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§1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えて
も分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     ・いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること。  

      ・科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。
 
   X=考えても分からないこと。

    ・いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと。

    ・人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら。
 
    ・もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。

ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れな
い。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決
められないことがらである。

経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定
済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは そ
れを超えて――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れ
たほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり 
あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・
      〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空

人間の精神は 絶対 X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その
精神も有限であり 経験世界 Y に属す。

《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言ってお
り――レトリックでない限り―― マチガヒである。(→§3)

さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって非
経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。




§2 《考える》と《信じる》

考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意
思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝え
あっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出
して その位置を捉えよう。

   人間存在 = Z 

とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議
論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の
領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考
えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。

《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対する
わたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。

これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは
無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 
経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり ど
う表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という
公理)。

(言いかえると 《信じる( X-Zi )》は 無条件で無根拠においてわが心に
受け容れるという意志行為である)。

 
したがって わたし Zi は 信じる( つまり 信じないの場合も同じ )の対象
(したがって すでに非対象)を 

《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 
《アミターバ(無量光)・アミターユス(無量寿)・ブッダ》 X-Zb

と言おうが 自由であろうし 

《神》 X-Zcとも 
《ヤハヱー》 X-Zd とも 
《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。

 
逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの
精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。 すなわち
《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。

人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という
言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく 
むろん k-a-m-i という発音でもない。

X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神と
その産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-
Z )とは峻別しなければならない。


  


§3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の歴史( ΣY-Zn )に介在しうる
か。

これに対する答えは むしろ簡単である。

絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて
来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )にお
いて 関係が想定されている。

介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議
すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていない
ということが 重要である。考えても分からないことなのだから 閉めたり閉じ
たりするわけには行かない。

しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入の
あり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても 
その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われ
ることが起こる)。

議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本
の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を
経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることで
はないだろうか。

信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本
の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうる
けれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろ
うか。

いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身
が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかに
しておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 
防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコ
ミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。

信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史( 人生 )の過程 
つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・か
のように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)
では 埒が開かないものである。

もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目
もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )
体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよ
いと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは は
じめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断され
るものと思われる。

もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の
内容を 議論しなおせばよい。

以上の定義だけの理論は 次が その心である。

  吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーション
  を進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。



☆ ご見解をどうぞ。

A 回答 (30件中1~10件)

そうです神はあなたの心の中に居るのです…。

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この回答へのお礼

ほんとですか?

あなた 見たのですか?




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/10/03 22:40

質問者さんの考えは素晴らしいですし納得出来ます


だからこそ人は他人を真の意味で理解し得ない事実を受け入れるべきです
他人が真意味で理解し得ないからこそ人は生涯をかけて他人を理解しようし続けるです
それこそが質問者さんが仰っている共同化にほかならないでしょう
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この回答へのお礼

★ 質問者さんの考えは素晴らしいですし納得出来ます
☆ おお。そうですか。ご回答とご賛同をありがとうございます。


★ だからこそ人は他人を真の意味で理解し得ない事実を受け入れる
べきです
☆ そうでしょうね。むつかしかったら 尋ねてみれば よいわけで
す。

ということは 自己表現をした者は 説明責任がつきものであって
尋ねられたら 答える用意があることがのぞましいです。


★ 他人が真意味で理解し得ないからこそ人は生涯をかけて他人を理
解しようし続けるです
☆ なんか 面倒な感じが出て来ましたね。

複雑なことは苦手ですので 考えるに やはり問うてみることが大事
なように思います。

★ それこそが質問者さんが仰っている共同化にほかならないでしょ

☆ 共同主観というのは 常識(コモン・センス)という意味合いで
言っているのですが もし常識になるまでには時間がかかるとすれば
その過程としては 互いにどこそこが異なっていると そのことをも
はっきりと知るのも 一法かと思われます。

おれとおまえは この点で違うなと互いに自由に寛い心でみとめあっ
て行くだけで 世の中の風通しはよくなるように思われます。

お礼日時:2019/10/02 23:28

神がある派と無い派が


人間にはお互いに自由に存在することが成り立つ
そのとおりです。それが担保されるのは人それぞれに世界を持っているからです。
人それぞれの世界を持つとは人それぞれの見ている世界が違うからほかなりません。
私の見ている世界と質問者さんの見ている世界が違うと言うことです。
見方即ち見ている世界を変えたとしても人それぞれ見ている世界ガ違うことに変わりが有りません。
神がある世界とない世界が同時に存在する状態を量子論では「重ね合わせ」と言います
重ね合わせの状態は選択されていない状態で具現化されていない即ち誰にも見えていない状態です.
重ね合わせの状態が真実であってもそれはその状態です真実でしかありません
重ね合わされている世界のいずれかの世界を選択した時点で選択された世界は具現化しますが選択されなかった世界はその世界を選択しなかったものには存在しないのです
よって神神がある世界とない世界のどちらかを選択した時点で選択した事柄(有無)が選択舌者にとって真実となるのです
質問者さんは未来と現在を混同されてます
人が神感を持つかどうかは人の自由によるとは言えません。
社会のとの関わりや洗脳等によって当人望まなかったとしても神感を持たされる事があり得るからです
それ以前にそもそも人の脳は自由と不自由の間でかつ確定さと不確定差との間で量子的ゆらぎが生じその結果未来を選択しているのです
その選択が自由によるもの不自由よるものかは判別不能です。
人が他人と同じ主観を持ち得る事はできませ

出来るのは他人との間ですり合わせをするだけです
すり合わせをするにあたって互いを尊ぶなら客観性が要求されるのです
真に言えば客観性もまたここそれぞれに主観に過ぎませんがすり合わせを行うにあたっては主観を見せかけ上排除するのです
そのもそも主観に事実も虚構も有りません
人の脳内で処理されるのはあくまで情報ですし情報それ自体一切の価値も意味も有りません
人が情報に価値や意味を与えているに過ぎません
その点を踏まえれば主観事実はまほろばでしかなくまほろばでしかないことがらを共同化するのもまたまほろばでしかありません
しかしながらまほろばが事実であっても人は他人と共生しなければ生きていけないと大勢の人達は認識しているのですまほろばであっても互いに共生するためにそのまほろばを用います
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 人それぞれの世界を持つとは人それぞれの見ている世界が違うから
☆ 主観のかぎりで表現されたものをつうじて互いに同じだと認識する場合もあ
ります。


★ 見方即ち見ている世界を変えたとしても人それぞれ見ている世界ガ違うこと
に変わりが有りません。
☆ 同じだと認識することもあり得ます。


★ 神がある世界とない世界が同時に存在する状態を量子論では「重ね合わせ」
と言います
☆ ウソです。量子論は 神論とは別物です。

あたかも類似性が見て取れるということでしょう。


★ 重ね合わされている世界のいずれかの世界を選択した時点で選択された世界
は具現化しますが選択されなかった世界はその世界を選択しなかったものには存
在しないのです
☆ 神論としては 自己とは別の立ち場が つねに存在し得て 互いにとうとび
ます。ひとつの立ち場を選択したとしても まったく変わりはないのです。

なぜなら どちらも普遍神を言いかえたに過ぎないものだからです。


★ よって神神がある世界とない世界のどちらかを選択した時点で選択した事柄
(有無)が選択舌者にとって真実となるのです
☆ その主観には われなる主観の特殊な内向性とそれでも外にひらいた・普遍
神を共通の基礎とする一般性とがあります。



★ 社会のとの関わりや洗脳等によって当人望まなかったとしても神感を持たさ
れる事があり得る
☆ 無効です。理論じょうその行動はなかったことになります。


★ それ以前にそもそも人の脳は自由と不自由の間でかつ確定さと不確定差との
間で量子的ゆらぎが生じその結果未来を選択しているのです
★ 人が他人と同じ主観を持ち得る事はできません
★ 出来るのは他人との間ですり合わせをするだけです
★ すり合わせをするにあたって互いを尊ぶなら客観性が要求されるのです
☆ 主観として互いに共通な内容があると認識するだけでかまいません。


★ 真に言えば客観性もまたここそれぞれに主観に過ぎませんがすり合わせを行
うにあたっては主観を見せかけ上排除するのです
☆ 《排除する》のも主観です。



★ そのもそも主観に事実も虚構も有りません
☆ ん? まぼろしでも それとして互いに意志疎通をおこなっているのだとす
でに話しあっています。

お礼日時:2019/10/02 23:17

更に言えば


量子論によって人それぞれ見ている世界が違うことが示唆されました
加えて先程も述べたように取りうる全ての状態(世界)が同時に存在しえます
よって神が存在する世界を見ている者と神が存在していない世界を見ている者がいるとなるのです
神が存在している世界を見ている者にとっては神が存在することが真実であり、神が存在しない世界を見ている者にとっては神が存在しないことが真実なのです
人が他人の視点を持つこと生理学的には不可能です
神は客観的かつ合理的に説明されていない
以上から神の存在に関す事は主観の問題であり内面の問題となります
その点を踏まえて言えば質問者さんの仰っていることは質問者さんの中で正しいとしても
結局は質問者さんの内面の問題に過ぎないということです
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 量子論によって人それぞれ見ている世界が違うことが示唆されました
☆ 類似する点があるのかも知れませんが 人知としての科学の知見をそ
のまま 神の世界に投影することは 文学として想像の世界を描いた作品
になるかも知れませんが どうでしょうかねぇ。そこに伸びしろがありま
すか?


★ 加えて先程も述べたように取りうる全ての状態(世界)が同時に存在
しえます
よって神が存在する世界を見ている者と神が存在していない世界を見てい
る者がいるとなるのです
☆ 面倒な言い方をしますね。《神は有る派と神は無い派とが 人間のあ
いだには 互いに自由に同等に存在することが成り立つ》です。

★ 神が存在する世界を見ている者
☆ は やがて:
★ 神が存在していない世界を見ている者
☆ に成り変わるかも知れません。



★ 神が存在している世界を見ている者にとっては神が存在することが真
実であり、神が存在しない世界を見ている者にとっては神が存在しないこ
とが真実なのです
☆ いいえ。この命題は 完全に間違いです。(一時的な状態としての真
実であるかも知れませんが)。

先ほどの《有る神と無い神とが 同時に成り立つ》ことが 人知の知るか
ぎり《真実》なのです。

個々の人間にとって 信教・良心の自由にもとづきどちらかの神観を自由
にえらぶことができる。これも 真実です。


★ 人が他人の視点を持つこと生理学的には不可能です
☆ そんなことになるとは 誰も言っていません。他人(ひと)の神論を
たとえ自己のそれとが同じようであろうと別であろうと 互いにとうとび
なさいという真実が帰結すると言っています。


★ 神は客観的かつ合理的に説明されていない
☆ 《客観》というあやふやな概念では らちがあきません。



★ 以上から神の存在に関す事は主観の問題であり内面の問題となります
その点を踏まえて言えば質問者さんの仰っていることは質問者さんの中で
正しいとしても
結局は質問者さんの内面の問題に過ぎないということです
☆ という回答者さんの内面の真実は ただ自分だけの主観なんでしょう
か? それとも 共同主観になり得ましょうか?

おのれの主観真実が共同化され得ると思ってこそ 自己表現するのではな
いのですか? 上のご議論は 意味をなしません。

お礼日時:2019/10/02 22:07

全ての状態(世界)が同時に存在しうる事は量子論によってすでに判明しています


ですから相反する異なった見解が同時に存在し得るのです
但し人の脳は相反する異なった視点を同時に持ち得ないので結果として2つの異なった見解を同時に持ち得ないのです
それはあくまで個人個人の問題に過ぎませんので複数の人同士の中では当たり前ですが持ちえます 
その点で言えば
相反する異なる解釈のいずれかの解釈を持つかどうかは人それぞれです
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 全ての状態(世界)が同時に存在しうる事は量子論によってすでに
判明しています
☆ それは 経験現象としてでしょう。

哲学としての神論は 《神(霊性なるナゾ)と人間たるわれとの関係》
について 仮説し理論立てています。



★ ですから相反する異なった見解が同時に存在し得るのです
☆ いいえ。量子論による知見は あくまで経験事象の範囲を出ませ
ん。

つまり そういった科学のでも人知をもって 神の領域に――投影す
るように――当てはめることは あやふやな議論にしかなりません。



★ 但し人の脳は相反する異なった視点を同時に持ち得ないので結果
として2つの異なった見解を同時に持ち得ないのです
☆ だれもそうは言っていません。

《人によって 有神論をえらぶ場合もあれば 無神論を採ることもあ
る》という見方を 同じひとりの人間が持ち得る・・・と言っていま
す。

人の言うこと ちゃんと聞いてや。



あれっ? そう仰せになってるぢゃないですか。:
★ それはあくまで個人個人の問題に過ぎませんので複数の人同士の
中では当たり前ですが持ちえます 
その点で言えば
相反する異なる解釈のいずれかの解釈を持つかどうかは人それぞれで

お礼日時:2019/10/02 21:48

われらの超えられた人知とは今現在人が有する人知の事を指すのであればそれを超えた人知(人智)であっても人智に他ならないのです


ですから人が如何に進歩し現在の我々では想像すら出来ないほど人智を得たとしても人智に変わりが無い以上人智超えている存在である神を人智で推し量れないと言うことです。
逆に言えば
現在の我々の人智を遥かに凌駕するほど人智を人が得たとしてその人智を持って神を推し量れるならその神は人智で推し量れることができる存在だと言うことです
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ われらの超えられた人知とは今現在人が有する人知の事を指すので
あればそれを超えた人知(人智)であっても人智に他ならないのです
☆ イエスですが ノーにもなります。

有限な同じ人知が ただし 人知を超えた場(?)ないしチカラ(?)
のことを垣間見させ得ています。



★ ですから人が如何に進歩し現在の我々では想像すら出来ないほど人
智を得たとしても人智に変わりが無い以上人智超えている存在である神
を人智で推し量れないと言うことです。
☆ 人間の知恵では 無理でしょうね。

しかも 神の知恵によるなら――つまり それを人間があたえられたと
したならば―― ひょっとして 神のナゾについて垣間見させてくれる
かも知れないぢゃないですか。

神をみくびってはいけません。



★ 逆に言えば
現在の我々の人智を遥かに凌駕するほど人智を人が得たとしてその人智
を持って神を推し量れるならその神は人智で推し量れることができる存
在だと言うことです
☆ そこにとどまりましょうかねぇ。




神をみくびってはいけません。神に もっとシンライをおいてもよいの
では?

ですから 《考える》ではなくそれを超えた《信じる》という関係が
神とわれとのあいだには成り立つようなのです。

《無条件で無根拠にてそのナゾをわが心に受け容れる》 これが信じる
です。



別の言葉で表わすなら 《きよらかなおそれ〔をいだいている〕》とな
りましょうか。

というのも だれもがみんな おさない頃には 《聖なるあまえ》を持
っていたはずです。

《おそれ》をいだくようになるのは ものごころがついた時には わが
心の自由意志に 心にさからってウソをつきイツハリをおかす自由度も
があって これを時には《利用》するようになるからです。

でも 《信じる》心としては きよらかなおそれです。

お礼日時:2019/10/02 21:40

神が人智を超える存在ならその神は人智を超える存在としか定義できませんしそれ以外の定義をしようとすること自体矛盾が生じます

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この回答へのお礼

絶対性・無限・超経験・超自然は
相対性・有限・経験・自然を 超えています。


この《超えている》ということは そのふたつの世界が〔と言ってよい
かも不確かなんですが〕どういう関係にあるか? 

神は 人に向けて あたかもミケランジェロの《アダムの創造》なる絵
のごとく 指先が互いに触れなんとしている状態にあるということかも
知れない。(そういう推測が成り立つようです)。

あるいは 神の霊性はあたかもニュートリノのごとくこの宇宙を飛び交
って われわれの人体をも心をも突き抜けて行っている・・・かも知れ
ない。

あるいはけっきょく単純に言って 神は霊性(つまりナゾ)としてあま
ねく存在しているかも知れない。(遍在説)。

そしてあるいは 神はまったくの無(シューニャター:空)なのかも知
れません。


問題は 《人知を超えた》というのなら これらの見方がどれも・しか
も同時に成り立つということにあります。

それくらいの度量は 神にとっては 朝飯前のことだと推し測られます。


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/10/02 21:24

仮に神が存在しその神が人智で推し量ることができる存在なら、科学(医学・脳科学・物理学等)で推し量ることが出来ます


科学で推し量れるなら少なくとも現代において哲学よりも科学で推し量るほうが説得力を持つでしょうね
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この回答へのお礼

出発点が違います。――ご回答をありがとうございます。


《人知を超えた》と――いづれの辞書や事典でも――言っているのです
から それは 《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ》というふ
うに決まります。

単純な解釈としては 《知り得たぞと言う人間》もあり得ますし 《そん
なバカな。知り得るわけないぢゃないかと言う人間》もあり得ますが
このふたつの見解が同時に成り立つ・・・というのが 《非知なるナゾ》
です。

単純に言いかえると 《神は有る》と《神は無い》というふたつの相い
対立する立ち場が 同時に・互いに自由に同等かつ対等に 成り立つの
です。

そういう神の配剤だとでも言えましょうか どうでしょうか。


――ここまでの知解が 人知によって得られます。いかなる科学から見
ても 不都合な点はないはずです。



われらがかみは 偉大でしょ?

お礼日時:2019/10/02 21:13

人智で推し量っている限り対象である神は人智を超える存在では無く人智できる推し量ることができる概念としての神に過ぎません

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この回答へのお礼

あぁ。たとえば 《人知によって これこれのナゾは知り得ないと証明
された》場合に用いる《不可知》とは 違うのです 《人知を超えた》
という概念は。


ご回答をありがとうございます。

それで 《人知を超えた(あるいは 超自然ないし超経験)》について
は 《非知》という概念を当てます。

《知り得るか知り得ないかが 知り得ないナゾ》を言います。



もし神が《不可知》〔という証明つきのナゾ〕であるならば もう人間
は いかに努力しても・泣いても笑っても それを知るには 手も足も
出ません。

それとは別なんです。

神は 絶妙でしょ?

お礼日時:2019/10/02 21:04

哲学的手法が如何なるものであってもそれは人智のなせる技に他なりません。


それに対して神が人智を超える存在なら神の存在を人智で推し量ることは不可能となります。
ですから人智を超える存在である神を人智のなせるわざである仮説法で推し量ることもまた不可能です
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 哲学的手法が如何なるものであってもそれは人智のなせる技に他な
りません。
☆ そうですよ。



★ それに対して神が人智を超える存在なら神の存在を人智で推し量る
ことは不可能となります。
☆ いいですか? 《詭弁》を弄しますから よく聞いていてください。

《人知を超えているナゾ》ということは――あたかも神の〔つまり 歴
史のというよりは 神の〕狡知としてのごとく―― 

  ひょっとしてそのナゾは われらの超えられたその人知で知り得た
  ということが起こるかも知れない・・・

となります。

具体的に言いかえると 人間のなかには 《われ 神を見たり》とかあ
るいは《われ 神の声を聞けり》と言うという者が現われるかも知れな
いわけです。

(どういうわけか じんるいにとってどの民族のどの言語も まるで分
からないそのナゾについて 《かみ》という言葉を当てています。その
ことも 実際に起こっています)。

つまり そのような《人知によって神を知り得たと言うということ》は 
ほんとうには 否定し切ることも排除し去ることも 人知によっては出
来ない相談なのです。

(かんたんに言えば 神は 存在するとも存在しないとも どちらにつ
いても 一義的に肯定したり否定したりすることも 無理だという問題
です)。



つまりは あたかも神は われわれ人間に向けて わがこのナゾを解い
てみなさいと言っているかのごとくだとなるのではないでしょうか。

人知を超えたというのは そういう内容になっているはずです。




★ ですから人智を超える存在である神を人智のなせるわざである仮説
法で推し量ることもまた不可能です
☆ とは ならないのです。

お礼日時:2019/10/02 20:58

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