

日本の仏教界から見て、テーラワーダ仏教はどのように見えますか?
私の家は「石鎚教」という山岳宗教の家です。母方の祖母が入信しました。
石鎚教では、山岳宗教らしく神道と仏教が複雑な混じり方をしています。
例えば石鎚教では般若心経も唱え、祝詞も唱えるのですが、祖母は般若心経の意味を知りませんでした。
「意味も知らなくて唱えていて意味があるの?」と祖母に尋ねると「意味はわからなくても唱えていればよい」と答えました。
さらにややこしいことに、うちは浄土真宗でもあるのです。
浄土真宗では阿弥陀如来をご本尊にします。
祖母は「南無阿弥陀仏」も唱えていました。因みに母もです。
さて、私は長じてある程度宗教の勉強をしてハタと困りました。
「整合性がない…」
神道と仏教の政治的な背景による融合と分離まではわかります。
しかし、浄土真宗は、それ単体で学んでみると、親鸞上人のお考えは、それはそれで涙が出るくらい素晴らしいのです。
とはいえ、あの大胆な拡大解釈は「果たして浄土真宗は仏教のひとつに数えていいのか?」というくらい飛躍しているようにしか思えません。
混乱した私は「そもそもブッダは何を教えたのか?」と調べてみて行き着いたのがテーラワーダ仏教です。
アルボムッレ・スマナサーラ長老にはかなりハマりました。お目にもかかりました。合掌。
著書も何十冊と読ませていただきました。
しかしその一方でダライ・ラマさんの著書にも深く傾倒しています。
今や私は上座部仏教、大乗仏教、浄土真宗、石鎚教の間で完全に混乱しております。
神様(石鎚蔵王大権現)、仏様(釈迦如来、阿弥陀如来)のどれを拝んでいいものやら、どう整合性をつけて考えてよいものやら。
「どう考えてもよく、どう考えないでも良い。果物にイチゴとブドウの違いがあり、ブドウとリンゴの違いもある。違いに着目するな、人への恵みの果実である点を本質として見よ」という啓示もあるのですが、今ひとつ実感できない(イメージできない)気持ちでおります。
No.3ベストアンサー
- 回答日時:
緑禅師の言葉
一切の経綸は、何れも心を起こす教えに過ぎない。
もし道という心を起こすと忽ち巧偽が生まれる。
余事を・・・。
もし心が起こらなければ、どうして坐禅する必要があろう。
巧偽が生まれないのに、どうしてわざわざ念を正すのか。
もし菩提心を発す事をせず、知恵才覚を修めなければ事も理もすべて尽きる。
-----
各派の仏教学が、一切経綸の訓詁と体系化、若しくはその実践体得に終始していた時、そうした作業に漏れる仏法の真実をダルマとその弟子たちは問題として取り上げる。
緑禅師はその一人である。
文字語言は徒労の施設であった。
師について学ぶけれども悟る事は師によらないといわれる。
彼らはそうした真実をずばりと口に出して憚らない。
もともとブッダの教典は弟子たちの質問に答えた随宣対機の言葉の集成である。
問う人がなければ、語る事はない。
むしろ四十九年の間ブッダは先ず緊急の問いに応える事で忙しい。
終いに本心を明かす事がなかった。
はじめ鹿野苑の説法より最後に跋提河畔の入滅まで、私は終いに一字も説かなかった。
これがブッダ晩年の言葉である。
一切経綸の研究者などは、一切経綸を極める事によって、そんなブッダの本心に迫ろうと努めた。
説き残しの真実である。
どだい無理な話である。
取り分け中国仏教では(教)の意味が加重される。
ダルマとその弟子などは(教)の外なる仏語を求めた。
こうして心不起が問われる。
一切経綸は心が起こって後の事である。
心が起こらなければ一切経綸は無用である。
心不起が坐りとなる。
心は自性清浄である。
自ら心を起こす事をせず心が起こらなければ心を静める必要はない。
緑禅師が(事も理も)すべて尽きるというのはその事である。
心を起こして静めるよりも、心の起こらないところにいる事が先決である。
やがて心不起を戒、心不思を定、心不知を慧に当てるようになる。
更に起心は善悪両意に渡る。
悪心のみではない、善心もまた起こらないのが本当の事である。
後に不思善不思悪と説かれるのは、その事である。
本来無一物ともよばれる。
非心非仏といい、不是心、不是物、不是仏というのも同じところを指す。
巧偽という言葉は、本来の淳朴心に反する作為の事である。
道の詮索、経律論の研究は道の詮索に終わる。
経律論の研究が巧偽であるのみならず、坐禅もまた、巧偽となる危険性を持つ。
心を起こして坐禅に取り組む故である。
煩悩対治の坐禅、つまり習禅習定の発想がこうして根底から洗われる。
緑禅師の言葉の新しさは、むしろこの点にある。
やがて六祖恵能が新しく坐禅を定義して
外に一切境界の上に念の起こらざるを坐となす、本性を見て乱れざるを禅となす。
と説くのは、そんな動きの帰結である。
坐禅より禅への展開は必至となる。
緑禅師は念が起こらないのに念を正す必要はないという。
正念は八正道、若しくは八大入覚の一つであり悟りへの条件として重視される。
悟りが方便とされる以上、悟りの条件が無用となるのは当然である。
[大臣実録]
心は法道の自性である。
身体は法道の器である。
善知識は縁によって現れるのである。
心が安楽であれば境も安楽であって、二辺に取捨がないならば十八界を見るのである。
No.1
- 回答日時:
テーラワーダ仏教のような上座部仏教がもともとの釈迦の教えに近いと思いますよ。
大乗仏教は仏滅後数百年たってから成立したものです。大乗仏教側からはよく上座部仏教を「小乗仏教」として批判していましたね。山岳仏教というのはもともとの山や木などの自然を神とする民間信仰と大乗仏教(密教系)が融合したものでしょう。
上座部仏教は何よりも自分の悟りを大事にします。ですから言い換えれば自分をみがくことでしょうね。
その中でチベット仏教の指導者であるダライ・ラマ氏の言葉で気に入ったものがあれば取り入れれば良いですし、親鸞の言葉に感銘されるのよいです。聖書だって良いところは学べばよいと思いますよ。
はい、ありがとうございます。私もそのように思うことは思うのですが…。何しろ整合性を見いだせないでおります。
整合性そのものが「囚われ」かとも思うのですが、いかんせん修行不足でして。
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