
1. ◆ 神――神という神――は 概念であるに過ぎないではないか?
2. そのとおり。概念であるよりほかに 実証され得ない。
3. 実証され得るかされ得ないか それが 人間には分からない。能力によって決められない。決められないような能力しか持ち合わせていない。
4. ◆ なら どうでもいいではないか?
5. そうはならない。人間に ものごとを認識するだけではなく思考能力のあるかぎり 概念は 社会生活にとって欠かせない。
5-1. 哲学の問題だ。
6. 言いかえよう。人間に――そのいとなみとしてのコナトスに―― ものごとを認識するだけではなく その概念を用いて筋道立てた思考をおこないこれにもとづき自然や世界を加工編集する作業をともなうかぎり 概念は おろそかに成し得ない。
7. ◆ だがそれは モノとして実在する場合か またコトとして――モノのウゴキに対応するかたちで――認識された概念だけの話ではないか?
8. たぶんそれは 合理性の問題として問うているはずだ。経験合理性が どこまで有効なのか? として。
9. つまり 実証しうるかどうか分からない概念については 不合理でなくても 論理の飛躍をともなって非合理になる。したがって――[3]の問題だが―― 経験合理性でその思考内容が妥当かどうかを判定し得ない。なら その推論は あやしい。・・・こういうことを問うているものと思われる。
10. ◆ まあ そうだ。
11. ところが ここで おっとどっこいとなる。推論があやしいことと 経験合理性に照らして有効でないこととは 別だ。
12. ◆ しかし どうやって 判定できない命題をあやつることが 有効になるのか?
13. 神すなわち絶対性 だからである。
14. ◆ ん?
15. 思考内容が経験合理性に照らして妥当だと判断したとき その合理性ないし妥当性はすべて ほかの判断との比較対照によってのみ成り立つ相対性の問題だからである。
16. この相対性の問題――言いかえると われわれが生きる経験世界――は 神を前提にしていなければ それこそあやうい。となるゆえ。出汁なんだ。隠し味なんだ。
15. ◆ ・・・(みなさんそれぞれのお考えを どうぞ!)
A 回答 (3件)
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No.2
- 回答日時:
例えばペットショップでペットを買う
買ったら飼うので餌を与えますね、
そう言う事です。
金を掛けて自分の物になったのに
死なせるのはバツが悪い、世間体的に自分の評価が落ちるので餌を与え続ける。それだけの家庭もあるのです。
やっと自分で歩けるようになった幼子に神なんて概念もなく成長する課程知識を得ていく課程で各種宗教があって、それぞれそれらの信者が信奉する実態の無い神が居るらしい。その程度の認識ですね。
即ち、実態が無いならば、どこかの宗教の信者となり信奉しない限り自分には神は存在しないという事でしょう。
量子学的には存在が確認出来なければ存在を確定できません。勿論存在する確率もその場合50%有るのですが。全ての宗教で実際に神に会う人が伝説の中にしか居ない為フィクションで有る可能性を踏まえると
存在する確率は更に下がり存在する実例も記録も無い以上神が存在しない事はほぼ確定してしまうのです。
つまり宗教に入ってない人間には、信じる対象そのものが無く、概念ですら無くなるのです。
逆に悪や悪意はあらゆる人間から感じ取る事が出来、
行動も伴う悪意で有れば概念を超えた確定事項です。
故に人々は簡単に悪意に触れる事が出来る世界で生きる上で自我を慰めるために存在しない救いに祈るようになり祈りの先に自分を悪意から救える存在を欲した。
勿論そのような存在は無いので、神とは「祈り」と言う以上の結論の域を出る事はありませんでした。
人間の感情の一部と言い換えても良いかも知れませんね。
★ 即ち、実態が無いならば、どこかの宗教の信者となり信奉しない限り自分には神は存在しないという事でしょう。
☆ というふうに 《実態がない(感性による把握ができるような実在がない)》とか 《宗教を信奉することは じつは実態がないことだ》とかを 妥当な判断だと互いに分かり合えるのは 絶対性なる神のもとでという前提に立っているのです。よ。
相対性の世界の中でながら 人びとそれぞれの命題(判断・考え)を見比べて どちらが妥当かをさらに判断するのは――それが 相対的な妥当性の違いに過ぎないながら―― 神を前提にしているからでしょう。ただの概念に過ぎないものながら前提になっているわけです。
もし神を想定していないなら もろもろの思考内容を比較対照させても ただ顔が違うといった程度の差異しか見出せません。妥当性といった考え方すら 生まれません。
(顔の違いにしても 人間は 美醜を判定する癖があります。それは 神に匹敵する真理ないし美というやはり絶対概念がある〔と想定されている〕からです)。
★ つまり宗教に入ってない人間には、信じる対象そのものが無く、概念ですら無くなるのです。
☆ ですから 標題のごとく 概念による説明をしています。その定義が 概念なんです。
★ 逆に悪や悪意はあらゆる人間から感じ取る事が出来、
行動も伴う悪意で有れば概念を超えた確定事項です。
☆ それは 二つの部分に分かれます。
悪意と呼ぶにしろ何にしろ何らかの感情や思いの指向性(ベクトル)が感じられたら それを実在と呼びます。
もうひとつは その感性的実在が では どう概念として定義されるか? これは 一義的に決まっているわけではありません。
いま《悪や悪意》と呼んだものは あくまであなたの主観です。ひょっとして善だと言う人がいるかも知れない。あるいは どちらとも規定しない無記だとよぶ場合もあるでしょう。
そういう問題です。
★ ・・・自我を慰めるために存在しない救いに祈る
☆ 《概念として規定されたもの》なら 一概に《存在しない》とは断定できないのです。存在するとも論証し得ませんが。
《神はいるとも いないとも どちらとも人知によっては決められない何か》なんです。その定義が つねにどこまでも有効を保ちます。
No.1
- 回答日時:
物心つく以前生まれて自分で歩けるようになった時から
自分以外を信じず自分の事は自分で全て解決するように努力と我慢と知識の蓄積で生きてきた私にとって見れば、神なんて存在しないという事を実感してきたのですよ。
でも悪魔はいくらでも居てそれが全て人間だったのです。
ご回答をありがとうございます。
けれども 自給自足ではないでしょう。
世の中 分業しその組織として協業しています。
社会という生活共同については 認識されているかと思います。
さて それでも自己の人間としてのチカラで生きている・・・というわけですね。
そのまま受け容れましょう。そして 問題は:
★ 神なんて存在しないという事を実感してきた
☆ という感想ふうだが ひとつの命題になっている考えについてだと思います。
議論を端折りますが そのとき 《それでは その〈神〉というものをそれまでにおいてどう捉えていたのか?》に話は移るはずです。
察するに 《悪魔ではないところの何か》あるいは《善意やその努力は むくいられるというそのおそらく推進力であるもの》だったでしょうか。
*
ただしここでの問題は すでに前提として《神は 概念ではある》を設定したあとの議論です。
それについては どうお考えですか?
*
ふたつに分かれましたが もしさらにお考えがありましたら お聞かせください。すでに述べた趣旨説明について批判の目をも持って 考え続けて行きます。
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16. ・・・この事項として №2のお礼欄がよくつながると思いますので 趣旨説明欄のつづきとして参照ねがいます。
たとえば:
相対性の世界の中でながら 人びとそれぞれの命題(判断・考え)を見比べて どちらが妥当かをさらに判断するのは――それが 相対的な妥当性の違いに過ぎないながら―― 神を前提にしているからでしょう。ただの概念に過ぎないものながら前提になっているわけです。
もし神を想定していないなら もろもろの思考内容を比較対照させても ただ顔が違うといった程度の差異しか見出せません。妥当性といった考え方すら 生まれません。
(顔の違いにしても 人間は 美醜を判定する癖があります。それは 神に匹敵する真理ないし美というやはり絶対概念がある〔と想定されている〕からです)。
・・・