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神に近づくとはもちろん精神的なことですが、苦しみを多く経験した人は神になれるという言葉もあります。

もしそうであるとき、困苦が続いたあまり、何も感受しない、感じなくなっているような心理状態というように、精神疾患的に何も感じないことと同じになるのでしょうか?

瞑想的な悟りが神に近付く唯一の方法とは私も思ってませんが…つまりは悟りの精神状態はどうなっているのかなあという質問です。

A 回答 (26件中11~20件)

神とは『自身に内在する命の働き』を指しています、人間の命は有限で出来ていますので、自我と言う心には『永遠を理解する能力が機能的に存在していません。



機能的に存在していないと言う意味は、脳の機能によっています。人間が言葉を持つ事によって『物の見方を限定する癖が染み付いたからです。』

或るものを限定して言葉にする場合『脳は物事に分別を加えています。』割り切って言葉にするという意味です。従って分別出来ない事は『言葉にする事が出来ません。』

この分別する機能がある故に言葉が成立しています。言葉を理解する心は『自我意識です。』従って自我意識は有限の壁を越えることは出来ない機能から成り立っています。

ですが人間には心がもう一つ備わっています、この心を『自覚する事は難しいようです。』この見えない筈の心を自覚する事を『見性』=『自性を徹見』すると表現します。

その者を此処に書いて置きますので、貴方が自ら確認して下さい。

桜なら桜で時期が来ると、親から授かった働きをしています。桜が学校に行って花の咲く時期から自分の色から匂いまでも学んで桜が行っている訳ではありません。それは只単に桜がその働きの機能を演じているからです。

熊なら熊として、ツバメならツバメとして『命の働き』を機能させています。

当然人間にも備わっています、赤ん坊が何も習う事無く『生命機能を働かせています。』心臓の動かし方も知っていて機能させています、肺でもホルモンの調節でも神経う細胞でも全ての生命維持機能を働かせています。

こう言った生命発生装置兼生命維持機能を働かせている者が自身の中に存在しています。この者にも人格があります。この者を聖書では神として、仏教では仏性としていますが、平たく言うなら『命そのものの働き』と言う言い方が出来ると思います。

従って全ての生きとし生けるものは、神と共存しています。自分が知らないでいるだけです、何故分かり難いかと言うなら、人間の場合では『無意識の底に沈みこんでいるからです。』

人間は『意識する自分=顕在意識』と『無意識時の自分=神や仏』が交代性をキープする事で正常な恙無い生活が成り立っています。この場合を健常者といっています。

人間が今書いた交替制をキープ出来なくなる場合に『脳の機能も身体の機能も正常でありながら』医師の元に行く場合があります。この場合では自分の『命の働き』に疑いを抱くからです。

自我意識は生まれてからの記憶で生きていますが、命の働きは『何も学ぶ事無くしっかりと働いています。』

その働きは大別するなら三つに分ける事が出来ますが、全人格的に見た場合では、心も、身体も、行動も全て繋がっている部分もある事から、それぞれが単独に疑うばかりではなくて、複合的に疑う場合もある事を意味します。

『心』に沸きあがる感情や考えを沸き上がらせる者として働いて生命維持機能を果たしています。

『身体』の生命維持機能として働く働きをしています。

行動を通じての生命維持機能を働いています、この行動に関して言うならば、身に危険が迫った場合では身体の支配権も心の支配権も『一時的に自我意識から奪い取ってでも』身体も心も支配する場合があります。火事場のくそ力や急ブレーキを踏む場合などです、目にごみが入る場合などでもの咄嗟の動作では自我は働いていません。

眠る場合では『自我』は眠っていません、ただ意識が朦朧となっています、そうして完全に無くなった段階とは『無意識の自分と身体と心の支配権』が移っています。

朝になって支配権が戻ってきた時、すっきりとした目覚めが待っています、身体も心も休まっています。支配権を渡していたからです。

この交替制が崩れた場合では、眠る事が出来ません、何故なら自我意識単独では眠る機能が無いからです。この交替制が崩れた場合を『不眠症』と表現します。

道に至ると言う表現があります、或いは見性と表現する場合があります、是は自分の性を見たと言う意味です。無意識の自分に脳梁の中=意識の根底で出会うと言う意味です。

神に近づく場合の条件は在ります、それは『自我意識の粉砕』と言う条件です。その条件を満たすものが『禅問答』です、命がけで禅問答に立ち向かう時、『必ず限界点にぶつかります。』その時『出来ない事が分かります。』自我意識の脳の分別機能では解く機能が、機能的に備わっていないからです。

脳卒中になってしまって『一回自分の人生を諦めて(自我が粉砕された)』その後九死に一生を得て生還した人の動画です。臨死体験した場合も同じ経験をするようです、この自分自身の”我”を粉砕する事が『元気なうちに出来た場合を見性と言っているようです。』

URL:

もし出ないようでしたら、ジルボルト、テーラ脳卒中と検索して下さい。

この体験を宗教体験=神秘体験としていますが、宗教は体験の世界ですので、救われた者にしか実感出来ないところがあるようです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>分別する機能がある故に言葉が成立しています。

これは

「全ての言葉には対応する概念が少なくとも一つ存在する。一方、概念の中には対応する言葉のないものがある。人は言葉によって認識を共有する事が容易となる。反対に、言葉に出来ない思考・概念は、伝達する事が困難である。」~ウィキぺディア「言葉」

この定義と同じですね。
言葉によって概念を区切る(命名するのだと私は思います)。

「概念の中には対応する言葉のないものがある」については、たとえば「モラハラ」などの言葉は、近代的な言葉です。しかしモラハラは有史以来あったわけです(つまり社会的には弱い物虐め、心理学的には病理の対象として捉えられる事実)。事実はそのように存在し、また漠然とした想い(概念)もあったのですが、それが質量共に飽和状態になったとき(見方によっては社会現象といわれる)、言葉として生じる。
しかし言葉以前に、現象はあったということです。

この定義にもあるように、共有されるためには言葉という記号が必要となる。

この「自我意識」を「言葉」に置き換えてみることができます。

言葉というのは既成概念、先入観、思い込み、心は直観、感性ともいいかえることができ、魂と最も近いか、魂の一部だと思います。

つまり、言葉に依存している限り、心はみえないのだと思います。「見性」という語は初めて知った言葉ですが、既成概念を超える(すべてを疑う)ということなのだと覆いました。

>『意識する自分=顕在意識』と『無意識時の自分=神や仏』が交代性をキープする事で正常な恙無い生活が成り立っています。


顕在意識=人特有の意識
潜在意識~集合意識=神に至る領域、神そのもの

です。交代するというのが、秀逸な表現だと思います。また交代は技術を用いることでできるということもできます。(振り子の法則、引き寄せの法則を用いるなど)

では交代しない人が悟りを得た者といえるということになるのでしょうか!?

>交替制をキープ出来なくなる場合

キープできなくさせるひとつが「抑圧」です。
うつ病を始め、統合失調症まで、精神疾患の真の原因は抑圧です。ですから薬で根本的な治療はできません。
これは泉谷閑示先生の本に詳しく書いてあります。
http://p.tl/W-5q

またネットでもかいつまんで話しています。
http://diamond.jp/category/s-izumiya

(この理論はお勧めです、目のうろこが落ちます)

統合失調症はほぼ無意識の状態かと思っていたのですが…これも自我のうちだそうです。

>心も、身体も、行動も全て繋がっている

東洋医学は俯瞰して診ますよね。西洋医学は切り離して看る。病や疾患にもよりますが、根治した気持ちになれるのは断然東洋医学です。


>行動を通じての生命維持機能

潜在意識は、危険に対する対応の他、習得したものへの自動化(車の運転など)にも関わってます。

>この交替制が崩れた場合を『不眠症』と表現します。

不眠症の理由についても、泉谷さんが上の本で、無意識の領域に意識を渡すときの怖さだと書かれています。つまり「死」への恐怖です。すべて脳に原因を求め、薬で解決する治療方法は間違っていると思っていた私は、眠るのが怖い=死ぬのが怖いという=眠れない=眠りたくない理由だということは、私も漠然とですが考えていたのですが泉谷さんが言葉にしてくれました。


ところで、臨死体験の動画を見ました。おもしろかったです。
まさに左脳、右脳は、森羅万象を貫く二律背反の法則の象徴であり、そこを人間はそこを往来できる。

臨死体験は脳がみた映像に過ぎない説があります、体験とそれをどう受け止めるかが要だと思います。
やはり死は至高のエクスタシーであり、魂の解放は天国そのものの経験であり、真の幸福とは解放なのではないかと思いました。

>救われた者にしか実感出来ない

確かにそうですね。言葉に言い表わせることができた時点で脳がみせた映像か、神秘体験かは分かりませんが、体験を通じて何か自分の中に変容があればその体験が示す答えだと思います。

お礼日時:2013/11/27 18:46

自身が神

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

確かにそうですね。
神は自分に似せたものを作った(失敗作でもある)という考えや、一人一人の中に神はいるという考え方もあります。

でも人間がなすことの残酷性を考えれば、同時に悪魔も棲んでいるわけでして、いささかキレイゴトすぎやしないかとも思います。

お礼日時:2013/11/27 18:48

神とは人間が自分の都合で産み出した究極理想の自画像です。


だから必ずと言ってよい程、人の姿をし、人の思考と言葉を操る。
そんなものは実在しない。

そして、姿かたちを持たぬ、途方もない巨大な生命や意識の集合体だと
考えたり、最早物理学的な数式で表せる法則を根源とする、様々な
命や存在の根源・・・原子物理的な、或いは量子論的・宇宙論的な
関係性の複合体だと考えたりもして来ました。

いずれも、個体の人間はそれになり得ません。

生きている人間が、群れにも法則にもならないように。

電脳化が進み、意識をネット上で溶け合わせたり改変して編上げたり
出来るようになれば、人から見た神の属性を一つ備えたとも言えるでしょう。

けれども、人のという化学的・生体物理的な連鎖反応の有様としての
意識や思考は、度々 消されたり茫洋とした半覚醒状態を指して瞑想と
称される状態に置かれることを高次の状態だと考えられます。

瞑想と言う言葉の定義を明確にしないと、ただのオカルト話になって
しまう。

自分の中にある生理的な欲望や、記憶球体内部の乱反射、フラッシュバック。
それらに左右され支配されない、より自由な浮遊状態、或いは自由落下の
状態に精神状態をキープすること、と仮定してみれば。

頭の中ですぐに文章を形成しようとする欲求をコントロールし、
すぐに何かを思い出し、連想しようとする反射を抑えたりしながら、
頭が空っぽの状態を生み出すように訓練し、それによって得られた
空っぽの精神状態をいつでも再現できるようになった能力を瞑想、と
定義するならば。

その前駆状態で、言葉を全く思わない状態で、映像や音楽の連想の段階、
そして色や音だけをコトバとして操り、原始感情のようなイメージのみ、
それをクオリアと呼ぶべきかはさておき、明滅する色や音や匂いや
手触りの、記憶の中にある、「あの感じ」だけが脳を満たす段階を経て、
自分の、という意味のいかなる思考も連想も消失した状態に至る。

それを三昧(ざんまい)と称する。

、んだそうですが、心が空っぽになるということは、はっきりと覚醒しているのに、
何も考えず思い浮かばず感じず、つまりどこにいるとか今はいつといった
認識自体もしていない・・・感じていない状態ということになる。

その究極の状態、というものを考えると、最早 自分の体内感覚も全て
失い、自分の身体という感覚が消失した状態だと言うことが出来る。

無論、その状態で刃物で切れば一瞬で三昧は解かれて苦痛に我を
取り戻すだろうけれど、自分がここに存在していることさえ感じず、
忘れてしまった状態、というものを夢想すると、生きたまま完全な自由を
手に入れる方法の一つと言えるかも知れません。

一太刀で首を刹那に切り落とせば、一切の苦痛も恐怖も脇に置いたまま、
或いは全くの平常心で死に至ることも出来るのかもしれないならば、
神の領域の意識と見做しても、確かに良いかも知れませんね。

老人の痴呆とも、胎児のまどろみとも、精神病者の意識崩壊とも異なる、
静謐な「空」、或いは「虚」と言える、冴え渡り澄み切った意識の水面のみが
広がる風景の様になるのでしょう。

その静かな漆黒の水面は、全てのものを映す鏡のようになるでしょうね。

確かに、生きたまま自分の意識を消滅させて、そのような湖面にも等しい
三昧に至れるものならば、禅に没入することも、一つ事に一心不乱に
打ち込むことも、三昧、もしくはそれに近い近縁の精神状態だと言える。

この空っぽの状態で冴え渡った意識の水面は、傍にいる人の息遣いから
その人に関する記憶から、それらが意味を成して思考と言う像を結ぶより
以前に、その心の動きを精密に反映する状態になるのかも知れません。

テレパシー、というのではなくて、その人の心の動きが手に取るように、
というよりも心の水面に空が映り風がさざ波を立てるように、同調し、
自分の気持ちの様に感じることが出来る程、感じ取ることが出来る
鏡のような状態になり得る、とも言える。

そうであるなら、神、という概念は不要だと思います。

冒頭に書いたように、神は人類総体の自画像だからです。

もう、その「人間」が消滅するのですから。

三昧の、僅かな間ではありますが、ね。

多少詩的表現ではありますけれど、概ねそんなものではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>頭の中ですぐに…と定義するならば。

これは「色即是空」のことですか?

-----------------------------------
色即是空

 心の中で起ることは、消えたり生じたりし、これと言った実体がありません。ただ、感じたり、感じなくなったりするだけです。
 嫌なことも沢山感じます。しかし、それは一時の幻の様なものなので、あまり苦しまないことです。 これを、色即是空、空即是色と言います。心の中で起ることは、感じるので無いとは言えないが、 実体は無く消え去るので有るとも言えないので空であると言う意味です。
http://www42.tok2.com/home/catbird/satoritohanan …

-----------------------------------

私が質問したかったのかこのことでした。(すぐにこの言葉が思い浮かばなかったので。また改めて質問してみようかと思います)


ここに「感じたり、感じなくなったりするだけです。」とあります。それが質問した

>困苦が続いたあまり、何も感受しない、感じなくなっているような心理状態

のこととどう違うのか?というのが疑問の主旨です。

>頭が空っぽの状態を生み出すように

人は考えずにはいられない生き物だそうですが、瞑想はそれを静める目的があるのですね。

>その前駆状態で…

これは三昧という状態を経験者が説明されたのでしょうか。イメージはなんとなしにできるけれど、もうこれは実感してみるしかないですね。でもTM瞑想をしていて、

>心が空っぽになるということ

という状態にはなっています。でもそれが眠っている睡眠状態なのか、潜在意識が活性化している状態なのか、悟りの状態なのかはわかりません。答えを出すのは本人以外誰にもできません。ただただ感覚の世界なので、上手く説明されても他者はそれを実感しなくては分からない世界です。
誰も悟りの状態を一心同体的に経験していない。悟ったという状態が、お互いの感覚に近いものだとしても、まったく同じではない。それなのに、なぜ「悟りとはこういう感じのことだ」という定義を共有できるのか。

>その人の心の動きが手に取るように…

これも潜在意識のさらに根底の、集合意識で全ての人の意識は結ばれ(同一)であることにすぎないでしょう。

しかし皆が皆鏡のような状態になってしまったら、この世は動きません。
相対的な世界だからこそ、動きがある。周囲の動きがあることで自分が生きているということも実感できる。

>神は人類総体の自画像だからです。

大変秀逸な表現ですね。

ではなぜ「個」というのがあるのかなと思います。個別性があるからこそ「動」もあり、「動」があるから鏡のような「静」もまた生じるのかなと思いますが。

狂人(とは厳密にどのような精神状態を指すのか漠然としすぎてわかりずらいですが)、彼の見ている世界は

>老人の痴呆とも、胎児のまどろみとも、精神病者の意識崩壊とも異なる

と同じだと思ってきましたがそれとは違う意識状態なのですね。

「神は人類総体の自画像」ということはさらに、「神が自分に似せて作ったものが人間」という例の概念の逆で人間が神を作り出したということになりますね。

三昧の境地に陥れば、

>神とは人間が自分の都合で産み出した究極理想の自画像です。

そこには神という概念は要らないということですね。

お礼日時:2013/11/28 17:00

こんにちは



1>神に近づくとは
自分の好きな事を一心不乱にして 常に 前向きに物事を考え続けていけば 誰にも到達できないようなことが成し遂げられた時
全世界の賞賛の中に 自分の能力を超えた境地に包まれ 自然本性が神の姿(五感を超えた感覚)として観えるのかもしれませんね

2>苦しみを多く経験した人は神になれる
これを乗り越え克服できればいいのかもしれませんが 自らの心に負の感情が芽生えたら悪夢に悩まされると思います

3>悟りの精神状態
自らの心に生まれた 自分の思うようにならないという気持ちをリセットして 人間としてあるがままの気持ちで生きていく事では?

色即是空→空即是色の繰り返し 世界をあるがまま(真、善、美)に観ること

たとえば 諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂
     (諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である)
     (この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり。「為楽」というのは、涅槃楽を受けるというのではない。有為の苦に対して寂滅を楽といっているだけである)
     (生滅の法は苦であるとされているが、生滅するから苦なのではない。生滅する存在であるにもかかわらず、それを常住なものであると観るから苦が生じるのである。この点を忘れてはならないとするのが仏教の基本的立場である)
     生老病死

     自然本性(人間の心と身体は一体だ健全な精神は健全な肉体に宿る あるいは 自然治癒力の存在 あるいは 信じることにより実力以上の能力の発揮 あるいは 慈愛や慈悲の心の存在 等)
     因果律(全てのものは繋がっているので自分だけで存在しているわけではない 他のものがあるから自分が存在できる=縁起の法 等)

結論 
まぁ~人間は自らの心を他のものに投射して観てしまいますから 自分の関心がある事しか興味がありません
世界をあるがままに(真、善、美を)観ることのできる人は たとえ 全ての五感が不自由でも 記憶と想像により理想の世界を創りだし観ることはできるのかもしれません

補足
自らが人間として生まれ幸せであろうとも そのことに一生気づくことなく何も好きな事をしないのは愚かなことだ 世界は貴方が望めば いつも貴方が論理的に考えることは引き受ける事ができる
貴方の前向きな行いは 全ての生命を幸せに導くことは間違いないでしょう 笑顔で 歩き始めましょう
お釈迦様の言葉を借りれば 人間として生きることに目覚めたものは「犀の角のようにただ独り歩め」

悩みこそが我が生きがい 悩み考えることが楽しみな者より (‐ω‐?)ふーむ?
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不確定性原理の相補的不確定性を、原理的に


確定化せずに、階層現象(超弦(量子)>クォーク
>素粒子>原子>分子>細胞>個体(意識))を
表面的に経験的に(いい加減に)捉える事で、
有限的な存在性=宇宙は発生している。

この造物主は、バカゆえに「造物」なのだ。
全知全能(絶対確定化)の神にとって、世界は無だ。
無に近づきたければ、死がそれだ。
我々にできるのは、存在の重さ=自らの愚かさを
深く噛みしめ、その即物性を愛によって超える事だ。
(自我仮説(記憶=時間の流れ)の相補としての
時空仮説(予測=空間的広がり)、即ち自己の
必要としての宇宙の自覚化(他我))
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

科学的な言葉がでてきて躊躇しましたが、よく読めばなんとなくわかります。

>表面的に経験的に(いい加減に)捉える事で、有限的な存在性=宇宙は発生している。

となると、宇宙は事実ではなく、意識の表れ!?

しかし神は完全無比であるがゆえに、バカなのでしょうか?

私は考える神の性質の一つとして、「二律背反」を入れています。

天才と狂気が紙一重であるように、全知全能であればバカ(無)なのでしょうか。

昔から神は孤独だと思ってきましたが、全知全能と、そのかけらとして散りばめた生物すべてが彼の子どもでもあるわけで、いわば彼の家族です。

>存在の重さ=自らの愚かさを深く噛みしめ、その即物性を愛によって超える事

同感です。
蛇足ですが、存在の耐えがたい軽さという言葉もありますね。耐えがいくらい愚かしいのなら、「軽さ」として形容されるべきですけど、なかなか上昇できない精神も重力に縛らるという意味で愚かしいと形容できるのでしょう。

お礼日時:2013/11/22 11:59

東武東上線 池袋駅 朝に 神にお近づきになることができます。



神に近づくには東上線のホームに行くことです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

意味わかりませーん。

お礼日時:2013/11/22 11:48

自らの心を平定することを、何と呼ぶのかはさて置き、少なくともそれは安らぎや人生の完成と呼びうるようなことであろう。

それは精神疾患の状態ではない。かと言って興奮状態でもない。全き静けさの中にあって、世の中を透徹できる視座を獲得している、心配ごとのない境地てはないだろうか。
あるいはまた、それとは異なる、無為自然といった境地であるかもしれない。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>全き静けさの中にあって、世の中を透徹できる視座を獲得している

それまでには、いろいろあったと思います。
その状態は、コップの中に入れた砂が落ち着いていくイメージ、または嵐の中の静けさのようなイメージです。

お礼日時:2013/11/22 11:40

聖書も完全とは言えませんがヒントはあります。


山上の垂訓でイエスは「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう」と言われました。又、他の箇所では「おさなごのようでなければ神の国にはいれない」とも言われました。

神様(創造主)は人類の親ですから神様の立場(気持・心情)になってみる事です。「全人類を幸福にするにはどうするか」と考えたり、祈る習慣をつけてみるのも方法です。

名家出身のヨハネはイエスの事を「私の後から来る人は私よりもカある方で、私はそのくつを脱がせてあげる値うちもない」と言い、イエスがパブテスマを受けると、「これは私の愛する子、私の心にかなう者である」と天から声があった。……にもかかわらず、後日、獄中のヨハネはイエスに「『来るべき方』はあなたですか」と弟子に使いを出している。
名家出身のヨハネは、私生児で大工の息子に過ぎないイエスを「メシヤ」とは信じられなかったのです。だから後にイエスは「女の生んだ者で彼より大いなる者は生まれなかった。しかし天国で一番小さい者でも彼より大きい」と言われました。

人は外面で判断しますが、霊なる神様は内面をみられます。
地位や名誉・名声に目指した時点でアウトです。マザー・テレサさんや天理の中山ミキさんのような生き方が参考になると思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

イエスの言われるそのようなことが何を伝えたいのかということは知っています。
不幸な人は幸いであるということですよね。
不条理に苦しむ人にとっての正に救いとなる言葉ですし、私はクリスチャンではないですし、むしろキリスト教についてはいろいろと異議もあるのだけど、そう言われるとなぜかほっとする(笑)

もしかしたら、地位や権力、名声や富という概念は、人間がそれを超えて自他を判断するときのリトマス試験紙として神が与えたものかもしれませんね。

それらを幸福として追い求め続け、それが本当の幸福ではないかもしれないという懐疑さえ抱かずに死んでいく人は「仕合せ」な方の人だと思ってます。生きているときも自分のことしか考えなしの人も同じです。

幸福とよばれてるものはただの手段であり、幸福そのものではないということであれば、世間で定義となっている幸福を追い求めるのをやめれば、幸福になれるかもしれません。

お礼日時:2013/11/22 11:35

こんばんは。




まず、このご質問は

第一に、「神」が前提となっていること
次に、「悟り」について、「「瞑想」的手段によって得られるもの」

という、二つの「先入観」があると思います。




「「瞑想的手段」によって「神」に近付く」
まあ、そういうのも、あるんでしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

先入観という思い込みを覆してください。気持ちよいですから。

お礼日時:2013/11/20 19:26

"苦しみを多く経験した人は神になれるという言葉もあります。

"
  ↑
おそらくですが、これはウソです。
苦しみを多く体験したひとの性格は、曲がります。
劣悪な環境で育った人間は、そうでない人間よりも
犯罪者になる可能性は高いです。
ただ、苦しみを乗り越えた人は神に近づけるかも
知れません。


”困苦が続いたあまり、何も感受しない、感じなくなっているような心理状態というように、
 精神疾患的に何も感じないことと同じになるのでしょうか?”
    ↑
たぶんそうでしょう。
困苦が続けば、それがベースになりますから
困苦だという感情が麻痺します。
私などは貧乏生活が長かったので、白いご飯を
食べられるだけで幸せを感じることが出来るように
なりました。


”瞑想的な悟りが神に近付く唯一の方法とは私も思ってませんが”
     ↑
瞑想を続けるとエンドルフィンが造られ、その効果で
恍惚状態になることができます。
これを悟りと勘違いする仏教家がおります。

己の中に神を創り、それに近づけるよう頑張る、という
のがせいぜいです。
その神は自分で創る神ですから自分なりの「理想的な人間像」と
考えて良いと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>劣悪な環境で育った人間は、そうでない人間よりも
犯罪者になる可能性は高いです。

これは違います。

そうなる可能性であるだけで、「高い」ということはできません。

怒りは外に向けば反社会性をもたせ、または実際の犯罪者になることもありますが、内に向けば自傷行為となります。どちらも人やものを傷つけ、自分を傷つけることは同じです。

(ご回答者様の限定的な考え方は、犯罪や犯罪に対してある意味の偏見や誤解、差別を助長しかねませんので注意が必要です)

>苦しみを乗り越えた人は神に近づけるかも知れません。

それは「犯罪者」も同じですし、実際犯罪者から牧師になるなどして変った人もいます。

>困苦が続けば、それがベースになりますから困苦だという感情が麻痺します。

ああなるほど。

>これを悟りと勘違いする仏教家がおります。

私もそう思いますね。

>己の中に神を創り、それに近づけるよう頑張る

人は意味を見出さずにはいられない生き物ですから、努力する喜びを得るために、生きるためには努力するしかない意義を「神」という概念に見出さずにはいられないのかもしれないですね。

お礼日時:2013/11/20 18:00

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