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付属語、自立語という誤り

形式主義/機能主義的な文法論の誤りについて見解を伺うべく、「形容動詞という誤り」「接続助詞《ので》という誤まり」を提起しましたが、その根底にある品詞分類の基準である「付属語、自立語」という誤りについて指摘したいと思います。

この定義は次のようなものです。

① 自立語(じりつご)
自立語は、単独で文節をつくることができる単語である。かならず文節の最初にきて、一つの文節に一つだけある。

② 付属語(ふぞくご)
付属語は、単独を文節をつくることができず、つねに自立語のあとに付く単語である。一つの文節に付属語がなかったり、二つ以上あったりする。

https://www.kokugobunpou.com/%E6%96%87%E6%B3%95% …

98%E8%AA%9E%E3%81%AE%E5%88%86%E9%A1%9E-1-%E8%87%AA%E7%AB%8B%E8%AA%9E%E3%81%A8%

E4%BB%98%E5%B1%9E%E8%AA%9E/

文例を挙げます。

【だが】私は納得できない。
【です】が本当とはおもえません。
【だ】から言っただろう。
【で】結果は?
【で】は明日御伺いします。

付属語は、「つねに自立語のあとに付く単語である」とされていますが、これらの例は、これを否定しています。都合の良い事例のみに基づく定義は恣意的、誤りというしかありません。

実は、これは学校文法だけの問題ではなく、日本語教育文法他でも実質語、機能語などという同様の区
分がなされており、同類というしかありませんが、この当りはどのように理解されているのでしょうか。

これでは、中学生、受験生が混乱し、卒業と同時にきっぱり忘れ去るというのも、むべなるかなということになります。■

質問者からの補足コメント

  • 当然のことながら、下記のような質問が出され、回答できないというのが現状です。

    https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/questio …

      補足日時:2019/07/27 14:42
  • なお、「本である。」の「ある」は肯定判断の助動詞で、判断辞「だ」の連用形「で」と合わせ「である」と肯定判断の強調に」なります。

    さらに強調する場合は、「絶対に正しいのであるのであります。」と形式(抽象)名詞「の」を間にはさんで、判断辞を累加することになります。■

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/07/27 21:24
  • なお、自然言語処理については下記を参照下さい。

    「言語の過程的構造と自然言語処理 」

    http://www.kcn-kyoto.jp/~sat/data/publications/1 …

    池原 悟 『非線形言語モデルによる自然言語処理―基礎と応用』(岩波書店;2009/6/25)

      補足日時:2019/07/27 22:52
  • なお、現在の辞書類がどのような性格のものであるかは、先にコメントさせていただいた通りですが、ご理解いただけましたでしょうか。■

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/07/28 16:09
  • また、辞書の品詞に言及されていますので、若干補足させていただきます。

    この点に関しては、三浦つとむ「<助動詞>と<助詞>の自立した使いかたについて」(『言語学と記号学』勁草書房:1977)という論文があり、次のように記していますのでご参考までに引用させていただきます。

     教科書文法では、「だが」「だから」「では」「でも」などを、<助動詞>プラス<助詞>というむすびつきが《固定して単語化し、<接続詞>になったもの》と解釈する。【<接続詞>は自立語に入っているから、付属語と付属語が複合して自立語化したという解釈である。右の例も<接続詞>が文の先頭に使われていると解釈するならば、<助動詞>はかならず上の語に接続するという主張を撤回しないですむわけである】。しかし、後で見るように、<助動詞>や<助詞>を単独に使う例もあるから、こう解釈したところで問題は解決しない。↓

      補足日時:2019/07/28 17:14
  • →接続詞というならば、何と何を接続する語であるのか、それを明らかにしなければならないし、会話の相手のことばとこれらの話し手のことばとの接続だというならば、それがどう接続されているのかを具体的に説明しなければならない。《形式的には何ら接続されていないから》である。別れの挨拶に「【で】はこれで失礼。」というようなときには、会話の相手の言葉さえ存在しないのである。しかも、【接続に使われる語がすべて<接続詞>でないこと】は、教科書文法の<接続助詞>を区別することで承認しているのである。/

    ここで、「後に見るように」と記されているのは、漱石の『それから』や久保田万太郎の小説の会話などが例示されていますので、一度ご確認下さい。この指摘の誤りや、それを説いた論文等があれば是非にも学ばせていただきたく御教示の程宜しくお願い致します。■

      補足日時:2019/07/28 17:16
  • nwsaburoo氏よりピント外れの丁寧なコメントをいただいたので、もう少し「付属語、自立語」という定義の誤りに触れておきます。

    会話の場合、「で?」「では、次へ。」「と、おっしゃいますが。」「が、それは理解致しかねます。」など頻繁に使用されます。

    また、かつて「てなもんや三度笠」という喜劇や、「てなこと仰いましたかね」などという「東雲節」、「しのゝめ節」(しののめぶし)の文句もあり、単独で文節をつくることができ、つねに自立語のあとに付く単語ではないことを日本語の事実が証明しています。

    さらに、【「付属語」は、それ一語だけでは言葉として意味が分からないのです。】などという説明がよくなされます。

    「国語文法」
    http://xn--vcs415akpfnn7a.com/%E4%BB%98%E5%B1%9E …
    など。↓

      補足日時:2019/07/29 11:09

  • しかし、意味がわからないのであれば、言葉ではなく、使用もできません。

    「で?」が意味を持たないのであれば、言葉を発することも、聞き手は何を言われているのかも意味不明で、単なる物理的な音でしかあり得ません。

    そうでないことは、明らかで、「付属語、自立語」という定義が根本的な誤りであることが御理解いただけるのではないでしょうか。

    「う~ん。このレベルの議論が通じませんか。」

    と言うしかありません。■

      補足日時:2019/07/29 11:12
  • 上の文章は残念ながらコメントを戴いた#5のN氏にこそお返しすべきものということになります。

    そして、これが現在の日本語文法のみならず、西欧の言語学も含めた実体であるということです。

    とりあえず、ここまでの論理は御理解いただけましたでしょうか。

    N氏も御指摘のように、「こういうことを議論するには、相手を選ばないとむだな時間を浪費するだけで、得るものがありませんから。」ということは避けたいと考えています。■

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/07/30 20:39
  • なお、経緯をいえば、「付属語、自立語という誤り」を当方が提起し、それに疑問を提示されたので、その反証を示したもので、この過程の中の反証の部分だけを取り出し質問されているものです。

    したがって、先ず最初の提起の内容を正しく理解して下さいということです。

    形容動詞で、訳のわからないことをいわれ、混乱した経緯がありますので。■

    No.9の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/07/31 07:11

A 回答 (14件中11~14件)

No. 2の続きです。



う~ん。このレベルの議論が通じませんか。

ふむ。まあ、一応乗りかかった舟だから、解説を加えておきましょうか。

まず、質問者の主張を振り返ります。

  A
    品詞分類の基準である「付属語、自立語」という誤りについて指摘したいと思います

     ② 付属語(ふぞくご)
    付属語は、単独を文節をつくることができず、つねに自立語のあとに付く単語である

とし、文例をあげます。

  B
   【だが】私は納得できない。
    【です】が本当とはおもえません。
   【だ】から言っただろう。
   【で】結果は?
   【で】は明日御伺いします。

で、これらの文例が付属語の定義を否定していると主張します。

  C
    付属語は、「つねに自立語のあとに付く単語である」とされていますが、これらの例は、
    これを否定しています

ここのところ、はっきり書かれてはいませんが、

  D
   上の文例の【 】で囲まれた部分は付属語であり、それらは「自立語のあと」にない

という主張だと解釈します。

以上、私の解釈で質問者の主張をまとめてみましたが、ここまではよろしいでしょうか?

それに対して、No. 2で、私は、

  E
   「自立語/付属語」という区別に基づいて品詞分類をしている新明解・明鏡国語辞典から、
  
 F
   【 】で囲まれた部分、およびそれを含む語を「接続詞」としている項目を引用し、
   「辞書ぐらい引いてからものを言いましょう。」というコメントをつけました。

それに対する質問者の反応は、

  G
  現在の誤った、明解でない辞書を根拠にすることは全く問題になりません。 

でした。私の回答の意図をまったく理解していない、見当はずれの反応です。

まあ、私が上記Fのところでもう少し説明を加えておけばよかったのですが、辞書の項目を示せば、「ああ、そういうことか」とわかるだろう、と期待してしまったのです。(面倒だった、というのが本音です)

質問者が理解できなかった点を解説します。

  H
   私が示したのは、「自立語/付属語」の区別が正しい、ということ<ではなく>、
   辞書の項目の立て方が正しい、ということ<でもありません>。
したがって、
      辞書が誤っているか、明解でないか
    は「全く問題になりません」。

  I
 私が示したのは、 
     I-1 「自立語/付属語」という区別のしかたと、
     I-2 辞書での項目の立て方、つまり、語の認定のしかたが
     I-3 整合性がある、論理が一貫している
  ということです。

質問者は、
   辞書が誤っているのだから、その記述を根拠にはできない、
と言っていますが、これは「論証」ということがわかっていません。

初めに戻って、質問者は下の「C」を批判するために、

  C(再掲)
   付属語は、「つねに自立語のあとに付く単語である」

文例をあげて、

  D(再掲)
     上の文例の【 】で囲まれた部分は付属語であり、それらは「自立語のあと」にない

と言っていますが、これは「【 】で囲まれた部分」が付属語であるという仮定に立っています。
しかし、これらの語は、(辞書が依拠している論では)「付属語」ではありません。

一般に、ある論を否定するために、その論に従って論理/論証を積み重ねると矛盾が起こる、といういわば背理法にも似た論証をすることがありますが、その場合、使う資料・分析は相手の論理に従ったものでなければなりません。

相手の論では付属語としていないものを切り出して、これらの「付属語」は「自立語のあと」にないではないか、お前の論は自己矛盾している、などというのは「いいがかり」というものです。

自分の論に基づいて作った資料・分析を持ち込んで、相手の論に合っていない、だから相手の論は誤りである、というのは正しい論証のしかたではありません。
この場合、どちらの論が正しいかはより全体的な体系の検証が必要です。

くり返しますが、ここの話はその「論の内容・結論」が「正しい」かどうかとは別の問題です。「論証のしかた」の話です。

哲学に詳しい方のようなので、こういう話はすぐ伝わると思ったのが間違いでした。

以上、「辞書ぐらい引いてからものを言いましょう。」というコメントに含まれていた考え方を解説してみました。さて、これが通じるかどうか。

saburoo
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

詳細な説明、解説を有難うございます。
残念ながら、論点がズレているようです。

御指摘に沿って説明させていただきます。

まず、当方の主張ですが、
>>D
   上の文例の【 】で囲まれた部分は付属語であり、それらは「自立語のあと」にない
という主張だと解釈します。

ご理解、ご指摘の通りで、事実その通りであるということです。

>>私が示したのは、 
     I-1 「自立語/付属語」という区別のしかたと、
     I-2 辞書での項目の立て方、つまり、語の認定のしかたが
     I-3 整合性がある、論理が一貫している
  ということです。

 当方が問題にしているのは、辞書の論理の一貫性などではなく「自立語/付属語」という区別のしかた自体の誤りです。事実を示し、誤りを指摘しているのに、そこへ辞書などを根拠に持ち出すのは何ら、根拠にはならないということです。

>>この場合、どちらの論が正しいかはより全体的な体系の検証が必要です。

当方が主張しているのは、膠着語である日本語の全体的な体系の検証の基に、「自立語/付属語」という区別のしかたという誤りを指摘しているもので、辞書類の品詞区分が多くの点で誤っていることは、先の<形容動詞という誤り><接続助詞「ので」という誤り>で指摘している通りです。

一辞書の論理の一慣性などという問題の矮小化は、本提起の本質を理解されていないものと云う他ありません。

当方は膠着語である日本語の事実に基づき、 「自立語/付属語」という区別のしかたの誤りを指摘しているものです。

これは、既に学校文法の生みの親である橋本進吉の教え子であり、後継者でもある時枝誠記が指摘しているところでもあります。

ここでの提起は「論の内容・結論」が「正しい」かどうかということが問題で、「論証のしかた」も当然問題にしなければなりません。

問題提起の内容を正しく理解いただきたいと思います。

さて、これが御理解いただけるかどうかですが?■

お礼日時:2019/07/28 15:54

お礼を読ませていただきました。



1.客体的表現の語
[山」「川」〔犬」「走る」
「悲しみ」「よろこび」「要求」「懇願」

2.主体的表現の語
「ああ」、「まあ」、「おい」、「ねえ」など、<感動詞>
「……だ」「……ろう」「……らしい」などの<助動詞>
「……ね」「……なあ」などの<助詞>

この1,2の下位の分類はどうなりますか。「走る」という動詞が1に分類されるということは、動詞全般1でしょうか。どうもそうでは無いようですが、その他のことばについても知りたいので、まずは基本となる系統樹全体をお示し下さい。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

1.客体的表現の語(詞)

名詞・代名詞/動詞/静詞*1/副詞/接頭(尾)語/連体詞

*1:静詞:活用を持つ形容詞と、活用を持たないもの、いわゆる形容動詞の語幹とがある。

2.主体的表現の語(辞)

助詞/助動詞/感動詞/副辞*2/接続詞

*2:学校文法でいう陳述副詞

になります。

また、

本がある。

の「ある」は動詞、

本である。

の「ある」は助動詞

柿が赤くない。

の「ない」は否定の助動詞になります。

つまり、補助用言などという機能主義的な品詞分類は誤りで、接続助詞とされる「て」は確認の助動詞、「ている」の「いる」は継続・進行を表わす動詞になります。

顔が赤いのが心配だ。

の「の」は形式(抽象)名詞 になります。準体助詞などという品詞もありません。

当然、動詞全般1です。

これにより、明解、論理的な品詞区分となります。

この体系は音声認識、機械翻訳などの科学、工学の自然言語処理の基礎となっています。■

お礼日時:2019/07/27 21:18

だ が (接)


だ から (接)
で (接) それで。
で は (接)
[新明解国語辞典第七版]

です‐が 接 「だが」の丁寧な言い方。
[明鏡国語辞典 第二版]

辞書ぐらい引いてからものを言いましょう。

saburoo
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

現在の誤った、明解でない辞書を根拠にすることは全く問題になりません。

すでに、<形容動詞という誤り><接続助詞「ので」という誤り>で指摘した通りです。

 現在の辞書編纂者は、文法を研究して自説を立てている学者ではない。現在の出版社は、学生の要求に応じて辞典を作るのであるから、学校で教えている文法の規定に従うことが営業上必要である。権威ある出版社が収録語数の多い厚い辞典を出しているからといって、明治のはじめにくらべてヨリ優秀な辞典だということにはならない。
(三浦つとむ『認識と言語の理論  第三部』107p 注)

ということです。

 もっとも、[明鏡国語辞典 第二版]は一応、文法研究者の北原保雄(編)ですが、その文法論たるやいかなるレベルかは、下記Amazonレヴュー「チョムスキー並みの形式主義文法論の混乱」に記してありますのでご参照下さい。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1T …

お礼日時:2019/07/27 15:59

ご批判は分からないでもないです。


自立語・付属語に代わる品詞分類をお示し頂かないと優劣は判断しづらいと思います。
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この回答へのお礼

適切な質問をありがとうございます。

 これは、すでに時枝誠記が師である橋本進吉のソシュールパラダイムに依拠した形式主義/機能主義的な文法論を批判し、『国語学原論』で、客体的表現の語である<詞>と主体的表現の語である<辞>という根本的なニ大区分を提起しております。

しかし、時枝の助手であった大野晋や金田一春彦がその本質を理解できないまま批判し、その語、渡辺実らによる機能主義的な理解に解消され、橋本文法が惰性的に放置されているのが現状です。

ここでは、時枝の提起を唯物弁証法の立場からより明確にした三浦つとむ『日本語はどういう言語か』の解説を示しておきます。

 いま、一切の語を、語形や機能などではなく、対象→認識→表現という過程において調べてみると、次のように二つの種類に分けられることがわかります。

 1.客体的表現の語
 2.主体的表現の語

 1.は、話し手が対象を概念としてとらえ表現した語です。[山」「川」〔犬」「走る」などがそれであり、また主観的な感情や意志などであっても、それが話し手の対象として与えられたものであれば「悲しみ」「よろこび」「要求」「懇願」などと表現します。これに対して、2.は、話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを、客体として扱うことなく直接に表現した語です。悲しみの「ああ」、よろこびの「まあ」、要求の「おい」、懇願の「ねえ」など、<感動詞>といわれるものをはじめ、「……だ」「……ろう」「……らしい」などの<助動詞>、「……ね」「……なあ」などの<助詞>、そのほかこの種の語をいろいろあげることができます。ここに表現されているのは、古い認識論でいわれている意味での概念ではありませんが、言語表現によって感情や意志が普遍的・抽象的なものとしてとらえられるという意味で、新しい認識論ではこれを特殊な概念と認めるのが適当でしょう。
 このような区別は、日本では古く鎌倉時代から問題にされていて、江戸時代になると本居宣長の門下の国語学者鈴木朖がその性格のちがいを明確に指摘しています。/

これは昭和31年に出版され、その後改訂版が出され現在も版を重ねていますが、正しく理解されることなく、学校文法の怪しげな形容動詞論が論じられているのが実状です。■

お礼日時:2019/07/27 15:42

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