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統計と主観について教えてください。
とある人が、統計的に◯◯県民は××だ。と決めつけるような発言をしている人がいます。

しかし、県民性というのは観察者次第でどうにでも答えが変わるのではありませんか?

例えば、秋田県民=秋田美人という定義も、何を根拠に美人とするのかがわかりません。

積雪量とか、所得とか、数値化できるものであれば比較もできるでしょうが、秋田美人のような主観的感想は、統計として成立するのですか?

質問者からの補足コメント

  • 皆さんの回答を読みました。
    (長文になるので軽く読み流しただけですが)

    結局のところ、統計の持つ意味をどう解釈するのかは、これもまた個人の見解次第ということですかね。

    秋田美人を例にすると、私の個人的主観ですが、秋田以外の他県民では、秋田=秋田美人と答える人が多いような気がします。
    しかし、そう答えた他県民が、実際に秋田を訪れたことがあるのか、どのくらい秋田県民と接したのかは未知数です。

      補足日時:2021/03/21 23:02
  • 逆に当の秋田県民に尋ねると、秋田=秋田美人と答える県民は意外と少ないのです。

    謙遜しているのか、見慣れているせいなのか、またはそういう偏ったイメージがイヤという人もいますが、結局のところ人によって秋田=秋田美人なのかは、その人の個人的主観なので、何百、何千の声を集めても、結局は主観の集まりでしかないと思います。

    なので、主観の集まりを客観的と言っていいのかは、私は疑います。

    美人かどうかを証明するためには、何か定義をつけて、例えば身長165㎝以上などの厳密な線引きをすれば、その人数を数えれば良いだけなので、定義に沿った証明もできると思います。

      補足日時:2021/03/21 23:03

A 回答 (21件中1~10件)

以下は、くどいようですが、#20の補足です。


指摘していることがご理解していただけないと困りますので、分かりやすく書いたつもりです。>#18


私は#17で、「キチンと反応モデルを考え、どうすれば違いが明らかになるかというテスト方法を計画します。」と書きました。

モデルは、y=x1+x2+x1x2+ε です。文字で書くと、
(観測スコア)=(被験者のスコア)+(観測者の採点の甘辛)+(被験者と観測者の交互作用)+(観測誤差)

最後の被験者と観測者の交互作用が、主観によるバイアス項です。これはかなり支配的だと思われます。このケースでは観測データをいくら集めても、結局は主観の集まりにしかなりません。
一方、観測者の採点の甘辛はn増しで消せます。これについては否定しません。

(観測スコア)=(被験者のスコア)にするためには、バイアス項が邪魔です。

私たち研究者は、バイアス項が出ないようにテストを計画します。具体的には、交互作用が出ないような評価指標を採用するか、被験者属性を加えて三元データにして計算で交互作用を取り除きます。
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この回答へのお礼

本当にくどいですね。
分かりやすくかいたつもりでも、専門用語を使って説明している時点で、全く分かりやすくありません。

それに、あなたの意見を理解せずとも、自分なりに統計の客観性と信憑性の区別については理解しているつもりです。

お礼日時:2021/03/22 06:37

#19です。



ついでですが、#18さんの「数字は客観的数値だ」そのものにも反対の立場です。

縦に被験者、横に観察者を並べて、該当するセルに0か1が記入されているとしましょう。1が美人だと思う、です。
これを二重中心化(行平均と列平均を引いて全平均を足す)すると、何か数値が出てきます。これは残差とも言うし、行と列の交互作用とも言います。
つまり、観察者による被験者に対する好みの違い(ポッチャリが好きだとか)が出ているのです。
これを取り除かないと、客観的な評価だとは言えません。
観察者を1000人集めようが10000人集めようが、主観バイアス(交互作用)の期待値を0にすることはできません。これは偶然誤差ではないですからね。
(ご質問者がコメントに書かれていますが、さすがと思いました)

交互作用を取り除いた観察者の主効果だけ取り出せば、評価数値は客観的だと認めてもよいです。
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いやいや、質問者の問に対する回答が対立しているだけですよ。



私の回答は、
・命題「◯◯県民は××だ」は断定することはできない。反証可能性が担保されていないから。
・観察者次第で答えは変わる。なぜなら想定している場面が異なるから。
・観察者が回答を出すにあたって用いている根拠が異なる。
・根拠を同一にしない主観的感想は、たとえ「ランダム化比較試験」を用いても統計として成立しない。
です。

#18さんの回答は「数字は客観的数値だ」というだけで、そこから命題「◯◯県民は××だ」を断定することができるかどうか、は答えていません。
断定して良いのですか?

たぶん、断定できると言いたいのでしょう。

ということは、対立しているのですよ。

私の回答#17は断定するための要件も書いています。暇だったら読んでくださいね。
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この回答へのお礼

断定できないから、
統計の持つ意味をどう解釈するのかは個人の見解次第と書きました。

ただの声を集めたものは、アンケート。
根拠や定義がハッキリわかっているものを統計と考えています。

だから、秋田県民とそれ以外の他県民を例に上げて、あくまでも主観的見方ですけど、立場が変われば見方も変わる。
それでは秋田=秋田美人なのかは証明できないと書きました。

美人の定義がないのですから当然ですよけ。

お礼日時:2021/03/21 23:32

平行線??


指摘されたことを理解できない、あるいは曲解して逃げてるだけでしょ。

特定の人が美人だと思うかは主観です。しかし、例えば1000人の評価者に美人だと思うか判定してもらって、その結果を集計すれば、客観的な数値になります。1000人中800人が美人だと思ったAさんと、1000人中100人しか美人だと思わなかったBさんがいたとして、800/1000と100/1000という数字は客観的数値です。

これで回答終了。
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たぶん、このままだと平行線をたどるでしょうね。



ご質問者に回答します。(たぶんご質問者は重々ご存じなのだが、あえて問いかけられているのはないでしょうか)長文、お許しください。

「教員は社会性が乏しい」なんて論旨は個人の感想です。
「秋田県は美人が多い」もしかりです。
科学的命題とはなり得ません。科学的命題は反証可能性があることが成立要件ですから。
世論調査で40%の人がそう回答した、と公表するだけであれば良いですが、「教員は社会性が乏しい」を客観的事実として政策等に結び付けるには、それなりの科学的手続きが必要です。

神宮英雄先生(1996)の「印象測定の心理学」(川島書店)という統計の本があり、企業においては新車のデザインに対するお客様の印象を計測するなどの業務におけるバイブルになっています。

その39ページに、従来の方法論と認知的方法論の比較があります。
・刺激属性:単一⇔複数
・扱う対象:意識のみ⇔無意識も
・個人差:誤差⇔個人差を積極的に考える
・文脈効果(これまでの経験など):考えない⇔積極的に考える
・記憶のはたらき:考えない⇔積極的に考える
・実験事態:実験室的⇔日常の現場

事例としては、
・例えば車の操縦性や乗り心地の印象は個人差が大きいです。なぜなら、これまで乗ってきた車(文脈)に左右されるからです。一般人を観察者にしてはダメなのでテストドライバーに評価してもらいます。しかも、再現性のある客観的指標値で測ります。
・例えばポン酢のブラインドテストでは、実験室的に器にいれて舐めていては評価になりません。現場である日常の使いかた、すなわち餃子とか唐揚げにふりかけて評価します。さらに形容詞対を用意して客観的に測定します。

・教員についても、いくつかの日常の場面(フレームと言います)を設定して印象測定しないといけません。たぶん観察者個人々々で思い描いている被験者・場面が全く異なります。そんな印象は平均値をとっても何ら意味はありません。

言いたいことは、たとえ測定対象が個人の印象であっても、それを測る統計手法は数学であり科学的手続きです。n増しすれば誤差が薄まるから客観的である、という乱暴な方法論では決してありません。

キチンと反応モデルを考え、どうすれば違いが明らかになるかというテスト方法を計画します。そして正しく被験者と観察者を用意し、盲検化し、追試可能な客観的観測項目について測定したものを統計処理します。

私は、これが「統計として成立」するための条件だと思います。
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No.15の質問には既に回答済みです。


あなたが言ってるのは、ある実験でサイコロを1000回投げたときの平均値がほぼ3.5だったとしても、偏りのないサイコロを1000回投げたときに1の目が1000回連続ででることだってあるでしょ!ってこと。

あと、「特定の人が美人だと思うかは主観ですが、1000人中800人が美人だと思ったAさんと、1000人中100人しか美人だと思わなかったBさんがいたとして」と言ってるんだから、評価する人が1000人いると理解しましょうよ。「特定の人が美人だと思うかは主観ですが」と言ってるんだから、特定の人の評価ではないのは分かるでしょ。それ以前に、「ある程度の人数に美人だと思うか判定してもらって、その結果を集計すれば、客観的な数値になります。」という話もしていますし。
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#14さんへ



「同様の実験を繰り返せば、類似の結果が得られると期待できる」だけなのに、なぜ結論を決めつけることができるのですか?

主観は観察者次第でどうにでも答えが変わるではありませんか。つまり、反例が出るのは当然と思われるのに、なぜ論旨が成立するのですか?

1000人中800人が美人だと思ったAさんと、1000人中100人しか美人だと思わなかったBさんは、美人の根拠は同じであると言えるのですか?

にもかかわらず、なぜその平均値が統計の結果だと言えるのですか?


以上のように、私はご質問者と同じ疑問を抱いてしまいました。この点について述べるべきだと、繰り返し申し上げています。
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「同様の実験を繰り返せば、類似の結果が得られる」は厳密には、「同様の実験を繰り返せば、類似の結果が得られると期待できる」ですね。



偏りのないサイコロを1000回投げたときの平均値を調査すれば、だいたい3.5になります。1の目が1000回連続ででる可能性も0ではないので、起きないとは言えません。でも、そんなことはまず起こらず、3.5に近い結果になると「期待できます」。
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>「美人だと思うか」は主観ですので、この点はマズイと思いますよ。



特定の人が美人だと思うかは主観ですが、1000人中800人が美人だと思ったAさんと、1000人中100人しか美人だと思わなかったBさんがいたとして、800/1000と100/1000という数字は客観的数値です。

サンプルも評価する人もランダムに選択され、評価を歪めるような誘導もなかったとすれば、同様の実験を繰り返せば、類似の結果が得られるというのは統計の基本の基本です。
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#11です。



私は最初から「『一定数のサンプルを』ある程度の人数に美人だと思うか判定してもらう」は否定していません。
これがメタ・アナリシスなのです。
「美人だと思うか」は主観ですので、この点はマズイと思いますよ。

さて、最初の観察者(研究者)が1000人のサンプルを調査して秋田県は他県に比較し有意に美人が多かった、と主張したとしましょう。

しかし、他の観察者(研究者)が違う主張をすることがあります。それがご質問者の「観察者次第でどうにでも答えが変わる」という問題提起です。

通常の科学的立場では、反例が示された時点で「秋田県は美人が多い」という命題の蓋然性は失われます。

でも、「ある程度の観察者、たとえば10人中8人がその主張をした」ならば、#10さんは(客観性はともかく)OKだと言う主張でしょ。
ある程度の人数が認めたら、なぜOKなのですか。
反例が示されれば、成立しないのではないですか。
秋田美人のような主観的感想であれば、統計として成立するのですか?

それについて、議論しましょう。
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