人生で一番思い出に残ってる靴

「は」「が」論が、直近にも提起されていますが、何ら論理的な根拠もなく、個別の文としての意味が並べられているのが現状です。

その典型が、野田 尚史『「は」と「が」 (新日本語文法選;書 (1)』(くろしお出版 ; 1996/11/1)
http://www.9640.jp/book_view/?128
です。

なぜ、このような形式論/現象論が展開されるのかについて、下記に纏めましたので、是非参照いただき、ご意見を伺えれば幸いです。

ポイントは、助詞である「は」「が」の助詞とは何かが明かにされていないことです。
つまり、本質論が欠けています。

「言語学コミュの「は」「が」論の前提 : 何が欠けているのか。」
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9085 …

質問者からの補足コメント

  • へこむわー

    >      ↓
        〔おもに言葉をとおしての〕自己表現

    という、単なるチョロいトートロジーと、「図1.言語過程説(三浦)の言語モデル」との差が理解できませんか。■

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/09/02 15:54

A 回答 (13件中11~13件)

この№2の投稿は 別のわたしの質問にサイトをおしえてもらっているので


応答する義務があると思ってのことでした。

★ (№2お礼欄) ~~~~~~~~
 >I.カントの認識論に注意を払っていないと思われる。

カントは物自体の認識を不可能とする不可知論を唱えています。
~~~~~~~~
☆ 問題のすり替えです。

★ ~~~~~~~~~~
 >〔おもに言葉をとおしての〕自己表現

このため、ソシュールは言語実体観を説き、このパラダイム下にある回答者
は、<〔おもに言葉をとおしての〕自己表現>と言語表現の過程的構造を捉
える事ができずに、単に結果、現象を述べているに過ぎません。
~~~~~~~~~~~
☆ このように表現したからと言って そのことと言語実体観とは 何の関
係もありません。

それに ソシュールは――そのことにわたしは合意していませんが―― 特
に語とその意味について一つひとつの語には《実体》があるのではないと説
いたのです。

あなたの批判は めちゃくちゃです。

★ ~~~~~~~~~
 >      ↓
    〔おもに言葉をとおしての〕自己表現

という、単なるチョロいトートロジーと、「図1.言語過程説(三浦)の言
語モデル」との差が理解できませんか。
~~~~~~
☆ 同じくめちゃくちゃなコメントなのですが 《自己表現には 言葉をと
おしてのもののほかに いわゆる言語外表現がある》ということを どうし
て無視してしまうのでしょう?



★ ~~~~~~~~~~~
 >言語外の要素も 重要になるはず

それは、表現が言語表現と非言語表現の統一として存在することを理解でき
ずに味噌も糞も一緒にした誤った発想です。
~~~~~~~
☆ このいまのわたしの批判点は 次のような見解に対するものです。

☆☆ (回答№2) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
B
▼ 2.2 科学的認識と言語 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(1)科学的認識
言語過程説がある。言語は「対象」、「認識」、「表現」の過程的複合体で
ある
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ この過程については 三つの基軸だけではなく さらに細かく分析した
ほうがよいでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 論点のすり替えであるとお分かりになりますか?




★ ~~~~~~~~
 >この方法や形式を交通整理することが求められる。これが文法である。

交通整理ではなく、概念認識による表現の社会的な約束、つまり規範を形成
することです。

この規範に依る媒介の構造が理解できないため、〔おもに言葉をとおしての〕
というトートロジーを繰り返すしかありません。
~~~~~~~~~~~~~
☆ 《概念認識 あるいは 要するに 語の意味》が 人びとの言語習慣の
過程において それまでの取り決めとしての文法をやぶってあたらしい意味
づけをしたり 突飛な用例を生んだりする。それゆえ 交通整理をするので
す 文法として。


ただし どうしても制約を課すというような《規範》というほどの効力を持
たせるものではありません。

いや でもある程度 文法にしたがっているではないか? と言われてもそ
れは すでに従来からの歴史的な伝統として守って来たところでしょう。何
が何でも 文法規則をやぶるというものでも――人びとの言語習慣は――あ
りません。

文法は 《規範》ではないでしょう。



★ ~~~~
  >形而上学的認識

詳しくは、エンゲルス『フォイエルバッハ論』の「弁証法的唯物論と史的唯
物論」、『反デューリング論』他を参照下さい。■
~~~~~~~
☆ このような応答をわたしは嫌います。コメントすべきことがあるのなら
その点を 多少なりとも明らかにするのが ふさわしいでしょう。

また この問題点について エンゲルスが引き合いに出されるとは おどろ
きです。
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この回答へのお礼

適切な応答をありがとうございます。

若干の私見を記させていただきます。

>☆ 問題のすり替えです。

そう捉えるしかないのが、ソッシュールパラダイム下の限界です。

>そのことと言語実体観とは 何の関係もありません。

言語表現の過程的構造を捉えることができない、言語実体観の欠陥を露呈するものです。

>ソシュールは――特に語とその意味について一つひとつの語には《実体》があるのではないと説いたのです。

ソシュールには概念について明確な理解がありません。カントの不可知論の立場からはそうならざるを得ないという論理的必然です。

>あなたの批判は めちゃくちゃです。

あなたの理解こそ、中途半端なチャランポランな理解です。唯物弁証法の論理が理解できない以上、これも論理的必然の結果です。

>《自己表現には 言葉をとおしてのもののほかに いわゆる言語外表現がある》ということを どうして無視してしまうのでしょう?

それは、表現が言語表現と非言語表現の統一として存在することを理解できずに味噌も糞も一緒にした誤った発想です。

と記した通り、無視していませんが?

>この過程については 三つの基軸だけではなく さらに細かく分析した
ほうがよいでしょう。

認識の内容は具体的な展開が必要ですが、それは観念論的な理解ではなく、科学的な認識論の展開が必要です。

対象→認識→表現の過程的構造と規範による媒介の論理を捉えることができずに、〔おもに言葉をとおしての〕というトートロジーを繰り返すだけでは何の解明にもなっていません。

>いや でもある程度 文法にしたがっているではないか? と言われてもそれはすでに従来からの歴史的な伝統として守って来たところでしょう。

それこそが言語共同体の言語規範です。それは、常に変化します。
この点が全く理解できていません。お粗末の一言です。

>文法は 《規範》ではないでしょう。

文法こそが、《規範》です。
単に文を組み立てるだけの規範ではなく、音韻、字韻、語、文、文章の各単位の立体的な規範です。
この点が全く理解されていません。

>エンゲルスが引き合いに出されるとは おどろきです。

唯物弁証法を全く理解していないことを告白しています。
ソシュールパラダイム下の観念論の発想に依拠しているということです。■

お礼日時:2019/09/02 20:43

この場に 次のコメントです。



A
▼ 池原悟:自然言語処理研究の考え方 ~~~~~~~~~~~~~~~

2.自然言語と哲学 
2.1 精神的産物としての言語

(2)言語と哲学

言語が人間の精神的産物であっても、人間の精神は外界の反映として成立す
ること

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ これは I.カントの認識論に注意を払っていないと思われる。

 ただしわたしは カント説――コペルニクス的転回の成った人間主体の〔純
粋悟性における〕対象世界に対する優位説――に与しません。

 主体の感性の発動と対象から発せられる刺激(触発)とが 同時一体である
という仮説に立ちます。

 


B
▼ 2.2 科学的認識と言語 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(1)科学的認識
言語過程説がある。言語は「対象」、「認識」、「表現」の過程的複合体で
ある

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ この過程については 三つの基軸だけではなく さらに細かく分析した
ほうがよいでしょう。

 

○ 対象------われ(話し手)
      ↓
    感性による知覚
      ↓
    悟性による概念認識
      ↓
    理性による綜合的統括
      ↓
    意志による判断(理性の用意した選択肢について良し悪しの選定)
      ↓
    〔おもに言葉をとおしての〕自己表現



☆ 感覚を重視するのは 例のクオリアの問題があります。

つまりそれは 実際には 言葉による表現に現われないのですが にもか
かわらず 文意をしっかりと把握するには 言語外の要素も 重要になる
はずです。それが 人間の言語過程です。

 


C
▼ ( ibid. ) 言語では対象は話者の認識を通して表現に関係づけられ
ること

☆ 《対象は 認識を通して表現に関係づけられる》⇒ 
《〈対象の知覚とその概念認識とそれらの統括 そしてさらに自己の意志
の決定および表明〉として 自己表現が成されて行く》

 

D
▼ また表現への関係づけに対して自然発生的で社会的な規範である言語
規範(広義の文法)が媒介すること

☆ (あ) 《言語規範》⇒ 
《〔言語表現をめぐる〕規則》または そのまま《文法(文表現の仕方に
かんする社会的な取り決め)》

 

(い) 全体⇒ 
《人びとが共同生活たる社会にあって 言葉を持ちそれぞれが自己表現を
おこなっていくとき 自由にさまざまに表現の方法や形式が見出されるが 
そのときこの方法や形式を交通整理することが求められる。これが 文法
である。ただし 言語が自然の成り行きとして進化することをむやみに妨
げるような取り決めは おこなわない》。

 

 

E
▼ (2)形而上学的認識
形而上学的認識によれば、世界は矛盾が無く静的で完成したものとして捉
えられる。
 
☆ 何のこっちゃ? 《矛盾がない》? 《静的》でも動的でもあるのと
ちゃうの?
 
それとも 《形而上学》というのは 《神論》であって 言わば神の目か
ら見たらという意味なのかいな?

けれども そんな見方は 人間のただの・神〔の心?〕についての忖度に
過ぎない。
 
それにしても:
▼ 完成した世界では一切の矛盾はなく、従って変化することは無い。
☆ なんて説は 初めて聞きましたよ。へっへっ。


つまり 神であるならその絶対性の視点〔があればの話ですが〕にあって
は 相対性の世界において繰り広げられる社会生活のいとなみ・つまり人
間の歴史過程における矛盾も またそれを人間がその知恵で〔ながら〕解
決に向けて努めるということ これらのすべてを包摂していることでしょ
う。

▼ 矛盾が無く静的で完成したもの
☆ いわゆるお花畑史観ですな。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

早速の応答をありがとうございます。

>I.カントの認識論に注意を払っていないと思われる。

カントは物自体の認識を不可能とする不可知論を唱えています。

>〔おもに言葉をとおしての〕自己表現

このため、ソシュールは言語実体観を説き、このパラダイム下にある回答者は、<〔おもに言葉をとおしての〕自己表現>と言語表現の過程的構造を捉える事ができずに、単に結果、現象を述べているに過ぎません。

>言語外の要素も 重要になるはず

それは、表現が言語表現と非言語表現の統一として存在することを理解できずに味噌も糞も一緒にした誤った発想です。

>この方法や形式を交通整理することが求められる。これが文法である。

交通整理ではなく、概念認識による表現の社会的な約束、つまり規範を形成することです。

この規範に依る媒介の構造が理解できないため、〔おもに言葉をとおしての〕というトートロジーを繰り返すしかありません。

>形而上学的認識

詳しくは、エンゲルス『フォイエルバッハ論』の「弁証法的唯物論と史的唯物論」、『反デューリング論』他を参照下さい。■

お礼日時:2019/09/02 15:32

リンク先の結論は以下のようですが、そうですか。


だとすれば、その「パラダイム転換」を期待しています。ずっとそうだった気がします。今後も期待しています。正直な感想です。

「このソシュールパラダイム下の言語実体観を克服するパラダイム転換なしには、「は」「が」の論理的、科学的な意義も理解されないということである。」
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この回答へのお礼

ご指摘の通りです。

戦後、時枝文法が正しく理解されず、非科学的な学校文法が継続しているのが典型ですが、それに代わるべき時枝ー三浦つとむによる認識と言語の理論が、安易な欧米言語論への追随でしかない生成文法や認知言語学や、国語学の低迷により無視されてきた所に問題の根源があります。

この誤りをまずは、広く認識してもらう必要があると考えています。■

お礼日時:2019/08/31 15:27

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