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遣唐使船に興味があって、過去の質問を検証する中で、「朝日百科日本の歴史別冊 第四巻 遣唐使船-東アジアの中で(1994年1月20日発行)」という本と出合いました。

その冒頭2ページ「宝亀6年(775)6月19日遣唐使が任命された。・・・」に続く5ページに
「【渡海拒否-遣唐使の現実】遣唐使といえば、唐文化の輸入に命をかける昂然とした姿を思い描きがちであるが、これはまたいかにかけ離れていることか。しかし、佐伯今毛人のように渡海を嫌がる傾向は、決して急に現われたものではない。・・・」と、渡海を逃れようとしたのは菅原道真だけではなかったことに驚きました。

当時の高級官僚が仮病を使ってまで必死に渡海を逃れていたことがわかり、これは明治維新後の徴兵制導入時に金持ちが巧みに徴兵を逃れていた姿にダブります。

これって、どう思います?

質問者からの補足コメント

  • まず、お詫びします。
    佐伯今毛人が関わる遣唐使派遣を白村江の戦い後の最初の遣唐使派遣と勘違いしていました。そのため、お礼のコメントの一部におかしな記述があります。その前に数回派遣されていたため渡海拒否は常態化していたようです。

    回答していただいた皆様ありがとうございます。
    皆様の詳しい説明のおかげで、高級官僚が渡海拒否しても遣唐使派遣を続けなければならなかった理由がはっきりとわかりました。それは、日本が唐の属国として朝貢貿易を続けなければならなかったから、ということです。しかし、日本の歴史教科書ではこれがあいまいにされています。これこそ、サイテイなことだと思います。

      補足日時:2022/08/17 08:07
  • 回答していただいた皆様ありがとうございました。

    また、遣新羅使の存在も知り、遣唐使の北ルートから南ルートへの変更理由を単純に考えていましたが、そう単純でなかったこともわかりました。白村江の戦い以後、新羅とは国交断絶状態だと思っていましたが、そうではありませんでした。遣新羅使により、日本が唐の情勢を把握していたことが容易に想像できますし、国と国との関係で考えると、唐との外交は唐が上で日本が下であり、日本と新羅は対等な関係だったのではないかと想像できます。

      補足日時:2022/08/17 13:37

A 回答 (8件)

> 唐混乱の情報入手が唐の商人経由だと知り勉強になりました。



道真の文書に「僧中瓘が唐商人の王訥に託しておくった手紙に記されている唐国内の混乱」のことが書いてあるということは、「日本側が唐の状況を知る方法が唐の商人経由だ」ということを意味するものではないです。道真の記載は890年代のものです。 道真は渤海の担当で公式の場で唐の情報も得ています。さらに以前に遣唐使に随行した円仁(後に天台座主になる)の報告書にも、「(840年)二月二七日、早朝に出発する。薑車村の宋日成の家に至り、昼食のために足を止めた。醤・酢・塩・菜を施してくれるよう頼むが、一つも施しはなく、湯も飯も食べることができなかった。西北に向かい、海沿いに行くこと七里、牟平県に至った。県城の東半里のところに、虞山寺があった。未の刻に寺に入り宿をとることにした。〔寺には〕ただ、三綱と典座と直歳の五人だけで、ほかに僧侶はいない。仏殿は壊れている。僧坊には俗人が住んでおり、俗人の家となってしまっている。」(入唐求法巡礼行記)とあるように、唐の衰微と唐に行っても得るものが少ないことの報告があります。円仁は唐の武帝の仏教弾圧で在唐中に還俗させられ、日本への帰国は新羅人商人の船に乗ってという事態です。
さらに以前の805年の遣唐使が収集した唐の情報を詳しく記した文書「唐消息」には、次の三点がまとめられているのだそうです。
①順宗の諄・年齢・子女の数といった、皇帝その人についての情報
②徳宗の死去後に溜青道節度使(山東半島の節度使)の李師古が隣接する鄭州に攻め入ったこと、済州節度使呉少誠に不穏な動きがあることなど唐国内の政治状況
③唐-吐蕃関係の緊張
もっと前の758年には、日本は、渤海から帰国した使者から安禄山の乱の情報をえて、高句麗系の渡来人高元度を渤海使の船で渤海経由で入唐させ、唐の現状調査をさせています。

要するに、たまたま唐の商人の情報を9世紀後半に得たのではなく、唐の状況について8世紀半ばから強い懸念をもって調査していて、関係者にとっては唐がヤバイ状況にあることは常識だったようです。 でも、王朝のトップはそうした個別情報には疎くて、唐の偉大さと唐から得るものに目がむいていて、実務官僚としては、かかる費用と人材のこと、得られるものを考えると、遣唐使は止める方が良いんですと説得するのが大変だったというだけのことでしょう。

> 当時の造船技術&航海技術で東シナ海ルートはあり得ないと思います。

https://www.hira-shin.jp/shimanoyakata/index.php …
次のように書かれています。
『続日本後記』承和元年(834)2月2日の条には、新羅人たちが遠く滄波を渡って太宰府に来ているが、百姓たちが弓で射て怪我を負わせたので手当をしたという記事がある。何故弓で射られたのかについては記されていないが、同承和2年(835)3月14日の条には、壱岐から近年新羅商人の来航が絶えないので、島の傜人330人を武装して14箇所の要害に詰めさせたという記事がある。このように各所に兵を分散配置するのは明らかに海賊の急襲を警戒するためで、新羅船が海賊行為も行っていた事が推測されるが、実際に『三代実録』貞観11年(869)6月15日の条には、5月22日に新羅海賊が2艘の船に乗って博多津に来て、豊前国の年貢の絹綿を載せた船を襲撃して逃走したという記事がある。ただ当然の事だが全ての新羅船が海賊行為を働いていた訳では無く、例えば第15回遣唐使一行の送還に便宜を図ったような者達もいた。承和6年(839)に遣唐使一行が帰国する際立ち寄った山東半島の赤山浦は、新羅商人の中国における拠点だったが、彼らの活動をバックアップしたのは新羅出身で唐の武将となった張宝高(中国名・張弓福)で、赤山には張の荘園もあった。彼は朝鮮帰国後の828年頃、新羅と唐を結ぶ航路の要衝である朝鮮半島西南端の莞島に置かれた清海鎮の大使に任命された事で、新羅商人の環シナ海貿易を掌握する事となった。

新羅商人の活動を支えたのが新羅船である。『続日本後記』承和7年(840)9月15日の太宰府からの連絡には、対馬島司から、海峡を横断する海は風波が激しく、貢調や文書を運ぶ船はよく漂没するが、聞くところによると新羅船はよく風波をしのいで航海できるという事なので、新羅船6隻のうちの1隻を給わりたいと話があり許可したという話が出ており、新羅船の性能が評価されていた事が分かる。なおこの新羅船は先に述べた遣唐使使節の送還に用いたものである可能性がある。新羅船も遣唐使船のモデルとなった百済船と同じ船体構造をしていたと思われるが、第15回遣唐使の復路では遣唐使船2隻分の乗員や荷物を新羅船9隻に分乗させている事から、遣唐使船の4分の1程度の積載量で全長20㍍弱程の比較的小降りの船だったと思われ、風波をしのぐ航海をしている事から、真横風程度なら帆走可能な帆(おそらくは網代帆)を装備していたと思われる。このように遣唐使船のモデルである百済船と新羅船は構造的には近いが、帆走艤装の違いから大きな性能差が生じていたのではないかと推測する。
この蘇州船の航路は、遣唐使船の航海で言うところの北路で、承和の遣唐使の復路で新羅船が使用した航路と大凡同じである。また黄海を東に横断する際に真横の北風を受けている事や、航路上の港に頻繁に寄港している事などから、網代帆を装備していた事が推測される。さらにこの蘇州船には大勢の新羅人が乗り組んでいる事から、新羅商人の北路を利用した環シナ海通商に中国の商人や商船が相乗りする形で参入していた事が考えられる。なおこうした状況は以前からあり、『入唐求法巡礼行記』開成4年1月4日の条には、弘仁10年(819)に唐人張覚済、新羅人王請が乗った船が出羽国に漂着した出来事が紹介されている(『日本紀略』には弘仁11年の事とある)。ずっと降る時代だが、18世紀の中国船などを描いた松浦史料博物館の『唐船之図』の中に「南京船」と呼ばれる中国船(ジャンク)が登場するが、同船は網代帆を持ちながら船底は平底、船首尾は板壁(戸立)造りで、船体側面から大きな板を水中に下ろして横風や斜め前を受けた帆走時の横流れを防いだ。ヨットのセンターボードと同じ役割をするこの板は、平底船で網代帆を用いる時には必要不可欠の装置だったが、こうした形状・装備の船は「沙船」と呼ばれていた。沙船は、揚子江などの河川を航行するために平底になっていたが、南京は揚子江の中流域、蘇州も同じ揚子江の下流域のデルタ地帯にあたる事から、9世紀の蘇州船も沙船と同じ船体構造や網代帆を有していた可能性が高い。しかしさらに考えを進めると、平底で船首尾が板壁、横隔壁を多く備え、網代帆を装備した沙船の船形が中国(唐)で当初のジャンクの形態として成立し、その帆走艤装が新羅船にも導入された可能性がある。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
二点について記述していただいたと思っています。

情報入手が商人経由ではなく公式とのことでしたが、人生40年時代に古い情報を頼りにしていたのかどうか疑問に感じました。

もうひとつは、当時の船についてですが、後世の想像図しかないので、今の時代の歴史家の想像とは全く違っているのではないかと思います。

詳しい説明ありがとうございました。

お礼日時:2022/08/16 22:53

えーと


この質問は
青森に行って
キリストの墓の前で
キリスト様
あなたはどうやって
日本に無事に
たどり着けたの
と問うのと
同じ次元で
考える気分。
ごめんね。
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> 人生40年時代に古い情報を頼りにしていたのかどうか疑問に感じました。



そこらの庶民ではなく、要職に就き、当時の半島諸国との会談にもでているのです。 道真の文書に「僧中瓘が唐商人の王訥に託しておくった手紙に記されている唐国内の混乱」のことが書いてあるのですが、僧中瓘が唐商人の王訥に託しておくった手紙の基本的な内容は唐の政情は兵乱が収まり安定の方向にある(久阻兵乱、今稍安和)というものです。 道真はその前に、唐に派遣したところで得るものはないと思っていたでしょう。 だから、あえて僧中瓘が唐商人の王訥に託しておくった手紙の内容を別の趣旨に置き換えて文書を作ったのです。
下のサイトでは、茶番だとみています。 
構成 NHK 天神、菅原道真の執念 遣唐使廃止の謎
(歴史発見11 NHK歴史発見取材班 その一 p4~p43 平成六年刊)
http://ktymtskz.my.coocan.jp/C/sugawara.htm
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
小松 ⇒ 一か月ぐらい前からなんとなく遣唐使の話は出ていたと思います。  その時点では、道真はまさか自分か任命されるとは思わないけれども、それでも、いろいろな大陸の商人や渤海の人、来ては追い返されている新羅の人など周辺の人々から情報を取ったと思います。  だからこそ、思い切って考え直したらどうかという上奏文が書けたと思うのです。  道真は、それくらいの情報源はもっていたでしょう。  しかし、遣唐使中止の上奏を通すということに関しては、別の問題です。どこから出てきたかは知らないけれども、とにかく一度決まった任命をひっくり返すわけです。  私が思うに、そのときには道真と宇多帝との間にまだ強力なホットラインがあったのでしょう。  宇多帝としても、政治的な状況を考えると、ここで道真に唐へ行かれてしまっては困るという気持ちもあったでしょう。  何しろ藤原氏に対抗して親政をめざす宇多帝にとっては、道真は最も頼りになるブレインだったのです。  遣唐使任命のあとに、道真のほうから宇多帝に唐の衰退や航海が危険なことなどの情報を提供したら、「行かないでくれ、今行かれてしまったら私はどうすればいいのか」というぐらいのサインが宇多帝のほうからあったと思います。  そこで、それでは私はこういう上奏をやりますから、天皇としては、たとえば任命にサインしないでくださいとか、そういうことがいえたと思います。

嵐山 ⇒ 私はちょっと見方が違います。  じつは、この遣唐使中止の決定に至る一部始終は、最初から宇多天皇と道真が計画したものだったという感じがします。  結果は藤原氏に恨まれてしまうわけですが、宇多天皇は最初から道真を唐に送る気はなくて、任命したのではないか。  異議申し立ても予定の行動ではなかったかと思うのです。  大使というのは今の外務大臣というか、特命全権大使のような格がつくのです。  宇多天皇としては、実際には唐へ行かせずに、道真にひとつの箔をつけようとする気持ちがあった。  最も信頼のおける側近の格が上がっていくことは、宇多天皇にとっても悪い話ではない。  このことに関しては、ぼくは宇多天皇と道真の作戦勝ちという気がするんです。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

> もうひとつは、当時の船についてですが、後世の想像図しかないので、今の時代の歴史家の想像とは全く違っているのではないかと思います。

船の構造や形はそうでしかないでしょう。 他にやりようがない。

上記のNHKの記事の一部
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
それでは船の構造はどのようなものだったのか。
 遣唐使船と現代の船の構造の違いを、遣唐使船を復元した船大工の向井道年氏にうかがった。
 「古い絵や資料から推定すると、古代の船の舵は、現代の船の舵に比べて幅が広く、水面下に沈む部分の長さが短いのです。 これでは、水の抵抗を変に受けるので、舵が利かないわりには壊れやすかったでしょうね。 現在の船の舵は幅が狭くて長いので、よく利いて壊れません」
 また、推進力を生み出す帆は竹を編んだもので、現代のように布でできた帆に比べて効率よく風を受けることができなかった。
 そこで、帆を大きくするためにマストを長くしたのである。
 ところが、長くなればなるほどマストは折れやすくなってしまう。壊れやすい舵に折れやすいマスト。遣唐使船の構造はとてももろいものだったのである。
復元された遣唐使船
 海図を見ても、遣唐使の航海がいかに危険だったかがわかる。
 遣唐便船のコースは、はじめは朝鮮半島沿岸を通る北路が使われていたが、朝鮮半島との外交関係が悪化したため、九州南端から島づたいに渡る南島路に切り替えられ、八世紀後半に入ると、東シナ海を横断する南路が使われるようになった。
 南路は北路と違い、陸の見えない海上を数日間から数十日間も航海することになり、危険がともなううえに、方向も定めにくかった。
 しかも南路には思わぬ落とし穴があったのである。
 九州からまっすぐ西に進むと揚子江の北側にたどり着くが、そのあたりの海底は遠浅で、岸から100キロ離れても深さが10メートルにも満たないところがある。
 南路を通ってきた遣唐使船は、この海域で座礁することもしばしばあったと考えられる。
 現に、九世紀前半に唐に渡った円仁 の記録にも、まだ陸が見えないうちに海の色が変わり、船の底が海底に当たってしまうという記述が残されている。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

このサイトに 事実、海を(南路)で渡ったという事実が書かれています。
https://www.hira-shin.jp/shimanoyakata/index.php …
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
その後の大宝2年(702)年に筑紫を発した遣唐使船も楚州塩城県に到着したとあるので、朝鮮発進かどうかは不明だが東シナ海を横断する南路を用いたものと思われる。
天平勝宝4年(752)発の遣唐使船については『万葉集』に歌が残っている。例えば遣唐使船については「そらみつ大和の国は 水の上は地行くごとく 船の上は床に居るごと 大神の斎へる国そ 四つの船 船の舳並べ 平けく早渡り来て 返り言奏さむ日に 相飲む酒そ この豊御酒は」(4264)という歌があり、養老元年(717)発遣唐使以降4隻編成となった遣唐使船が「四舶(四つの船)」と表現されていた事が分かる。また歌の中で、日本の国は水の上を大地の上を行くが如く、船上も家の床と同じように感じられる程安定するように大神(住吉神)が守っているとしているが、日本の国の一部である遣唐使船(四つの船)もまた同じだと言っている訳である。ここで陸の如き安定性が強調されているのは、巨船である遣唐使船のあり方が反映されているように思える。
この使節の大使・藤原清河は大使任命後の2月13日、春日神社の春の祭に出席するが、その時叔母に当たる光明皇太后は「大船に ま楫しじ貫き 此の我子を 唐国へ遣る 斎へ神たち」(4240)と詠み、清河も「春日野に 斎く三諸の 梅の花 栄えてあり待て 帰り来るまで」(4241)と返している。光明皇后は藤原の氏神である春日神社に清河の無事帰還を祈願しているが、その歌とは別に「海神のいづれの神を祈らばか行くさも来さも船の早けむ」(1784)という入唐使に贈る歌も興味深い。遣唐使船の早い航海を祈願するのにどの神を拝めばいいのかという意味だが、例えば従来の墨江―那津航路ならば両端の住吉、綿津見神を祈願し、那津―朝鮮半島間の海北道なら宗像神に祈願する事ができたが、南路の東シナ海を横断する航路の場合、どのような神に航路の加護を祈れば良いのかという迷いがあったのかと思うと興味深い。
 なおこの遣唐使船の往路は4隻とも無事に中国大陸に到達しているが、復路は第1~3船が阿児奈波島(沖縄)漂着後、第1船は驩州(ベトナム)に、第2船は薩摩国阿多郡秋妻屋浦(南さつま市坊津町)、第3船は益救島(屋久島)に到着し、第4船は薩摩国石籬浦(揖宿郡頴娃町石垣浦)に到着している。このように遣唐使船の到着地は往路も含め、どこか特定の港を目指して航海するのではなく、とにかく目的とする国の陸地に着きさえすればいいという、今から見ると特異なあり方だった。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

更に追加の詳細な説明ありがとうございます。
補足に記載していますが、これまでの回答を含め非常に勉強になりました。
おかげで遣新羅使を知ったことで、この時代の日本の外交の実態を垣間見ることができました。

お礼日時:2022/08/19 05:26

どう思いますかって、生きて渡れない確率が結構高いんだから仕方がない部分もあるんじゃないかなあ。


 それから徴兵拒否については、金持ちは別に仮病を使わなくたっていろんな手で徴兵免除に持ってくことができました。仮病でっていうのはそういう裏の手が使えない庶民だからこそやったことだと思いますよ。醤油を一気飲みとかわざとケガしてとか聞いたことあります。いつの時代だって、金があったってなくたってそういう人は一定数いるってことだと。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

確かに遣唐使の渡海拒否は徴兵拒否とは違うと思いますが、高潔なことをおっしゃる高級官僚の常とう手段だとしたら、日本の裏の伝統はこの頃生まれたと言うことになるのではないでしょうか?

お礼日時:2022/08/19 05:18

8~9世紀の唐からの商船は黄海沿岸地域に存在した新羅坊を拠点に日本に来航していました。

当時の東アジアにおいては新羅の商人が最も活発な海上貿易を行っており、新羅の清海鎮に国際貿易の拠点を設置し、唐にある新羅坊と日本の博多に設置した貿易拠点のネットワークを活用しながら、新羅、唐、日本の中継貿易を行っていました。

新羅坊
https://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E7%BE%85%E5%9 …

つまり唐側から商人が日本に来る場合は、新羅を経由して比較的安全に来航することが可能でした。一方、日本は8世紀以来、新羅との外交関係が悪化したため、新羅経由で国が遣唐使を送ることはできなくなっていました。新羅と日本の外交関係が悪化した理由は、新羅が朝鮮半島統一後に日本を従属国として扱おうとしたためです。このため遣唐使は東シナ海を直接横断する危険な南路ルートや南西諸島を北上するルートを使って唐に向かい、帰路は南島路ルートを利用していました。

当時の日本人が遣唐使を嫌がったのも、新羅を経由すれば安全に行けるのに、わざわざ危険なルートを使わなければならないことを馬鹿馬鹿しいと思っていた面が大きいでしょう。実際、日本の商人たちは新羅商人経由で唐の文物を入手し、それを日本の貴族に販売し、日本の貴族は新羅経由で日本に入ってきた唐の文物を喜んで購入していたわけですから、より安全なルートがあることを貴族なら誰でも知っていたわけです。それなのに、国の面目上から新羅経由のルートを使えない遣唐使だけが、わざわざ危険なルートを取って唐に渡らなければならなかったわけです。命を賭けて危険な海を渡って行かなくても、商人経由で幾らでも唐の文物が入ってくるのだから、遣唐使になるなど馬鹿馬鹿しいと思う人が出ても不思議ではありません。明治以後の徴兵忌避とは状況が異なります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

そうなると、遣唐使を派遣していたのは、日本は唐の属国として、20年以内に一度の頻度で唐に朝貢していたという事実が明確になったような気がします。

お礼日時:2022/08/16 22:40

渡航に関わる個人的気分や事情で考えているのは、ちょっと、、、


ただの一庶民なら、怖い、やりたい、報酬、冒険、色々個人的な事情もあるのでしょうが、佐伯今毛人、菅原道真となれば、個人的事情ばかりではないのでしょう。
まあ、そうみたいのなら(巧みに徴兵を逃れていた姿にダブり)でも、いたくも痒くもないでしょう。 

佐伯今毛人
(770年) 6月13日:兼播磨守。日付不詳:造東大寺長官[要出典]
(771年) 11月27日:正四位下
(775年) 6月19日:遣唐大使  ★ 行かなかったが、その後、昇進
(777年) 日付不詳:止左大弁
(779年) 9月4日:大宰大弐
(781年) 4月15日:正四位上
(782年) 4月27日:左大弁。6月20日:兼大和守。6月21日:従三位
(783年) 4月20日:兼皇后宮大夫
(784年) 6月10日:造長岡宮使。12月2日:参議
(785年) 6月18日:正三位。7月6日:兼民部卿

山川の日本史資料集には、次の解説があります。

しかし遣唐使の航海は多く苦難に満ちたものであった。
史料の平群広成の例はその遭難の様子を伝えているが、実際に八世紀の遣唐使のうち全船往復しえたのはわずか一回にすぎなかった。
五度にわたる渡航の失敗によって失明しながらも日本に戒律を伝えた鑑真の例も有名であるが、『唐大和上東征伝』の引用部分からは、彼の強い使命感とともに、彼の来朝が国家仏教の体制を整えるための国家的要請であったことがうかがえる。
だが遣唐使は838年以後は派遣されず、894年には菅原道真の意見により廃止されるにいたった。
その事情について道真の上表文は、渡航の危険と唐の衰退とをあげているが、これらはおそらく名目にすぎなかった。
中央財政の窮乏や、九世紀以来唐商人の大宰府への来航が多くなり、国家的手段によらずとも中国の文物か入手できるようになったことが大きな理由であった。

別の高校生向け学習資料にも、

遣唐大使に任命された菅原道真は,唐留学中の僧中瓘が唐商人の王訥に託し
ておくった手紙に記されている唐国内の混乱、記録にある航海の危険や賊の被害を理由に、遣唐使派遣の可否を決定するように求めた。これにより遣唐使が廃止され、 中国の王朝とは正式の国交は途絶えたが、大宰府のある九州北部に中国の貿易船が来航し、文物の交流は絶えることはなかった。

既に《唐文化の輸入に命をかける》などの状況ではないのですよ。

web では、  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90 …
8世紀になると東アジアの情勢も安定し、文化使節としての性格を強めていく。9世紀前半に日本側も朝貢を前提とし「20年1貢」を原則としていたが、日本側は天皇の代替わりなどを口実にそれよりも短期間での派遣を行った。また、宝亀6年(775年)の遣唐使の際には唐の粛宗の意向で帰国する遣唐使に随行する形で唐側からの使者が派遣されている(ただし、大使の趙宝英は船の難破によって水死し、判官が代行の形で光仁天皇と会見している)。その一方で、正史や現行の律令など唐王朝にとって重要な書籍・法令などは持ち出しが禁じられており、また遣唐使を含む外国使節の行動の自由は制約されていた。
9世紀に入ると遣唐使を取り巻く情勢が大きく変わってくる。まず、唐では安史の乱以後、商業課税を導入した結果、国家の統制下とは言え民間の海外渡航・貿易が許されるようになったことである(これは新羅に関しても同様で、9世紀前半の張保皐の活動はその代表的な存在である)。また、安史の乱以後の唐の国内情勢の不安定が外国使節の待遇にも影響を与え、延暦23年(804年)の遣唐使の時には唐側から厚く待遇されて帰国を先延ばしにすることを勧められる程(『日本後紀』延暦24年6月乙巳条)であったが、やがて、冷遇されていく。
一方、日本側の事情としては遣唐使以外の海外渡航を禁止していた「渡海制」の存在も影響し、遣使間隔が空くことによって渡海に必要な航海技術・造船技術の低下をもたらし、海難の多発やそれに伴う遣使意欲の低下をもたらした。結果的には「最後の遣唐使」となった承和5年(835年)の遣唐使は出発に2度失敗し、その間に大使藤原常嗣と副使小野篁が対立して篁が乗船を拒否して隠岐へ配流されるが、根底に遣唐使の意義に疑問があったとされる。さらに、帰国時にもその航路を巡って常嗣と判官長岑高名が対立するなど、諸問題が一気に露呈した。
承和5年(835年)の遣唐使の時には留学生・請益生(短期留学生)を巡る環境の悪化も問題として浮上していた。元来留学生は次の遣使(日本であれば次の遣唐使が派遣される20-30年後)まで唐に滞在し、費用の不足があれば唐側の官費支給が行われていたが、留学生に対しても留学期間の制限を通告される(円仁『入唐求法巡礼行記』(唐)開成4年2月24・27日条)などの冷遇を受けた。承和の留学生であった円載は官費支給は5年間と制約され、以後日本の朝廷などの支援を受けて留学を続けた(なお、円載の留学は40年に及んだが、帰国時に遭難して水死する)。また、留学――現地で長期間生活する上で必要な漢語(中国語)の習得に苦労する者も多かった。承和の遣唐使の天台宗を日本に伝えた最澄は漢語が出来ず、弟子の義真が訳語(通訳)を務め、橘逸勢は留学の打ち切りを奏請する文書の中において、唐側の官費支給が乏しく次の遣唐使が来るであろう20年後まで持たないことと並んで、漢語が出来ずに現地の学校に入れないことが挙げられており(『性霊集』巻5「為橘学生与本国使啓」)、最終的に2年間で帰国が認められている。
唐の衰退による政治的意義の低下、唐・新羅の商船による文物請来、留学環境の悪化など、日本国内の造船・航海技術の低下など、承和の遣唐使とそれに相前後する状況の変化は遣唐使を派遣する意義を失わせるものであり、寛平6年(894年)の遣唐使の延期とその長期化、ひいては唐の滅亡による停止(実質上の廃止)に至る背景が延暦・承和の派遣の段階で揃いつつあったと言える。
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この回答へのお礼

丁寧な回答ありがとうございます。

№1さんへのお礼のコメントに記入した、唐混乱の情報入手が唐の商人経由だと知り勉強になりました。
そうすると、唐の商人の船は南ルートではなく朝鮮半島経由だったのではないか?という疑問が湧きました。
まさか、当時の造船技術&航海技術で東シナ海ルートはあり得ないと思います。

お礼日時:2022/08/15 19:36

そりゃそうでしょう。



日本の造船技術と航海技術はまだ未熟でしたから、一説によると当時の遣唐使の航海の成功率は約50%,往復すると25%の確率だったそうです。命がけですよ。

唐も700年代の中頃に安史の乱がおこり、皇帝が長安から逃亡するということになります。その後乱は平定されたものの、唐の勢力は弱くなり支配地域も縮小し、各地に反乱がおきるようになりました。ですので800年代にはいると、かっての大唐ではなくなります。

こうした中では、あたら優秀な若手の人を唐に派遣する意味がなくなってきたのでしょう。宗教的情熱があれば別でしょうが、845年には武宗による仏教弾圧がおこり、唐の仏教そのものが壊滅的打撃をうけましたからね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
成功確率については結果論です。

遣唐使復活の際は、それまでの朝鮮半島経由の北ルートから南ルートに切り替わっての初めての航海なのですが、佐伯今毛人はどうやって危険な航海だと察知したのでしょうか?

お礼日時:2022/08/15 19:30

末期なら無理に渡海しても得られるものはたいして無い。


リスクとベネフィットを比べれば拒否するのが当然でしょう。
下級者なら一発逆転の賭に出る可能性はありますね。

>これって、どう思います?
>これは明治維新後の徴兵制導入時に金持ちが巧みに徴兵を逃れていた姿にダブります。
いささか思慮不足と思いますね。
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございます。
なお、菅原道真が遣唐使を拒否するのは894年ですが、前回の遣唐使派遣は838年でした。菅原道真はどうやって、唐の情勢を把握していたのだろう、とまたまた疑問が出てきました。

お礼日時:2022/08/15 19:24

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