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議論とはお互いの意見を闘わせる事ですが、多くにおいて、どちらかの意見が正しく、あるいは間違っていることになります。
これは議論における必然的な結末でありますね。
ただし、双方の意見の良い点を並べる、妥協による中間値を結論とする考えもあります。
しかしながら、こうした結末を迎える議論とは、目的が一致した上で論点が実現に向かう手順の不一致に留まっている場合においてのみ可能である。
価値観についての議論であれば、どちらかが正しく、どちらかが間違っていることになる。
例えば、妊娠中絶の是非を問う時に双方の妥協による結論などあり得ません。

議論に勝っても得るものは何もない、雰囲気が悪くなるだけだとの主張がよく見られます。

しかし、これは言葉のすり替え、詭弁であります。
議論とはお互いの意見の正否を確かめる事であって、勝ち負け云々ではないですね。

そもそも、雰囲気最優先では議論は不可能でしょうと。
空気を読んで孤立を何よりも恐れます。
このような悪しき精神性は戦前の日本人の姿勢と変わるところがない。戦争に反対なら反対と、特攻に飛び立つのが嫌なら嫌だと言えば良いです。

それを言わず、雰囲気、空気に自縛されていたために、多くの若者が特攻で死に、二度の原爆が投下される事となりました。
軍部が悪いだって、周りの眼と世間体ばかり気にして沈黙を守り続けたお前が悪いのだ。
水俣病の惨禍においてもそうでした。殆どの水俣市民は仲間外れを恐れて黙っていた。これを怯懦と呼ばずして何を怯懦と呼べるでしょうか。

人はある意見を支持するにおいて、その意見が正しいから支持するわけではない事が多いです。

多数意見だから、強い人の意見だから、この意見であれば責任が発生しないから、その人の性格、生き方によって支持表明をします。
あるいは沈黙を守ります。都合の悪い意見に対しては黙り込んでしまいます。多くの人は虐め自殺を隠ぺいする学校、教育委員会を激しく非難する。しかしながら、雰囲気、空気を読む人は立場が変わると批判していた連中と同様に保身に走るでしょう。
周りの意見に迎合することで頭が
一杯の人の中身は連中と同じなのです。

議論は建設的でなくてはならないです。
これは議論を回避するための勝手な思い込みですね。企業における販売戦略についての議論であればそうでしょうかと。
しかし、それ以外の議論においては建設的でなくてもかまわないですし、議論が建設的なものとなるかは議論をしてみないと分からないです。
そもそも建設的ではないものも含めて議論です。

同調圧力、それは議論を回避することから生まれます。
議論に勝っても得るものは何もないと言う人は同調圧力そのものだと誹られても仕方がない。

民主主義とは多様性を認め、批判を甘受する事です。
批判をすべきではないとの考えは民主主義の否定です。
議論の根幹をなすものは批判であります。
批判が許されない議論は議論ではない。
ただし、批判するにおいては根拠を明確にしなくてはならない。それだけであります。

正義症候群は悪いと言う。
しかし、正義症候群にかかる人は考える事を放棄し、多数に迎合することを金科玉条とする姿勢の産物です。
自身の意見をしっかりと持つことが正義症候群から身を守ることに繋がります。
また、傍観者は正義症候群より悪いです。戦前の日本、ナチスドイツも国民の多くは傍観者だったのです。

議論について書いて来ましたが、重要なことは、自ら考える事、都合の悪い意見にも答える事である事は論を待たないです。

如何思われますか?

A 回答 (21件中1~10件)

おおむね賛成です。

が 敢えて粗さがしに徹して考えてみます。


議論とは 互いに自己の見解を述べあうことですが:
★ 重要なことは、自ら考える事、都合の悪い意見にも答える事である事は論を待たないです。

☆ その心は みづから考えるとき いわゆる自己批判を――つねに――おこなっていることだと思います。

もし勝ち負けがあるとしたなら すでにこの自己の見解についての批判において決まるものと思われます。

その批判は 議論として別の人の考えをまじえるときには その相手からも得ることが出来ます。それはすでに 自己みづからの見解として受け容れていることを意味します。

検閲というのは 一般に権力を笠に着ておこなうものでありそれは 思想・表現の自由を侵すものですが 言ってみれば議論ないし意見の表明にあたっては すでに批判という意味での自己検閲を経るというのが ふつうなのだと考えられます。







★ 価値観についての議論であれば、どちらかが正しく、どちらかが間違っていることになる。
☆ たしかに表明する見解については 内容が二段階に分かれます。

はじめに 価値自由な観点からの《事実認識》。

ついで その――のぞむらくは 互いに共通だと見なして共有した――認識事実にもとづき価値観をまじえておこなう実践の議論。

そうして いづれの場合でも けっきょくそれぞれ自己批判を絶えず遂行しつづけていることが 肝心なのだと見られます。

勝ち負けは 基本として そのような自己批判におけるものごとの推論にかんしてのものです。

結論そのものよりも そこに到る推論の内容とそれらをつらねる過程が 問題なのだと。

実際に選択される結論となると 最終的には高度に政治的な(利害関係者のあいだの調整としての)決断によっている場合が しばしばです。







★ 同調圧力、それは議論を回避することから生まれます。
★ 空気を読んで孤立を何よりも恐れます。
このような悪しき精神性は戦前の日本人の姿勢と変わるところがない。戦争に反対なら反対と、特攻に飛び立つのが嫌なら嫌だと言えば良いです。

☆ いや さすが意見を言わない日本人も バカではない。

天皇の赤子であると言われたならそれは おとぎ話だと分かっていた。神風特攻隊が 自己の考えを停止しその存在をも亡きものにする無謀な・実際には不法行為だと分かっていた。

最期のときに 天皇陛下万歳!と叫ぶのは 母上! 先立つ不孝をゆるされよ!と内心で言っている。


現代でも会社の方針や上司の命令に従うようになるのは 必ずしもボーッとして生きているからではなく 抵抗をつづけてけっきょく家族が路頭に迷うことになるのを回避したいがためである。

カリスマ社長は天皇であり 天皇は現人神であるといったことを信じたわけではなく 信じたフリをしていただけである。


たしかにそうであっても 実際の生活現実においては 言わばアマテラス予備軍症候群に罹患した状態であったのでしょうが。

アマアガリ(=アマクダリの反対)・シンドロームに罹ったもっぱらの公民(=アマテラス)に迎合する結果になった。

よしあしを抜きにして 鶴の一声が出たらその体制を 結果としてアース役となって支えることとなった。

――こういった反省をふくむ一つの議論があると思います。






《♪ アース役は つらいよ ♪》といったセリフを得ることが 一つの結論に――現代・現在では――なるように考えます。実践編としてです。
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議論で負けて恨みをかうこともありますよね。


根に持たれてその人に殺されるとしたら何のための議論となりますよね。
正論だからより恨みが深くなることもある。
このいうようなことも考えなくては。
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議論は意見のすり合わせをする場だと思います。

どちらか一方の意見に決めるのではありません(結果的にそうなることはありますが)。
妥協をするのではなく、お互いに自分の考えを出し尽くして、それをもとに最適解を探ることです。

それが理想の形だと思うのですが、人間のやることですから「こうすべき」とはなかなかいきません。
感情が入って不毛な喧嘩に陥ったりもするし、空気を読んで主張を決めたりするのが人間です。
また、知識や認識のレベルにも差があるのが現実です。

ですから、感情的にならないような議論のルールをきちんと決めたり、事前に前提となる知識を参加者で共有する時間を作ったりすることが大切で、それなしに議論に突入すると大抵うまくいきません。

ぶっつけ本番で議論を行うのではなく、建設的に議事進行できるように事前準備が大切だと思います。

あとは、これは意見が分かれるところですが、議論というものに不適格な人間というのも現実として存在しますので、参加者を選別するのも重要なことかと思います。
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議論って、そもそも試合やゲームちゃうから(呆)

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基本はまぁこのぐらいかなぁという、妥協案をみんなで考えることじゃないかと思います。

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そんな事を自由の無い中国で、同じ事を言ってみて下さい。



言えないでしょう? 語った瞬間に逮捕ですわ・・

それに民主主義を日本人が作ったかのように言うのは良く無いですよ。
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どちらかが正しくどちらかが誤りであるのは


「科学」の問題のみです。

「太陽が西から昇る」と言うのは誤りです。
誤りだとチェックできることを反証可能性と言います。故に、これは科学的な問題なのです。

「私はこの女性もあの女性も両方愛しています」
「牛を食べるのは間違っています」

これは反証可能性はありません。
宗教や個人の価値観や様々な要素に左右されます。

仮に科学が進歩して、
牛と魚の苦痛の比較や、
一夫多妻における妻たちの幸福度や、
一夫一婦社会における浮気された妻たちの幸福度を計測できても、
必ずしも普遍的な正しさや基準は存在しません。
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世の中にはいろんな考えや情報にあふれています。


そしてそのいろんな「コンセプト」は今や瞬時に拡散する世の中です。
議論の前提になる事実の真偽すら難しい状況で、いわばわれわれの日常はデマの渦中です。
自ら考えろということを突き詰めていえば、「万人よ。哲学者たれ」ということになりますが、それもまた非現実的な願いです。
よって、人から聞いたことを自分なりに処理して自分の考え方、常識、正義を作り上げるわけですから、もしも自分の周りにフェイクニュースしか存在しなければ、必然的にその人の世界は「真実」とは縁のない世界となるでしょう。
世界と、自分の認識に疑問を持った人たちの精神世界を描いたマトリックスという映画がヒットしました。それから見ると私の考えとは違って、人はもしかすると生まれながらの哲学者かもしれません。
議論が会話の域を超えて「対話」に昇華するなかでより良い答えが出せるのであれば、それはすなわち価値交換の末の価値創造を意味します。

突然ですが問題です。答えは次のうちいずれか。

1) A
2) B
3) そのいずれでもない

の3)ということです。

そのような対話的な議論でなければ、往々にしてそのAという主張を「誰がしているか」ということで正解は流されていくものです。
クイズミリオネアのテレフォン、オーディエンス、50/50を思い出してください。
人は真実がわからない時に、人に頼るものなのです。
哲学者に突然なれと言われてもなれないのです。

その主張が「真理」かどうかということは、大衆の中ではあまり意味を持ちません。
私は、「ごみの有料化」のテーマに対して反対意見も賛成意見ででもどちらでも理路整然と主張することができます。
それはもちろん「真理」とは程遠いですよね。
NHKのニュースで言っていたこと、東スポで言っていたこと、
「何」をいっているかよりも「誰」が言っているかのほうがひとは重要視する傾向にあるものです。

私は概念的に「烏合の衆になるな!」と叫ぶことにあまり意味はないと思っています。
では、カリスマのような存在になって真理を語ればいいのか?
キリストのように?浅原ショウコウのように?
それとも、しずかに真理を書物に暗号のように残せばいいのか?
スピノザのエチカのように?

しらんがな。いまは夏休みだ!さあ、やっと夜が明けた!
バイクに乗って山に出よう!
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理論的な議論なら正解を求めるべきですが 複雑な問題の場合



どっちが悪いと言い切れないと思います

どっちかと言えば白の場合は、答えは出てこないでしょう

多数決になります。
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兎に角自分が生き長らえて 意識を保つことです



意識を保った上で歌声広場やゴーゴー喫茶で楽しむことです

カラオケやダンスステージで楽しむことです。

其処に勝ち負けはない。

議論において勝ち負けがあるとするとどちらかが負けてやったのだと思う

生きるか死ぬかでも 負けてしまう人 負けて上げる人がいます。

真理を議論するなら 存在性理論を一分参考にされたし

真理バンザイ。

真理に従わないと何事叶わないのです。

現実は真理の塊です。現実バンザイとは言いにくい・・・
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