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オーストリアでの3月革命についてです
オーストリアが様々な国を支配していてその国々が独立を目指して蜂起したのは分かるのですがオーストリアの首都であるウィーンで市民が蜂起したといのは、オーストリア
支配下の国々の人達だけでなくオーストリアの人々も支配されていたということなのでしょうか?(そもそもウィーン体制ではフランス革命以前の絶対王政を復活させて2月革命で崩壊しましたが、オーストリアではまだ続いていたということでしょうか?)

質問者からの補足コメント

  • また、ドイツではウィーン体制の時にブルシェンシャフト運動を行い3月革命の時にフランクフルト国民議会を招集しましたが、そもそもドイツはどこの国の支配下だったのでしょうか?

      補足日時:2019/08/19 20:19
  • 教科書でベルリンとドイツが分けて書かれているのですがベルリンはドイツの首都なのになぜですか?
    ただ単にウィーンでの蜂起に合わせてベルリンでも起こったということを言っているのでしょうか?

    「オーストリアでの3月革命についてです オ」の補足画像2
      補足日時:2019/08/19 20:30

A 回答 (2件)

この時代, 今でいう「ドイツ」の領域には複数の国家が存在しました. ドイツが 1つの国家として成立するのは 1871年のドイツ統一 (ドイツ帝国の成立) で, それ以前のウィーン体制におけるドイツ連邦 (今日のドイツ連邦共和国ではない) はオーストリア, プロイセンを含む 35の君主国と 4つの自由市からなっています. 「ドイツ」という国家が存在しないので「ドイツの首都」も存在しません.



歴史的にいうと「ドイツ」の範囲そのものが難しいんだけどね.
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この回答へのお礼

分かりやすかったです!
ありがとうございます!

お礼日時:2019/08/20 10:06

封建体制に「国民」という概念はありません。


もちろんそのもととなる市民の概念もです。
市民と言う概念は、西ローマの滅亡とともにいったん滅びました。
それが復活するのはピューリタン、フランス革命以後です。

封建体制では国民とか市民とかだけでなく、人権というのもありません。
キリスト教は神の下の平等を唱えていましたが、それはあくまでキリスト教徒だけの「等しく神の救済を受ける権利」であり、しかも身分や財産、法律の平等を約束していません。
身分などにかかわらず同じ法律を受けられるようになるのは、やはりフランス革命以後の「法の下の平等」が確立して以後です。
それ以前は、身分により適用される法律自体が違っていました。
封建体制化の海藻と言えば大きく分けて元首である王、その臣下である貴族、あとは被支配者です。
法律は王が作り、貴族はその王を支える代わりに特権などの恩恵を受けます。
被支配者は王や貴族の所有物であり、キリスト教の支配を除けば、貴族の一存になるものでした。
職業の自由、移動の自由、教育の自由、ひどい場合は私有財産権も訴訟権も認められませんでした。

ピューリタン革命もフランス革命も、そういう平民の不満が下地にあるところに、飢えや貧困が発火点となって勃発したものです。
オーストリアの平民も、事情はまったく同じです。
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この回答へのお礼

わかりやすい説明ありがとうございます!

お礼日時:2019/08/20 10:05

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