ある哲学辞典からの引用です。
「唯物論」
物と心、存在と志向の関係において、物または存在が第一次的で、それは心・
思考から独立しており、心・思考はその第一次的なものから派生してきたもの、
即ち第二次的なものであるとする哲学的立場。
認識論からは、物質的・客観的世界が実在で、人間の感覚や意識などの主観は
頭脳という一つの物質的器官の働きによる物質的・客観的世界の模写・反映に
しかすぎないとする。
デモクリトス、ホッブズ、マルクス等
「唯心論」
精神は物質や自然と区別され独自のものであり、世界の究極的存在は精神的な
ものであるとする形而上学的見地。
プラトン、ヘーゲル、ショウペンハウアー等
唯物論と唯心論の対立は続いているということですが、学問的に今どうなって
いるのか正確な知識はありません。
しかし、時代としては唯物論的な考え方が大勢を占めているのではないかと見
ております。即ち、即物的(言葉悪いですか?)かプラトニックかと言えば即物
的。
私はプラトニックな考え方の人間の典型だと思っていますが、唯心論者ではあ
りません。
さて、
1.それぞれ、物が本質的、精神が本質的なものであるとしている訳ですが、それ
は何をもってそう主張しているのでしょうか?
2.現・近代の哲学では、どういう感じなのでしょうか?
3.現代の一般的な思潮はこの二つの概念から、どのようであると見ておられますか?
4.その他
A 回答 (11件中1~10件)
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No.11
- 回答日時:
その他
「結果主義」の現代社会において「一定の結果を安定して出す」事が求められています
その為の方法として「システム化」・「マニュアル化」→「機械化」が行われています。
そのような状況下において人(労働者)はローコストな機械として機械的に働く事が求められています。
その点を踏まえてるなら質問者さんが仰っているように「時代(社会)は唯物的」と言えると思います。
他方個人個人の問題としては
戦後の荒廃した状況下において「米国での物質的に豊か生活」に憧れた人達が「物質的に豊か生活」を目指してそれぞれを頑張りそのうねり頑張り日本を「高度成長期」に突入させました。
しかしながら「物質的に豊かな生活」ばかりに目を向け「心」を置き去りした結果「我が子による家庭内暴力」・「校内暴力」等の問題が頻発しました。
更に「資本主義の崩壊」とも言える「バブルの崩壊」が起きました。
それらの経験によって「物質的に豊かさ≠幸せ」に気付いた人達が
いました。
「精神的な豊かさ」を追求する人達がいました。
それが「スピリチュアル」です
「スピリチュアルな人達」の多くは「物質的な豊かさ」を享受しつつ「精神的な豊かさ」を目指す「ライフスタイル」です
「スピリチュアルな人達」を質問者さんのお言葉で評するなら
「唯物的で唯心的な人達」となります
「二元論的な考え方」では無く「一体的な考え方」となります
「唯物論」と「唯心論」との対立が続いてるとの事ですが、「スピリチュアルな人達」の考え方や医学において判明している「心と体の相関関係」を踏まえるならば、「唯物論」との「唯心論」との対立自体を見直す時期に来てるかもしれません。
「唯物論」と「唯心論」との対立というのは、実は多分に感情的なものではないか、
と常々思っていました。
現実派から見ると理想的な人は「お花畑」に見えてイライラする。反対に、理想的な
ものを求める人は現実派の人たちを、浅はかだと思う。
どちらかと言えば現実派がイライラして理想派を攻撃することが多いのではないかと
思います。
こんな理由で二つの対立がもしかしたら始まったのではなかろうかと考えることがあ
ります。
この二つの立場の違いは、思わぬところに原因があるのかも知れません。
私はプラトニックな考え方の人間で、唯物論的な人たちを「即物的」と揶揄していま
すが、現実を見ない理想派に対してイライラもします(笑)。
いわゆる「スピリチュアルな人達」は、大まかにいえば、精神的な部分も物質的であり
また、デジタル的であり、結局唯物的なのではないかと思っています。少なくとも信仰
的ではないですね。
唯物論と唯心論の対立は仰るように不毛だと思いますが、先ほど言った「原因」によっ
ては更に続くのではないかとも思います。
No.9
- 回答日時:
現象を語った時に、未だ現れていない、未然のものを想定するならば、それはアリストテレスの言うデュナミスとエネルゲイアの様な関係と言えるのではないか?と考えたのですね。
即ち、現象がエネルゲイア(現実態)に相当し、未然のものが、デュナミス(可能態・潜勢態)に相当するという事ですね。
プラトンの語るイデアが、現実世界に存在せずイデア界に存在するのに対し、アリストテレスの語る形相(エイドス)は、現実から帰納的に見出されるものであると私は理解しています。
例えば花があるとします。プラトンは、この世に完全な花は無く、花のイデアがイデア界に存在し、現実の花はそれの不完全な形を実現しているに過ぎない、と言う感じでしょうか。(同じプラトンのイデアでも、時期によってその意味は変遷するようですが、およそプラトニックな解釈ではこのようになると思います。)
一方アリストテレスは花を見て、この花の形相はこの花固有のものであり、それそのものとして存在していると考えたと思われます。従って、アリストテレスにとってこの花は花として決して完全とは言えないが、一定の確固たる存在としての地位を持っていたのです。そして、現在あるエネルゲイアは未来のデュナミスであり、過去のエネルゲイアは現在のデュナミスであるとも考えたようです。
プラトンがより、純粋な、言葉のみの立場をとるのに比べ、アリストテレスは、実体を伴った言葉を常に意識していたのかもしれません。
(原始経典の一つである)バーヒヤ経については、諸々の現象の存在するの認めた上で、こだわるべきものは何も無いという帰結に至る事を説いたものだと思われます。現象へのこだわりを離れ得た時に、こだわるべき自分自身も無く、全ては縁起していたと見ることになるという事です。つまり、現象へのこだわりがある時に、苦楽を見る自分自身が存在し、現象へのこだわりが無い時に、苦楽を見る自分自身が無いのであります。苦楽を見る自分自身が無い時に、諸々の分別(こだわり)が無いのであり、諸法無我となるという事だと考えられます。
この、原子仏典で語られる無と言うのは、有無が無いという意味であり、存在に対置する無ではないという事に注意せねばならないでしょう。
アリストテレスの形而上学の解説を少し読んでみると、次のような記述があります。
質料は無限にその質料をもつ。突き詰めると、いかなる形相とも結びつかない純粋な
質料がある。形相にも究極の純粋な形相がなければならないとし、この不動にして永
遠の現実態を神とした。
とあります。もうちょっと勉強しないとキチンとつかめないですね( ;∀;)。
いずれにしても、プラトンにしてもアリストテレスにしても「イデア」というものを
いかなる「実在」として理解していたのか、を理解したいと思うのです。
バーヒヤ経って原始経典の一つだったのですね。
>有無が無い
という概念というか、考え方は、あくまで言葉の上のものであって、宇宙には「ない」
と考えざるを得ません。
>こだわるべきものは何も無いという帰結に至る事を説いたものだと思われます
煩悩を断じて悟りに至る、ということに通ずる考え方だと思いますが、「煩悩即菩提」
という考え方の対極にあると言えます。
No.8
- 回答日時:
ある学者は「日本は珍しく唯心論が根付いている国」と評しました。
それが特攻隊の若者たちや武士が腹切りをする際の「死を恐れない」姿勢に表れているのだそうです。
何故死を恐れないのかと言うと彼らは「肉体は滅んでも精神は滅びず」「人は死ねば無になるのではなく神仏になる」という思想が元になっているからだそうです。
現代では唯物論的な「神や魂など存在せず死ねば無である」という思想が資本主義化によって日本人にも定着し、徐々に唯心論や概念論は失われつつあるようです。
西洋ではニーチェの時代にはすでに神は死んでいたので、20世紀においての
特攻隊の行動が、極めて珍しく目に映ったのではないかと思われます。
戦時中は天皇が現人神でありましたが、どうも神と仏がごっちゃになっていた
ようにも思えます。
また、武士道も仏教思想と主君への忠誠心などが、入り混じっているような気
もしますし、このあたり、突っ込んで勉強してみることも面白そうですね。
いずれにしましても、仰るように時代は超唯物的であると思います。
No.7
- 回答日時:
唯物論、唯心論どちらかと揉めて来たようですが
何方もありますねえ しかし両方認めると矛盾してしまって答えにならない
でも私は答えを知っています 54321 物心二元論。
ものと心は両方ある 正確に書くと エネルギー(質量など)と性質(心など)の二元論です。
物にも質量と性質がありますし 心の世界にも唯物論と唯心論があります。
この宇宙は全てエネルギーと性質で出来ています。
物質も素粒子とかM理論とかヒッグス粒子(場)とかありますが
運動エネルギーとかポテンシャルエネルギーは物質でないので 物質が全てではありません。
心と言っても 心が何で出来ているか理解する必要があります。
唯物論で説明できないのは「我とは何か?」唯心論で説明できないのは?「他者、死」
物心二元論で説明すれば両方難なく説明できます。
実際には物心二元論とはいいません 存在性理論と言います。
まだ、正確に理解しているとは思っていませんが、デカルトの「物心二元論」と
「存在性理論」とは当然違うわけですね?
存在性理論を、またおさらいしないと、分からなくなってきました。
「物心二重性論」ですかね?
No.5
- 回答日時:
回答、4.その他。
弁栄上人曰く。
「認識界と観念界、現象と実体、自然界と心霊界と。主観界と客観界は元、絶対観念界の両面現に外(ほか)ならず。吾人が感覚によりて経験し得らる方面を認識界また現象界と曰ひ、また自然界とも曰ふ。此の現象の裡面なる実体界は吾人の五官をもて実験しうること能(あた)はず。然れども直観することをうるものとす。吾人が自観的に観ずべき大観念界を実体界とす。吾人が肉眼をもて経験する方は分限あり、観念の対象は分齊方隅あることなく、絶対無限なり。されば無方域の涅槃界の如きは実体界に求む。凡夫は肉眼をもて経験する方面を指して明るき世界と謂ひ、実体の方に対しては闇き如くに感ぜり。されども聖者は還って之に反せりと。何にしても現象界も実体界も同じく絶対観念を離れたるものにあらず。此の両界は観念によりて総合せらる。」
「次に、主観界と客観界に於いても、吾人が五官の対象となる處の色と聲と香と味と觸との境界現を客観界とす。感覚及びすべての心象をさして主観界と云ひ、この両観界は物心二象反対の現象なれども、共に一大観念の両面現象なりと言わざるべからず。」
「次に、仏教に謂わゆる十界の依正、三千の假相、乃至十方微塵の国土と衆生と五蘊の色と心との象相は、悉く一大観念の差別の現象なりと云ふべし。」
☆私の解釈。
一大観念・大観念界・絶対観念界と云うのは、『宇宙の本体は絶対の大心霊体=大精神体』であるという弁栄上人の言葉を信じる、あるいは受け止める、という事によって理解できると思っています。
全くもって、存在論と認識論の話ですね。
つまり、弁栄氏は哲学者である、と。
今日辞典で読んだアリストテレスに似ている気もしました。
信じ、受け止めることによって理解できるというのはその通りだと思います。
しかし、哲学ですのでキチンと理を立てなければなりません。
この文章だけでは、弁栄氏を知らない我々はよく理解できません。
No.3
- 回答日時:
4.私の感覚では、この二つは相互作用を起こして共に発展して来たと思われます。
言葉が生まれ、文字が生まれ、記録媒体が生まれる事で、人は外部に物では無い存在を認める事が出来る様になった。その物ではない存在によって、物の世界がより一層詳しく観る事ができる様になり、物の世界に光が差す事で、物の世界のリアリティが増す。それによって物の存在感が増し、言葉に比べて重くなる様に感じられる。言葉によって重みを増した物的立場で、言葉を軽んじてしまえば、物は軽くなる。重みを増した物的立場を認めたならば、それを観る言葉が更に豊かに、鮮やかになる。こんな感じで共に発展してきたと思われます。
ただ、この段階ではまだ物と心、内と外に世界が分かれている状態です。更に、現象と言う呼び名によって第三の統合された世界像を見出しても、背後世界(例えば無意識など)と言うものを想定するなら、現象したものと未然のものとの二分がまた生じる。これはその意味でアリストテレス的段階であり、回帰的とも言えます。
ところで、バーヒヤ経と言う経があるのですが、それによると、
「バーヒヤさん、それでは、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。
『見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろう。
聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろう。
思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろう。
識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろう』と。
バーヒヤさん、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。
バーヒヤさん、まさに、あなたにとって、
見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろうことから、
聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろうことから、
思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろうことから、
識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろうことから、
バーヒヤさん、それですから、あなたは、それとともにいないのです。
バーヒヤさん、あなたが、それとともにいないことから、バーヒヤさん、それですから、あなたは、そこにいないのです。
バーヒヤさん、あなたが、そこにいないことから、バーヒヤさん、それですから、
あなたは、まさしく、この〔世〕になく、あの〔世〕になく、両者の中間において〔存在し〕ないのです。
これこそは、苦しみの終極“おわり”です。
とあります。
私(キサラギ)はその通りに思うのですが、つまり何かが有るとか無いとか、そう言った分別のある世界と、そう言った分別のない世界があり、そう言った分別のない世界では、バーヒヤ経のようになっていると言う事です。分別のある世界と、分別のない世界は、一体であり、そもそもそんな一体の世界も、別にあるのではないのです。
この二つは対立しながらも、内実は相互補完的に発展してきたということですね?
良きライバル同士の関係性というところでしょうか。
アリストテレスのことは、まだよく理解していないのですが、プラトンのイデア界
と感覚界の二元論を受け継いで、結局、形相と質料の二元論の域を出ていないと思
います。キサラギさんはどのように理解されていますか?
バーヒヤ経というのは、初めて聞きました。小乗経典のうちの一つですか?
読んでみると、プラトンの「洞窟の比喩」のような感じですね。
No.2
- 回答日時:
現代、この対立軸に関しては、ほぼ「マルクスをどう評価するか」に集約されている感じです。
社会主義国家の崩壊で唯物論的な思想は著しく退潮しましたが、最近著しく復権している感じです。
唯物と唯心の間に位置する現象学的な哲学も存在感は衰えていませんし、
あまりその二項対立で哲学を捉えることに積極的に意味があるかどうかは微妙な気が致します。
なるほど、端的なご回答ありがとうございます。
一番の疑問は、哲学史上、なぜこの二つの流れができたのかということでした。
仰る通り、この二つの対立的議論は、おそらく無意味であろうと考えてはいます。
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質問文の三行目、「志向」→「思考」でした。