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【日本史の北山文化について】
いくつか質問があります。
調べてみると、北山文化は「伝統的な公家文化が武家に吸収される一方庶民的要素も加わって新しい武家文化が創始された」とありました。そこで、

なぜ公家文化が武家に吸収されたのですか?(公家と武家の文化が融合するまでの経緯を教えて下さい)

次に、平安時代に寺院や神社で開かれた法会にて延年という余興が行われておりそれが能楽へと発展したとありました。調べていくうちに延年の他に猿楽や田楽なども出て来て、なにがなんだかわからなくなりました。そこで、

結局なにが能楽へと発展したのですか。
また
誰がどのようにして能楽へと発展させていったのですか。

最後に、授業で「公案」や「工夫」という言葉に関連性があると先生が言ってないました。調べてはみたものの漠然としてして「世阿弥が公案という言葉を工夫という意味で能楽の中で転用している」と出てきました。そうなんだと納得してもいいのですがカチッとはまらなくて納得(理解?)ができません。そこで、

公案と工夫にどういった関連性があるのですか。
また、どのように公案を能楽に取り入れていったのですか。

これで質問は以上です。よろしくおねがいします。

質問者からの補足コメント

  • 「先生が言ってないました」は誤字です 。すみません…。

    正しくは「先生が言っていました。」です。

      補足日時:2020/01/07 18:04

A 回答 (1件)

第一に経済力であり第二に権力の有無である。



建武の新政の失敗で公家の権威権力は大きく失墜する。
南北朝の争いを経て政治の主導権は完全に武家に移り、文化もそれに追随する。
このことは経済力の移動も意味していた。
何事においても文化活動にはカネがかかる。
権力者の好みを民衆も模倣する。
そういう単純な図式である。

能の起源はあまり明確でない。
観阿弥世阿弥が体系化し芸術に昇華させたことは分かっているが、それ以前については分からないことが多い。
しかし、農作業の合間の踊りや門前町での見世物の踊りが原型であったことは容易に推察できる。
歌舞伎がそうだからである。
出雲の阿国の踊りが発展したと言われているが、彼女はあくまで代表例である。
それ以外にも歌舞伎の原型となった民間娯楽はたくさんある。
歌舞伎はその後能・狂言の様式を取り入れ、次第に様式を整え芸術性も高めていくが、それは江戸全般を通して行われた。
市川團十郎の歴史はまさにその取り組みの歴史である。
能は観阿弥らが一気に形を固めた。
違うのはその点である。

最後の質問はパス。
俺も知らない。
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