dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

高畑の演出の狙いは、次のように簡略化して表現できそうな気がします。

(高畑)expose【(野坂)criticize(原作「火垂るの墓」)】=アニメ映画「火垂るの墓」

この入れ子状の構造が、「カラー世界」を「赤の世界」が見つめる、
という入れ子構造の理由ではなかろうかと考えられます。

このとき、
 (野坂)criticize    =「赤の世界」。
              自分の作品への批判的視点、本当の野坂のありどころ。
 (原作「火垂るの墓」)=「カラー世界」。
              野坂の原作世界。
となります。

なお、(原作「火垂るの墓」)は、ほぼ「お涙頂戴もの」かつ「反戦もの」ですが、アニメ映画「火垂るの墓」の全体は、「お涙頂戴もの」でも「反戦もの」でもない、という構造になります。


具体的にはどうなるかを以下に例をあげます。


映画の冒頭は「昭和20年9月21日夜、僕は死んだ」という清太の独白によってスタートしています。
それは

①:(原作「火垂るの墓」)の幕開け
  「お涙ちょうだいもの」としての「火垂るの墓」の幕開け

を告げるセリフです。
この解釈に従うと冒頭のシーンは、
死んでしまった可愛そうな清太の亡霊が「僕は死んだ」と独白するところから始まるということになります。

ですがその同じ場面は同時に、

②:(野坂)criticize(原作「火垂るの墓」)
   本当の野坂のありどころ

の物語の幕開けであることも意味します。

この②と捉えた場合、「赤の世界」(*1)の清太がまず最初に批判の目を向けるのは、「昭和20年9月21日夜、僕は死んだ」というセリフです。セリフに批判的な視線を投げることは映像上表現のしようが無いために、正面を向いて表現されています。とはいえ《何かを見ているはずだけど、何をみているのかわからないものとしか表現しようがない視線》はかえって逆に雄弁です。これが冒頭のカメラ目線の謎の答えです。

冒頭シーンを②の立場で捉えた場合、本当の清太すなわち原作者の野坂は「昭和20年9月21日夜」に死んでないんかいない、と自らの小説世界を批判している、との理解が成り立ちます。

野坂のこの自己批判的視線は、実はすでに小説内にも現れていて、それが「今、何日なんやろ」と問い名がら死んでいく清太として描かれることになります。現実世界の原作者野坂は、2015年12月9日に没していますから、もし私達が小説世界にはいっていけるなら、「今は2015年12月9日だよ」と死にゆく清太に教えてあげられれば、その意図を十分汲んであげられたことになります。

(*1)上で既に(野坂)criticize=「赤の世界」と定義済み。


「赤の世界」は以下の6箇所あり、それぞれにおいて以上の説明が通用するか検討する必要があります。

ア:冒頭
イ:母の火葬後の電車の中
ウ:おばさんが母の形見の着物を売りにいこうとするとき。
エ:横穴壕に移り住もうと決断するとき
オ:横穴壕で白木の箱と2つのホタルらしき光
カ:映画のラスト


そのうちさしあたってウについて。
野坂の数々の言葉の記録のどこかに《「意地悪な継母」にいじめられる主人公》物語に対する嫌悪が表明されているのではないかと予想される。

A 回答 (2件)

見事な解釈、分析だと思います。


頭の悪い私にはこういった難しいことはできません・・・・
レベルが違います。
    • good
    • 0

野坂の「アメリカひじき」も読んでからもう一度質問してください。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

おそらく「お涙ちょうだいもの」かつ「反戦もの」と私が評したことにたいする動物的反応なのでしょうね。
残念です。

自分はここ2ヶ月くらい毎日いっかい野坂の小説を読んでますね。

私は「お涙頂戴もの」を書いてしまったことで深く傷つく野坂をきわめて高く評価していますし、「ほぼ」お涙もの、と私が評していることの真意はくみとっていただけなかったみたいですね。


妹の食べるものを僕自身が奪って食べて生き延びたということのほうのね、負い目のほうが、戦争とか何とかよりも、はるかに僕個人にとって大きな・・・まあ、負い目と言うと大げさですしね。
普段、僕なんか大変調子よく生きているわけだから、自分だってほとんど忘れてはいるわけですけども、まあ、年に何度か思い出すわけね。
それが小説っていう形で嘘をついたためにね、逆に非常に深い傷になって僕の中に残っちゃいましたね。
本来なら、僕はもっと残酷な兄貴だったんですね。
で、残酷な兄であることを逃げて、小説を書いて、その小説によって僕は今、稼いでいるわけで。
で、またアニメーションになれば、またお金が入るかもわかりませんね。
それで僕は贅沢をするかもわからないですね。
で、もう、なんか二重三重にね、鬼畜米って言われてた相手から家畜の餌をいただいて僕は生き延びているわけだし。
一方においては、自分自身が食べるべきものをかっぱらって生き延びながら、そのかっぱらった相手を小説というようなものに仕立てて、また金を稼いでるわけです。
しかも、その時に、あたかも自分がそうであったかのごとき主人公を設定して自分を甘やかしているっていうか、そういった、すべての、なんか、自分の営みの負い目を今ここで直面しなきゃならないっていう感じで言うと、僕にとっては非常に苦痛は苦痛なんです。

朗読テープのおまけの 『野坂昭如 自作を語る』 から

お礼日時:2020/07/24 17:27

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す