アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

1. 小説家の文章をふたつかかげます。

これらにわれわれが寄ってたかってツッコミを入れることをとおして 日本人論の深みを互いに問い求めることが出来れば さいわいです。

自由にご見解を述べてください。例によって質問者は自由に(つまり 互いに対等の立ち場で) 批判をも交じえて コメントを書き込みます。むろんそれに対して反論してください。




2. なお 次の遠藤周作における《黄色い人》は 特には われわれ日本人を指して言っているはずです。

▲ (遠藤周作:黄色い人) ~~~~~~~~~~~~~~~
3. 神さまは宇宙にひとりでいられるのがとても淋しくなられたので人間を創ろうとお考えになりました。そこでパン粉を自分のお姿にかたどってこねられ竈(かまど)で焼かれました。

あまり待ちどおしいので 五分もたたぬうちに竈をおあけになりました。もちろんできあがったのは まだ生やけの真白な人間です。《仕方がない。わしはこれを白人とよぶことにしよう》と神さまはつぶやかれました。

4. こんどは失敗にこりて うんと時間をかけることになさいました。すこしウトウトとされているうち こげくさい臭いがします。あわてて蓋をおあけになると 真黒に焼けすぎた人間ができているではありませんか。《しまった。でも これは黒人とすることにしよう》。

5. 最後に神さまはいい加減なところで竈をひらかれました。黄色くやけた人間が作られていました。《なにごとも中庸がよろしい》。神さまはうなずかれました。《これを黄色人とよぼう》。(童話より)

6.
  我 汝の業を知れり。即ち汝は冷ややかなるにも非らず 熱きにも非
  らざるなり。寧(むし)ろ冷ややかに 或いは 熱くあらばや。
  然(しか)れども汝は 冷ややかにも熱くも非ずして温(ぬる)きが
  ゆえに 我は汝を口より吐き出さんとす。(黙示録)

(遠藤周作:『黄色い人』 冒頭)


7. ▼ (司馬遼太郎:《絶対》なる概念と日本人)~~~~~~~
http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk//pages/SAK …

8. 近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。
 
ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。

9. 日本に存在しつづけてきたのは、すみずみまで相対的世界でした。
神道、山々や谷々の神々、あるいは仏教という相対的世界を最初から是認した思想。

10. 山々や谷々の神々が神遊びをするように、神遊びとしての日本特有の私小説がうまれても、絶対という大うそを、つまり絶対という「神」---これは聖書の「神」のことですが---という思想、又は文学的思考----大文字のGodと同じ次元での大文字のFiction---を中心にすえるという習慣は、日本においてはカケラもありませんでした。

11. いうまでもありませんが、"あの部分はフィクションです〃という意味の虚構ではありません。神が絶対なる、ごとく、同じ意味における絶対の虚構のことであります。

12. むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。

13. しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。
 
14. 絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。
 
15. ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。

(開高健への弔辞 in 司馬遼太郎『十六の話』)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

質問者からの補足コメント

  • №2さんへ。

    引用は あえて自由な解釈ができるかたちでしているはずです。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/10/28 21:24

A 回答 (16件中1~10件)

自分で自分を救済においてのみ、己の自由が存在する。

結構厳しいが、まっとうな生き方。既成組織宗教は目が荒く、個別に向いてません。主体性こそ真理。ここに置いて、キルケゴールと繋がります。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

★ 自分で自分を救済においてのみ、己の自由が存在する。結構厳しいが、まっとうな生き方。・・・主体性こそ真理。
☆ この姿勢が――わたしの神論としての理論にあっては―― 《無い神〔という神〕》の信仰です。

では 《有る神》の信仰は どういうものか?

救済は すべからく絶対性――《有る神》――のほうから 恩恵としてやってくる。というかたちです。

つまり 後者は 絶対他力であり 前者は 自力の全面的・全体的拡張版です。

経験行為なら 他力派も 自力で・つまり自己の意志行為として おこないます。


★ ここに置いて、キルケゴールと繋がります。
☆ キルケゴールについて 忘却の園にあります。

お礼日時:2021/11/01 14:48

いろいろな思想混ざってませんよ。

ニーチェの一貫した言い分です。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

あぁ わたしから見て 個別の命題がいくつかあると捉えたのでした。

お礼日時:2021/11/01 14:27

キリスト教組織宗教の神、神のおしへ。

そもそも偽物の神偶像。そんなものそもそもない。偶像の、組織の神は死んだ。この偽物神の救済なし、ニセ救済に期待するな。偽クリスト=救世主物語へのアンチ。「自分で自分を救済しな!」ニヒリズム、アンチクリストの生き方です。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

★ 偽クリスト=救世主物語へのアンチ。「自分で自分を救済しな!」ニヒリズム、アンチクリストの生き方です。

☆ アンチクリストは もしアンチが 偶像(あるいは 補助線)としての神である文字=オシへ これに対するものであれば 正統な信仰のあり方だと思われます。


『アンチクリスト』は 志向性が真逆な内容が ごちゃまぜになっていると見なしたことを覚えています。いま どこがどう というふうに提示できませんが。

お礼日時:2021/11/01 14:32

キリスト教は、組織宗教の奴隷道徳。

教えを有り難がらず、自分で考えて生きろ❗=自由。この生き方こそ、キリスト教組織宗教に対する高貴な生き方。アンチクリスト。子羊人間=人モドキを越えた「超人」の生き方。自分で自分を救済しな!アンチクリストの生き方=ニヒリズムの生き方。笑
    • good
    • 1
この回答へのお礼

★ キリスト教は、組織宗教の奴隷道徳。教えを有り難がらず、自分で考えて生きろ❗=自由。
☆ ほかでも書きましたが これが パウロの《文字は殺し 霊は生かす》だと思います。文字――オシへ――は けっきょく偶像となります。あたかも神そのものと見なされて行きます。あるいは そのオシへを実地に説く聖職者が 神の代理にまで上げられる。


★ この生き方こそ、キリスト教組織宗教に対する高貴な生き方。アンチクリスト。子羊人間=人モドキを越えた「超人」の生き方。自分で自分を救済しな!アンチクリストの生き方=ニヒリズムの生き方。笑

☆ いろんな思想(個々の命題)が 入り組んでいるように思います。


超人は 自然・大地・大河のことでよいと わたしは思っています。

アンチクリストのアンチは やはり先ほどの《文字》に対してではないかとも。


ニヒリズムは 無常観として(そういう単純なかたちで)いちどは洗礼を受ける思想傾向のように思われます。

・・・

お礼日時:2021/11/01 13:56

lupan344さんとのやりとりを拝見しました。



ニーチェにおける高貴の概念は実は数ヶ月前からちょうど気になっていたもので、大変に興味深く思われました。

またニーチェのキリスト教批判は有名ですが、研究者によってはニーチェはキリスト自身を肯定的に受け取っており、あくまでニーチェのキリスト教批判はキリスト教信者に対するものであるという見解もあるそうです。

この見解は「アンチクリスト」を論拠に立てられたものらしいですが、それ以上の話は私自身の理解が追いついておりませんので申し上げることができません。

この度の遠藤周作らのテーマとは外れた話をしてしまいましたが、大変に勉強になりました。

ありがとうございました。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

いいえ。どういたしまして。

lupann344 さんは そうとう広く深く探究されている方かと思います。いつも 啓発されています。


ニーチェにかんしては いろいろ言いたいこと・言うべきことがあります。もしそのときには 追い追い対話ができるように たのしみにしています。




『アンチクリスト』は 論旨が別の対立する側へと コロッと変わってしまっていると思って読んだことを覚えています。キリスト礼賛にちかい趣旨があったかなかったか・・・もう一度ひもとかねばならないようです 私事ながら。

お礼日時:2021/10/31 06:00

匿名です。



気になる点が2点ほどあるので大変僭越ながら指摘しておきたいと思います。

1.「中庸」という思想は仏教が先かアリストテレスが先か(調べておりません)ですが、すでに西洋でもアリストテレスが「人が幸せになる思考様式」として「中庸」を主張しておりました。「人が幸せになる方法・思考様式」として、まず、カリクレスが「どんどん欲望を満たし、実現させていくこと」と主張いたしました。しかし「欲望=煩悩」は際限がなく幸せにはなれない。そして、それを逆の方へ、つまり「欲望を捨て、足るを知れ」と主張したのが老子であります。ですが、この二つは無理でありまして、第三の考え方としてアリストテレスが「なんでもバランスが大事なのだから中庸が良いのだ」と主張いたしました。そして、それでもだめだとして現れた第四の教えがゴータマ・シッタルダの登場です。

2.キリスト教が好戦的かどうか?たしか「戦争の大百科(「戦争の百科事典」(?)」なる書籍が出版されていたと思います。分厚い本で3巻か4巻でした。そのうち宗教が動機となった戦争は%として、そう多くありません。そして、宗教戦争のほとんどはイスラム教であり、キリスト教の%は(うろ覚えであり申し訳ありませんが)わずか3%程度であったと朧気な記憶があります。イメージだけでキリスト教が「好戦的」であると語られていないか?つまり、これでキリスト教が「好戦的」と言えるのかどうか疑問と違和感を感じた次第です。そして、ブラジュ先生の御指摘通り、聖書の教えは「復讐するは我にあり(つまり人間であるあなたは復讐するな。神が行う)」であり、きちんと聖書理解をしているクリスチャンは人殺しや復讐はいたしません。神に復讐は任せます。そして、まともなクリスチャンは「敵を(復讐するのではなく)祝福」いたします。つまり西欧キリスト教の起こした戦争(十字軍遠征など)はたしかに「キリスト教の闇の歴史」ではありますが、聖書の教えとは異なり、キリスト教による戦争ではなく、暴走したキリスト教徒(信者)の側に問題があったと思います。それは十分、反省しなければならないと思います。マリリン・マンソン(アメリカの有名なロック歌手)はインタビューの中で、「俺はキリスト教が嫌いなのではない。実際、神とキリストを否定・批判したことは一度もない。ただ、キリスト教徒(つまり「人間の側(信者の謝った聖書理解・歪曲思想)」が嫌いなだけなんだ」とインタビューに回答しております。

以上、長くなりましたが、気になった点を2点ほど指摘させて頂きました。
m(..)m
    • good
    • 1
この回答へのお礼

★ 1.アリストテレスが「なんでもバランスが大事なのだから中庸が良いのだ」と主張いたしました。
☆ しかもそれが 意外なことにたいへんうまく倫理観として説明していたと思います。


★ 「欲望を捨て、足るを知れ」と主張したのが老子であります。
☆ 大道は無門といった命題は かなりいいですよね。ただし その政治思想は――例証抜きになりますが――いただけないものが 多くあります。



★ 第四の教えがゴータマ・シッタルダの登場です。
☆ ゴータマ氏は 四諦八正道ですね。必ずしも定義のないまま ただしさを推し出したというように捉えています。中庸とは ドンピシャリの対応をしないのではないですか?



★ 2.キリスト教が好戦的かどうか?
☆ キリスト・イエスの生き方(行き方)に 主戦論はまづ ないです。

ただし旧約聖書では 神がイスラエルに他民族を皆殺しにせよ(聖絶)と命じています。イエスは否定しましたが クリスチャンの人びとに ややもすると大きな影響をおよぼしているのかと考えます。


★ 宗教が動機となった戦争は%として、そう多くありません。
☆ そうらしいです。ただし 戦士となった個人個人としては それぞれの信教や思想にしたがって戦うわけですから 宗教はその側面で大きなウェイトを占めていると言えるかも分かりません。


★☆ つまり西欧キリスト教の起こした戦争(十字軍遠征など)はたしかに「キリスト教の闇の歴史」ではありますが、聖書の教えとは異なり、キリスト教による戦争ではなく、暴走したキリスト教徒(信者)の側に問題があったと思います。それは十分、反省しなければならないと思います。


★ マリリン・マンソン(☆ 男なんですか!)・・・ただ、キリスト教徒(つまり「人間の側(信者の謝った聖書理解・歪曲思想)」が嫌いなだけなんだ」
☆ その問題は パウロの《文字はころし 霊は生かす》に要約されるものと思っています。

お礼日時:2021/10/31 04:25

一部誤解を招く表現がありました。



西洋人の暴力性は地理が原因でしょう。そしてたまたまキリスト教が栄えたのも西洋だったため、結果的に度重なる戦勝によってキリスト教が覇権を握ったのではないかと言いたかったのです。 

ゴータマがインドヨーロッパ語族の人間というのは存じ上げなかったですが、いずれにせよ仏教や儒教はアジア圏で広まりました。

また、ユダヤやアラブも一神教ですが、先述したように、一神教が好戦的という意味ではありません。 

ニーチェに関しては、ルサンチマンは復讐ではなく怨恨と訳される場合がほとんどです。怨恨は誰しもが持っているものであり、その怨恨を鎮める役割としてキリスト教がちょうどよかったのです。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

★ 一部誤解を招く表現がありました。
☆ いいえ。どういたしまして。
わたしも万全を期したいと思います。


★ 西洋人の暴力性は地理が原因でしょう。そしてたまたまキリスト教が栄えたのも西洋だったため、結果的に度重なる戦勝によってキリスト教が覇権を握ったのではないかと言いたかったのです。 
☆ ギリシャが下火になり ローマがやっと衰えかかったところを ゲルマン民族は 突いたのでしょうか。ギリシャ・ローマから得たものは 大きかったでしょうね。


★ ゴータマがインドヨーロッパ語族の人間というのは存じ上げなかったですが、いずれにせよ仏教や儒教はアジア圏で広まりました。
☆ いわゆる白人だったわけです。

アジアも 複雑ですね。なおこれからあたらしい時代に入って行くのかも知れません。



★ また、ユダヤやアラブも一神教ですが、先述したように、一神教が好戦的という意味ではありません。 
☆ まぁ 僧兵まで出しましたし 石山本願寺は 武士を敵にまわして対等にたたかいました。


★ ニーチェに関しては、ルサンチマンは復讐ではなく怨恨と訳される場合がほとんどです。怨恨は誰しもが持っているものであり、その怨恨を鎮める役割としてキリスト教がちょうどよかったのです。
☆ 舌足らずになるのを分かっていて 簡単に言ってしまい すみません。


たとえば 次のやり取りをよろしければごらんください。
【Q:ニーチェの《信仰 / 根本確信》!?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9266336.html

☆ lupan344 さんとわたしとのやり取りです。

お礼日時:2021/10/30 09:11

私自身が日本人なので、やはり日本人贔屓の説明になってしまいます。



周知の通り古代ギリシャでは多神教の世界観のもと非常に科学的な文明がありました。ですが、キリスト教の普及によって科学的事実の捻じ曲げや戦争などが起こりました。

皮肉なことに好戦的な西洋人はその暴力性ゆえに植民地を広げ、結果的にキリスト教をスタンダードにさせることができました。

しかし、中庸思想は中国、古代ギリシャに、仏教思想はインドを始めとするアジア圏に広まっていています。そして、アフリカやアメリカの先住民などは詳しくは存じ上げないですが、非キリスト教であったことは間違いないでしょう。

ですので、絶対神の信仰は真理を追求するうえではむしろマイノリティなのではないかと思われます。すなわち、たまたま戦争に強かったからマジョリティになっただけなのだと思います。

ですが、私は戦争などの口実のためにキリスト教が誕生したと言いたいわけではありません。ニーチェはキリスト教道徳を人々のルサンチマンによるものだと考えましたが、私も同意見で、人々のルサンチマンの捌け口としてキリスト教が理にかなっており、それが大衆に受けたのだと思います。

ですので、相対的世界というのは言うなれば「普通に考えれば、普通に行き着く結論」だと私には思われますね。  

そのため、遠藤周作にも司馬遼太郎にも特にツッコミはありません。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 私自身が日本人なので、やはり日本人贔屓の説明になってしまいます。
☆ たぶん わたしも・そして多くの人が そうなのだと思います。

★ 周知の通り古代ギリシャでは多神教の世界観のもと非常に科学的な文明がありました。ですが、キリスト教の普及によって科学的事実の捻じ曲げや戦争などが起こりました。
☆ どの神観や文化にしろ すべては相対的な知識ですので どっちもどっちだと見たいとは思いますが。

★ 皮肉なことに好戦的な西洋人はその暴力性ゆえに植民地を広げ、結果的にキリスト教をスタンダードにさせることができました。
☆ 牧畜ないし遊牧民の文化だという見方があるようです(江上波夫)。つまり モンゴル・チュルク系や中東のセム族の文化も そうだそうです。研究熱心だとか人材登用の民主制などよい面もあると言います。

★ しかし、中庸思想は中国、古代ギリシャに、仏教思想はインドを始めとするアジア圏に広まっていています。そして、アフリカやアメリカの先住民などは詳しくは存じ上げないですが、非キリスト教であったことは間違いないでしょう。
☆ インドを支配するようになったのは インドヨーロッパ語族の人間で ゴータマも同じくなようです。


★ ですので、絶対神の信仰は真理を追求するうえではむしろマイノリティなのではないかと思われます。すなわち、たまたま戦争に強かったからマジョリティになっただけなのだと思います。
☆ ユダヤやアラブの人たちも 遊牧民でしたよ。

★ ですが、私は戦争などの口実のためにキリスト教が誕生したと言いたいわけではありません。ニーチェはキリスト教道徳を人々のルサンチマンによるものだと考えましたが、私も同意見で、人々のルサンチマンの捌け口としてキリスト教が理にかなっており、それが大衆に受けたのだと思います。
☆ 《〈復讐するは我にあり〉――つまり仕返しは我にまかせておけ――と主が言う》んですよ。クリスチャンなら人間は やらない。

つまり ニーチェは 阿呆です。聖書も知らない。

★ ですので、相対的世界というのは言うなれば「普通に考えれば、普通に行き着く結論」だと私には思われますね。  
☆ どんぐりの背比べでしょうね。

★ そのため、遠藤周作にも司馬遼太郎にも特にツッコミはありません。
☆ コメントをいただきました。

お礼日時:2021/10/30 06:40

私は理解力に乏しいので、質問者様が何を回答に求めているのかよく理解できませんが、日本人は仏教の教えが普及しているので中庸思想「なんでもほどほどに」であり、西欧は「黒か白か」「肉体か心か」「上か下か」の両極端な思考様式(権威主義と言うのでしょうか?)の違いの差があるかと存じ上げます。

(^^;)

もっとも私は哲学には無知・無教養なので、こんなこと指摘されなくとも質問者様には「何を当たり前のことを言ってるんだ、このバカ!」と思われるかも知れませんが・・・(>,<)/

私は毎日、聖書を愛読しておりますので(教会に所属していない点は質問者様と同意見です。私は「超越者」と呼び、質問者様は「普遍神」と仰っておりますね?)、個人的には西洋式思考様式「一番上と一番下の世界を見ろ」を採用しております。もちろん、仏教の教えも、まだまだ初心者ですがYOUTUBEで学んでおります。仏教は深いですよね。仏教を語れるレベルになるにはこれは一生勉強し続けなければならないなと感じております。(>,<;)

とりあえず、私が仏教を学び気づいて来たことは大変な労力を払い、仏教の教えを長年学ぶと最後に行きつく結論は「無」ではないか?というものです。つまり、それじゃあ、長年仏教を学び、結局は無神論者と同じ結論に行きつくのではないか?と・・・どう思われますか?

ただ、一点だけ質問者様にお尋ねしたいと思った点があります。普通はキリスト教や聖書を選択するのならカトリックなりプロテスタントなり教会に所属しますが、なぜ、私のように宗教団体への(地域の教会)所属を否定し、個人的な洗礼(イエス・キリストによる「聖霊による洗礼」)をお受けしたのでしょうか? それは私と似た信仰のあり方であるなと思い、気になっておりました。

PS.最近、質問者様の文章が恐縮ながら良くなってきたと思います。以前は正直「衒学的過ぎて私の力量では理解もできず、回答もできない状態でありました」。たまに回答させて頂くことがあるかも知れませんが、何卒、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。しかし、質問者様を本当に満足させることができるのは英語分析家様しかおられないとも思います・・・m(..)m
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 質問者様が何を回答に求めているのかよく理解できませんが、
☆ それは 違うと思います。少なくともこの質問にかんしては 何か質問者としてあたかもそこへ誘導したいというような目標地点があるというわけではありません。自由にご見解を述べていただければよいと思います。たたき台をそういう評価するにゆるやかな資料として提示し得たと思っています。


★ 日本人は仏教の教えが普及しているので中庸思想「なんでもほどほどに」であり、西欧は「黒か白か」「肉体か心か」「上か下か」の両極端な思考様式(権威主義と言うのでしょうか?)の違いの差があるかと存じ上げます。(^^;)
☆ ええ。ただし 中庸と――じつは同時に――中途半端な態度の両面があるかと思いますし じつは明智光秀のあたらしい解釈が出たら その主君への裏切り行為といった別の極への振り子の振り切りが 或る程度たたえられるといった事態が 先ごろ生じました。

眞子氏は 言わば思惟=行為の形式として一極へと傾きこれを死守したようです。しかも――わたしには あろうことかとうたがっていますが―― 国民の一定程度の割り合いは これに賛同しました。



★ 私は毎日、聖書を愛読しておりますので
☆ そうですか。

★ (教会に所属していない点は質問者様と同意見です。私は「超越者」と呼び、質問者様は「普遍神」と仰っておりますね?)
☆ なるほど。

★ 個人的には西洋式思考様式「一番上と一番下の世界を見ろ」を採用しております。
☆ わたしは 相対性の土壌に根を張りつつそこをちょっと超えてみよ とは思っています。


★ 仏教
☆ は 親鸞のみだと思っています。ゴータマ・ブッダは 世紀のペテン師だと思っています。




★ 仏教の教えを長年学ぶと最後に行きつく結論は「無」ではないか?
☆ ええ。ゴータマ氏は 無神論です。

後世の人びとは ブディズムです。(仏仏一如)。

★ 個人的な洗礼(イエス・キリストによる「聖霊による洗礼」)
☆ 水による洗礼を受ける場合も 聖霊による洗礼を受けるというのが 基本だと思います。

★ ・・・たまに回答させて頂くことがあるかも知れませんが、何卒、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
☆ 英語分析家様ともども よろしくどうぞ。m(..)m

お礼日時:2021/10/29 15:11

何者になって文章を書いているのか ピンと来ないんですけど 時代遅れと違いますか、


古きを訪ね新しきを知る 現代の何を問うているのか、人間 政治 地球 宇宙 これ全て自然現象 何はともあれ地球にも寿命が有り 木っ端微塵にブラックホールに飲み込まれるのだ。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

そういった想像力は 持ち合わせませんので たしかにあなたへのコメントは つつしまねばならないとあらためて考えました。

ご投稿に感謝申し上げます。

お礼日時:2021/10/29 12:15

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!