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これまで、

<「名詞」理解の誤り Ⅱ」: 名詞が指示をするのか?>
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11232737.html

西山佑司『日本語名詞句の意味論と語用論-指示的名詞句と非指示的名詞句 』の非科学性
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11236898.html

で、本著作の誤りを明らかにしてきたが、さらに、コピュラ文、カキ料理構文論の基本的な誤りを指摘し、諸賢のご意見をお伺いしたい。
http://www.hituzi.co.jp/books/180.html

先の回答にも、カキ料理構文への言及があり、疑問にお応えしたい。

 まず、コピュラ文に対する誤りから指摘しよう。
 第 3 章で、単文のなかの単文の例としてコピュラ文を挙げ、次のように述べている。

  (a).  AはBだ。
  (b).  AがBだ。
 
これは、主語名詞句と述語名詞句を「繋辞(コピュラ)」と呼ばれる【特殊な動詞】である「である」「だ」で結びつけたもので、「コピュラ文」と呼ばれる。/(119p:【】強調は引用者)

ここでも、主語名詞句やら述語名詞句というのはコピュラにより結びつけられた結果の機能名称でしかなく、因果を逆転したものでしかない。それゆえ、その機能を果たすのが「コピュラ」とされる【特殊な動詞】ということにされる。

この「である」「だ」は、日本語文法を学んだ者には明らかな通り、判断(指定)の助動詞「だ」であり、「で」はその連用形、「ある」も肯定判断辞【である】。つまり、「である」は肯定判断辞の重加による判断の強調なのである。英語で云えば、助動詞「be」である。

そして、「(a).AはBだ。」は、名詞句Aの特殊性の認識を副助詞「は」で表し、それが名詞句Bと同等であることを肯定判断しているものである。それに対し、 「(b).AがBだ。」は、Aの個別性の認識を格助詞「が」で表わし、Bとの同定の判断を表現するものである。

著者は、このような話者の認識構造を捉えられずに、コピュラの機能を論じ、コピュラの統語的研究はあまり進んでいないとピンボケな記述をしている。このような機能論では、当然ながら論の進めようがないのは論理的必然である。

この錯誤に基づき、カキ料理構文を指定文、倒置指定文として論じ、次の例が挙げられる。

   (1) 広島が、カキ料理の本場だ。 (指定文)
   (2) カキ料理の本場は、広島だ。 (倒置指定文)
   (3) カキ料理は、広島が本場だ。/(258~9p)
               
この3文の関係をめぐって、変項名詞句やら主題化を素材にグダグダと論じられている。
しかし先に論じた通り、これらは、個別性の認識を表す格助詞「が」、特殊性の認識を表す副助詞「は」によるコピュラでしかなく、倒置などというのは単に形式に囚われた誤りでしかない。

(1)は、「広島が、(カキ料理の)本場だ」という構造であり、(2)は「(カキ料理の)本場は、広島だ」、という単なるコピュラである。

(3)は、総主文である「象は鼻が長い。」という特殊の下の個別の判断を表す、いわゆる「~は~が~」という構文で、「カキ料理は、〔(広島が)本場〕だ」という構造である。

このように、認識構造と対象自体のもつ構造との対応を正しく捉えることなく、実体としての文の変形を論じても何の解明、解決にもならないことが明らかである。

「「非飽和名詞」を含む構文の構造と派生」
http://j-int.info/wp-jint/wp-content/uploads/201 …

も同様のグダグダの論文である。

このような、真面目な馬鹿話の瀰漫をどのように感じられるであろうか?

その根底にあるのは、ソシュールパラダイム下の形式主義/機能主義的な誤った非科学的な言語観である。■

質問者からの補足コメント

  • 語の意義と文での意味の相違と関連が理解できなければ、意味を意義に結び付けるしかありません。格助詞「が」の意義とその使用法を混同するしかありません。

    総記/中立は語の意義ではなく、文の意味の分類に過ぎません。

    この区別が付けられなくて、なにが表現理解か、ということになりなす。

    もっとも、表現とは何かが理解できていないのではどうしようもありませんが。

    こんな馬鹿話の教育をもっともらしくするため、次のような珍奇な論文が量産されます。

    鈴木 彩香「裸名詞句の総称/存在解釈の統一的説明」

    >>機能主義というのは、形式と意味を不可分のものとしてとらえる見方だ。

    科学は本質を明らかにしなければなりません。社会科学では、失敗を重ね、明らかなことが言語学、文法論では無反省ということです。反省能力が無いということですが。
    破綻したスターリニズムや、構造主義などがその典型です。↓

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/11 18:14
  • >>「言語は主観的な聯合作用に拠るしかないものだ」と主張する

    それはカントの不可知論に依拠する回答者らの立場です。言語は規範を媒介とした話者の概念認識の表現です。

    >>言語の生物学的側面

    こういう寝言を言っている間は、科学的な思考はできません。

    「地獄への道は善意で敷き詰められている」
    The road to hell is paved with good intentions.
    ("L'enfer est plein de bonnes volontes ou desirs")

    ので、シナイ半島で禊ぎをしましょう。■

      補足日時:2019/08/11 18:18

A 回答 (3件)

連投 ごめんください。



《Aハ Bガ Cナリ。 / Cスル。》の構文そのものについて 次のように分析してい
ますので 併せてごらんになってみてください。


【Q:日本文は 論理の表わし方が ソフィスティケートしているので ややこしいかも知
れない。】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10946407.html


1. 日本語文におけるハ格とガ格について その成り立ちを問い求める中に 表題を
考えます。ご見解をどうぞ。

2. つまりたとえば:

( a ) 太郎ハ 花子ガ 好きだ。

3.これは まづは・あらかじめながら:

(α)  《Aハ Bガ Cナリ。 / Cスル。》の構文

と捉えます。

4. このハ格とガ格の用法は 一筋縄では解けないようです。次のようにまったく
違ったふたつの解釈が 文脈を別とすれば ふつうに・そして互いに自由に対等に 
できるようです。

( a-1 ) 《 Aガ Bヲ 好く》という解釈例: 
 ・ 太郎が好きな相手は 花子だ。( Taroh likes Hanako. )

( a-2 ) 《 Aヲ Bガ 好く》という解釈例:
 ・ 太郎を好きなのは 花子だ。( Hanako likes Taroh. )



5. 言いかえると ハ格もガ格もそれぞれ同じように 主格(主語格)としてのガ格
かまたは対格(目的語格)としてのヲ格かをそのままで意味しうるからです。

6. つまり (a)文のハ格は 主格――Aガという主語をしめす(a-1)――となっ
たり 対格――Aヲというように主語の動作の対象となっている(a-2)――を代用した
りする。

7. 言いかえると 文の中の語句どうしの意味連絡を確かめる前の段階では ハ格も
ガ格(ガ格一般)も ともにその意味は確定しない。こういうことになります。

・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 不一にてですが。
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この回答へのお礼

応答ありがとうございます。

基本的な観点の誤りがあります。

言語は話者の認識の表現であり、

4. このハ格とガ格の用法は 一筋縄では解けないようです。次のようにまったく
違ったふたつの解釈が 文脈を別とすれば ふつうに・そして互いに自由に対等に 
できるようです。/

というのは、根本的な誤りです。
話者の認識の表現である以上、「まったく違ったふたつの解釈」などありえあず、話者が表現しようとした意味があるだけです。

>>文の中の語句どうしの意味連絡を確かめる前の段階では ハ格もガ格(ガ格一般)も ともにその意味は確定しない。こういうことになります。

副助詞、係助詞「ハ」、格助詞「ガ」は規範としての意義を持っており、この意義に基づき使用されるものです。

多義の語であれば、話者の認識に対応する文の中の語句どうしの意味連絡を確かめることにより、どの意義で使用されているかを確認することになりますが、これは、「ハ」「ガ」だけの問題ではなく、語一般の問題です。■

お礼日時:2019/08/16 09:59

唐突になりますが 《A ハ B ガ C ナリ。

/ C スル。》なる構文について 次のよ
うに分析しています。

横からの投稿というかたちで恐縮ですが よかったら目をとおしてみてください。



【Q:言語類型論におけるあたらしい仮説です。どうでしょう?】 ~~~~~~~~
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10803047.html

1. 日本文と英文とは 構文ないし文型として 互いに対極を成すという見方です。

2. 初めから 《文》を扱います。文は 話し手の思想をあらわすものである。

3. 思想は 問いと答えとから成る。話者は ひとつの文の中で自問自答する。

4. 問いは 主題( T )として提示される。答えは 主題を問いとし それに答え
る論述( P )である。答えが さらにあたらしい問いになるという意味でも 論述も 
論述主題である。

5. すなわち 文は 主題( T1 / T2 /・・・)をつらね これらを最後に論述( P )
が承けてひとつの思想をしめくくる。:

   T1 + T2 + … + Tn=P。

6. これは 日本文および朝鮮文にならって 三項形式に還元される。:

   T1  + T2  + T3=P。

   A ハ B ガ C ナリ。/ C スル。――(α)類型とする。




7. さて 議論を端折りますが 世に言う能格( ergative )言語(バスク語など)
では おおむね初めのふたつの主題提示( T1 + T2 ) を この日本文の類型と同じ
ようにおこなうことが ひとつの特徴です。 

8. つまりそのあと 論述主題( T3=P )にあっては 次のようにすでに述語動
詞の担う意味内容から見て その主体(主格)および対象(賓格)を わざわざあら
ためて示します。ていねいに あらわすかたちを採る。
この《 主格 ‐ 述格 ‐ 賓格 》を 英文にならって S - O - V で表わすこととしますと
次のような仕組みに成っています。

 〇 能格言語の文の構成:

   T1  + T2  + T3=P。

   A ハ B ガ C ナリ。/ C スル。――日本文としての(α)類型

   A-a   B-b   C= [ S′ - V - O′ ]。――能格言語の構文


   ・ A-a / B-b: 小文字のほうは 日本語のハ格やガ格に相当する格活用

   ・  S′ / O′: プライム( ′ )なるシルシは 人称接辞を示す。(つまり 
      むろん主題としての A や B を承けてそれらを示す接辞としての代名詞
      である)。

   ・ 賓格: 主格(主体)に対する賓客(客体)を示す格で おおよそ対格
     (ヲ格)か与格(ニ格)かである。

   ・ 述格: 論述主題( T3=P )に当たる《 C= [ S′ - V - O′ ] 》の述語動
     詞( -V- )の格である。つまり 主題提示〔における主格 S 〕に対応す
     る論述提示〔における述格 V )。

 


 9. A-a や B-b なる主題提示を承けたあとの論述提示としての C= [ S′-V-O′ ]
の中の S′ や O′ はたとえば こうである。

   英語‐ハ    彼‐ガ    話す。  :  (α)類型

   英語(A)-a  彼(B)-b   B′‐話す‐A′: 任意に(μ)類型とする。

               [ he-speaks-it ]


   ・ C= [ S′-V-O′ ] ⇒[ B′‐話す‐A′ ] ⇒ [ he-speaks-it ]という形である。



10. したがって 大胆不敵な推測としては 英文は ここから C= [ S′-V-O′ ]
⇒[ B′‐話す‐A′ ] ⇒ [ he-speaks-it ]の部分が突出し 独立した。つまり この論述
主題の提示の部分([ he-speaks-it ])だけでそのまま ひとつの文(思想)を表わす
かたちに成ったのだと。
むろん 代名詞( he や it )は 元の名詞に戻す。

10-1. つまり 言語一般における論述主題( T3 = P )が 日本文等で 論
述主題《 Cナリ。/Cスル。》という形になったそのあと 能格言語の文にあっては
C= [ S′-V-O′ ]という形式を採る。そしてさらに そのあと この論述主題の部分が 
そのまま文の全体に広がり しかもその言わば線形なる論理のみで文を形成すると
いうように展開した。のではないか?

   C= [ S′-V-O′ ]

   ⇒ He speaks English. : (ω)文型とする。




11. 言いかえると 英文は 主題(つまり T1⇒Aや T2⇒B)の提示を省く
ようになったということである。日本文や能格言語文では 主題提示層とそして線
形論理層との二層から成る構文である。

11-1. すなわち 英文は 次の図式の中の[線形論理層]のみから成るのだ
と。つまり二層から成る日本文(α類型)では 《英語ハ》のハ格は――[主題提示
層]において中心主題( T1=A )を提示しますという役目を担うほかに――[線形
論理層]においては  論述動詞( T3=P ⇒ Cスル ⇒ 話す) につらなる意味
連絡としては ヲ格(対格)をも担う。《英語ハ(=英語二ツイテイエバ) / (ここ
で断層があって 線形的な意味連絡の層に移る) 英語(O)ヲー彼(S)ガ―話す
(V)》。


  (α)類型の文: 英語ハ        彼ガ          話す。

  ____________________________________

 [主題提示層]: 中心主題(T1=A)・・・関係主題(T2=B)・・・論述主題
          
 [線形論理層]: ヲ格(英語‐ヲ)・・・・ガ格(彼‐ガ)・・・・・述格(話す)
          対格(O)―――――― 主格(S)―――――― 述格(V)


 ・ ハ格は 中心主題格(~~二ツイテイエバ)とたとえばヲ格(対格 O )との  
    ふたつの役割りを担う標識である





12. 重ねて述べるなら 英文は 主題提示層を無しで済まそうとしたのではない
か? 《 A ハ B ガ C ナリ。/ C スル。――(α)類型 》の構文を 《 S - O - V 》
文型へと進化させた。それ以上の進化がないとすれば (ω)言語類型の(ω)文型で
ある。

13. 中国文は しかし これらの構文や文型の決まりにはいっさい目もくれず 文
法無しの文法でやりくりしている。言いかえると (α)構文における主題提示の部分
もあれば 線形論理の S-V-O なる(ω)文型をも堂々と許容している。

14. (α)構文と(ω)文型との中間に 能格言語の(μ)構造文があり 一般にこ
の(μ)形式文と英文の(ω)文型とのあいだにいろんな進化形態が 諸言語において見
られるようである。
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この回答へのお礼

貴重な提言をありがとうございます。

しかし、基本的な前提に誤りがその後の論理展開に意味がありません。

>>2. 初めから 《文》を扱います。文は 話し手の思想をあらわすものである。

文は宙に浮いているものではないので、表現としての話し手の思想との過程的構造を無視するのは誤りです。

>>3. 思想は 問いと答えとから成る。話者は ひとつの文の中で自問自答する。

自問自答は一つの形態ですが、すべての思想は 問いと答えとから成るわけではありません。

象は花が長い。

紳士は金髪がお好き。

など、何ら自問自答ではなく、話し手の思想の表現です。■

お礼日時:2019/08/16 09:47

おや、とうとう誰にも相手にされなくなってしまいましたか。


しょうがないから遊んであげましょう。

1.「繋辞(コピュラ)」について
コピュラとは、主語と述語をつなぐ連結詞である。
にもかかわらず、
>これらは、個別性の認識を表す格助詞「が」、特殊性の認識を表す副助詞「は」によるコピュラでしかなく
>(2)は「(カキ料理の)本場は、広島だ」、という単なるコピュラである。
という。
定義をきちんと押さえないから、話がかみ合わない。

まあ、時枝誠記も「概念と聴覚映像が結合したラング」など、あまりにも基本的な誤りを何度も繰り返している。
そういう意味では、アスナロウ氏はまさに時枝誠記の衣鉢を継いでいる。



2.「判断(指定)の助動詞「だ」」
これではあまりにも単純すぎる。
・枕草子は清少納言だ
・清少納言は枕草子だ
などのウナギ文が、
・清少納言は初の女流エッセイイストだ
と区別が付かない。

まあ、ごちゃごちゃ理屈をこねるんだろうが、その瞬間に「ダ」は「判断(指定)の助動詞である」という単純さが失われることに気づかなければならない。



3.「個別性の認識を表す格助詞「が」」
あーあ、これじゃあ「総記のガ」と「中立叙述のガ」の区別が付かないじゃないか。
まあ、ごちゃごちゃ理屈をこねるんだろうが、その瞬間に「ガ」は「個別性の認識を表す格助詞である」という単純さが失われることに気づかなければならない。



4.「特殊性の認識を表す副助詞「は」」
定義もなしにそういうことを言うから相手をしてくれる友達がいなくなる。
これで科学を云々するとは傍ら痛し。



5.「カキ料理は、広島が本場だ」
この構文は「象は鼻が長い」構文とは根本的に異なる。

5-1.対応関係の相違
「カキ料理は、広島が本場だ」は「広島がカキ料理の本場だ」に対応する。
急いで付け加えるが、この二つの文は変形によって結びつけられているわけではない。
単なる対応関係だ。

「象は鼻が長い」は「象の鼻は長い」に対応する。
同じくこの二文は変形で関係づけられているわけではない。

「広島がカキ料理の本場だ」の「本場」の指定をするのが「カキ料理」である。
つまり述語の一部である。
「象の鼻は長い」は「鼻は鼻でも象の鼻だよ」と言っている。
つまり、主語の一部である。
両者を一緒くたにしてはならない。

また、「本場」はそれ自体は指示対象を持たない。簡単に言えば、「本場」だけではイメージがわかないでしょ?
同じ抽象名詞でも、「自由」や「未来」とは違う。
ましてや「鼻」のような具象物との区別が付けられなくて、なにゆえ「言語の本質は表現理解の働きにある」等と言えようか。


5-2.主述関係
「象は鼻が長い」は「象について言えば」「鼻が長いという特徴を持つ」という意味である。
つまり、「象」が主題で、「鼻が長い」全体が述語である。
ここで、「鼻」自体に強調はない。「鼻が長い」ことが重要なのだ。
それにたいして、「カキ料理は、広島が本場だ」は「広島」に焦点がある。

この違いが分からぬまま、表現理解など、ちゃんちゃらおかしい。


5-3.「ガ」再び
「象の鼻が長い」の「ガ」は総記であるが、「象は鼻が長い」の「ガ」は中立叙述である。
この区別が付けられなくて、なにが表現理解か。



6.「ソシュールパラダイム下の形式主義/機能主義的な誤った非科学的な言語観」
時枝誠記の誤解をそのまま引きずるだけの、無意味ないちゃもんに過ぎない。
大体、機能主義というのは、形式と意味を不可分のものとしてとらえる見方だ。
それも知らぬとは。

「言語は主観的な聯合作用に拠るしかないものだ」と主張するのは一向に構わないが、言語の生物学的側面をア・プリオリに非科学的と断ずるのは、まさに非科学的な態度としか言いようがない。

もう一度この言葉を捧げよう。
無粋を承知でいうと、アスナロウとHoratioは韻を踏んでいるのだ!

There are more things in heaven and earth, アスナロウ,
Than are dreamt of in your philosophy.




さて、夏休みは本当の科学にいそしむ時期だ。
残念ながら、お遊びはおしまい。
いつかまたお話しできるといいですね。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

まだ、シナイ半島へ行き禊ぎを済まされていないようで、ヘーゲル以前の周回遅れのディレーランナーですね。

>>コピュラとは、主語と述語をつなぐ連結詞である。

これは、単なる同義反復ですよね。

>>時枝誠記も「概念と聴覚映像が結合したラング」など、あまりにも基本的な誤りを何度も繰り返している。

時枝は残念ながら、規範についての認識がなく、「ラング」とは言語規範であることが理解できませんでした。しかし、言語表現の過程的構造を捉えたことは「言語学のコペルニクス的転換」と三浦つとむが呼ぶ通りで、回答者はそれ以前の段階であることを自覚すべきです。

>>その瞬間に「ダ」は「判断(指定)の助動詞である」という単純さが失われる

規範としての語の意義と文での意味の相違と関連が理解できていないことを露呈していますね。「ソシュールパラダイム下の形式主義/機能主義的な誤った非科学的な言語観」の限界です。

>>4.「特殊性の認識を表す副助詞「は」」
定義もなしにそういうことを言う

では、あなたは定義もなしに副助詞「は」をどうして使用できるのでしょう。規範に無智な、お粗末な発想です。

>>5.「カキ料理は、広島が本場だ」
この構文は「象は鼻が長い」構文とは根本的に異なる。

特殊の下の個別という立体的な認識構造を理解出来ない以上、そういうしかありませんね。

>>5-1.対応関係の相違
「カキ料理は、広島が本場だ」は「広島がカキ料理の本場だ」に対応する。

対象の持つ立体的な構造を反映した認識の表現で、表現結果の文どうしの対応など持て遊んでも意味がありません。

>>「本場」はそれ自体は指示対象を持たない。簡単に言えば、「本場」だけではイメージがわかないでしょ?

名詞が指示するという妄想を信仰するのは非科学的です。

【本場】
(1)あるものの主な産地。よい品の産地。「カキは広島が―だ」
(2)物事が盛んに本式に行われている場所。「ファッションの―」「―仕込みの芸」
〔大辞林〕

でイメージが湧きませんか。中学生にでも聞いてみては。大間は鮪の本場です。

>>「象」が主題

主題の定義を教えて下さい。俳句に主題はありますが。

>>「象の鼻が長い」の「ガ」は総記であるが、「象は鼻が長い」の「ガ」は中立叙述である。

以下、補足へ。

お礼日時:2019/08/11 18:11

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