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昭和時代の労働者(サラリーマン)は週6日労働で、風呂も週2,3回銭湯に通う生活だったのですか?
それなら、お仕事のお休みは週1日で、しかも、お風呂に入って血行を良くしてから就寝というのも、週2,3回では、お仕事の疲れもあまり取れないまま、毎日、生活だったのでしょうか?

現代の生活で、週2日のお休みで、仕事が終わって帰宅、毎日、自宅でお風呂に入ってから就寝。
それでも、翌日、疲れが残ったまま、お仕事というのも良くあります。
でも、週に2日お休みがあるので、なんとか勤まっている。

昭和時代の労働者は、現代から見ると大変でしたか?
一方では、いい面もありましたか?
例えば、正規雇用者(ボーナスあり)が主流で会社が定年まで、面倒を見てくれた。
仕事を辞めても、直ぐ、次の仕事が正社員で見つかる、など。
詳しい方、よろしくお願いします。

A 回答 (8件)

昭和の時代は良かったよ。


働きがいがあった。
徹夜もあった。けど、働きがいがあった。週休2日制でもなかったけど、なんせ働きがいがあった。
平成に入り、ゆとり教育が始まり、そこからおかしくなった。
そのゆとり教育で育った人が大人になり、過労死や甘えが増えた。
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昭和時代と言っても、戦前、戦中、そして戦後の高度成長期を経てのバブル期までの長い期間です。

 週休二日制は昭和40年ごろに始まり、そのころからのサラリーマンは今と変わらない生活をしていました。
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昭和時代と言っても長くて、時期によって違います。



昭和40年代頃までは土曜日も出勤か半ドン(午前中だけ出勤)がふつうでした。
風呂は、当初は内風呂(家の中にある風呂)がないことが多く、お風呂屋さん(銭湯)に数日に1回くらいの頻度で通っていました(毎日は無理でした)。

昭和の時代(ただし戦後から高度成長期まで)は、焼け野原になり荒廃した日本を建て直そうと男たちは必死に働いたんですよ(女は主婦業として家庭を守るのが当時の当たり前でした)。
私は昭和40年に入ってから社会に出たのですが、大学同期の中には残業(早出、休日出勤を含む)が月に200時間が常態化し、基本給よりもはるかに多くの給料をもらっていた者がいましたし、知人は朝出勤して残業のあと徹夜し、翌日は朝から働いて残業し、そのまま徹夜して翌日も朝から働いて定時まで会社にいたことがあります。
私も朝出勤して残業し、そのまま徹夜して働き、翌日も休むことなく定時まで働いたことがあります。

無茶苦茶に働いたわけで体にはきつかったのですが、残業代は削られることもなく全額出ましたし、上司に指示されて残業していたわけではなく自主的に仕事をし、日本全体がそういう雰囲気でした。「西洋に追いつき、追い越せ」が当時の日本のスローガンだったわけ。
遅くまで働いて家に帰るわけですから、当時は旦那は「メシ、風呂(内風呂が出来てから)、寝る」の三言だけが家族との会話になっていました。

第二次世界大戦では男たちはその健常さにランク分け(甲・乙・丙・丁)され、甲と乙の男たちは徴兵されて戦場に送り込まれたんです。で、多くは戦死したり傷痍軍人(戦争で手足などを失った兵士)になったので、戦後はまともに働ける男たちは数少なかったんです。
なので、「婿一人に嫁はトラックいっぱい」などと揶揄されるほど、働ける男たちは限られていたわけ。ですから人手は幾らあっても足りず、会社は労働者を囲い込み、他社に行かないように優遇しました。

したがって会社は社員(すべて正社員。派遣・パート・アルバイトなどは存在しない)を大事にし、退職金制度まで設けて社員が定年(当初は55歳)まで働くように囲い込んだんです。
そういうことで会社を途中で辞めるような人はおらず、そんな人がいれば世間から奇異の目で見られました。定年まで働くのが正常だったわけ。

ということで、仕事は幾らでもあって大変でしたが、いまのように精神的なストレスはあまり感じませんでした。給料も毎年うなぎ登りに増え、翌年度(4月)にもらった給料が一挙に3割ほど増えてビックリしたことがあります。

昭和は希望に満ち、活気があり、明るい時代でした。平成になると日本の没落が始まったので、活気がなく暗い淀んだ時代でしたね。令和になってもそれが続いています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2021/12/10 22:44

週に一回の休みすらとれない忙しさでしたね。


休日、早出、残業当たり前でしたよ。
ザックリ残業200時間が毎月ですね^_^
上場企業、今もTV CMしてるし。

慣れますよ、、、
それが、当たり前でしたからね。

途中から、銭金いらないから、帰宅させてと。

まだ、国内なら、いいです。

海外なら、帰国まで五年かかります
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2021/12/10 22:44

千里ニュータウンができる前ぐらいは


団地でもお風呂がないところが多かったようで、
ほくさんバスオールがベランダに設置できる
お風呂を売りだしたらバカ売れでしたね。
昭和30年代でも新築だったのでお湯が出るお風呂が
ついていましたが、セントラルのボイラーが
故障したら大変です。
さいわい銭湯は50mぐらいのところにあったのですが、
冬なら帰り道タオルを広げているだけで
家に着くころにはがちがちに凍っていましたから。
ほくさんバスオールのお風呂も、
リビングからいったん屋外にでるわけですから、
零下-10度以下だったら、大変だったでしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2021/12/10 22:44

土曜日は午前中だけ勤務でした。

(週6.5日勤務)
交代制の勤務の時は、日勤・日勤・宿直(16:40~8:40)週休・週休
でした(月に1回週休1日の時もあり:週休調整のため)6日で1クルー
55歳定年でした。
バブル崩壊前までは、仕事はいくらでもありました。
アナログ時代でしたが、楽しかったよ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2021/12/10 22:45

一言で言うなら、愚痴を言う暇が無い位多忙で、疲れたなんて言ってられない日々の毎日、休日を取れる奴は落ちこぼれなんだよ!パワハラは愛の鞭、セクハラは愛嬌、そんな時代だったかな?


おかげ様で、年収は平均、自分の場合だけど2千マン位だったね!そう、働く分正しく評価される時代だったと思うね!
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昭和時代を経験していますが、


最初から週2日の休みがあったので、
たすかりましたね。
土曜日子供は保育園なり学校へ行ってますし、
銀行や病院はやってるので、
たいていのことは土曜日にできていました。
会社は
派遣社員はおらず、ワープロもなかったので、
和文タイピストがたくさんいました。
電話も交換手がいましたね。
給与ボーナス現金支給でしたから、
支給日は朝から銀行員が持ってくるはと騒然としてましたね。
図面は墨で引いてましたので、
引き間違えたら、ほとんど消すことができないので、
最初から書き直しでした。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
お風呂の環境はどうでしたか?
また、昭和のいつ頃ですか?

お礼日時:2021/12/10 18:37

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