先に、「形容動詞という誤り」を提起させていただきましたが、他の質問に対する批判ということもあり、当方の説明もストレートではなく、主旨をかならずしも十分に御理解いただけていないコメントが見られました。
当方が<「一方的な主張」というスタンスなので、素直に回答者の見解を聞けないのだと思います。>というご批判もいただき、不十分な説明をお詫びするとともに、今一度、説明させていただきたいと思います。
せっかく当方の提起に興味をもっていただき、袖振り合うも多少の縁と云う諺もあり、もう少し、噛み砕いて説明させていただきます。
ついては、内容を御理解いただいた上で、質問、疑問、反論、コメント等いただければと考えますので宜しくお願い致します。
まず、形容動詞という品詞区分は何を云っているかですが、以下の内容です。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
形容動詞
けいようどうし
日本語の品詞の一つ。「静かだ」「親切だ」のように,用言の一種で,意味上は形容詞に近く,活用の点では動詞に似たところがあるものを,全体で1語と認め,形容動詞と呼ぶ。しかし,この品詞を認めるか否かは論争があり,単語の認定法,品詞の認定法により異なる意見が出ている。また,形容動詞を認めても,どの単語がそれに属するのかという点で一致しないことがある。橋本文法では形容動詞を認めるが,時枝文法では「静か」「親切」がわれわれの意識のなかで1語として存在しており,しかも単独で使われることもあることなどを根拠として,いわゆる「形容動詞」は形容詞的意味をもつ体言に指定の助動詞のついたものとみるべきであるとしている。山田文法や松下文法でも「形容動詞」を品詞として設定してはいない。
https://kotobank.jp/word/%E5%BD%A2%E5%AE%B9%E5%8 …
この定義のポイントは、【意味上は形容詞に近く,活用の点では動詞に似たところがあるものを,全体で1語と認め,形容動詞と呼ぶ。】です。
まず、注意すべきは意味上、つまり語の意義としては<形容詞>に近いということです。つまり、属性表現の語であり、名詞ではないということです。
次に問題となるのは、<活用の点では動詞に似たところがあるものを,全体で1語と認め>ということです。この点が重要な所で、具体的な事例についてみます。
■ 形容動詞の活用と活用形
形容動詞の活用のしかたは、次の1種類だけである。
未然形_連用形__終止形__連体形__仮定形__命令形
―だろ/―だっ /だ /―な /―なら ○
―で
―に
となります。
終止形を挙げれば、「綺麗だ」「元気だ」「平和だ」等となり、「綺麗」「元気」「平和」が語幹で、「だ」は活用語尾になります。辞書の見出しには何故か語幹しか示されていません。北原保雄はスペースの節約等の理由にならない理由を挙げているのが目に付きます。
さて、<活用の点では動詞に似たところがある>とされているので動詞の活用を見ましょう。
5段活用が判り易いと思いますが、「行く」を取り挙げてみましょう。
「行か/行き/行く/行く/行け/行け」
となります。ここで、注意すべきは、「行く」の語尾「く」が「か/き/け」と変化して「行か」「行き」になっても動詞「行く」の語義は変化しません。断定の場合は「行きます」と判断の助動詞「ます」が付加されます。命令形語尾と仮定形語尾「け」は同じで、活用語尾「け」自体が仮定、命令の意義を持つのではありません。
このように、活用とは次に続く語による形の変化でしかありません。
では、これを形容動詞について見てみましょう。仮定形が判り易いのですが、「綺麗なら」「元気なら」の場合、「部屋が綺麗なら嬉しいのだが。」「彼が元気なら良いが。」で判るように、明らかに「なら」は仮定の意義を表わしています。つまり、これは意義を持つ一語であり、活用語尾ではないという事実を示しています。
英語の屈折の場合は、「be」が「is」や「was」に変化すれば、人称、時制の意義の付加、変化を表すように形式の変化が意義の変化に結びついており、単なる形の変化ではありません。
しかし、膠着語である日本語は「行く」が「行か」や「行き」に変化したところで「行く」に意義が加わり、意義が変化するものではなく、単なる形の変化です。このように、一語の形容動詞を認めるということは、膠着語の特徴である活用を屈折のように誤って取り込むということになります。
あくまでも活用だというのであれば、「元気になる」「元気である」「元気だ」の「元気に」「元気で」「元気だ」は全て同じ意義でなければなりませんが、明らかに意義が異なり、文の意味が異なります。
形容動詞説というのは、このように膠着語である日本語の一語とは何かという言語論、文法論の根幹に矛盾をもたらすものであるということです。
こうした、非論理的な誤った品詞の定義は事実に合わせ訂正すべきだということです。
では、どうすれば良いかといえば、<形容詞>に近いと言っているように、内容は静的な属性表現の語であり、<形容詞>との相違は活用を持つか否かです。したがって、この二種類を静止として一纏めにし、その下位分類として活用を持つ形容詞を認めようということになります。
これは、事物の込み入った、詳しい属性表現の語が漢語として流入し、これを和語に取り込んだ歴史的経緯によるもので、現在も「ハッピーな」「ビューティフルな」などと、外来語の取り込みに適用されています。
形容動詞という品詞を設定すると云うことは、こうした、歴史的事実、膠着語である日本語の特徴である活用という事実を捉え損ねた形主義主義的な誤りであるということです。
こうした、主旨をお伝えしたかったのですが、言葉足らずのようでした。
これが、反対に和語に浸透したのが、「静かな」「暖かな」「まん丸な」「真っ黒な」と云う用法です。
但し、「元気」「平和」「静か」などが、「元気が一番」「平和を守ろう」「二人静(か)」のように名詞として使用される場合もあり、この語は多義であるということで、これを混同すると、先のブリタニカの説明にある、<時枝文法では「静か」「親切」がわれわれの意識のなかで1語として存在しており,しかも単独で使われることもあることなどを根拠として,いわゆる「形容動詞」は形容詞的意味をもつ【体言】に指定の助動詞のついたものとみるべきである>という誤った解釈に陥ります。
このように、<形容動詞>という一語を設定することは誤りだということですが、ご理解いただけましたでしょうか。■
A 回答 (15件中1~10件)
- 最新から表示
- 回答順に表示
No.14
- 回答日時:
#13です。
>➊([活用]だろ/だっ・で・に/だ/な/なら/○)
となっていますが、それぞれの活用について、どのような意義を持っているのか、具体的に教えていただきたい、
⇒まず、助動詞「だ」は判断辞、「で」は格助詞または「だ」の連用形、「に」は格助詞です。
:
頭悪くて申し訳ありません。
念のためですが、助動詞「だ」の活用についてお尋ねしていることはお分かりですよね?
アスナロウさんは、
『明らかに「なら」は仮定の意義を表わしています』
とおっしゃいましたよね。
それでお伺いしているのです。
「だ」という終止形が判断辞であることはわかりますが、その他の活用語尾についても教えてください、と申し上げています。
「だろ」という未然形。
「だっ」という連用形。
「で」という連用形。
「に」という連用形。
「な」という連体形。
これらは、どのような意義を表わしているのですか?
毎々、わけの判らないコメントを有難うございます。
最初の提起に、「このように、活用とは次に続く語による形の変化でしかありません」と書いてありますよね。
意義とは何かも理解出来ておらず、意味との相違と関連も理解できていません。
これでは、当方の言う「に」の意義と意味の関連が理解できないのは当然で、あほらしくて物もいえません。■
No.13
- 回答日時:
#10についてご返信が無いようですが、可能でしたらよろしくお願いします。
失礼しました。見落としていました。
しかし、基本的なことが理解できていませんね。
>>➊([活用]だろ/だっ・で・に/だ/な/なら/○)
となっていますが、それぞれの活用について、どのような意義を持っているのか、具体的に教えていただきたい、
まず、助動詞「だ」は判断辞、「で」は格助詞または「だ」の連用形、「に」は格助詞です。
「に」については、これまで長々と説明してきましたが、「着点」を表すなどと頓珍漢なことを言ってきた咎めですね。
そもそも、こんな質問をすること自体、単語の定義と意義が全く理解できていないことを露呈しています。
一度、中学の口語文法の内容をまずきちんと理解して下さい。それなしに、批判も質問もできないことを自覚して下さい。■
No.12
- 回答日時:
#11です。
1.
>「活用しない形容詞」と「形容詞性名詞」どちらでも良いのでは?
⇒曖昧な品詞名はだめです。「形容詞性【名詞】」は品詞としては名詞ということで誤りです。
:
「活用する名詞」と言えば良いのですか?
2.
>形容動詞という屈折語が混在していると捉えれば済む話では?
⇒馬鹿じゃないの、膠着語、屈折語というのは一つの言語規範全体の特徴の区分で単語の特徴ではありません。
そういう、レベルや階層を無視して言語という矛盾を捉えられると考えるのはナンセンスです。
:
『言語規範全体の特徴の区分』なのはわかりますが、形容動詞に限っては屈折語と考えても良いのではないかということです。
『言語規範』と言っても、そもそも出自が特殊なわけですしね。
まあ、これは感覚の問題なのでしょうけど。
3.
>文脈の理解に資するという利点があるのだとすれば、
⇒文脈以前に語の区分を誤り、句の意味を取り違える言っているのが全く理解できていませんね
:
言語過程説の弊害から脱しきれていないようです。
文脈なき語などというものが存在できると思っているのですかね。
4.
>「綺麗」のような属性概念は三浦言うところの「実体的認識」なわけ
⇒顔でも洗って出直した方が良いでしょう。
:
すみません。
ちょっと意味がよくわかりませんでした。
顔を洗う前にお伺いしておきたいのですが、つまり、
・「綺麗」は属性概念ではない。
とおっしゃっているのか、それとも、
・属性概念は実体的認識ではない。
とおっしゃっているのか、どちらですか?
毎度です。
1.
>>「活用する名詞」と言えば良いのですか?
判らん人ですね。
さすがに、「名詞が活用を持つ」などという珍説は聞いたことがありません。
どこかにそういう説がありましたか。どっかの辞書とか?
教科研文法当りの流れにはあるかもしれませんが。
2.
>>『言語規範』と言っても、そもそも出自が特殊なわけですしね。
意味不明です。「規範」とは何か判っていますか?
3.
>>文脈なき語などというものが存在できると思っているのですかね。
語、文、文章の相違と関連、文脈とは何か判って言ってますか?
4.
>>・属性概念は実体的認識ではない。
とおっしゃっているのか、どちらですか?
なぜ、属性概念と実体的認識を比較するのか意味不明です。概念を比較するのであれば、概念どうしを比較しなければ無意味です。もう少し、言葉を厳密に使いましょう。
なお、実体概念と属性概念は異なります。
>>・「綺麗」は属性概念ではない。
問題提起を良く読んで下さい。それから質問して下さい。■
No.11
- 回答日時:
#9です。
>はいそう(ウィキ解説は間違っている)です。時枝誠記が体言説をとっているのでそれを取り入れたのか、活用を持たないため名詞と判断したのか不明ですが、誤りです。何度も申し上げていますが、「綺麗な花」の「綺麗」は名詞である「花」の属性表現の語です。
:
『活用を持たないため名詞と判断した』のだと思っていましたが、違うわけですか。
これは難しいですねえ。(笑)←笑い事じゃないっつうの!(ー_ー;)
「活用しない形容詞」と「形容詞性名詞」の対立?になってくると思うのですが、
いずれにせよ、(形容動詞を仮定した場合の)語幹部分は活用を持たない品詞である、という点では一致していますよね?
『「綺麗」は名詞である「花」の属性表現の語』というのはまったくそのとおりでしょう。
ここが一致しているなら、「活用しない形容詞」と「形容詞性名詞」どちらでも良いのでは?
日本語が膠着語であること、に拘らないということであれば。
つまり、形容動詞という屈折語が混在していると捉えれば済む話では?
文脈の理解に資するという利点があるのだとすれば、それを優先しても良いような気がするのですけどね。
そもそもですが、「綺麗」のような属性概念は三浦言うところの「実体的認識」なわけですから、名詞と考えることができないはずはありません。
応答ありがとうございます。
>>(形容動詞を仮定した場合の)語幹部分は活用を持たない品詞である、という点では一致していますよね?
それが、語幹の定義です。活用する部分が活用語尾。
>>「活用しない形容詞」と「形容詞性名詞」どちらでも良いのでは?
曖昧な品詞名はだめです。「形容詞性【名詞】」は品詞としては名詞ということで誤りです。
>>日本語が膠着語であること、に拘らないということであれば。
分かち書きをしない、膠着語の特徴を正しく理解しないと、単語の区分の品詞の区分の誤ります。
そういう、非科学的、非論理的な発想を改めないと対象の本質はとらえられません。
>>形容動詞という屈折語が混在していると捉えれば済む話では?
馬鹿じゃないの、膠着語、屈折語というのは一つの言語規範全体の特徴の区分で単語の特徴ではありません。
そういう、レベルや階層を無視して言語という矛盾を捉えられると考えるのはナンセンスです。
>>文脈の理解に資するという利点があるのだとすれば、
文脈以前に語の区分を誤り、句の意味を取り違える言っているのが全く理解できていませんね。
現在の言語論は意味論ももっていないことを「名詞理解の誤り Ⅱ」で指摘しているので確認して下さい。
>>「綺麗」のような属性概念は三浦言うところの「実体的認識」なわけ
顔でも洗って出直した方が良いでしょう。■
No.10
- 回答日時:
#9です。
>何が、『「だ」「なり」「に」の三種類』なのですか?
⇒形容動詞の活用語尾とされる部分です。
:
なぜ、こういうことを聞いたのかと言えば、
『形容動詞語尾だけで意義を持つのだから「活用語尾」ではない』
という趣旨のことをおっしゃるからです。
「なら」はなんとなくわかるような気もするのですが、他の活用はどうなのだろうかと。
広辞苑では、
➊([活用]だろ/だっ・で・に/だ/な/なら/○)
となっていますが、それぞれの活用について、どのような意義を持っているのか、具体的に教えていただきたい、ということです。
それとも、『「だ」「なり」「に」の三種類』以外は、形容動詞語尾だけで意義を持っているわけではない、ということなのですか?
No.9
- 回答日時:
#7です。
>「だ」「なり」という2つの助動詞と名詞の合体形なので、「形容動詞語尾=助動詞活用形」とならざるを得ない
⇒形容動詞説によれば、「だ」「なり」「に」の三種類です。
:
すみません。
何が、『「だ」「なり」「に」の三種類』なのですか?
>そして、何度も指摘している通り、「名詞の合体形」ではありません。今一度、提起の内容を良く読み、理解して下さい。
:
下記のウィキ解説は間違っている、ということですか?
※形容動詞は、平安時代に形容詞が不足したとき、形容詞で表現できない意味を持つ名詞を語幹として「なり(←助詞「に」+動詞「あり」)」または「たり(←助詞「と」+動詞「あり」)」をつけることによって成立した[1]。※
>まず形容動詞説の誤りとして提起した内容を正しく理解して下さい。
:
むろん、それを理解するために、あれこれお尋ねしているのですから、話を逸らさず適確にお答えいただけると理解の一助につながります。
早速の応答をありがとうございます。
>>何が、『「だ」「なり」「に」の三種類』なのですか?
形容動詞の活用語尾とされる部分です。
>>下記のウィキ解説は間違っている、ということですか?
はいそうです。時枝誠記が体言説をとっているのでそれを取り入れたのか、活用を持たないため名詞と判断したのか不明ですが、誤りです。何度も申し上げていますが、「綺麗な花」の「綺麗」は名詞である「花」の属性表現の語です。
>>話を逸らさず適確にお答えいただけると理解の一助につながります。
「話を逸らす」つもりはありませんが、お詫びし注意致します。■
No.8
- 回答日時:
>あくまでも活用だというのであれば、「元気になる」「元気である」「元気だ」の「元気に」「元気で」「元気だ」は全て同じ意義でなければなりませんが、明らかに意義が異なり、文の意味が異なります。
どうしてそんなことが言えるのですか。「に」「で」「だ」は明らかに意義が異なると。
それでは逆に質問しますが、「だろ・だっ/で/に・だ・なら・〇」と活用する「だ」は一語の「助動詞」ではないとお考えですか。活用形ごとに意義が異なるものは一語とは言えないのであれば一語ではなくなります。
また、サ変複合動詞「勉強する」は二語だとお考えですか。
初めから、二語だと考える時枝氏と、一語だと考える橋本氏と対立しているだけで、「形容動詞」が間違いだと判断出来ません。
コメントありがとうございます。
見逃しており回答が遅れ申し訳ありません。
最初の問題提起に記したように、「このように、活用とは次に続く語による形の変化でしかありません」です。
つまり、意義は変化しないということです。
「元気だ」と「元気に」は明らかに意義が異なるのは、御理解いただけると思いますが。
>>「だろ・だっ/で/に・だ・なら・〇」と活用する「だ」は一語の「助動詞」ではないとお考えですか。
一語の助動詞だから意義を持ち、「次に続く語による形の変化」でしかない、活用語尾ではありませんよと言っているのですが。
>>活用形ごとに意義が異なるものは一語とは言えないのであれば一語ではなくなります。
だから、形容動詞は一語ではなく、二語だと言っているのですが。
>>サ変複合動詞「勉強する」は二語だとお考えですか。
二語だから、【複合】動詞として一語の扱いをしているものです。
>>「形容動詞」が間違いだと判断出来ません。
上記のように、二語を一語とするのが根本的な誤りでなくて何なんでしょうか。■
No.7
- 回答日時:
#5です。
形容動詞語尾だけで意義を持つのだから「活用語尾」ではない、ということですね。
活用語尾でないのだから形容動詞を認めること自体が誤りである、という理屈なのでしょう。
そういうお考えも、一応、理解はできます。
そもそもですが、「だ」「なり」という2つの助動詞と名詞の合体形なので、「形容動詞語尾=助動詞活用形」とならざるを得ないのでしょうし、また、意義の異なるものも混在することになるのだと思います。
形容動詞支持派の方は、にしても日本語理解に資するのであれば、別にそれでも構わないだろう、と考えるのでしょう。(たぶん)
ですから、アスナロウさんとしては、活用語尾とか意義が異なるとか言ってもせんないことであり、結局のところ、膠着語としての範疇を逸するので形容動詞はいかん、とおっしゃっているように見えますが、そういうことでしょうか。
であるなら、ここを詰めないと、いつまでたっても水掛け論になりそうな気はしますね。
つまり、なぜ膠着語としての範疇を逸するとよろしくないのか?という点に関しての主張を述べられるのが近道かと愚考いたす次第です。
応答有難うございます。
多少理解を深められたようですね。
>>形容動詞語尾だけで意義を持つのだから「活用語尾」ではない、ということですね。
正しくその通りで、最初からそのように指摘していますが、漸く理解いただけたのかと感じると同時に、漸くそこまでかという感が拭えません。
>>「だ」「なり」という2つの助動詞と名詞の合体形なので、「形容動詞語尾=助動詞活用形」とならざるを得ないの
形容動詞説によれば、「だ」「なり」「に」の三種類です。
そして、何度も指摘している通り、「名詞の合体形」ではありません。今一度、提起の内容を良く読み、理解して下さい。
何度言えば判るのでしょうか。このような誤った理解では論議はすれ違うしかなく、「別にそれでも構わないだろう」などという無意味な根拠のない見解になるしかありません。
>>意義の異なるものも混在することになる
誤った理解に立ち、具体的に何を言っているのか不明です。
>>形容動詞支持派の方は、にしても日本語理解に資するのであれば、別にそれでも構わないだろう、と考えるのでしょう。
日本語の基本的な理解を誤る一例を「接続助詞『ので』という誤り」で指摘ていますが理解できていませんね。
また、「付属語/自立語という誤り」に結びついていることが理解できていません。それほど、根本的な問題だということです。
なぜなら、「付属語/自立語という誤り」に対する、N氏の非論理性で指摘した通り、現在の言語論では、一語とは何かという根本的な問題が解決できていないという悲惨な状況にあります。したがって、形容動詞論が誤りであることを自ら反省できないというなさけない状況にあります。
これが、「『日本語文法事典』の欠陥」で指摘したような現在の日本語文法学会の欠陥体質に繋がっています。
>>膠着語としての範疇を逸する
などという軽易な問題ではなく、何度も指摘しているように、上記の日本語の論理的、科学的な理解の根本に関わる問題だということです。
一度に、この論理性までを理解するのは難しいですが、まず形容動詞説の誤りとして提起した内容を正しく理解して下さい。
曖昧な私見を述べられても混迷するばかりです。■
No.6
- 回答日時:
時間は時間以外では表現できません、1時間と言う概念や、1秒と言う時間についての定義の説明はできても。
ストップウォッチでハイ、スタート、ハイ10秒です、これでしか表現できません。
時間が不可欠な動きも同様、だからその動きを表す動詞は概念しか伝わりません。
<動詞>は対象の属性を運動し発展し変化するものとしてとらえ概念化し表現します。
なんと立派すぎる説明ですね、動詞の現在形に悩みましたが、今瞬間の意味の現在なんですね、ある人は動きの瞬間を切り取って・・と表現した人もいました。
質門者はそんな名y見する前に。こんな表現を手に入れたんでしょう、これはどこかから借りてきた文句でしょう、内容が十分理解できていません。
だから
>時間的な変化は動詞「話す」が表わしています
なんてこと(動詞は動きを表す事はできません、動きの概念を伝えるだけなんでしょう)、平気で言えます、語るに落ちる、を地で言っています。
>属性を静止し固定し変化しないものとして捉えて概念化したもので、話すという動作の在り方を具体化、立体化し表現するものです。
「属性を静止し」、これだけでも意味不明ですよ、属性って何?常に動いているもの?、変遷するもの?、むしろ逆でしょう、細部は常に変遷していても、属性としては変わらない。
こんな事場いくら並べ立ててもねー。
なんじゃこれ!、言葉明瞭意味不明ですよ、自分の妄想に都合良さそうな言葉を思いつくまま並べただけ、そんな感じです、理解し、それで何かをイメージできる人、おそらく皆無と思います。
一つの例、点を無限に並べれば線になり、線を無限に並べると面になる。
そんな事を言っているのと同じです、さも最もらしく聞こえます、が、無限に対応する現実はありません、位置を示すだけの点、現実では面積のあるもので表示されますが、定義に沿えば目視確認できません、いくら並べても線にはなりません
流暢は、単なる動きでも流暢な動き、なんて売にも使われます。
立ち居、振る舞い、人の動きまわるる様を観察して、どう感じるか、言葉で表現してはいけない?、それを表現しようとしたのが形容動詞。
形容詞が対象の特性、特徴を表現とすれば形容動詞は、姿、形が時間と共に変化してする様を、グラフで言えば傾き一定の直線ではなく、急に折れ曲がる破断点もなく、かといって数式で表せる二次曲線等でもない、非線形曲線で表される様子を(人間が)他の動物と異なる知性、理性、感情で感じた内容、いわば主観でもあります、それを表現。
主観である以上、客観性に欠けます、だから、断定に使われる助動詞「だ」と同じ活用で使用されます、いわゆる、余談と偏見に基づく独断です、と断る必要があるからです。
「だ」を敢えて断定の助動詞とは言わず、断定辞と言った人もいます。
断定の状動詞と言ってしまえば、その前の語幹に当たる部分は形容詞、とも言えます。
ナ型と言うより、断定の助動詞を伴う形容詞、と言うことになります。
でも、これは表面的なもので有り(表現する内容がまるで違います)、倫理的と言えるのかは疑問です、倫理が表面上のみの整合性・・・・と言うなら話しは別ですが・・・、と言うことならば、倫理、倫理と言う値打ちに疑問すら感じかねません。
※動詞で伝えられる概念に対し、必要な要素(多分時間に関する感覚?)、を受けとる側で用意し、伝えられた概念と合わせて、脳が動きとして認識する。
これ先に言ったかな、NHKでも報道がありました、分けのわからない言葉の連続、ある単調な音を聞き、その直後に再びそれを聞けば、あら不思議、まともに事場として聞けました。
言葉、文法だけのオタク(系?)の人では、こんな理解のし方とてもしないでしょうね。
だから言葉明瞭、全体としては意味不明になります、借りものの言葉との矛盾にも気づきません。
不毛の議論は終わりにします。
丁寧な応答をありがとうございます。
私見を下記します。
>>無限に対応する現実はありません、
現実は無限です。「あなた」自身が存在することがそれを証しています。
>>位置を示すだけの点、現実では面積のあるもので表示されますが、
勿論、大きさを持たない点などというものが現実に存在するわけではありません。それが、現実からの抽象、概念化ということで、この点が全く理解されていません。
『反デューリング論〈上巻〉―オイゲン・デューリング氏の科学の変革』【(1952年) (岩波文庫):エンゲルス、 粟田 賢三(訳)】がAmazonで中古品として、¥51 (17点の中古品)で購入できますし、図書館にありますので、つべこべ言う前に、この第1編 3章他を熟読してからにして下さい。
当方は、文法だけのオタク(系?)ではなく、電気工学を学び、コンピュータ開発検査等を経験したものです。
妄想に付きあっている暇はありません。■
お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!
おすすめ情報
デイリーランキングこのカテゴリの人気デイリーQ&Aランキング
マンスリーランキングこのカテゴリの人気マンスリーQ&Aランキング
-
名詞+〜な為、名詞+〜の為
-
「ことと思います」「ことと存...
-
「好き」は動詞
-
「時間的に余裕が無い」の文法...
-
たくさんの品詞は? めまぐる...
-
「往々にして」
-
嫌い(きらい)はなぜ形容動詞な...
-
「ピクニック」の歌詞で「ほが...
-
「~さ」と「~み」の違いを説...
-
「急に」の品詞は?
-
必須"な"もの?必須"の"もの?
-
「明快」と「明解」の使い分けは?
-
「◯◯か」のように”か”で終わる...
-
「一緒に」は副詞?それとも名...
-
「変な」は連体詞?
-
形容動詞と名詞+だの見分け方に...
-
自嘲げ、の読み方は?
-
「様々の」という表現
-
「一生/生涯/永遠に」愛している
-
「比較的な〜」「比較的に〜」...
おすすめ情報
なお、さらに詳細な批判は三浦つとむ「形式主義文法論の吟味 」(『文学・ 哲学・言語』国文社:1973)を参照下さい。
また、現在の形容動詞論の一端を伺うには、下記を参照下さい。形容動詞設定の歴史的経緯が説かれています。
権 善和 「日本語形容動詞の研究」
https://dspace.inha.ac.kr/bitstream/10505/14526/ …
■
なお、「なら」は仮定形ですが、「ならば」は「なり」の仮定形+仮定の接続助詞「ば」で、仮定を表わす句というべきもので、仮定の意義を直接に表わすのは仮定の接続助詞「ば」ですね。
ば[接助・係助]
[接助]
1 口語では活用語の仮定形、文語では活用語の未然形に付く。未成立の事柄を成立したものと仮定する条件を表す。もし…ならば。「暇ができれば行く」「雨天ならば中止する」
【デジタル大辞泉の解説】■
>>名詞の合体形なので、「形容動詞語尾=助動詞活用形」とならざるを得ない
「合体形」と形式に捉われる発想がまず問題です。言語は意義、意味を表わすもので、言語実体観のためこの関係が理解されないということです。
そして、「形容動詞語尾=助動詞活用形」とならざるを得ないのが何故、どのような根拠からなのかも理解できません。
論理を進めるためには、その根拠に照らし確認しないと、結局感覚的な理解、発言にしかなりません。
これまでの応答を反省されれば、明らかかと思いますが。■