最初に、これは質問者自身、何を問いたいのか?何を問うているのかが甚だ曖昧な質問であり、そもそも「問いかけ」として成立し得るのかさえ心もとない疑問です。
ですからこの質問自体が「意味不明の妄言」であると判断された場合は、そのまま無視してください。
これはぶらじゅろーぬさんが、別のところで述べておられた、「可知」「既知」「未知」「不可知」そして「非知」という言葉に触発された疑問ですが、ここではもともとのぶらじゅろーぬさんの議論を離れて、甚だ「知的」ならざる愚問を発してみたいと考えます。
「知る」について―疑問:1
例えばここに一台のグランドピアノがあります。その中で、ひとつだけ、音の出ない鍵盤があります。
その出ない音はなにか?は、その左右の音を確認することで明らかになります。
では仮にその「音の出ない鍵盤」以外のキーをすべて囲ってしまい、触れることが出来るのはその音の出ない鍵盤のみである場合に、「出ていない音」を知ることは可能でしょうか?
(この場合、鍵盤を叩く者は目隠しをしていて、音の出ない鍵盤の「位置」を確かめることもできない)
「知る」について―疑問:2
モンテーニュの有名な言葉、「わたしは何を知っているか?」(ク・セ・ジュ)Que sais-je ?
この言葉を
「わたしは何を知らないか?」と言い換えることは可能でしょうか?
「わたしは何を知らないかを知っている」という命題は成立するでしょうか?
勿論これは「わたしはロシア語を知らない(ということ)を知っている」というような意味ではありません。
なぜならこの場合「ロシア語」は「未知」であって「非知」ではないからです。
同様に「あなたはなにを知りませんか?」と訊いたときに、「~を知りません」と言える領域は「未知」のものに限られるのではないでしょうか?
「○○という本があることは知っているが読んだことはない」
「○○という映画があることは知っているが観たことことはない(内容も知らない)」
「○○という理論があることは聞いたことがあるがそれについては何も知らない」
「近所に田中さんという家が越してきたが、まだ会ったことはない」
例えば化学の「周期表」のようなものがあって、何が「未発見」「未知」であるかはわかっているばあい、これは「わたしはなにを知らないかを知っている」といえると思います。
改めて、質問:2
「わたしは知らないものを知ることはできないか?」
「あなたは何を知らないかを知っているか?」
こんなことをぼそぼそと考えてみました。
尚、ぶらじゅろーぬさんの「可知」「既知」「未知」「不可知」「非知」についての解説は以下に述べられています。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9303164.html
繰り返しますが、質問者が何を問うているのかよく理解できていないので、万一回答をいただいても理解できない可能性があります。予めご了承ください。
A 回答 (26件中1~10件)
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No.26
- 回答日時:
こんにちは
おそらく、あなたは言語学的存在論を考えているのだと思います。
このカテでも「存在とは何か」という質問がよくありますが、
私はいつも「あること」(there is A) と「存在すること」(A exists = exist(A))を区別するべきだと提案しています。
「あること」はメタ言語(私たちが使っている言語の外にある)的に、
意味論において人間の判断(自明の真理)によって与えられます。
この世界のあるものすべての集まりは現実ユニバースと呼ばれ、
これから存在論によって様々な語彙が作られます。
そのような存在論によって作られたのが「Aが存在する」( exist(A) )です。
この存在はAの属性と呼ばれるもので、「Aがあること」とは全く違います。
例えば、
「Aがあるならば、Aは存在する」
といえますが、
「Aがないならば、Aは存在しない」
とは言えません。正確には、
Aがないならば、Aが存在するは矛盾する
というべきです。
賓述形式の言語では、
exist(A)
という賓述が真であるためには、Aは現実ユニバースのメンバーでなければなりません(Aがあると判断されている)。Aがメンバーでなければ、exist(A) のAが真ではないので、exist(A)という賓述それ自体が文法的に成立しなくなります。
すなわち、Aの属性について記述できるのは、Aがあるときだけです。
このために、言語学的には「あること」と「存在すること」を区別する訳です。
「知る」という語では、少しだけ複雑になり、
Aがユニバースのメンバーならば、
「Aを知らないということを知っている」は真です。
しかし、Aがメンバーでないならば、
「Aを知らないということを知っている」かつ
「Aを知らないということを知らない」かつ
「Aを知らない」も矛盾です。
こんばんは。ご回答をありがとうございます。
「言語学的存在論」という言葉ははじめて知りました。
頂いた回答は論理学の教科書のようで、わたしには歯が立ちませんが、
今回の質問はこのような学術的なことというよりも、また存在論というよりも、
自分の内面にある、「わたしは誰と出会っていないか?」とか「この世には今なにが存在しないか?」といった疑問です。
後者には「愛」とか「平和」などという答えも考えられますが、愛や平和は既知のもので、それらが「欠けている」「不足している」ということはできても、それらがないとはいえない。なぜって、ないものを知っているはずはないから。
おそらく上記の回答で、そのような説明もなされているのでしょうが、どうも理解が至りません。
いずれにしても、夢のようなものです・・・。
No.25
- 回答日時:
▲ (創世記 1:1) ~~~~~~~~~~~
https://www.blueletterbible.org/kjv/gen/1/1/t_co …
初めに、神は天と地を創造した。
1:1 בְּרֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים אֵת הַשָּׁמַיִם וְאֵת הָאָֽרֶץ׃
( be-resit bara' 'elohim 'et ha-samaim wa-'et ha-'erets.)
( at-beginning created God the-heaven and-the-earth.)
* 'et : これは 対格を示す標識です。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この≪創造した。/ created ≫ に使われている語(動詞)の
≪ בָּרָא bara' ≫は 神についてのみ≪創造する≫という意味で用
いられるもののようです。
▲ (בָּרָא bara') ~~~~~~~~
https://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lex …
Ⅰ to create, shape, form
A (Qal) to shape, fashion, create (always with God as subject)
ⅰ of heaven and earth
ⅱ of individual man
ⅲ of new conditions and circumstances
ⅳ of transformations
* (Qal): これは 動詞の活用のパタンのひとつを言います。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この言葉≪バラ―≫は アラビア語でも――ほかの語(ハラカ)を
充てているようですが――同じです。
▲ https://translate.google.co.jp/#auto/ar/In%20the …
つまり ≪非経験の場:非知なるナゾ≫を 人間の言葉で―― 一対一
の対応において――言い表わすのは 無理です。
ふつうに経験的な事象や行為として用いる言葉を使うのを避けている
と――この場合だけだとしても――考えられます。
むしろ積極的に 聖書記者は この神について理論的に説明するのに
そうすれば曖昧になってしまうような物語の中に組み入れて表現しよ
うとしている。
つまり 文学性を帯びた言語表現のうちに理論づけて行く。
≪創造主≫といった表現は あくまで仮りのものであり・ありうべき形
式の内のひとつに過ぎない。という前提を持っているかに見られます。
そしてこの全知全能の神も じつは・じつに ねたむ神であり 怒る
神でもあります。
のちにイエスが出てこのヤハヱ―としての――ユダヤ民族専用の――
神を ほかの人びとにも向けて開いて普遍神へと揚げて 棄てた。こ
とになりますが。
≪わたしは何を知っているか( Que sais-je ? )≫と言ったって ここ
までは知っていることになるのではないですかね。
≪わたしは何を知らないか≫――どうなるんでしょうか。
No.24
- 回答日時:
創造主(特定の宗教に関わる事ではありません)について、創造主が作った世界が、その被造物でしか満たされないとすれば、その世界の全ては創造主の知識の中にあるので、その世界に関して、創造主は「全知」であり、「全能」でしょう。
創造主自身が、その被造物である世界に存在しない、もしくは物質化しないのであれば、創造主がその被造物である世界に物理的に作用する事は無いので、創造主が物理的に飛び越えるとか持ち上げるなどの作用は直接的におきる事は無いでしょう。
つまり、そのような物理的命題は意味を持たなくなります。(持ち上げるは、創造主が実体化しないと、何に対してもちあげるかがわからないです)
創造主が、その被造物以外の知識を持つかどうかはわからないので、その被造物である世界以外の知識では知らない事はあるのでは無いでしょうか?(被造物に対しては「全知」、「全能」ではあるわけです)
No.23
- 回答日時:
議論は つづくようです。
▲ 『神は自分の跳び越すことのできない壁を造ることができない
から全知全能ではない』
★ ~~~~~~~~~~~~~
>☆ 矛盾したことを 全知全能であるゆえ おこなうことは
しない。のだと思います。
ええ? 全知全能だからそういう馬鹿なことはしないということで
すか? それとも全知全能とは無矛盾性のことだということでしょ
うか?
~~~~~~~~~~~~~~
☆ ≪それを敢行して あとで人間から笑われるのも いかがか≫と
いう意味です。
ええっとですね。この≪全知全能≫の話からは 言わば文学が一枚
くわわって来ています。≪物語・神とは何か≫のお話しになって来
ています。
どういうことか?
≪非知≫なら非知の理論について いろんな脚色がほどこされて来
ている。ということだと思います。
[理論立て]:非経験の場;非知なるナゾ
[概念説明]:絶対・無限・永遠
ーーーーー(ここから↓は 物語性を帯びます)ーーーーーー
[擬人化]:絶対者
[脚色]:創造主;父なる神;主宰神
[属性を取り上げる]:全知全能;至高の善(善悪の彼岸)・
慈愛・真理・≪日の老いたる者≫・≪万軍の主≫・・・
☆ 文学性を帯びたところでは――飛び越え得ざる壁の話のごとく
―― 頓智の一休さんのような分野に入って行くと考えられます。
たとえば――ですから―― ≪創造主≫という規定は 非知なるナゾ
についてのただ一つのものだとは言えません。つまりは 早い話が
≪絶対無≫を持って来ても まったくひとしく≪非知≫を――仮りに
――指し示すことが出来ます。
これが 神です。人類と関係を持つ神と無関係な神と どちらも非
知について言い表わそうとしています。
遍在ともあるいは絶無とも いづれとも解されます。
個人は好きなほうで 神とのカカハリ(つまり信仰)を持てばよい
ことになっています。
これが じんるいにとっての普遍神です。≪絶対性理論≫です。どう
でしょう。
No.22
- 回答日時:
議論はつづきますね。
(あ)★(№20お礼欄) 神は人類とは無関係に存在している。
☆ この命題は ≪非知≫の説明のためにもってこいです。
つまり 非知なる神については それと同時に:
(い) 神は人類とは有関係のうちに存在している。
というふうにも 互いに実質的にひとしい中身として言えるとい
うこと。これです。
有無を超えている。有無をえらばない。のでなくては 非知では
ない。
(あ)だけの判断(命題)だったらそれは たとえば≪無関係≫が
決定的に人間によって認識されたことを意味するからです。
非知ではなく可知です。
あるいはつまり同じく可知として ≪神と人類とには関係がある≫
と 経験合理性によって知り得たと言っています。
そういう場合には 神と言っていても けっきょくは経験思想で
す。つまりは 人間がつくった観念の神です。
それらは 想像物ないし思索の成果として≪信念・信条・心情・
座右の銘≫になると思います。が ただそれだけのことです。
こんにちは。ひきつづきのご回答をありがとうございます。
そうですね、関係性を云々する以上はそれがどのような関係性であっても、「相手」を前提としていますからね。
つづくご回答No.23に続きます。
どうもやはり結局は「非知」であるという前提と、ご説明の
>遍在ともあるいは絶無とも いづれとも解されます。
個人は好きなほうで 神とのカカハリ(つまり信仰)を持てばよいことになっています。
という文中の「偏在」=いづこにもおわします神であるとか「関わり」=関係性というところに矛盾が生じてしまいます。
或いは全くの非知であるけれども、(またそうであるが故に)信じる者の想像(創造)として存在する、ということでしょうか?
非知で、存在すらも不明であるが、信ずる主体として、その絶対無の中に信仰の対象を造り上げるということでしょうか?
No.21
- 回答日時:
#20です。
補足拝見しましたので連ちゃんします。
>たしかパスカルだったか、
『神は自分の跳び越すことのできない壁を造ることができないから全知全能ではない』というようなことを言っています。
:
面白いので少し考えてみましたが、どことなく不合理な印象を受けます。
全知全能なのですから、「自分の跳び越すことのできない壁」というものが、そもそも存在しないはず。存在しないものを作ることは、誰にもできない・・てな論理展開はダメですか・・。
よって、
>神が「全知全能」ではいけないのではないか?
:
については、構わない(という物言いもおかしなものですが)と思いますけどねえ。
>神を愛するとは「完璧なものを愛する」ということなのか?
:
人間には決して許されない属性なればこそ。
>「あやまつ」という「人間味」のない存在を、人間は愛し得るのか?
:
否定しちゃうと同類としての自分自身の否定につながってしまいかねませんからね。
とはいっても、少しでも完璧に近づきたい、つまり、可能性を求めて模索してもいるわけなので、程度と兼ね合いの問題じゃないでしょうか。
むろん、その「程度」や「兼ね合い」の基準は個々人の価値観によって、結構、差はあるように思います。
重ねてのご回答ありがとうございます。
>全知全能なのですから、「自分の跳び越すことのできない壁」というものが、そもそも存在しないはず。存在しないものを作ることは、誰にもできない・・てな論理展開はダメですか・・。
(笑)「神は「できない」ということが「できない」から万能ではない」つまり神の辞書には「不可能」という文字がない。ので「人間の辞書」よりもひとつ語彙が足りません。
>>神が「全知全能」ではいけないのではないか?
:
>については、構わない(という物言いもおかしなものですが)と思いますけどねえ。
ははは!
過つこと能わざる神と対比すると、人間の「過ち」というものが、(戦争とか虐殺とか差別といった愚行ではなくして)なんというか、人間の特権のように思えてきます。完璧さからみればマイナスでしかないのかもしれませんが、人間の過ち、や「悔恨」「挫折」、そのこけつまろびつのみっともない姿こそ愛おしいと思えます。神の逃れられない完璧さに比べると、過つことのできる人間は、より「自由」なのだと思います。
No.20
- 回答日時:
#17です。
>過たぬがゆえに「悔恨」も「蹉跌」も経験しないが、「理解」はしている。なぜならそれらを知らなければ神足り得ないし、過つ神では全知全能とは言えない。
:
なるほど。
ただ、おそらくですが、わたしたちが神に期待する「全知全能」と、神の役割としての「全知全能」は意味するところが全く異なるのだと思います。
つまり、神に対して、我々人間の様々な事柄に関して全知全能であってくれよ、と期待するのは、人間の一方的な思い込みにすぎない。
端的に言うと、(絶対的摂理の比喩としての)神にとっては、人間が殺し合おうが栄えようが、どうでも良いことのはずです。
あらゆる存在のバランスが取れた状態さえ維持されていれば、個々の種や個別事象の盛衰には関与しない。(「バランスの取れた状態」は、また別の問題になるでしょうが)
太陽や地球の存在すら、神にとっては大した問題ではないのではないでしょうか。
地下に巣を作って繁栄しているアリにとって、土は神の恩恵のように感じるかもしれません。しかし、その認識においては、ブルドーザーによって掘り返されたら、神を恨むことでしょう。
ところが、神は(ブルドーザーを使う人間も含め)アリのことなど全く気にしてはいない。
アリのために巣を壊さないようにしているわけではないし、アリを攻撃するために巣を壊すわけでもない。
つまり、神はアリに関与していない。
わたしたち人間も似たようなものじゃないですかねえ・・。
人間の都合からすれば「過つ」ように見えても、神自身にとっては特に過っているわけではない。
なので、自らの、または人類の幸福のために神に何かしてもらえるはずだ、という考えは誤っていると私は思っています。
ご回答をありがとうございます。
神は人類とは無関係に存在している。
>端的に言うと、(絶対的摂理の比喩としての)神にとっては、人間が殺し合おうが栄えようが、どうでも良いことのはずです。
>太陽や地球の存在すら、神にとっては大した問題ではないのではないでしょうか。
ということであれば、それはいわば「無為・無作為」であり、Let it be ですから、ことさら(比喩としても)「神」という存在を想定する必要はないのではないか?
「大自然」あるいは「宇宙の摂理」というイメージは、寧ろ「神の不在」という方が近いようにも思えます。なぜなら人類は神といういう場合に、多く「人格神」を思い浮かべるはずだからです。「人の似姿としての神」というものが、多くの人にとっての神であるのなら、宇宙や大自然の摂理と呼ばれるものは、その神意は、むしろ「無慈悲なる神」と、人間には映るでしょう。
同時にひとはやはり、慈愛に満ちた神を、避けようもなく求めてしまう脆く弱い存在であると思うのです。
No.19
- 回答日時:
★(補足欄) 『神は自分の跳び越すことのできない壁を造ること
ができないから全知全能ではない』
☆ 矛盾したことを 全知全能であるゆえ おこなうことはしない。
のだと思います。
全知全能ないし真理であるということは わたしたち一人ひとりの
生まれてから死ぬまでの人生のあゆみをすべて知っているというこ
とです。
何を思い何をやったか。何が問題で何を悩み苦しんだか。
晴れの日でも雨の日でも つねに寄り添っていますし(神の遍在)
つねに元気の素となるヒラメキをあたえようとしている。
そして もちろんと言うかのように これを受け取らないという自
由も 人間にはあります。
★ 「あやまつ」という「人間味」のない存在を、人間は愛し得る
のか?
☆ 規範にしたがえというような義務ではないです。愛は。
★ 「人間を超えた存在だからこそ」その超越性にわが身を委ねる
のだろうか?
☆ 必要な時には どうぞというような恰好なのではないでしょう
か。
あるいは われわれ(=つまり 三位一体なる神)のことは 放っ
ておいて 自由に生きたまえと言っているのだと思います。
まさかの時には いつでも来なさい。と。
ご回答をありがとうございます。
>☆ 矛盾したことを 全知全能であるゆえ おこなうことはしない。のだと思います。
ええ?全知全能だからそういう馬鹿なことはしないということですか?それとも全知全能とは無矛盾性のことだということでしょうか?
>晴れの日でも雨の日でも つねに寄り添っていますし(神の遍在)
つねに元気の素となるヒラメキをあたえようとしている。
そして もちろんと言うかのように これを受け取らないという自由も 人間にはあります。
えええ?神は「非知」であれば何故「遍在」しているとわかるのでしょう?雨の日も晴れの日も傍に寄り添い、ではちっとも非知ではないのでは?
>★ 「あやまつ」という「人間味」のない存在を、人間は愛し得るのか?
☆ 規範にしたがえというような義務ではないです。愛は。
義務ではなく、人としてその完璧さを慕いうるか?という心情のことです。「愛すべき」「愛さるべき」ということではなく、果たして愛し得るのか?という疑問です。自問でもあります。
>あるいは われわれ(=つまり 三位一体なる神)のことは 放っておいて 自由に生きたまえと言っているのだと思います。
>まさかの時には いつでも来なさい。と。
この慈愛に満ちた神の姿はどこから導き出されたものですか?
「非知」との関係は?
No.18
- 回答日時:
やっぱりそう来るか、と言われてしまいそうですが・・・
ズバリ言えば、Grassさんがまだ会う事の出来てない人は《神》ですね。
人間の心の感覚に潜む神的心魂の感知(知は理の働きの内に、でしたね。だからこの知は"受"と受け止めるのがいいかも)が意識上に現れて、これって何?と思うのでしょう。
何を知らないか?と云う問いは"これ"があるから生じる、と思います。
こんばんは。
>ズバリ言えば、Grassさんがまだ会う事の出来てない人は《神》ですね。
>人間の心の感覚に潜む神的心魂の感知(知は理の働きの内に、でしたね。だからこの知は"受"と受け止めるのがいいかも)が意識上に現れて、これって何?と思うのでしょう。
ただ、yy8さんのいわれる「神」がどのようなものかがわかりません。それにわたしは誰に出会っていないのかを知らないのですから、様々な推測に対し、それは違うといえる根拠はありません。けれどももっと世俗的な存在のような気がします。友達とか、恋人とか。
そういうといかにも世俗的で「哲学っぽく」ないかもしれませんが、自分にとって「悲しい不在」とは、もっと人間的な存在なのだと思います。神の不在は、ひとの存在によって補われると思っています。
ご回答をありがとうございます。
No.17
- 回答日時:
#15です。
補足拝見。
>「神」が全知全能であるなら、神はなにかを「知らない」ということを知っているでしょうか?つまり「無知」という状態を理解し得るでしょうか?
また神の描いた絵、神の作った曲は全ての人に愛されるでしょうか?
過たない神であるなら、何故人の痛み、悲しみを知ることができるのでしょう?
:
極めて新鮮な着想ですね。ちょっと意表を突かれました。わたしにとって「非知」の視点だったかもしれません。
たしかに、おっしゃるとおりで、全知全能ではない状態を少なくとも体験することはできないわけですから、「無知」や「人の痛み、悲しみ」を実感することはできないのでしょう。
このことはキリスト教における「父なる神」に適用できると思いますが、ひょっとすると、こうした疑念に答えるためにキリストを磔にしたのかもしれないですね。「人の痛み、悲しみ」はすでに知っている、と。
しかし、「父なる神」自体は、今回 Grass_Roots さんがおっしゃるところの、
◎神は、全知全能ゆえに、全知全能ならざる人間の立場に立つことはできない◎
という追求からは逃れられないわけで、穿った見方をすれば、これ(磔)は単に布教のための(極めて大掛かりな)方便にすぎないようにも思えてきます。
ところで、神とは絶対的摂理の比喩表現にすぎないのであり、
●神は、その(絶対的摂理という)属性ゆえに、個々の人間の事情にまで関与する必要性が無い。●
というのが従来からの自説です。(絶対的摂理=あらゆる事象をバランスさせる力)
個々の人間の事情にまで関与しないのは(絶対的摂理という属性を根拠とする)不必要性からだ、という論理なわけですが、(全知全能という属性を根拠とする)不可能性からだ、という新たな論理を教えていただき、うれしく感じているところ。
いずれにせよ神が、
>人の痛み、悲しみを知ること
:
はありませんし、知っているように見えるとすれば、それは単に確率の問題であって、神がいてもいなくても同じ結果が得られていたはず、と捉えるのが自然だと思います。
こんばんは。ご回答をありがとうございます。
さすがハコブルさん、「少なくとも体験することはできない」「実感することはできない」という表現を用いられていますね。
けれども神は「痛み」や「悲しみ」「苦悩」を、経験によらず「知る」ことができるのではないか?少なくとも「悩みも悲しみも知らない神」というものは「不完全」だし、悩みや苦痛を「癒す」ことが神の存在理由であるとしたら、それを知らない神というものも想定し得ない。
過たぬがゆえに「悔恨」も「蹉跌」も経験しないが、「理解」はしている。なぜならそれらを知らなければ神足り得ないし、過つ神では全知全能とは言えない。
などとつらつら思ったことでした。
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死せる魂を不死の船へ。
禅問答的「未知」「既知」「非知」考 に回答をお寄せ下さった皆さん。わたしのとりとめもない妄想に長くお付き合いくださりありがとうございました。
改めていただいた回答を読み返してみましたが、みなさん様々な角度からお考えを示していただき、
それに甲乙をつけることが出来ませんでした。
基本的にベストアンサーを決めずに締め切ることはしないのですが、今回は質問の特異性とうこともありご容赦ください。
ご回答いただいた皆様に改めてお礼を申し上げます。お付き合いありがとうございました。