりません。■