A 回答 (26件中1~10件)
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No.26
- 回答日時:
神や仏とは、『自身を働かせている、命そのものの働き』です。
赤子が生まれた時既に備えているものです。具体的な表現をするなら、(1)『身体に対する生命維持機能』です。(2)『身体や心を使っての行動についての生命維持機能』です、(3)『心に考えや感情を湧き上がらせている者として働いている、生命維持機能』です。
ですが、この機能を『自我意識は知る事が出来難くなっているようです。』その証拠は、『人間の無意識界』を支配しているからです。
意識している自分が『無意識の自分に切り替わった事を、自覚出来ないからです。』
これは人間の脳の機能分化を学ぶ事によって知る事が出来ます。科学的な文献です、ウイキペデアからです。人間の心が二重構造になっていると言う科学的なデータです。
『”ロジャースペリー 分離脳』
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究
ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』
この場合では『右脳の人格』が、はっきりと証明出来ないでいる事が、問題の明確性を妨げていると思いますので、右脳の機能と左脳の機能を、内部から自分で観察する事になった脳科学者の動画を載せてみたいと思います。
この場合での右脳の役割と左脳の役割を脳卒中の為に『体験的に体感した脳科学者の動画です。』
URL:
もし出ないようでしたら、ジルボルト、テーラ脳卒中と検索して下さい。
この動画の体験が、仏教では『見性』=『自分自身の性を見る(知る)体験』です、キリスト教では『神に会って和解する体験』です。
生命維持機能『神や仏』を疑う事によって『失楽園』=『神を疑うために天国から追放される事』という現実が今の世界では沢山起きています。
例えば、『自身を働かせている、命そのものの働き』の中の、(1)『身体に対する生命維持機能』を疑う時
身体の機能が検査では異常が無いにも拘らず、身体の不調を訴える事があります。赤子では『何も学ぶ以前から働いていた機能を疑いだしている事』を意味します。
この場合では『自律神経失調症や過敏性腸症候群』など、難治性のしかも原因不明とされている、心身症を患うことを意味します。幼子は『自分自身の身体の機能を疑う事が無い事から、天国に一番近い存在』と聖書では教えています。
例えば、『自身を働かせている、命の働き』の中の(2)『身体や心を使っての行動についての生命維持機能』を疑う時、行動に制限が掛かってしまったり、手や足や口でさえ自由に動かせない状態になっています。
主に神経症の症状に悩ませられる事を意味します。これが『自身に内在する神』を疑う事によって、天国から追放された現象です。幼子は、自身の働きと一つの者として働いている事から(脳の未分化)、天国に一番近い存在として聖書は教えています。
例えば、『自身を働かせている、命の働き』の中の(3)『心に考えや感情を湧き上がらせている者として働いている、生命維持機』を疑う場合では、湧き上がる考えの場合では、『湧き上がる考えの、所有者や受取人が不在になってしまう場合もあります、つまり考える事を統合する人格が何処に行ったのかが、分り難くなるという意味です。』
或いは『湧き上がる感情』の場合では、受取人が、受け取りを拒否する事から、絶えず感情的な情報が送られ続くという現象の為に、肯定と否定が脳内に反復して循環する現象となります。感情障害という現象です。
こう云った全ての障害は、先の動画の体験によって、完治する事を意味します。釈迦もキリストも、同じ事を違う形で表現しています。何時の時代でも分り難いものという評価も、又変わらないかも知れませんが。
No.25
- 回答日時:
私が神を信じる理由をお答えします。
この宇宙は、物質のみで構成されている訳ではありません。もし、私たち人間が物質のみから出来ているとしたら、ロボットと同じ存在であるはずです。科学が発達し精巧なロボットが出来ると、そのロボットは世間話をし、またやかんに触れれば熱いと言うでしょう。しかし、ロボットはそう言っているだけで実は何も感じてはいないのです。
これに比べて、人間はやかんに触れれば、実際に熱いと言う感じが生じます。そして、その熱いと言う感じは、物質ではありません。幾ら顕微鏡で脳の中を覗いて見ても、熱いと言う感じを見る事は出来ません。確かに、物質が熱いに対応した動きをしていることでしょう。しかし、それは熱いと言う感じそのものではありません。
脳と言う物質の熱いに対応した動きが刺激となり、私が熱いと感じているのです。熱いと言う感じは物質ではありません。従って、それを感じている私は物質ではないのです。私は、無限の感受性である精神です。
心は、物質と精神のコラボレーションです。物質がなければ、何の刺激も受けないので精神は何も感じません。また、物質のみでは何も感じることが出来ません。
では、一秒前に私の脳が刺激を送っていた精神は、今の私である精神でしょうか。その保証は何処にもありません。精神に記憶が蓄えられるのであれば、一秒前に私の脳が刺激を送っていた精神と、今の私の精神とは同じか違うかが分かるでしょう。しかし、記憶は脳と言う物質に構造として蓄えられます。
脳と言う物質が移動する度に、異なる精神に刺激を送っているかも知れません。一秒前に他の精神が感じた記憶を脳と言う物質に蓄え、今の私の精神に記憶と言う刺激を送っているだけでしょう。そうなると、この宇宙には、精神が満ちていることになります。若し、精神のない空間があるのであれば、人がその空間に移った時、何も感じなくなります。しかし、その様なことは起こりません。
精神は宇宙に一つあり、全宇宙に満ちています。人は移動する度に、その精神の異なる部分に刺激を送ります。ですから、私は私と言う特定の存在ではないのです。他人も私も同じです。ですから、汝の敵を愛することが出来るのです。
物質の全体を宇宙と呼びます。精神の全体を何と呼んだら良いでしょうか。私達は皆、至高な精神の一部分なのです。
また、精神は物質を動かすことが出来るのです。物理学では、物質を動かす力は、重力・電磁力・強い力・弱い力の4つの力であるとします。しかし、実際には、私と言う精神は手と言う物質を動かすことが出来ます。
そして、この社会は、精神の意思により動いています。この様に、社会の動きを物質のみで説明することは出来ないのです。
そして、この宇宙の始まりを物質のみで説明することは出来ません。物質の因果関係は、原因が結果を生じ、その結果がまた原因となり結果を生じると言う形となります。宇宙の始まりは、原因なくして結果が生じなければなりません。つまり、無から有が生じなければならないのです。
しかし、物質は無からは生じません。これに比べて、感じは生じたり消えたりします。精神は原因から自由です。従って、宇宙の始まりにおいて、最初に動いたのは自由な精神でしかあり得ません。宇宙を創造した精神を何と呼ぶべきでしょうか。
私は、その至高な精神がどの様にこの宇宙を作ったのかを探求しています。もし、物質の因果関係のみでは説明出来ないことが残されたら、それは神の存在を証明したことになります。こう言う意味で、物理学と神学とは、排斥し合うものではありません。
No.24
- 回答日時:
性善説も性悪説も根本は同じ。
何故ならどちらも答えは無い。
どちらになるかは環境次第。
つまり、生きる形。
形に善悪を唱える事こそ愚か。
神には近づきも遠ざかりもしない。
何故なら『今』が答えそのものだから。
No.22
- 回答日時:
神には、瞑想で到達することが出来ます。
では、瞑想とは、どの様な心の状態を言うのでしょうか。瞑想とは、起きていて夢を見ることです。起きているので、その夢を自分の意思でコントロールすることが出来ます。夢は、自分の意思とは関係なく進んで行きます。しかし、瞑想では、望む人に出会い、会話を楽しみ、望むものに触ることが出来ます。その感じは、起きている時と何ら変わりありません。また、記憶する機能も働いているので、瞑想を止めてもその事を記憶しています。
ではどの様にしたら、起きていて夢を見ることが出来るのでしょうか。それには、先ず座ることです。横に寝てしまっては、本当に寝てしまうからです。そして、ほんの少しだけ目を開けます。僅かで構いません。眠ってしまうのを防ぐだけで良いのです。
そして、臍の下10cm位の所を軽く意識します。思考している時、意識は上の方にあります。何かを考えて、意識を脳の位置に持ってくると、瞑想の状態には入れません。何も考えず、全てを捨て去ります。すると、意識は、次第に下に降りて来ます。
悩みも欲も何かをしなければならないと言う意識も、全て捨て去ります。自分自身も捨てて下さい。何も要りません。何もしません。自分もいりません。瞑想に入らなければならないと考えてもいけません。何かを感じようとしてもいけません。すると、次第に眠くなって来ます。それを、僅かに目を開いて、ただ本当に寝てしまわない様にするだけで良いのです。
そうしていると、後ろの頭頂部の辺りで、音が響いてきます。その音は、瞑想の都度異なります。私の場合は、ピアノの音であったり、お経の声であったりすることが多い様です。その音に耳を澄ませます。それは、次第に大きくはっきりとした音になってきます。
すると、今度は、額の中央の辺りで、ひっきりなしに動き回っているものを感じます。大きさは一円玉位です。ウニの様に、何本もの黒い枝が伸びたり縮んだり様々な方向へ向いたりと、不規則に激しく動いています。その動きを妨げてはいけません。思考すると、その枝を操作することとなり、動きを止めてしまいます。それは、動きを止められると消えてしまいます。
その動き回るものは、全てになります。言わば世界の種です。それに頼り切って下さい。思考することは「自力本願」です。思考を止めて、私の全てをその動き回るものに委ねます。この世界の種に頼り切ることを、「他力本願」と言います。
その動き回るものに私を預け切っていると、それは次第に大きくなって行きます。その黒い枝の1本1本は、家や木や池や石などあらゆる存在にせわしなく絶えず変化しながら、絶えず動き回る様になります。そして、どんどん大きくなって行きます。
すると突然、広々とした空間が開けます。今までせわしなく変化していた存在の中に、私が入り込んでしまっています。私は、一瞬にしてそれに吸い込まれました。せわしなく動き回っていた1本1本の黒い枝は、実際にその空間の中で家になり、車になり、木になり、池となっています。そして、無秩序に動き回っていたその存在は、車として規則正しく動き、木の葉として秩序通りにそよぐ様になります。私がドアを開けると、ドアは動きます。私の行動に合わせて因果関係通りに、それは動く様になります。今まで、後頭部で鳴り響いていた音は、風の音や人の声となっています。これが瞑想状態です。
この世界は現実の世界ではないと言う意識はまだあります。しかし、現実の世界と全く変わりません。起きていて、広い周りを見渡している時と全く同じ状態です。風が吹くと髪がゆれ涼しく感じます。車の音も聞こえます。振動も感じます。すがすがしい空気を、深呼吸することも出来ます。 会いたかった人に会うことも出来ます。その人の肌は、ぷよぷよとした感覚があり毛穴まで見えます。話もします。
私は、自由自在にその世界で思考し、活動することが出来ます。この世界は私そのものです。この木も家も宝石も人も、私の欲しいものは既に私のものです。私は、こんなにすばらしい世界を所有しているのです。これが本当の「神の国」です。
No.20
- 回答日時:
Ano.8です。
>「先入観という思い込みを覆してください。気持ちよいですから。」
>>「悟りの精神状態はどうなっているのかなあという質問です。」
考え続けた挙句、「コレだ!!」というのが悟り、かと。
再度のご回答ありがとうございます。
>考え続けた挙句、「コレだ!!」というのが悟り
私もこれが結論だと思っています。
これが悟りだという答えはありません。
「悟ったと悟ること」だと思います。
で、その感覚はいつも、ビビビとくるものです。
それが「悟ったよ」というサインかもしれません。
なにしろその「ビビビ」は自分で感じようとする考えや意志からくるものではまったくないからです。なんというか、「迎えられる」ような感覚ですから。
No.19
- 回答日時:
No.3です。
No.18からのつづきです。★(No.3補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>非経験の場なるナゾが われわれの存在を包み込んでいるのなら それを――主観として捉えたという場合には―― 精神としても感性としてもあり得る。
(あ) もし非経験という場があれば、主観でその世界(非経験の場)があると捉えれば、「精神としても感性としてもあり得る。」
(い) ということは、主観によって非経験の有無が分かれる。
(う) 主観が「非経験の場」があると感じたときにおいて、初めて「精神としても感性としてもあり得る。」ということなのですか? 分かりずらいので、もう少し詳しく教えてください。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ (え) まづ 《非経験の場》を 具体的にどう人間は捉えるか? が来ます。
(お) というよりは すでに人びとは その名前を持っています。カミだとかゴッドだとか・あるいはまたその細分化したいくつかのカミガミであったり さらにあるいはブラフマンなりヤハヱーなりキリストなりアッラーフなりと いろいろです。
(か) しかも人びとの中には これを そんな神なんてものはない マボロシぢゃという場合もあります。マボロシに違いないのですが そうだとすれば――理性をも感性をも超えていると言ったことになるからには―― やはり《非経験の場》であることに変わりない。
(き) つまりは これは神が経験事象としての有る無いを超えているゆえに 有る神としても無い神としても どちらにも 人間は解し得るということを意味する。
(く) つまりは世の中には 大きく神について 名前のついた有る神とそして無い神とが――つまりは 有神論と無神論とが―― 互いに自由に同等にあり得る。持たれ得る。と帰結されるはずです。
(け) これが
★ (い) ということは、主観によって非経験の有無が分かれる。
☆ ということの意味です。
(こ) あと (う)の《「精神としても感性としてもあり得る。」》というのは 非思考の庭で得られたヒラメキの内容にかんしてです。ふつうは 直感としての感性ですが そこから――もしくは直接に思惟へとつながって―― 思考内容としてもあり得るのではないかと見られます。
(さ) 分かったぞ!(エウレーカ)という時には すでにイメージは概念と成っていて 思考内容ないし理論につながっている場合もあるかと思います。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>その人の主観の問題です。
いろいろな分野で言われてます。「幸福も不幸もその人の考え方、感じ方だ」と。
個人レベルの不幸は変容できますが、でも世界レベルの不条理は許せません。今頭ん中で「神は死んだ」という声が聞こえましたが(笑)そういうことですかねー。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ (し) 《因果関係・モノゴトの有る無し・あるいは幸不幸などなど》は 経験事象です。そのことをただちに言わば神の世界へと挙げてしまわないように注意する必要があると思います。
(す) 神とわれとをつなげたときには それはあくまで主観の範囲での出来事だとみづからをいましめなければならないと考えます。
(せ) 《神は死んだ》というのは はっきりしています。人間があたまの中で思考や想像として思い描いた神のことです。これは 観念の神として 初めから――道徳律や倫理規範としてはハタラキを持つとも言わねばなりませんが・つまりは 人間の思考や想像の産物であるに過ぎないということであり―― 〔初めから〕有限で移ろいゆくものであり その果ては死であるのですから 《死んで》います。
(そ) 当時の通念としての常識に反して言うことには 抵抗感から何からが感じられ勇気をさえ必要としたかとも考えられますが そのような通念として常識として持たれていた観念の神は 初めから死んでいます。思考の緑野と感性の原野から成る経験世界を出ることはありません。人間がみづからにつくったお遊びとしての神です。
(た) その人は わざわざその初めから分かっていた《観念の死んだ神――というよりは その観念の規範の縛りに縛られて思惟し行動するなら その人間の自由意志が死ぬという意味でもありますが――》のことを〔わざわざ〕声高らかに宣言したというわけです。
(ち) ですが その人は 神は何であるかが分からなかった。あいまいであった。ついに 分からずじまいであった。と言わねばならないでしょう。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
どう捉えるかを
>主観のもんだい
とおっしゃいますが、善も悪もない、すべてはあるがまま、それが神だという考え方からすれば、主観というのは人間の都合でもあると思います。しかし不条理が存在するその意味もあるはずです。それは主観や捉え方、感じ方、考え方で解決できるようなものではなく、人間がその不条理に対するときの解決策の一つとして捉え方次第という思考を生みだしたとしても、それを超える唯一絶対的な真実(答え)があるのではないでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ (つ) ありません。あるというのは 神の定義から派生して得られて来る理論です。
(て) 《非経験の場》は けっきょく相対的な経験世界を超えているからには 《絶対》ということです。
(と) 絶対を擬人化して 絶対者と言うと言うまいとにかかわらず 《絶対》は けっきょく因果関係から自由であり 有る無いを超えており この世の善悪や条理不条理をも超えています。マボロシです。
(な) このマボロシを じつは人間という観点からは この世の善悪や条理不条理なる問題にかんする正解だとする見方は 出て来るものと思います。
(に) つまりは
★ 〔* 不条理なる問題をめぐって〕唯一絶対的な真実(答え)があるのではないでしょうか?
☆ といった見方も提出され得るでしょうね。
(ね) 問題は その答えが 人間には分からないということです。神そのものだという意味です。ついぞ分かり得ません。
(の) わづかにその正解があるというマボロシにもとづき 人間は それが実現するかも知れないという予感を――主観的に――持ち得て 希望のうちに生きることが出来る。その可能性があります。
(は) これが 神です。わが心なる《非思考の庭》に神からの贈り物としての花が咲くというわけです。
(ひ) でも神は われわれにんげんに対しては 善もあれば悪もあり 条理不条理が起き得て それらの因果関係が鎖のごとくシガラミとなってわれわれの身と心とを取り巻くこのしょーもない世界にあって おのおの心の燈心をともして生きて行きなさいと言うでしょうね。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
輪廻転生の考えである、本人の為したことに責任を負わせるということは主観次第だという考え方(心理学的にいえば認知行動療法的)と同じだと思いますが、なぜ不条理という概念が存在するのか、その答えを神はまだ(?)人間に打ち明けてないような気がします。
手紙というのは、ヒントや励ましのメッセージであり、神は自分の手の内を明かしてないと思うのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ (ふ) そうですよ。おっしゃるとおりです。
(へ) 輪廻転生は DNA の同じ存在は過去にひとりもいないからには あり得ません。ただし 主観としては 自業自得だと捉えて世界に相い対処するというくらいで よいのでしょうね。
(ほ) そして
★ 神は自分の手の内を明かしてないと思うのです。
☆ なのでしょうね。つまり それだけで だいじょうぶだと思っているでしょうね。すでにあなたの心の燈心をともすことが出来たではないかと もういまでは いさめているでしょうね。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~
>そのシガラミから自由な知性をはたらかせることの出来る能力をも 人間は持っている。かも知れない。
そこから自由になれる術を得たとしたら、それを無償で全世界に告知しなければ本当の賢者ではないと思います。
本を買えだとか、セミナーに来れば教えてやるとか。でもそれが真実だとしても、新興宗教と捉えられてしまいますね。本当の新興宗教があるせいで。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ (ま) 《心の燈心がともされていますよ》という心のメールだけが 答えだと思います。
★ イエスのように実在した(といわれている)救世主は、そんな次元の人ではなかったからあれだけ有名になったのでしょう。本当なら、一人一人持っている力(潜在能力)を発揮できればよいのですが。
☆ 《あなたの持っているもので もらったものでないものがあるか? すでにもらったのなら 何故もらっていないと言って自己をほこるのか?》。
No.18
- 回答日時:
No.3です。
★ (No.3補足欄)~~~~~~~~~~~~~~~~
>《非経験の場》として――想定されます。
イデア論からすれば、この世は神の世界の反映だと言われてますね。でもこの世の不条理も同じく反映だとしたら、神の世界も不条理なのかなと。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《非経験の場(つまり 神 もしくは 無い神)》と《人間たるワタシ》との関係は 一義的には 《非思考の庭》として成ります。つまり 信仰という動態です。(信じるとは 考えるに非ずという意味です。単純な論理による定義です)。
そのあと 人びとは この関係が さらにどのように成っているかについて思いをめぐらします。
言いかえると 《非思考の庭》とは いったいどういう通路となっているのか? 神〔なる非経験の場〕と我れ〔の生きる経験世界〕とのつながり具合いは いかにあるやと。
《イデア》の理論も そのひとつです。と まづは 了解してください。
そう見るなら たとえば
★ この世は神の世界の反映だと言われてますね。
☆ と言っても それは そう単純ではないはずです。《反映》のあり方が いろいろ考えられるのではないでしょうか?
あるいはつまり そのように言うよりは じつはすでに《非経験の場なる神》を 《物自体》とか《世界霊魂ないし世界精神》とかあるいは《イデア》だとかと規定するそのコトとトキにおいて 神との通路のあり方を人間が規定してしまっている部分があります。
物自体という場合は 《もの》を例にとって定義しようとしています。ただし すでにそれは 人間の思考し得ず理解しえないところだとして《非経験の場》という想定にもとづいています。神とわれとの通路は 分かるか分からないかが分からないとして説明するものです。
世界精神という場合は 《こころ》を例にして定義しようとしています。議論を端折りますが このとき《歴史の狡知》としてこの世界精神が 人間の世界に介入すると見るとしたら それは そういう《神とわれとの通路》を再度想定したことを意味します。
この後者のばあいは 《イデア》説に近いものがあるのではないでしょうか。ただし単純に神の世界が人間の世界に反映されるとは言っているものではないはずです。
けっきょくわが心なる《非思考の庭》がいったい神とのあいだでどういう通路となっているかは――思索をかさねていくことは自由ですが―― 一般にはいろいろとあると捉えるのが まづ基本ではないでしょうか。
★ でもこの世の不条理も同じく反映だとしたら、神の世界も不条理なのかなと。
☆ というような《通路》のあり方を想定するのは おそらくそれが一面的であり もっと言えば人間の恣意的な想像でしかない。のではないでしょうか?
《条理》にかなったことを想像することは――その実現がむつかしくても――大いにあり得ますし それとしての希望を与えられてもいます。
あるいは もっと大きな問題がそこにはあって まづ条理・不条理という判断をまじえた事実認識は とうぜんこの世の出来事について言っています。そのような経験事象を ぎゃくに今度は 神の世界にすでに前もって反映させておいて その《条理・不条理なる経験事象》をさらにふたたび経験世界に あたかも神の世界の反映であるかのように 投影する。と もししたら それは 神についての議論が どこかでゆがんでしまっています。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>もしその非経験の場なるナゾが われわれの存在を包み込んでいるのなら それを――主観として捉えたという場合には―― 精神としても感性としてもあり得る。
それが、想像しうることはすべて実現可能だ、ということではないかと。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ もんだいは すべて・飽くまで それぞれワタシの主観におさめられる思惟だということです。
主観内面において 《想像し得て その想像のかぎりで 実現可能だということも思い描かれ得る》という意味です。
単純に実現可能だと言ってしまえば それはやはり すでに初めに経験世界のコトガラを 一たん神の世界に持って行って ふたたびそこから経験世界に舞い戻ってくるといった操作をおこなっているのではないかというウタガイがつねにつきまとっているでしょうね。
ですから
★ イデアを形にするときにはインスピレーションや想像力、または潜在意識を扉としながら、すべての人間はその扉を開くことはできるのですが(動物などはほぼ潜在意識で生きている)、神を感じるのは特別なことではない、むしろ認知できるものはすべて神だといえるでしょう。
☆ というのは 言い過ぎです。また 経験世界からの神の世界への投影が 先だっているウタガイが濃厚です。
それは 人間の想像しこしらえた神であるに過ぎなくなります。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
>主観内面において神に触れられていると仮りに言ったとしても それは 精神でもなければ身体でもない。はずです。非経験と非思考との問題なのですから。
について、主観は精神を超えているということですか? つまり直感的なものであり、それが非思考ということなのですか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《非経験の場》なる神を想定したということは――なぜ想定したかと言えば そういう《かみ》という言葉が使われているからという単純な理由からですが―― その神とわれとの関係を捉えようと思えば どうしても精神でもなく感性でもないところの《非思考の庭》をも想定しなくては 割りに合わない。のではないでしょうか?
その庭から何かを得られるとしたら まづは インスピレーションとしてなのでしょうね。神は霊(スピリット)であるなら そこから何か観想が得られるとすれば インスピレーションとしてのヒラメキ(直感および直観)としてなのでしょうね。
この直感なるヒラメキが得られれば その感性をイメージとして何か概念を捉え さらには思考の緑野へと思惟をつなげていけるはずです。イメージのままに終わってしまう場合もあるはずです。
主観(大きく こころ)は 感性や理性(精神)をも超えたところへと あたかも通路を持ったようなかたちで つながっているかも知れない。そういう想定です。ヒラメキにしたところで まったくのマボロシであるかも知れません。
まぁ マボロシでなければ 《精神をも超えている》とは言いませんが。そしてそれが 経験合理性から見て 意味を持つような内容につながる場合がある。こういうことではないかと。
(つづく)
>信じるとは 考えるに非ずという意味
なるほど。信じるということは一見美しいけれど、裏切られることもあるわけです。信じるに値するかどうか、考えることを経てから信じるべきです。
しかしエセ宗教の信者などは、「考えるに非ず」なのでしょうね。もともとは他者依存の結果ですけれど。
>経験事象を ぎゃくに今度は 神の世界にすでに
…どこかでゆがんでしまっています
この意味においての反映というのは一方的ではないということですね。
逆に神の世界が人間世界の投影だとしたら神そのものの世界がおかしなことになる。(それが回答No.14の方が「神はいない」と言っている本義だと思います)
>条理・不条理という判断をまじえた事実認識は
…ゆがんでしまっています。
bragelonneさんは神の世界は不条理ではないということ?経験世界(現実のこの世界のことだと思いますが)は神の世界に先立ってない?何をお伝えしたいのか、言いまわしが難しくていまいち伝わってきません。
「非思考の庭」「非経験の場」「思考の緑野」などなど、哲学者でも学徒でもない質問者には(回答者もその方が多いと思いますが)まず専門用語もしくはご自分の言葉でしたらそれを先に説明すべきです。また哲学は言葉遊びではないはずです。
No.17
- 回答日時:
No.2です。
お礼ありがとうございます。
ですが、同じ失敗を繰り返しても学ばない人もいます。それはなぜでしょうか。それは業として来世に持ち越されるのでしょうか。
これなんですが、物事を学ぶにも時間がかかる方もいるって事でしょうね。また、その学べない姿を多くの方に見せる事で見た方々に学びや気付き、ああなっちゃいけないんだな、というアンチモデルを見せるって働きがあるのかも・・・
業の捉え方・・・
私、来世に持ち越しなら本人が、もう一回行ってくるわ~!!って意気込みがある時に行かせてんじゃないの?と思います・・・じゃないと学べないよ・・・
それと業(ごう)って本人に付属じゃなくて、人間というものの一面に付属してるものだと思う。
動物で、知恵が回って、欲がある。
欲から知恵を回して変な事したり、頭でっかちになって変に見過ぎたりする。
欲も良いものから(解脱したいも欲だと思う)悪いものまである。
誰か、偉い人や目標とする人がこの方法で出来た!!なら私にもこの方法で出来るハズ~!!という思い込みも怖い・・・個人によって、適性があると思うよ。
よく山にたとえられたりしてるけど、山じゃなくて山脈なんだと思う。
どこのすそ野にいるかも違うのに、誰それはA山をロッククライミングで登った!ロッククライミングだ!!と思っても・・・なだらかな丘みたいなところに住んでたらそれはおかしいし、急斜面どころか上の方がせり出してて攻略不可能と言われるほどの場所だと厳しすぎる。また、近くにある道具類も違うしね・・・麻糸と木の棒しかない場所で、雪山登山(他の場所で現代の登山家装備で出来た)は危険すぎる。
本当はどのルートを上ってもいいし、途中でここまで!!ゴール。にしちゃってもいいと思うんだけどね。
てっぺんを目指し過ぎて、何のためにやってるんだか忘れちゃっても困るよ。
自分の本当の目的に沿ったところで ”ああ、もうこれでいい。もう満足だ。 もういつ死んでも、これを知っただけでもう悔いはない” って心境になれたらもうそれでいいんじゃない? 後はおまけの人生だ。
丘の途中でその心境になれる人も、富士山登ってもなれない人もいるし、ヒマラヤ行こうと準備して、あ、そんな心境になった・・・でもいいと思うの。
おかしな事にヒラヤマを目指してたのに・・・何度も座絶したのに・・・近所の裏山登ったらそんな心境になった、でもね。
逆に海溝に向かって、そう思ったんならそれもそれでいいのかも・・・
あ、少し前に世界のとらえ方で面白いもの読みました。
来世とかじゃなくて、現世は体感型ゲームで目標があって攻略してる。クリアできたり、ゲームオーバーになったりする。
忘れて無いとゲームにならないからゲームだと忘れてて、実はスッタフとNPCもいるって考え・・・怖いな~
スタッフもアシスト目的だけど助けすぎないように忘れてる人も、特定ルートを通らないと出会いに失敗、この人のアシスト無し!になる人もいるって事だよね。
私はNPCの事は怖いので考えないようにしてる・・・やだよ、自分がNPCだったら・・・
何度も遊べば・・・おかしな目標設定をすることもあるだろうね。友達同士で競争ならまだしも、わざと憎悪しやすく設定して憎悪できるかが目標とか・・・ゲームオーバーになって仲直りしちゃったね~、でも今回も出来なかったね~でもいいし、クリアしてお互い出来た出来たとハイタッチしてるのもありなのかも・・・考えようによっては怖い世界観だ。
来世に持ち越しでも、αは厳しすぎたから、αの為にもう少し段階踏もうと次回の学び目標を下げてる可能性もあるよね。
まぁ、来世などない!人は死ねば終わりだ。って考えもあるけどね。
なんか支離滅裂ですみません。
目的や能力(の方向性)が違う人を一緒くたにしちゃいけないって事だろうなぁ、自分自身を含めて・・・とは思います。
再度のご回答ありがとうございます。
>学べない姿を多くの方に見せる事で見た方々に学びや気付き
「人は自分の鏡」は心理学でいう投影だと思うんです。
「心理学で言う投影(とうえい)とは、自己の悪い面を認めたくないとき、他の人間にその悪い面を押し付けてしまうような心の働きを言う。一般的には悪い面を強調することが多いが、良い投影も存在する。」~ウィキペディア「投影」
私、よく人から投影されやすいのですが、この人、自分と向き合うのが怖いから、私にそれを押しつけているなと思いますが、実際人を鏡としているのに、映った自分の姿を見てないなと思うんです。
例えば怒りや攻撃性を抑圧してるのは明らかに分かります(いわゆる『いい人』であろうとしているような言動やその人のもつ雰囲気、一緒にいて感じる違和感など。実際周囲からいい人だと言われている)。
しかし自分の中の感情を認めず、一方的に自分が攻撃されると思い込み、それが事実となる前に自分から相手に攻撃をする(つまりやられる前にやれ発想)。
いわゆる小心者にこの傾向はありそうです。またこの投影は親しい人(家族や恋人)にでやすいと思います。赤の他人だと『いい人』という仮面を被ってます。
というようなことを、最近しみじみと実感したのですが、指摘しても受け入れる気持ちや度量がなければ、こういう人は他人を隠れ蓑にしながら(投影)、自分の真実を露呈し続ける(人は他人の鏡になっている)が、自分の課題に直視しないかぎり、いつまでも課題から逃げ続けることになるのだぁと思いました。
>偉い人や目標とする人がこの方法で出来た!!なら私にもこの方法で出来るハズ~!!という思い込みも怖い・・
ですよねー。「師匠」という存在は、日本人的依存体質から求めるまたは持つものだと思うのですね。デモその人は神様じゃないから失望するときだってあるんです。
極端なものに求める心が作り上げたものが新興宗教の教祖様ですね。カリスマは、己れが神だというところにまず傲慢さがあるのですが、それが皮肉にも「人間くささ」を露呈してる。
山のたとえ、納得です。
どの山を選ぶかですよね。そのとき全体を俯瞰しなければならない。
私も結果(てっぺん)ではなくて、過程の方が大切だと、それこそが生きていることだと常々思っていますよ。
>後はおまけの人生だ。
「人生はひまつぶし」と言った人がいますが、私は働くのも暇だからと思っているんです。これは当然食べなければならないという必然を引いた部分で。
人間が霞を食べて生きていけるようならば、働かなくてもいいけれど、人間は自我という「自問自答するのに暇を許さない機能」がある。だから「働く」という概念をもってしまったら、どれほど食べることに困らない身体だったとしても、また、現実的な話としてお金があったとしても、結果的に働かざるを得ない生き物だと思います。
人生はゲーム論、おもしろいです。
NPC(ノンプレーヤーキャラクター)こそが神様なのかなぁ…とふと思いました。
「人の振りして私が振り直せ」
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