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1. 関係の絶対性について なぜひとは思いを寄せてみないのだろうか?

2. 構造主義とやらが この《関係性》の一辺倒だったので その後は
そこから軌道修正をしたのか? あるいは さらにそれゆえ羹に懲りてな
ますを吹くというように 関係性を捨てたのであろうか?


3. 《孤独》と言えば 人と人とのあいだの孤独関係であるに決まって
いるのではないか。関係なのだ。


4. あるいは 人びとは 対話をしようとしない。避ける。自由な批判
こそが 社会的動物であることの明かしである関係性の真骨頂であるとい
うのに ひとは《主張をしてはいけない》と思いこまされている。議論を
するのは 喧嘩を吹っかけることにひとしいと見なす神経回路ができあが
っている。
――関係をきづくことを毛嫌いしている。むしろ中途半端な内容であれば 
主張してもよいと思われている。


5. あるいは そうかと思うと 《騙されていい場合とわるい場合とが
ある。ゴータマ・ブッダの 中身の説明のないさとりには だまされてよ
いのだ》というかたちの関係性を発揮しようとする。
――なぜ その場合は騙されてよいのか? 自分で自分のさとりには中身
がないと言っているかららしい(大化城の話)。・・・

6. きづなという言葉がむなしくひびく。
それは人びとが 社会に幻滅をあじわったからか。人間不信とやらに落ち
入ったのか。

7. あやまつならばわれありとは思わないのだろうか。
そのくせ 他人(ひと)にあたらしいことを示されたなら おまえにおそ
わりたくないという点では プライドが高い。

8. 他人を介して自己におそわるのでないなら あたらしい情報は得ら
れないことは分かり切っているのに。先駈けた者が目の前にいるのが い
やなのか。

9. だから 天上天下唯我独尊と生まれたときに言っておけばよいとで
も思ったのか。
その中身は 説明しなくともよいとなっているし じっさいスッカラカン
で何もない。それでもよいと胸を張る自尊心だけは高いのか。

10. どこかおかしかないか。 

という問いです。思いっきり自由なご見解をどうぞ。

質問者からの補足コメント

  • 《真無限》÷2=《真無限》

    という表式にしてもよかったですね。

    No.9の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/14 10:47

A 回答 (11件中1~10件)

真無限ってなに?

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

相対・・・・・絶対
経験事象・・・非経験
有限・・・・・無限
可変性・・・・不可変性
可知(既知・未知)&不可知・・・・非知

といったところでしょうか。

二で割っても 半分づつにならず 三で割っても三分の一にはならない。
もとの無限のままです。

とは言うものの・つまり そのように説明はされ得るものの ほんとう
には 真無限がどういうもの・ことであるのかは わからないナゾだと
思います。

いったいどういう内容であるのか。それが知り得るか知り得ないかが
人間には知り得ない。そういうナゾではないでしょうか。






真無限は 一般に言う神のことです。

神とわれわれ一人ひとりの人間との関係は 神が絶対であるかぎりで
絶対的なものです。

言いかえると その絶対は 人間にはナゾなのですから 絶対的な関係
というのは どういうふうに関係しているかが 人間には分からないわ
けです。(分かるか分からないかが 分からない)。

つまり 神などは無いと言って屁の河童扱いすることもできるし 神は
有ると捉えて それを心に受け容れることも(つまり そこで 信じる
という関係になることも) 自由に 出来ます。

この有神論と無神論との互いの同等性や だから人はいづれかを自由に
選べるということ これらは 《絶対ないし真無限であること》が保証
しています。

無限ないし絶対だということは 相対的な存在である人間に対してそこ
までの自由度をゆるしています。

このような《神とわれとのタテの関係》が――想定じょうですが―― 
現実であるかぎりで そのような《神との関係にあるわれ》どうしのヨ
コの関係は 間接的にやはり絶対的であると考えられます。

ただし 直接的なかたちで・つねにこういう事象をつうじて人間どうし
の関係が絶対的だということは やはり分かりません。

おれは分かったとヒラメキを得るときもあるかも知れないのですが 最
終的に誰もが納得するかたちで 《関係の絶対性》が分かったというわ
けには行かないのだとも思われます。

お礼日時:2017/04/13 22:10

二で割ることができるってどうしてわかるの?

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

どうして分かるって。仮りに もし真無限が数値であるとしたら
加減乗除の計算をしてみるという恰好です。

そしてたとえば 二で割ったとした場合 けれどもその答えは
半分づつに分かれるということにはならない。という意味です。

そういうふうに説明するというものです。




あるいは 経験事象では モノやコトが有るか無いかが問題にな
ります。

けれども では 無限については どうであるか? と問うなら 
当然のごとく無限は 経験的に言うところの《有る無し》を超え
ている・・・ということになります。

さらにあるいは 経験事象は 一般に因果関係として成り立って
います。けれども 無限ないし絶対は 端的に言って この因果
関係から自由なわけです。

そう想定しているということでもあります。

経験世界を超えている――非経験の場である――というのが 真
無限であり神のことです。

どうですかねぇ。

お礼日時:2017/04/13 22:55

どうして真無限が数値であると仮定できるの?

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ものごとは 一般に《かたちのあるもの》であったり したがって《数える
ことのできるもの》であったりします。

その例にならって 仮定してみるということです。


その結果として 一般の経験的なものごととは違うものだと分かります。ま
たそういう想定をしているということでもあります。

定義しようと思って 演繹や帰納の方法によるのではなく 仮説法というか
たちを採ります。

仮りに想定して どこまで経験合理性で考えて行くことができるか。ものは
試しにこれを問い求めて行きます。

お礼日時:2017/04/13 23:26

どうしてその例にならうことができるってわかるの?

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

足したり引いたり 掛けたり割ったりするという扱い方を仮りにして
みるということです。

一を足しても 元の無限のままであり 一を引いても同じくでありと
いったかたちになると分かるはずです。

増える増えないや減る減らないとは かかわりがないのが 無限であ
ると。

あるいは 相対的であるものは 互いに比べて 数値やかたちで多い
少ないがあったり 大きい小さいがあったりします。そういった比べ
て定めるという扱い方が 通じないもの これが 真無限です。

お礼日時:2017/04/14 00:02

足したり引いたり 掛けたり割ったりするという扱い方がどうしてできるってわかるの?

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

簡便法で表わすとしますと:

∞ + 1 = ∞
∞ -1= ∞
∞ x 2 = ∞
∞ ÷ 2= ∞

といったかたちです。このように試みてみることはできるはずです。

お礼日時:2017/04/14 01:13

∞を÷2できるのはどうしてなの?

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

たとえば ひとつの饅頭を二人で食べようとするとき たいていは
これをふたつに割ります。

何でもそうですね。仮りにそうではなく一方が独り占めするという
ときにも 《ひとつの物をふたりで分け合う》というコトは 考え
方として常に 成り立っています。

これと同じように 何か知らないナゾがあったという場合 このナ
ゾを 仮りにいまの考え方に倣ってふたつに分けてみようと――想
像裡において――思うわけです。

そこで あくまで仮りにですが ふつうの割り算で割ったら どう
なるかを考えてみるということです。

仮定の話として想像力の問題としてなら 真無限を割ってみようと
思いその結果を考え方として得ることは《できる》はずです。

お礼日時:2017/04/14 07:37

∞ってなに?

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この回答へのお礼

あっ 無限のことです。ご回答をありがとうございます。

真無限のつもりで記しました。




∞ は 無限大とも言いますが その場合は 相対世界において
《限りなくつづく数値》のことなどを言います。

つまり その場合は 大きくは《有限》に属します。

円周率の π が 小数点以下の値が限りなくつづくといったイメ
ージです。なぜなら その全体の数値は 3と4との間におさまり
ます。だから 全体としては 有限です。



真無限は 限りが有るか無いか それすらも人間には分からないナ
ゾです。

いえ。分かるか分からないかが 分からない。つまり ひょっとし
て 誰かには おれは 真無限が分かった・つまり神を見たと言う
場合が出て来るかも分かりません。


その人の主観〔の内面〕だけとしては 神が分かったと言うことが
あるのかも分かりません。


ただしそのことが――それを公言しても 自由ですが―― ほかの
人の主観において 同じことが起こっているかどうかは 分からな
い。

同じことが起こっていると分かったなら 神は《分かるか分からな
いかが分からないナゾ》ではなくなります。人間にこれこれだと分
かられたことになりますから。

お礼日時:2017/04/14 09:39

どうして真無限が∞であると仮定できるの?

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この回答へのお礼

あっ それはちょっと違います。ご回答をありがとうございます。

仮定するのではなく あくまで真無限を示すシルシとして この
∞ という記号をつかったというだけのことです。

つまり 数式として表わしたかったから。それだけのことですよ。

お礼日時:2017/04/14 10:03

真無限を示すシルシとして∞という記号を使うことがどうしてできるの?

この回答への補足あり
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この回答へのお礼

それは どうしてもいけない理由がない限り シルシとして何でも
と言ってよいほど 使用・利活用が 可能です。

ご回答をありがとうございます。

《むげんだい》と入力すると 《 ∞ 》も変換可能なものとして出
て来ます。似ているから 使いました。

たとえば ∽ (これは 相似を示すものですが)を使ってもいい
わけです。みなさんに その旨をおことわりしなければなりません
が。

お礼日時:2017/04/14 10:46

どうして真無限を÷できるの?

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

漠然と無限なるものを思い浮かべて いちどこれをふたつに割って
みようと思ったとします。

出来るかどうか分からないけれど こころみます。

そうしたら 推理としてでも 無限を割ったら・割っても その答
えは そのまま無限であるようだ・・・と知ることになりませんか?

そういう仮りの話です。


あるいは もっと《強引に》むしろ初めに 《二で割っても 半分
づつにはならず もともとの無限にとどまるもの》として 想定し
定義するという意味にもなります。

そういう一方的な仮説であっても じつは ふつうの思考や現実に
不都合が生じるというわけでもない。

というところに 真無限を想定してみる価値はあるのではないでし
ょうか? 使い勝手がよいようなんです。


つまりは じつは人類が昔から各言語でそれぞれ《神》と呼んでき
たものは この真無限のことだったと分かる。のではないか? と
いう議論です。

お礼日時:2017/04/14 13:08

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