【お題】絵本のタイトル

1. ケ・セラ・セラなる道(散逸構造の理論)に信頼を置けるのは 自己
組織化という治癒があるからでしょうか?

2. つまり 人文ないし社会科学の観点から尋ねています。

3. 自己組織化がもし復旧するというだけのことだとすれば なにやら
《創発》といった概念もあるようですね?

4. 制御の困難な問題に遭ったとき 自己組織化で元通りに直るだけでは
なく むしろあたらしい・さらによい状態が 現われ出て来る――といった
ことでしょうか? 創発とは。

5. つまり――飛躍するかも知れませんが――もしこういう理解でよいこ
とがらが 理論づけられているのだとすれば それはけっきょく 天与のち
から・つまり神の恩恵としてのハタラキになる・・・のではないかと しき
りに考えざるを得ないのですが そこらへんは どうなっているんでしょう
か?

A 回答 (4件)

再びNo.2関連で。



>いづれにしましても 《神》は 顔を出して来ますか? 

この世が決定論的にできているのか、それとも非決定論的にできているのかと繋がる質問ですね。

もしこの世が一神教的にできているのなら、決定論的でしょう。なぜなら、神にとって全過去と全未来がお見通しなのですから。しかし、もし二柱の神がおられるなら、非決定論的でしょう。なぜなら、この二柱の神の間で、次に何を起こさせるかで論争が起こってしまいますから。もちろん多神教の世界でも。一方の神が他方の神より有利になってしまったら、それはもはや一神教の世界です。

自己組織化が自発的に創発する必要条件が時間の向きの対称性の破れにあり、時間の対称性の破れは散逸として把握されますが、その散逸の裏には必ずゆらぎ、すなわち偶然が本質的な役割を演じていることが、散逸構造の理論の創始者イリヤ・プリゴジン教授によって明らかにされています。ですから、次にどのような散逸構造が創出されるかは神様でもご存知ない。

当然ながら、そのような理論を提示すれば、特に西洋において神の存在についての質問が出てくる。私はなんどもプリゴジン教授の講演を聴いておりますが、教授もそれには慎重に答えていました。曰く、

「科学の進歩によって、我々の抱いている神の心象を変えることも必要になるかもしれない」

と「政治的に?」答えておりました。
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この回答へのお礼

ここまでお付き合いいただけるのは 今さらながらたいへんありがとうございます。

人知を超えたところのナゾの問題には やっぱり――特に西欧において――つきあ
たるのですね。

問題につきあたって では 散逸構造の理論にほんとうに神が顔を出すのかどうか?
これは それこそ ナゾでしょうか。

プリゴジン師のお答えも 表現じょう確かに《政治的な》印象をあたえる一面があ
るように見えます。

神論そのものについてわたしは自論を持つに到っていますが 神は――つまり 普
遍神は―― 人間がどう考えてそれを《有る神》として抱こうと・あるいは《無い
神》として捉えようと 変わらないナゾですから。

(多神教は それぞれが同じひとつの普遍神の分身――あるいは依り代――ですか
ら)。

神の心だとかその行動を忖度するにしても 人間の主観の域を超えることは おぼ
つかないわけですから。

もし神が介入しているとするなら そうだとしても そのことは実際のところ人間
にはまったく分からない。互いに憶測を表現して いや違う いややはりそうだと
やり合っているに過ぎません。




もっとも ケ・セラ・セラなる道なら 自然本性のうながす憶測としては――神は
時空間を超えており 因果関係なる現象のチカラからまったく自由であるからには
―― 対立する二項のあいだの制御困難な現象を散逸させ そこにゆらぎを起こす。
そうするものと思うでしょうね。

そうして特に西欧では 先の大戦がふたつも起きてしまった事態に そのような憶
測も希望も 知識人のあいだでは 潰えてしまったようです。祈る気持ちも意欲も
ズタズタに切り刻まれ葬られたように見えます。

プリゴジン先生の視線は どちらのほうを向いていたのでしょうね。

自然科学者も 人間として・一市民として――また近代であることをあらためて超
えて―― おのれの価値判断をそれぞれ自由に明らかにするあたらしい時代が来た
のかも知れません。つまり 哲学の復権ですね。

答えがすぐには出ないでしょうけれど。それなのに でかい口を聞いてしまってい
ますが。



ううーん。神論――オシヘとしての神学ではなく――が問い求められるでしょうか。
そして自然科学の成果と総合する哲学・・・ということになるでしょうか。亡羊の
嘆を乗り越えて 前途洋々と行きましょうか。・・・

お礼日時:2019/03/08 04:23

No.2関連で。



☆ に裏づけられ理論的にあきらかにされた因果関係の過程が 人間関係ある
いはそのコミュニケーションの展開について どのように応用されるか? 

いわゆる物理学の基本原理から出発せずに、経験的に基づいて量的な関係式(方程式)を模式的に提示し、それを分析する方法は物理学では「現象論」と呼びます。その現象論的な方程式は、物理学というよりも数理物理学という分野がそれを研究対象にしています。

その場合、物理学の基本原理である熱力学第二法則に相当する項が現れてくる場合がほとんどの人間の営みに関する現象論的な方程式にも現れてきます。その項のことを散逸項と呼んでいます。そして人間の営みは本質的に非線形です。その現象論的な方程式を使うと貴方の興味のある現象の多くが散逸構造理論で語れます。
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この回答へのお礼

ますますむつかしくなりますね。――ご回答をありがとうございます。

★ そして人間の営みは本質的に非線形です。
☆ つまり――わたしの自分の田に水を引いた言い方をしてしまうなら
―― その相転移のときには ヒラメキが起きるのが しばしばです。

ヒラメキなら 人知のおよばないチカラがはたらいていると見られます。

ヒラメキを介して システムじたいがあたらしいものに衣替えするよう
になるかも知れない。(創発?)


そして そのナゾのチカラは 量をも形をも超えているので捉えること
はかなわず ただふつうに起きている現象にかんして 次のように理論
立てて認識することができる。
――と捉えてよいでしょうか。:
★ その現象論的な方程式を使うと貴方の興味のある現象の多くが散逸
構造理論で語れます。

☆ 経験科学は 現象についてその認識を合理的なかたちに整理するこ
とができる。と。

★ 散逸項
☆ の認識は つねに後付けになるか? 予想ないし展望は ヒラメキ
ないし相転移の起こることを待つことにあり――なのか?



いやあ ヘンなことを言っていますね。

お礼日時:2019/03/07 21:54

散逸構造の理論は、今まで誰もが直感的にそうなんじゃないかと感じ、それを時の知識人たちが定性的に表現していたものを、熱力学の第二法則という物理学の原理から定量的に分析できるようにした理論です。



ケ・セラ・セラ然り、創発然り、突然変異然り。

*偶然による突然変異の裏には、「ゆらぎ」という定量的に表される概念がありそれが重要であることを明らかにした。

*突然変異というけれども、偶然にできた構造がどうしてそれを維持できるのかに対して、安定性の定量的な分析がいる。

*上記、突然変異後の安定性を保証するのは、熱力学第二法則、すなわち時間の向きの対称性が破れていることある。

*突然変異で今までにない構造が全く新しい構造を手に入れまいすが、それには不安定生が必然であり、その不安定生の定量的な分析がいる。

*ゆらぎと不安定生が新しい構造を作るというが、その行き先が多様である根拠の裏には非線型性が必要である。

*新し構造への遷移の時に常に混乱が伴うが、その裏に、不安定な遷移期近傍でゆらぎが増幅する裏には非線型性である。

等々、今までなんとなく知っていたことを定量的に分析し、その結果を観測可能にしたことです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ふうーう。とまづひと息つきまして。

残念ながら・悔しさいっぱいですが いまのわたしでは理解に達しないですね。

★ 定量的な分析
☆ に裏づけられ理論的にあきらかにされた因果関係の過程が 人間関係ある
いはそのコミュニケーションの展開について どのように応用されるか? 

さらに出来るなら 将来の展望のようなものが――《成るように成る》という
心の思いなる底流のもとに―― リアルタイムで得られるものなのか?

あるいは 一般的な合理的因果関係から飛躍する展開が起こるとする場合 い
ったいそれは どういうチカラによるものか?

・・・



★ 散逸構造の理論は、今まで誰もが直感的にそうなんじゃないかと感じ、そ
れを時の知識人たちが定性的に表現していたものを、熱力学の第二法則という
物理学の原理から定量的に分析できるようにした理論です。

★ ケ・セラ・セラ然り、創発然り、突然変異然り。

☆ ということは ふつうに当たり前に人間の自然本性として抱き得る《楽観》
をむしろ信じてよい――といった人文・社会的な考え方を 物理化学的な事象
の理論的な認識をつうじて裏書きするものだと。



いづれにしましても 《神》は 顔を出して来ますか? この理論についての
各自の価値判断にあって。

というような漠然とした思いを持ちました。

お礼日時:2019/03/07 20:53

1.違うと思います。


  「なる様に成る」からです。つまり自然の摂理に逆らわず、散逸拡散し
  忘れ去られるからです。これに抗する事は「忘却とは忘れ去ることなり。
  忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」の様に永遠のテーマなのです。

2.「散逸構造」を出して、「社会科学の観点から」は何か違和感があります。
  「社会科学の観点から」なら「カオス理論」が相応しいと思います。

3.「自己組織化がもし復旧するというだけのこと」なら、何らの新しい
   物も創り出されません。《創発》は有り得ないのです。
  「自己再生で復旧する」なら複製ミスが発生し、何らかの《創発》が起こり
  得ます。最近の進化論の立場です。

4.制御不能な事象に於いて、自己組織化で元通りに直るだけの復旧だけでは
  なく、むしろ複製ミスと云うあたらしい状況により・偶然的にあるより良好な
  適応状態、さらによい状態が、現われ出て来る――という事が起こり得る。
  これが《創発》と云うものである。

5.偉大なものは全てを創造された。その創られたものは完全では無く、さらに
  よいものが現れるのも偶然に委ねられた。それは人智を越えた行為で、我々は
  それを「神」と「その恩恵」とした。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 1.違うと思います。
  「なる様に成る」からです。
☆ ああ そうなんですか。

★ つまり自然の摂理に逆らわず、散逸拡散し忘れ去られるからです。
☆ ふうむ。ということは もし《自己組織化》が起こるとしても それは
付随するもので主要な要素でもない・・・でしょうか。

あるいは 制御不能な事態が来ても それがやがて消えてなくなる。そのこ
とだけで 元の状態が取り戻されるのだと。

★ ・・・忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」の様に永遠のテーマ
☆ が 人間の性(さが)として伴なわれてはいるけれど。ですか。



★ 2.「散逸構造」を出して、「社会科学の観点から」は何か違和感があ
ります。「社会科学の観点から」なら「カオス理論」が相応しいと思います。
☆ そうですか。しらべてみます。分かりにくいようにも見えますが。



★ 3.
▲ (ヰキぺ:創発:emergence) 部分の性質の単純な総和にとどまらな
い性質が、全体として現れることである。 局所的な複数の相互作用が複雑に
組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステ
ムが構成される。
☆ これは 発生しうる――のですね? 自己組織化以上のもののようです
が 自己組織化もふくまれているかに感じられます。



★ 4.制御不能な事象に於いて・・・むしろ複製ミスと云うあたらしい状
況により・偶然的にあるより良好な適応状態、さらによい状態が、現われ出
て来る――・・・これが《創発》と云うものである。
☆ 《予測できないような〈よい〉システムが構成される》のですね。



★ 5.偉大なものは全てを創造された。その創られたものは完全では無く、
さらによいものが現れるのも偶然に委ねられた。それは人智を越えた行為で、
我々はそれを「神」と「その恩恵」とした。
☆ ふむ。《偶然》とは 突然変異のようなものですか? あるいはそうい
う見方は ふるいですか?

★ 人智を超えた
☆ ハタラキを想定することが排除されてはいない――でしょうか?



ありがとうございます。さらに腑に落ちるように問い求めて行きます。

お礼日時:2019/03/07 03:58

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