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17世紀には、オランダが、経済の面でも文化の面でも世界で大活躍をしましたね。人口はわずか150万人でした。
しかし、周辺の国では、フランスが2430万人、イギリスが計1330万人、ドイツが計1100万人でした。

質問は、なぜ小国のオランダが、世界で大活躍をすることができたのでしょうか?

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A 回答 (3件)

高校の世界史の教科書には、次のような記載があります。


① アイルランドは,事実上植民地化された。同時に,重商主義的な通商政策が推進され, 1651年に制定された航海法は, イギリスとその植民地への輸入品をイギリスか原産国の船で輸送することを定めて, 中継貿易で繁栄していたオランダに打撃を与えた。このため,両国間に第1のイギリス=オランダ(英蘭)戦争(1652~54年)がおこった。両国の戦いは,その後60年代, 70年代にもあったが, イギリス優勢のうちに終わった。
② イギリスでは, 15世紀末以来,領主や地主が農地を農奴から取りあげて生垣や塀で州い込んで牧場にする囲い込み(エンクロージャー)がすすんで羊毛生産が増大し,毛織物工業が国民産業となった。1600年の東インド会社設立にみられるエリザベス1世時代の積極的な海外進出はこれを背景としており,その点でイギリスは,連邦制のもとで強い中央権力を欠き, その繁栄を中継貿勤に依存していたオランダにまさっていた。

③ 17世紀前半に,16世紀から続いていた経済成長がとまり,ヨーロッパは凶作・不況・疫病・人口の停滞などの現象にみまわれた。17世紀半ばは,経済・社会・政治のすべての領域におよぶ,全ヨーロッパ的規模の危機の時代となった。
④ フェリぺは1580年にポルトガルの王位を兼ね, スペインとポルトガルの|可君連合は1640年まで続いた。その間,スペインはポルトガルの海外植民地も支配下おいて,「太陽のしずまぬ国」を実現したが, オランダ・イギリスなどの新興国の攻撃をうけて, その力は低下していった。
商業の発達したネーデルランドにはカルヴァン派の新教徒が多かつた。この地を支配したスペイン王フェリペ2世はカトリック化政策を強め、それまで大幅に認められてきた自治椎を奪おうとして、1568年詣州の激しい反乱をまねいた。南部フランドル地方の10州はスペインの支配下にとどまったが,北部7州は79年ユトレヒト同盟を結んで、オラニエ公ウイレム(オレンジ公ウイリアム)のもとに抵抗を続け、81年、ネーデルラント連邦共和国の独立を宣言した。豊かなオランダが反乱をおこしたことは、 スペインにとって大きな打撃になった。さらに、オランダ独立を支援したイギリスを攻l盤するため、スペインは1588年に無敵艦隊(アルマダ)をおくったが、イギリス海軍に敗れて制海権を失うきっかけとなった。その後もスペインはオランダの奪回につとめたが、オランダはバルト海でたくわえ、さらに1602年に東インド会社を設立して東南アジアにまで貿易網を広げ,国力を強めて, 1609年の休戦条約で独立を事実上勝ちとった(オランタ独立戦争)。オランダのアムステルダムは,フランドルのアントウェルペン(アントワープ)にかわって国際金融の中心となり, 17世紀前半にオランダは学芸も盛んな全盛期を迎えた。

これらの記載から読めることは、貿易や金融などの国際通商に関わる経済活動の盛んであることが、この時代では、勢力の強大さを支える源であったということです。 
全体としては③の記載にあるように、「ヨーロッパは凶作・不況・疫病・人口の停滞などの現象にみまわれた。17世紀半ばは,経済・社会・政治のすべての領域におよぶ,全ヨーロッパ的規模の危機の時代となった」のですから、地域で人口が多いことはその地域の負荷が大きいことになっている可能性もあります。

高校の教科書を離れてしまいますが、この下のサイトには、次のような記載もあります。
https://bunshun.jp/articles/-/3068?page=2
バルト海貿易の重要性が高まったのは、十六世紀後半から十七世前半、ヨーロッパ全土で食糧危機がおこった時だった。ヨーロッパ最大の穀倉地帯はバルト海地方、とくにポーランドであった。オランダ商人は、オランダの船でポーランドの穀物をアムステルダムまで輸送し、そこからヨーロッパ各地に輸送した。北方の木材も造船などの重要な資源だった。それによって大規模な商船隊を維持することも可能となった。
 この当時、ヨーロッパ全体の船舶のうち、二分の一ほどがオランダ船だったともいわれている。オランダの強みは、その商品がどこで作られようと、ヨーロッパでの輸送・通商・決済に伴う金融などをオランダが握り、そこから利益を得るシステムを確立したことにある。そして、価格決定においても力を行使することができた。ヘゲモニー国家たるゆえんである。
 オランダは、同時代のプロイセンやフランスのように強大な軍隊を保持していたわけではなかった。しかし、当時のアムステルダムは武器貿易の中心でもあった。したがって各国の軍事情報が商人経由で集まってくることになり、安全保障の面での大きな強みとすることができた。
 またオランダが繁栄したのは、ヨーロッパ内部では、非常に自由な経済体制をとっていたため、さまざまな宗派に属する商人が自由に入国できたからである。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
最後の9段のご説明に納得しました。
誤解に目をつむり、私が理解した範囲に書きます
オランダは、国内的には、宗教的にも社会的にも自由で締め付けが少なかったようですね。国際的には、フランスやプロシャ、イギリスも強力でなく、スペインも衰退に向かってきていた。オランダは、国際的に、この列強の隙間をうまく泳ぐことができたのですね。このおかげで、アントワープやアムステルダムが自由な港として生き、富を集積することができたのですね。

お礼日時:2022/01/06 09:30

国土が狭く、低地ばかりで農業もままならないので、海外に出て商売や交易をする以外に発展しようがなかったのでしょうね。


「ピンチはチャンス」というやつです。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<「ピンチはチャンス」>ですね。
逆境だからこそ…と踏ん張ったのですね。

お礼日時:2022/01/05 18:19

どの国家とも気を使わないといけないくらい


影響力ある王家が統治し海上貿易でウハウハだたからです。
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この回答へのお礼

ノーコメント

お礼日時:2022/01/06 09:30

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