アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

司馬遼太郎が、「高野山管見」の中で、空海について次のように書いています。

空海の生涯は、その思想が卓越した論理的完璧であり、結晶のように簡勁で無駄がなく、端正でありすぎる。
以下引用します。
<ふつう、人間における流れて意味をなさない部分は、人間的であるとして人を安らがせる。また近代文学の対象にも成りうるのだが、かれにあってはその部分をみつけることが容易でない。> 
 (注 かれとは空海のことです。)

質問は、近代以前の文学の対象は、何だったのでしょうか?

A 回答 (2件)

私は本も読まず知識も浅いですが(じゃあ回答するなって話だけど)、近代より前は韻律の美しさや神仙の境地や故事逸話の収集なども、文学の主題だったようです。


一方、近代以降では例えば田山花袋の『蒲団』、誰にも言えないような中年男のみじめな欲望、そんなものが、いやそれこそが文学の対象に成りうるのです。

暫(しばら)くして立上って襖を明けてみた。大きな柳行李が三箇細引で送るばかりに絡(から)げてあって、その向うに、芳子が常に用いていた蒲団(ふとん)――萌黄唐草の敷蒲団と、線の厚く入った同じ模様の夜着とが重ねられてあった。時雄はそれを引出した。女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。夜着の襟の天鵞絨(びろうど)の際立って汚れているのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。
 性慾と悲哀と絶望とが忽(たちま)ち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣いた。

こういうくだりは、近代より前でも探せば出てくるでしょうが、脇役端役であって文学の主題ではなかったでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。
<近代より前は韻律の美しさや神仙の境地や故事逸話の収集なども、文学の主題だった〉のですね。
対比して近代では、たとえば<誰にも言えないような中年男のみじめな欲望>などが主題に変化したのですね(頽落したのか)。漱石も、昔の人から見たらうじうじとした主人公の心の動きを作品にしているのでしすね。

お礼日時:2022/07/30 15:53

私もあまり本を読まない人の分類に入ると思うのですが



その引用にある{「近代文学の対象」に成りうる}が何を意味しているのかが分からないです。 「文学」と「近代文学」に入る/入らない。「対象になる/ならない」も意味不明です。 源氏物語など色恋、枕草子など機知、平家物語など時代社会の推移、浦島など架空仮想、方丈記など日記随筆、和歌俳句集、多くの滑稽もの、、、、 いろいろあるし、社会や周辺の常識と個人の嗜好や状況との軋轢のようなものを取り上げて対象にしているのでも、平安時代からあるでしょう。 貧窮をテーマに取り上げているものや、差別やイジメを取り上げているものもあります。 
なんとなく、言文一致という表現方法の大きな変革が明治にあったということは習った記憶がありますが、どのようなスタイルで文学/文芸の域に仕上げるのかということを別にすれば、出世競争、落後、栄華、傲慢、負け側の悲惨、病弱、個人と社会、なんだって、テーマにしていたのではないかと思います。

もちろん、機関車、電車、工場、電気、パン、サラダ、国会、議員選挙、下水道などの、作品作成時に存在しない言葉は対象にできないことは明らかです。

「人間における流れて意味をなさない部分」とはなんでしょうか。
大海の磯もとどろに寄する波 われてくだけてさけて散るかも(金槐和歌集)
荒海や佐渡に横とう天の川 (芭蕉)
春の海 終日のたり のたりかな (蕪村)
誰もいない海  (https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%B0%E3%82%82 …

司馬遼太郎という方が才覚豊かであることは確かで、群を抜いているのだと思いますが、書いていることの断片を見ると、しっちゃかめっちゃかで何いてるのか、本人が分かってないか、その時々の気分と流れで思いつきをを書いているだけではないかと思うことが多々です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
<その時々の気分と流れで思いつきをを書いているだけではないか>ですね。
今回は、対比する空海に比重がかかり、司馬の説明は生煮えだったかもしれませんね。

お礼日時:2022/07/31 13:34

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!