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普遍神という言葉がよく出てきますが、
この普遍神と一神教の神とは、どこが異なっているのでしょうか?

A 回答 (17件中1~10件)

★ (№16お礼欄) 普遍神は、私にはまだ茫漠としてはっきりとは


捉えられていません。
☆ なるほど と言いますか №15のお礼欄のお考えを見て どうも
むつかしいかなと思いました。



№16のコメントにお応えして 二点のべます。

★ 沢山の水の中から、共通の成分である真水のことを普遍水という
☆ という場合には たしかに《〔最大〕公約数》を求める問題である
となります。

ところが 神は 数や形やまた有る無しを超えており あるいは因果関
係からまったく自由な何ものかです。

仮りにいま その水が 神の霊が降りてきた経験事物であるとしましょ
う。

そうすると 次のように図解して普遍神のことが捉えられると思います。



超経験の場:普遍神:霊性
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
経験世界: 
  水:(共通成分として純粋化)水神:この依り代に神の霊が降りる
  〃: じっさいの水


☆ 真水をあたかも水神としましたが これは確かに成分に分けたとき
公約数であることを担っています。そして そのほかに雑多な要素がま
ざっているという実情です。







★ 普遍神の普遍とは、神の何が普遍なのですか?
☆ 普遍性には ふたつの種類があります。

絶対的なそれと 相対的なものとです。

相対的な普遍性は ふつう一般性として取り上げられます。

要するに例外があるということが 相対的な内容だということを示しま
す。


つまり 絶対的な普遍性とは――それが 神のことですが―― 例外の
ない同一性を言います。



★ 神の何が普遍なの
☆ か? というよりは 絶対性としての普遍性が 神のことであると
なります。

哲学は そこまでの――無味乾燥の――内容だけで まづ定義として満
足します。



人間の主観は 神についておのれの趣味や好き嫌いをも混ぜ合わせて自
分にとってふさわしい――したがって 特殊な――内容(属性など)を
付与します。

これは 特殊絶対性と呼ぶことができます。おのれの主観内面でのみ有
効であると認められていると言えます。



宗教のオシヘは なるべく一般性のある内容と どこかで自分〔たち〕
の独自の見解や願望をもふくめて この《特殊絶対性》としての主観を
神観ないし神学としてまとめあげたものです。

神とのタテの関係を 人びとどうしのヨコの関係の中に寝かして 寝技
に持ち込もうとした悪あがきです。





★ この質問・ご回答も長くなり、私がこれから先理解できる可能性ほ
とんど無いと思いますので、近じか締め切りたいと思います。
☆ 長丁場になりましたね。では。
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この回答へのお礼

度々のご回答ありがとうございました。
<神は 数や形やまた有る無しを超えており あるいは因果関
係からまったく自由な何ものかです。>であるならば、神について語っても(お互い暖簾に腕押しのようなもので)、他人間(自分以外)では意味がない、というように考えます。
<絶対性としての普遍性が 神のことである>のですね。
ところで、この「普遍性」自体が、相変わらず分かりません。今後も分からないでしょうが。
辛抱強く長くお付き合いを頂きまして、感謝しております。
他の機会にまたお世話に成るかしれません。

お礼日時:2020/01/23 18:59

★ (№15お礼欄) 沢山の神の特性などを集め。

その特性などを最小
公約数として整理したものを、bragellone様は普遍神とみておられるので
すね。
☆ 次の説明に留意してみてください。

☆☆ (回答№12) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
神を概念として説明:

1. 神とは何か?――《人知を超えたナゾの何ものか》である。

2. 特性: 超自然・超経験;絶対性・無限

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ つまり 《最小公約数》というのは 数量であり形のあるものについ
て言うものです。つまり 人知の認識しうる範囲内のものごとです。

つまり 自然物であり経験事象であり相対的なものごとであり 有限のも
のです。


無限は 二で割っても三で割ってもその商は もとのままの無限なんです。
数や形を超えています。

わけが分からないので 霊性と言います。分かるか分からないかが分から
ないことを 霊性とよびます。





★ <頂上〔をも超えたところ〕が 普遍神です。>
<多神の個々の神はみな 普遍神の分身です。>によります。
☆ 次の説明によってください。


超経験の場:普遍神:霊性・・・富士山の頂上をも超えたところ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
経験世界:
   人間の心:理性・・・・・一神・多神・無神
   人間の身:感性・・・・・ 〃  〃  〃
   ものごと:経験事象・・・富士山の頂上;多神・汎神
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この回答へのお礼

度々のご回答ありがとうございました。
普遍神は、私にはまだ茫漠としてはっきりとは捉えられていません。
水で例えると、しょっぱい水も、甘い水も、濁った水もありますが、bragelleone様はそれらはそのまままとめて水として捉え、そのまま普遍水と命名している、ような気がします。途中で私は、沢山の水の中から、共通の成分である真水のことを普遍水というのだろうな、と推測していました。
この質問・ご回答も長くなり、私がこれから先理解できる可能性ほとんど無いと思いますので、近じか締め切りたいと思います。
最後の質問を許してもらえるなら、戻ってしまうようですが、普遍神の普遍とは、神の何が普遍なのですか?

お礼日時:2020/01/23 12:08

★ (№13お礼欄) 菅原道真は、<タタリ>を持った<霊性なる神>


ですね。
☆ げんみつに表わすなら:

・ 普遍神が霊性として 道真のたましいという依り代に降りて来た。
それゆえ 権力闘争の相手で勝者となった側の者たちに バチ(罰)が
当たるというかたちで 不幸な出来事が起きた。――と人びとは解釈し
た。
・ バチが当たることを 受難者〔の怨霊〕による祟りだと日本では
呼びならわしていた。



★ 普遍神の要件を満たしていないと、思います。
☆ 天神さまと言うくらいなのだから 道真が神であると捉えられるの
かもしれませんが 多神の個々の神はみな 普遍神の分身です。

道真本人が 普遍神であるという意味ではありません。



★ 菅原道真は、教義を持っているような大きな神さまでもないし、人
の心の中で静かに暖かく灯している小さな神でもないし、何なのでしょ
う。
☆ 《小さな神》ですよ。あるいは 分身であるみづからの背後なる普
遍神を指し示す《ゆび》です。




★ 前回のご回答から引用します。<すべての神が 名前がちがえどみ
な 同一である>。この考えから普遍神が導きだされているのですね。
この考えは、多神教を信じている我々日本人には何の不思議もない当た
り前の思い、だと思います。
☆ ええ。そのことを初めに言い添えておくべきでした。さもないとわ
たしは 日本人の隠れた知恵をパクった盗人だと言われかねません。


あるいはまた 《絶対性》というのなら そうなるのは論理として当然
だとも考えられます。

つまり:
★ よく言われることは、どの宗教でも、富士山の登り口のようなもの
で、登って行けば頂上は一つ、と。
☆ 頂上〔をも超えたところ〕が 普遍神です。




★ しかし、絶対的・排他的な一神教の信者は、この喩えに目を回す、
と思います。
☆ ですから 唯一神を言っているのなら それはただひとつの普遍神
であるということでなくては おかしい・・・はずです。ほんとうは。


人びとが《小さな神》としては おのおの心の内ではそう(富士山理論
において)思っているかも知れないのに 宗教としての一神教が 特に
組織として活動するとき あたかも排他的になって当然だと言わんばか
りに排他的になる。


《大きな神》を勝ち誇ったように掲げる組織宗教は けっきょくタトへ
として言って《小さな神》となって生きる蝉 この蝉の抜け殻のような
ものでしょう。



おつかれさまでした。〔とお伝えしてよろしいでしょうか〕。(むろん
なお いぢわる質問を歓迎します)。
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この回答へのお礼

度々のご回答ありがとうございます。
どなたかが、最小公倍数と最大公約数と書かれており、良いツールだと評価しますので、それを使います。
沢山の神の特性などを集め。その特性などを最小公約数として整理したものを、bragellone様は普遍神とみておられるのですね。
<頂上〔をも超えたところ〕が 普遍神です。>
<多神の個々の神はみな 普遍神の分身です。>によります。
他の考え方として、沢山の神の特性など御集め、その特性などを最大公約数として整理しまとめたものを普遍神と呼ぶこともできる、と思いますが。

お礼日時:2020/01/22 18:36

ブラジュロンヌさんの回答や、それへのご意見に接して思いました。



宗教の本質は感情ではないかと思いますが、一神教は理性的であり多神教は情的であると云いえるでしょう。
理的に(或いは理屈的に)捉えているのが一神教で、感覚的(情的)に捉えているのが多神教ですが、普遍神は両者を統括する神なのだと思います。

また、物事には必ず二つの面がある筈で、神に於いても理と感があり、でもそれは背と腹の様に一体なので、その一体が普遍神なのだとも云えます。

一神教も多神教も人間の思惑の中から生じた神、と思えばそれらを統括している神は、人の思惑を超えている神である、と云えますね。

我々の存在は父母があってこそ。陰と陽、感と理。
生命の存在はこの宇宙があってこそ。生と滅、感覚と理性(物と、その変化)。

では、その宇宙の存在は?
この宇宙の存在こそが、普遍神の威力・意力に依ると思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます・
<一神教は理性的であり多神教は情的である>
<普遍神は両者を統括する神>
<神に於いても理と感があり><それは背と腹の様に一体なので、その一体が普遍神>なのですね。普遍神のある一面は一神教として見え、他の面では多神教として見えるのですね。
普遍神は、諸神の成分(特性)を抽出してまとめて創ったものではない、のですね。

お礼日時:2020/01/22 16:14

★ (№12お礼欄) 菅原道真は神に成りました。


☆ これは 《立たり⇒祟り》の問題ですね。

道真の怨霊なる霊性が立った(現われた。cf. 《風が立つ》といった用例)。
あるいは すでにいま結論を先取りしますが 普遍神としての霊性が 道真の
たましいを依り代としてこの世に降りて来た。

こういった事情のもとに神になりました。(人びとが認めあったという意味で
す)。





くわしく見ていきます。

★ 死後、天満天神として信仰の対象となりました。
☆ つまり: 

▲ (ヰきぺ:菅原道真) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/菅原道真

§ 1.3 左遷と死
昌泰4年(901年)・・・「宇多上皇を欺き惑わした」 「醍醐天皇を廃立して
娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀った」として、大宰員外帥に左遷された。
・・・

§ 1.4 死後の復権
延喜8年(908年)に〔☆ 道真の左遷を推進した側の〕藤原菅根が病死し、延
喜9年(909年)には藤原時平が39歳で病死した。これらは後に道真の怨霊によ
るものだとされる。・・・

延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、大納言藤原清貫をはじめ朝廷
要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)上に、それを目撃した醍醐天皇
も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。

これも道真の怨霊が原因とされ、天暦元年(947年)に北野社において神として
祀られるようになった。

一条天皇の時代には道真の神格化が更に進み、・・・。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ すなわち:
★ 例えば、一神教の神とは異なりますが、菅原道真は日本ではれっきとした神
ですね。
☆ はい。そのようです。

初めは 権力闘争の過程で勝った側がタタリを受けたので その敗者を神として
祀ることになった。

そのあとにも――そんな政治的な思わくからの神格化であるなら やがて絶ち切
れになるのがふつうでしょうが 庶民たちは そこに霊性なる神のハタラキを見
たゆえなのでしょうか――:
★ 菅原道真は日本ではれっきとした神ですね。
☆ となりました。



言いかえると:
★ しかし、上記の特性の4項目(☆ 神の特性:超自然・超経験;絶対性・無
限)には該当しずらい、と思いますが。
☆ という事情にもかかわらず 結論から言えば この普遍神の――霊性として
の――分身のひとつであると人びとは みとめあったという歴史がつづきました。
ということだと思います。





普遍神の分身は いくらでもあり得ます。

けれども ひとつの分身なる神さんが 単独分立することはないですね。

その気配があるのは 世界の主宰神と見做されているとしたらそのアマテラスオ
ホミカミくらいでしょう。

イザナキ・イザナミなる両親の世代や あるいは 初源のあめつち開けしときの
アメノミナカヌシの神だとかを排除するということではないでしょう。

姉アマテラスは 弟たちであるツクヨミやスサノヲをないがしろにするような神
さまではないと――いさめる心で――思います。


分身なる神が 単独分立することはないとなれば すべては普遍神のもとにおさ
まっていると哲学は 考えると思います。






道真天神さまは 大きく社会的な通念としてだけの――タテマヘにすぎないよう
な――《大きな神さま》であるのか? それとも 人びとの心の内面における見
えない神としての《小さな神さま》として認め合われているか? どうでしょう。
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この回答へのお礼

度々のご回答ありがとうございました。
菅原道真は、<タタリ>を持った<霊性なる神>ですね。普遍神の要件を満たしていないと、思います。菅原道真は、教義を持っているような大きな神さまでもないし、人の心の中で静かに暖かく灯している小さな神でもないし、何なのでしょう。
前回のご回答から引用します。<すべての神が 名前がちがえどみな 同一である>。この考えから普遍神が導きだされているのですね。この考えは、多神教を信じている我々日本人には何の不思議もない当たり前の思い、だと思います。よく言われることは、どの宗教でも、富士山の登り口のようなもので、登って行けば頂上は一つ、と。しかし、絶対的・排他的な一神教の信者は、この喩えに目を回す、と思います。

お礼日時:2020/01/21 18:08

★ (№10お礼欄) 多紳教における普遍神については、ここでは言及


されてはいませんね。
☆ 回答№9の後半にのべました。

・ 多神は ひとつなる普遍神のそれぞれ分身である。

☆ という見方が 趣旨です。




まとめとして:
・ 一神教: 回答№7&10
・ 多神教: №9
・ 仏教: №11
・ 神を概念として説明: 本回答(№12)
・ 《小さな神 と 大きな神》: 同上




☆ 神を概念として説明
★ (№11お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(例えば一神教とか多紳教とか仏教とかにとらわれず)神というカテゴリ
ーに包み込まれているものには、元/特性/属性/原型など (すなわち普通
神)がある(あるいは、選び出したものがある)はずですが、その元/特性/
属性・原型が何かが問題になりますね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 次のようにとらえています。

1. 神とは何か?――《人知を超えたナゾの何ものか》である。

2. 特性: 超自然・超経験;絶対性・無限

3. 属性: 真理・至高の善・美;慈愛;全知全能
 (これは 人間が神について忖度して得たものであり 一般にそう認め
 られているようです)。〔(2.特性)は 定義そのものです〕。

4. 擬人化: 絶対者

5. 物語化: 創造主
 (表現の問題として・その可能性として あり得る像です。《ゼロやシ
 ューニャター(空) つまり 無神なる神》があり得るのと同じように)。





★★ (№8お礼欄) 石井光太による《小さな神 と 大きな神》
☆ 次のようにとらえます。


小   見   タ   神      神      神
さ・・・え・・・テ・・・|      |      |
な   ざ   の   |      |      |
神   る   関   |      |      |
    神   係   |      |      |
(主観内部)      われーーーーーわれーーーーーわれーー:各主観
                ❙      ❙
                ❙      ❙
              ヨコの関係  ヨコの関係    :社会関係における宗教
                ❙      ❙
              見える神   見える神     :そのオシヘの神
                ❙      ❙
              大きな神   大きな神     :一般に組織宗教の神



☆ 《われ》というそれぞれ主観ごとの――その内面における――神であり
つつ それらの神は みな同じひとつの普遍神である。
(汽笛さんの言うには 段々畑の一つひとつの田んぼに同じひとつの月が映
るといったタトへが よいそうです)。
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この回答へのお礼

度々のご回答ありがとうございます。
<多神は ひとつなる普遍神のそれぞれ分身である。>のですね。
神の特性は<特性: 超自然・超経験;絶対性・無限>ですね。
以下意地に悪い質問をします。
菅原道真は神に成りました。死後、天満天神として信仰の対象となりました。例えば、一神教の神とは異なりますが、菅原道真は日本ではれっきとした神ですね。しかし、上記の特性の4項目には該当しずらい、と思いますが。

お礼日時:2020/01/21 06:57

☆☆ (回答№10) つまり 信奉の仕方が或る程度ことなる唯一神そ


れぞれが 一般性を持つならばそれは 世界中のいくつかの名称のもとに
ある神(複数)がいかなる説明によって認識されるか? この問いについ
て一つの仮説が立てられ得ます。



☆ 多神・汎神あるいは無神といった説のもとに信奉される(あるいは 
されないという信奉のもとにある)いくつかの神についても 一般性が成
り立つのではないか? とうたがわれて来ます。


つまりは にんげんのいだく神という神はすべて共通性があり さらには
けっきょく同一であるのではないかと。(ほんとうは 絶対性であるので
すから 当然と言えば当然なのですが)。


すべての神が 名前がちがえどみな 同一であると仮りになるならば 神
は 普遍神であるしかない。という帰結がみちびけます。






《多神》の問題については 回答№9で説明したつもりです。





あとは インドのブラフマニズム(ないしヒンドゥイズム)そしてそこか
ら派生した神論がのこり ほとんどその問題だけであるかと思います。



ゴータマ・ブッダの神は 宇宙の主宰神である限りで唯一神と見られるブ
ラフマン神またはそれ(霊性)の人間におけるやどりとしてのアートマン
(霊我)を 《無い》とする無神論です。無我(アン‐アートマン)説。

つまり 普遍神のひとつのかたちを成すブラフマン(ないしアートマン)
を裏返しただけですから やはりその無神(または 無我)論も 普遍
神の変型・変種であるとなります。





ゴータマ氏の後世の人びとがとなえた神は アミターバ・ブッダ(阿弥
陀仏)またはマハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来――アマテ
ラスオホミカミのようなものでしょう。つまり 太陽神です)であり 
その霊性がやどるものとしては タターガタ・ガルバ(如来蔵)でした。

アミターバも 無量光のことであり 日の神です。


つまり 開祖にさからったのか従ったのか ブディズムは 有神論です。
如来蔵は ブッダター(仏性)のことであり これは 無理なくブラフ
マニズムのアートマン(霊我)にあたります。名が違うだけです。


つまりは いわゆるブディズムは 普遍神をアミターバ・ブッダと名づ
けたという違いだけの問題です。



神とブッダとは 別であるというクレームについては もしそうなら
ブッダとは何かをその人たちが明らかにする必要があります。答えはま
づ ありません(出されていません)。





神は いやしくも神であるならそれはすべて 普遍神である。
――このように哲学は 定義するものと思います。

(仮説であると断らなければ 仮説扱いされないという摩訶不思議がこ
のカテでは まかりとおっているようです)。
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この回答へのお礼

再三のご回答ありがとうございました。
<すべての神が 名前がちがえどみな 同一であると仮りになるならば 神
は 普遍神であるしかない。>
<神は いやしくも神であるならそれはすべて 普遍神である。
――このように哲学は 定義するもの>ですね。
(例えば一神教とか多紳教とか仏教とかにとらわれず)神というカテゴリーに包み込まれているものには、元/特性/属性/原型など(すなわち普通神)がある(あるいは、選び出したものがある)はずですが、その元/特性/属性・原型が何かが問題になりますね。

お礼日時:2020/01/20 11:28

★ (№7お礼欄) <神の側は 同じひとつの神である>により、その


元・原型を普遍神と命名されたのですね
☆ はい。


★ ところで、この普遍という意味がわかりません。何が普遍なのですか?
☆ 取りあえず いわゆる《一神教》におけるそれぞれの唯一神が 互い
に共通しておりその限りで一般性があると分かります。もし 唯一性に一
般性があれば その限りであまねく同一性があるという一つの帰結をみち
びきました。


★ あげられたのはアブラハムの宗教ですね。
☆ そのとおりです。


★ したがって、”アブラハムの宗教の普遍神”、と名付けるべきではない
のですか? 
☆ そうなります。


★ あるいは、アブラハムの神が世界で広く信仰されてるので、普遍神で
はなく”広域神”の名を付与すべきではないか、と思います。
☆ 地球じょうで広い地域にわたって多くの人びとに信奉されている神は 
そのほかの名称の神をひとまづ別としますが アブラハムの宗教と呼ばれ
るかたちで伝えられた神であるかぎりで 一般性があります。

そしてこの一般性は 唯一神を立てる場合のものです。


この続きは 別建てとします。
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この回答へのお礼

再三のご回答ありがとうございます。
疑問点がかなり溶解しています。
、普遍神とは、”アブラハムの宗教の普遍神”のことですね。
<アブラハムの宗教と呼ばれ
るかたちで伝えられた神であるかぎりで 一般性があります。>
<そしてこの一般性は 唯一神を立てる場合のものです。>ですね。
多紳教における普遍神については、ここでは言及されてはいませんね。

お礼日時:2020/01/19 17:26

park123 さん こんばんは。

お邪魔します。


汽笛さんへ。

1. 人知を超えたナゾの何ものかについては 人間の言葉による規定も
あくまで仮りのものです。

どれか一つの表現が 排他的にただしい唯一の定義であるということには
なりません。柔軟に。


2. 三位一体説と照らし合わせるとよいのは 三身常住の説です。似て
います。法報応の三身です。

法身(法身仏)が 父なる神。
報身が 聖霊なる神。
応身が 受肉(人間化)。《あ た か も》イエス・キリスト。



3. (今回のご回答は――前回もう一回あったように記憶しますが―― 
隠し玉でしたね。それにしても深められていますね)。




☆ 回答です。

八百万の神々と言われる神道についてですが・そして話を端折りますが 
けっきょく神社には 本尊だとか神像とかはありません。

神社本殿の奥の杜や山が 神体だと――仮りに――言われますが 問題
は 神は見えないということにあるはずです。

その意味で ただひとつの普遍神が 祀られている。と捉えます。

やまつみ(山の神)やわたつみ(海の神) あるいは いはくら(磐座)
などなどの《多神なるかみがみ》は ちょうど《ひもろき(神籬)》と
いうつくりものがあるように いづれも神が霊として降りてくるときの
《依り代》なんです。

ですから 八百万の神々は ただひとつの――見えざる――普遍神のそ
れぞれ分身である。と考えられますし それがいちばん納得のゆく見方
であるのではないかと思います。個々バラバラなのではないでしょう。
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私は間違ってるかも知れません。



№7、によれば三つの一神教も元は一緒だと云っているようですね。
そして「元」の事を普遍神と云ってるようです。
元があるから、或いは元こそが普遍神であると云ってるように思えます。

そんなところから、思い浮かぶのは三つ。三位、三位一体と云う言葉です。
仏教にも、三宝や三密など“三”がよく使われますが、これらも元は一つと云う感念(←辞書に在りました)に依ると思えば、一神教は仏教と違わないのではないかと思えてきます。

仏教は多神教と解釈されていますが、その元は一神教の三位に通ずる元があるように思いました。
いずれにしても、この世の存在は何か大きな力に依るのだ、と云う思いが強く残ります。

・・・と、このように考えてみましたが、之も大きな勘違いかも知れませんね。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<「元」の事を普遍神と云ってるようです。>ですね。
<この世の存在は何か大きな力に依るのだ>かもしれませんし、有って欲しいと願っているだけ、かもしれませんね。
ところで、前回のご回答で、汽笛様は興味あることを書かれていました。
石井光太は次のように書いています。
<「彼らは。自分の中に神様のようなものを生み出して、それに身を委ねて生きているのではないだろうか」
<教義を有する宗教における神でない。>
彼は、この神様のようなものを“小さな神様”と呼んでいます。
私は、教義を有する宗教における神を”大きな神様”と仮に呼びます。
汽笛様が述べられている
<心の中に神ならぬ神の存在が否定できずにいる>
のが“小さな神様”で、このカテなどで議論しているのが”大きな神様”に該当するのだろうな、と思っています。

お礼日時:2020/01/19 10:42

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