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人生は限られているのだから、問いを持つ場合はそれを吟味しなければならないと思います。
問うに値する真実の問いを、持てるならば待ったほうが良いと思います。
問いを持つということは、それだけ高尚というか、非常に重要なことの様に思うのですが、他の人の持つ重要な問いを参考に、重要な問いとはどの様なものかを少しでも知っておきたいと思います。

皆様の持つ重要な問いとは何ですか?

よろしくお願いします。

私も今まで問いは持って来ましたが、どれも既出の、いわば使い古された問いしか立ててこなかった様に思います。
真に重要な問いを立てるだけの知性や探究心が顕れてないのだと思います。

急ぎの質問ではないので、お気が向いたときにでもご回答ください。重要な問いの片鱗でも掴めたらと思います。

質問者からの補足コメント

  • 皆さんのご回答をいただいている間に、重要な問いが持つ特質について、私が思い当たる節が出て参りましたので追加しておきます。

    ユニークさ と言うものが、重要な問いにはあるのでないか?
    たとえ普遍性を備えていても、ありがちな思考パターンによって導出された問い、
    例えば、人生の意味、愛とは何か、宇宙の始まりと終わり、時間とは何か、存在とは何か、如何に生きるべきか、徳とは何か、等
    誰でも、いつでも、どこででも思いつく様な問いは、人生の前半においては重要だとは思うのですが、それらの問いを超えたところでは、また別の問いとその立て方があり、それはユニークなものである、何故ならその人はすでに(普遍的問いを乗り越えたことで)独自の人生を歩んでいるから。

    例えば学生時代が終わり、学問の基礎的な知識を修養した後は、研究という独自性のある学問探究が始まる様な感じです。

      補足日時:2022/08/21 17:09
  • 今改めて自分自身に問いたいことが出てまいりましたので、メモも兼ねて一度ご報告しておきたいと思います。
     
    今一度、自分自身に問うべきことは、ユニークさを発揮して生きてゆくという諦めに似た決意をなさなければならない、ということだ。

      補足日時:2022/08/21 17:24
  • 更にメモを残します

    自分の言葉を確立すると言う事は、意志を持つと言うことか

      補足日時:2022/08/21 18:34
  • No.18様へ
    お礼のつづき

    >薬物療法を続け、その上で、「ルールに基づいてやる作業やスポーツ、遊びを繰り返して、ルール上で達成感を得る」ことに努める、さらに状況が許すのであれば、SSTや心理教育訓練を受ける方がイイです。

    それは既にやっていたり検討を進めているところですが、独自性と言うのはどうしても視野を出ないですね。その独自の生き方、ルールと言うのが、全く他者に共有できない、共感出来ない類であればそれは独自性でも何でもないですが、独自性と言うのは創造の意欲で在り、自己創造の推進力であると思います。
    その推進力を以て、病前よりも良い状態にもなり得ると思います。他者一般と同じになること、社会適応することと、精神の正常な機能を回復すると言う事は、外見的には似ていますが、本質の意味は異なると思います。
    独自性のあることは私はよいことだと思います。

      補足日時:2022/08/22 14:18

A 回答 (17件中1~10件)

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ご質問の趣旨とその発想について 批判的な立ち場に立つ者です。

以下のように考えます。


1.
★ 人生は限られているのだから、問いを持つ場合はそれを吟味しなければならないと思います。
☆ というより 実際の存在が有限でないなら 問いは どうでもよいことになるのだと思います。

どうでもよい場合にも 凝り性の人なら 自分の持った問いを吟味するものと思われます。

そして 人生 限られていても けっこう長いと感じることがあるようです。


2.
といったようなわけで われわれが人生を問うとき もしくは 人生の繰り広げられるこの世界についての:
★ 重要な問いとは何ですか?
☆ と問うとき おのおのその具体的な問いを その内容の浅い深いを問わず 問えばよい。こう考えます。

重要性は 単純に決まるのではないか。ささやかな問いも 重要だという意味です。



3.
★ 問うに値する真実の問いを、持てるならば待ったほうが良いと思います。
☆ 初心者なら その疑問に思った問いをすでに《問うに値する》かどうか決めるのは むつかしい場合があるはずです。

つまり ほぼ無条件において疑問をぶつければよいのです。それが 《重要な問い》なのです。


4.
もしたとえふざけた内容の問いだったら? だとしても そのふざけ具合いが その人にとって・そして回り回って人びと一般にとって重要な問題になっています。そのまま問えばよろしい。社会一般の関心事になっているということです。


5.
問題は いづれにしろ――つまり ふつうによい問いにしろふざけた問いにしろ―― 一たん まあまあ妥当な内容だとみとめられる答えが得られたばあい それでもこれを無視する。・・・このような振る舞いが――他人のことゆえ放っておかざるを得ないけれども――なかなか放っておけないと感じる大問題だと考えます。

話が通じない。対話が遮断される。問うた者がタコツボに入ってゆく。・・・つまり 重要性は 問いの内容では必ずしもなくて 問いと答えそしてその答えが問いとなってのさらなる答え・・・というように話し合いが成り立ちつづけることでしょう。


6.
★ 人生は限られているのだから、問いを持つ場合はそれを吟味しなければならない
☆ というよりは まづ――たしかにおっしゃるように――タコツボ人生ではつまらないのだから 問いを持つことが大切です。

しかも 昨今よく見かけているのですが そのタコツボ人生であった場合その場合にしばしば 問いは発するという事例が 見かけられるのです。

つまり言おうとすることは 人生における対話・話し合いにおいて 自分からの発信はするが 他人(ひと)からの受信は 実質的に言って しない。こういう場合が 問題だということです。


7.
ソーシャルネットワークが盛んになったいま それでもコミュニケーションが 言葉の上では嫌というほどおこなわれていても 実質的に一方通行でしかない場合 すなわち輸出しようとして輸入はしない半鎖国状態にあるタコツボ人生が横行しているように見られます。

大問題です。




☆ おそらく質問者さんは この批判に丁寧にお答えいただきまったくの抜かりなく丁重に取り成してゆかれることでしょう。と思いますが。・・・




8.
回答№1のごとくふさけた答え=問いを投稿する場合 その一度のおこないは 言ってみれば重要です。ふざけ具合いがわかることは 重要です。

こちらは そのことを説明つきで指摘してやったあと それでも無視された場合には もう好きにさせるしかないようですが。



9.
あらためて言いかえるなら 問いの重要性とは 人間が社会的動物だと言われるその社会性(双方向性)ということが とにもかくにも問答の成り立つための大前提になっている。これだと思います。



10. 
あなたには これまでこのこと・この問題をしょっちゅう言い続けてきましたが このようにあからさまに・直接に言挙げするのは 初めてなのかも知れません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
誰か他者に問いを投げかけるのか、自分自身に問うのかは別にして、ただ、いつ死ぬかもわからないこの身であるなら、取るに足らぬ問いに時間を費やしている暇はないと思ってこの質問を立てました。
あくまで参考にしたいと言うことですので、重要な問いの持つ風体や、要素など、片鱗でも良いので知りたいなと思います。

回答者様は社会性を重視されている様ですね。
社会的に、つまり普遍性を持って通用する問いは重要な問いの持つ一つの特徴であると言う主張として受け取りました。
自分には関係ないとか、どうでも良いと思われた問いには、答えることがないと思います。

その意味で、問いの持つ社会性という答えは一理あるかなと。

お礼日時:2022/08/20 10:54

> 人生は限られているのだから、問いを持つ場合はそれを吟味しなければならないと思います。



そのようには思いません。 「人生は限られているのだから」、「やりたいと思ったことがあれば、躊躇せずにやるようにし、そのときに些細な疑問でもあれば、すぐに調べてしまった方が、やりたいと思ったことをうまくやれ、より人生を充実した方向に持っていける可能性が高い」と思います。
もちろん、特にやりたいことがいまないというのであれば、平常に生活すれば良いことでアリ、あえて、無駄に走り回り忙しくする必要もないでしょう。 人生は限られているのですから。

パソコンやスマホ、wifiの使い方やトラブルでも、質問しても問題ないでしょう。 ただ、質問サイトに質問するより、自分で調べた方がずーっと効率的ということも多いです。 なにをどのように問うのが良いのかは、一概には言えません。 
そういう意味では、「問いを持つ場合はそれを吟味しなければならない」という面もありますが、「問うに値する真実の問いを、持てるならば待ったほうが良い」ということはないでしょう。
あえて問いを持たなければならない理由など、どこにもないでしょう。

  ~~~~  ある質問に対する回答の例  ~~~~
No.4   回答者: あほな 回答日時:2022/08/17 00:34

>私の哲学は 私にとっては火を見るより明らかなんです
それが他の人にはわからない 批判や非難の対象にしかならないのが不思議です。

それは、貴方が貴方のために貴方の考えを貴方の言葉で語っているので、そうなるのです。
要するに、他の人のことを考えられていないので、独りよがりになってしまう。

他の人の存在を自分より優先することができないので、相手にされない。つまり、あなたはやさしくないということです。我の塊ということだと思います。
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「真に重要な問い」、「問うに値する真実の問い」というのも、《要するに、独りよがり》ではないかとはお思いではないでしょうか。
世界とは何か、社会とは何か、論理とは何か、人生とは何か、存在とは何か、時間とは何か、欲とは何か、失望・落胆とは何か、希望とか目標とはなんのことか、歴史とはどのような意味を持つのか、金が重要視され汚職や犯罪トラブルの原因となるのは何故なのか、親子や夫婦とはなんなのか、切りなく問いなど出せます。 たぶん、どれを問いにしたところで、問いを考え続けるのは非常に困難です。 途中で諦めるか、自分では結論が出せたつもりになるか 果てしなく問い続けるかの、3コースでしょう。
https://kadobun.jp/trial/Wittgenstein/761.html
「人生は限られているのだから、」と言い出さなくても、エアコンを入れたり、お茶を飲んだり、食事をしたり、肩を回し首を回し、睡眠も取らなくてはならず、体調に不調を感じたらネットや医学書を調べ、医者に行って、「どうしてでしょう、どうすればいいでしょう」と問うことを優先したりします。

《真に重要な問い》が、人類共通にある、個々人にはある と思うのが、間違いです。 
あるときに、《これこそが真に重要な問い》と感じたり、思ったりすることはあるのでしょうが、時間が過ぎ、状況が変われば、先ほどの《これこそが真に重要な問い》はどこかに追いやられ、あるいは失念され、あるいは別の問いに変わります。
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この回答へのお礼

機動力と言うのもある方が良いですね。
日常性を疎かにするのも良く無いでしょう。

しかしながら、真実の問いというものが仮にあるとするなら、それは独りよがりにはならないと思います。
それは問うべき人に問うても、自身に問うても、決して無駄とはならない。まことと言うのはそう言うものでは無いでしょうか。
件の彼の問いについては、彼には意味があるが、他の人には意味がない、それでここで質問しても意味がない、独りよがりだと言う程度の認識でいます。

思いもまた流転するのは事実でしょうし、その時の気分で色々と思考が左右するされるのもあると思います。全ては移り変わる刹那的なものだから、真実の問いなどと言う確定的なものがあると考えるべきでは無い、と言うご主張なのかなと感じました。

ご質問者様の回答としましては、限られた人生において、問うに値する真に重要な問いや、真実の問いなどは存在しない、と言うことでよろしいでしょうか?
何故なら考えとはコロコロ変わるものだから。

お礼日時:2022/08/20 12:24

コメントをいただきました。

ありがとうございます。


★ (№2お礼欄)
回答者様は社会性を重視されている様ですね。
社会的に、つまり普遍性を持って通用する問いは重要な問いの持つ一つの特徴であると言う主張として受け取りました。

☆ そのように考える余地はあるでしょうが №2の回答は ちょっと違います。

☆☆ (№2)
9.
あらためて言いかえるなら 問いの重要性とは 人間が社会的動物だと言われるその社会性(双方向性)ということが とにもかくにも問答の成り立つための大前提になっている。これだと思います。

☆ 問いに対して答え返せばよい という意味です。答えに対して ひとまづ結着とするか・または一たん保留とするかでなければ とにかく互いに応答をつづける。これです。



ですから 問いの内容は 二の次になります。《高尚で重要な・問うに値する真実な問い》かどうかは 二の次だという意味です。



     *



どうして〔このようにわたしは〕論点を脇に逸らすのか?

けれども あほなさんは じゅうぶんこの質問に対する答えを知っておられるのではないのですか?

★ (№2お礼欄)
あくまで参考にしたいと言うことですので、重要な問いの持つ風体や、要素など、片鱗でも良いので知りたいなと思います。

☆ と言われても 答えが分かっていて どうしてこの設問におよぶことがあったのか。という疑問が先立ちます。



疑惑での決めつけになりましたが いかにも当たっているように思えます。



      *



真意は こうです。

あなたは 問いの重要性に対してご自分の見識にもとづき・そしてご自分の都合にもしたがって 或る程度(または かなりの程度)哲学として本格的な内容にまで到ったときそこに限界をもうけておられる。

要するに 自身の都合にそぐわない内容の場合には タコツボに入ってしまわれる。これです。
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この回答へのお礼

>答えが分かっていて どうしてこの設問におよぶことがあったのか。という疑問が先立ちます。

私はかつて、自分の持っていた問いは普遍性があり重要な問いだとおもっていましたが、それらが解決を見るにあたり、自分の持っていたと思っていた問いは、実はありふれたものであり、独自性もさほどなく、使い古されたもので、それらの問いに対する回答もまた、実に、幾度となく公私に言われて来たことなのだと思うようになり、(それは確かにとても大事なことではあったのですが、)果たして私はかつて、重要な問いと言うものをもちえたことがあるだろうか?

と、改めて思い直す様になったのです。
そして今、その、想定される重要な問いの特質を言語化できるほど明瞭に識知しておらず、ここで問いを立てるに至ったわけです。

問いと言っても、プレクエスチョンというか、問いの前に理解しておくべきことを知りたか思ったの質問とご理解いただければと思います。

今私はやっと、自分の人生の時計が時代に追いつき、噛み合って来たのでは無いか?と思っているのです。

質問者さんは、私がこの様に言うのは意外なことと思われるかも知れません。

お礼日時:2022/08/20 14:24

No.3です。



> 真実の問いというものが仮にあるとするなら、それは独りよがりにはならないと思います。 それは問うべき人に問うても、自身に問うても、決して無駄とはならない。まことと言うのはそう言うものでは無いでしょうか。

「真実の問いというものが仮にあるとするなら」は、一種の仮定法ですが、そのときの「真実の問いというもの」の意味内容・定義・内包だか外延も不明です。 無駄になる/無駄にならない、まことである/まことではないは、「真実の問い」という仮定から導き出せるものではなくて、「真実の」のような形容から勝手に想起しているだけで、論理になっていません。

> 件の彼の問いについては、彼には意味があるが、他の人には意味がない、それでここで質問しても意味がない、独りよがりだと言う程度の認識でいます。

私には、{ある質問に対しあほなさんの書かれた「それは、貴方が貴方のために貴方の考えを貴方の言葉で語っているので、そうなるのです。要するに、他の人のことを考えられていないので、独りよがりになってしまう。」も、≠「それでここで質問しても意味がない、独りよがりだ」 似ている。 ≒「問うに値する真実の問いを、持てるならば待ったほうが良いと思います。問いを持つということは、それだけ高尚というか、非常に重要なことの様に思うのです」 似ている}と感じられます。

> 思いもまた流転するのは事実でしょうし、その時の気分で色々と思考が左右するされるのもあると思います。全ては移り変わる刹那的なものだから、真実の問いなどと言う確定的なものがあると考えるべきでは無い、と言うご主張なのかなと感じました。

刹那的であるか、数日、数週間と続くのかは色々あるのだと思います。 継続時間の長短で真実性が推定できるということはないでしょう。 
「真実の」という判断基準それ自体が怪しいでしょうと私は思っています。
嘘じゃない、事実の裏付けがあるなどの他に、かりそめでも一時のでもなく真剣なんだという気持を表現する場合にも「真実の」とか、「本当の」「究極の」とか言いますが、それは基本《心情》の表現でしかないように、私には思えます。 「真は 偽と対し 妄と対する」とお考えなのかもしれませんが、それが実のところ、《心情》を表現するものでしかないのであれば、他人から、客観的にみれば、どうしたところで独り善がりから抜け出ることはできません。
私は、「真実の問いなどと言うものがある」事実をしばしば見かける気がします。 「あるべき質問や問いではない!」などとも、「そのように考えるべきではない」とも思いません。 単に「またかよ」と感じるだけです。 迷い悩む人を見ても、馬鹿騒ぎし興奮する人を見ても、あるべきではないなどとは思いません。

> 回答としましては、限られた人生において、問うに値する真に重要な問いや、真実の問いなどは存在しない、と言うことでよろしいでしょうか?
何故なら考えとはコロコロ変わるものだから。

当人が悩んだり、辛く感じたり、強く探求したい気持になったりすることは、対象や状況、経過次第でいかようにでもなるものだと、私は思っています。
ですから、「問うに値する真実の問いを、持てるならば待ったほうが良いと思う」人がいても、それをおかしいとか、それは間違っているとかは思いません。 でも、{問うに値する真に重要な問いや、真実の問いなど}が、{多くの人に共有可能なものとして、客観的に存在したりはしない}、{宗教哲学をやるものの間にも存在しない種類の問いである}と、私は思っています。
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この回答へのお礼

そうでしたか。

真実の問いがあったとしても、それには多くの人に通じる客観性は認められない、と言うご見解ですね。
つまり、ご自身で列挙されたありふれた、しかし人々が興味を示す様な、人生の意味や、宇宙のこと、社会のことにまつわるあからさまな問いは、多くの人に通じると言う客観性があるので、真実の問いではないということでしょうか。
そう言うことなら私も理解できます。

私は、真実という言葉が世に通用している以上、ある程度の幅を持ってその意味内容は人々の間に通じているのではないかと思います。そしてそれは事実でしょう。その意味内容に従って、「真実の問いを問うことは無駄とはならない」と言う私の主張には、論理破綻というほどのことは別に来していないと思います。むしろ反対の、「真実の問いなど無駄だ」、と言う主張のほうが、真実という言葉の持つ一般意味内容から逸脱した主張とおもわれます。

ただし、意味があると思っていたものが、人生の経過の中で、まったく水泡に帰す場合は考えられます。
真実と思っていたものがそうではなかった、という場合です。その場合、思いの限界というものを吟味して、思いのその不確定さに左右されない問いを見出すべきと私は考えます。人生をフラフラと盲目的に過ごさないためにです。
これは、他者と共有するための客観性ではなく、思いの限界に影響されないという客観性と言えそうです。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2022/08/20 16:55

人間は存在するか?人間が存在するなら 人間という「存在」が在るということではないのだろうか?



人間が存在することに価値があり意義があり

人間が存在することが我々の目的だったんじゃないだろうか?
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この回答へのお礼

つまり、重要な問いの特質として、「人間」と、「存在」を問うたものであると言うお答えでしょうか。

ご回答ありがとうございます。

(私も今回は分からないから質問させていただいているので、これ以上のお礼が難しいのですが。)

お礼日時:2022/08/20 21:37

コメントをありがとうございます。




ううーん。そうですね。

すなおに読めば ありゃ? あたらしいあほなさんかな!? と思うことはありますが。

・・・そうですね。

微妙な点を過大に取り上げて見ます。

★ (№4お礼欄)
私はかつて、自分の持っていた問いは普遍性があり重要な問いだとおもっていましたが、それらが解決を見るにあたり、自分の持っていたと思っていた問いは、実はありふれたものであり、独自性もさほどなく、使い古されたもので、それらの問いに対する回答もまた、実に、幾度となく公私に言われて来たことなのだと思うようになり、(それは確かにとても大事なことではあったのですが、)果たして私はかつて、重要な問いと言うものをもちえたことがあるだろうか?

☆ もし問題を無理に拾うとすれば 次の箇所です。:
★ (それは確かにとても大事なことではあったのですが、)

☆ つまり もし敢えて素直に読まないとすれば この場合は単純に 《大事な〔こと〕》と《重要な〔問い〕》とのあいだに違いはあるか? ということになります。



もっとえげつない言い方をするならば:
★ 果たして私はかつて、重要な問いと言うものをもちえたことがあるだろうか?
☆ という〔疑問としての〕命題には 微妙な・すでにやはり前もってその前提内容を知っているかに思われる表現があります。

すなわち その中身を問い求める矢先から始めに:
★ 重要な問い
☆ という課題としての概念がかかげられています。

《問い》の中で《重要な問い》が たしかに存在するはずだ という確信がすでに初めに持たれている・・・わけです。



ここを どう理解するか?



あとは おまかせします。と言いますか こちらが先へすすめるわけには――ご自身の内心の事情を知らないからには――行きません。と思います。
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この回答へのお礼

察してくださりありがとうございます。
つまりこういうことなのです。

私の以前の思考と探求は、ハイハイする赤ちゃんの様なもので、そこから二足歩行が出来る様になったくらいの成長があったことは個人的には注目すべきことなのですが、それは人間の成長一般から見れば当たり前のことであり、世間から見れば、特段取り立てるほどのことでもない、ということなのです。

そして、この当たり前の世界においては、問うに値する重要な問いとは一体なんであろう?と言うのがこの設問です。
ブラジュロンさんがおっしゃるように、この当たり前の世界に入った新参者のあほなの質問と言うことになります。

お礼日時:2022/08/20 19:12

№9のお礼欄 拝読しました。



やはり一度 ううーんとうなって反応するなら それはあまりにも卑下なさっている となります。

勝手に退化しすぎです。


でも 何か不思議な体験をなさったのかも知れない。と思うと ひとまづは 静観させてもらうよりほかない とは考えました。


このカテにあって 見守るということにさせてもらいます。どうぞ自由に となりました。また機会がありましたら・・・。
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この回答へのお礼

卑下しすぎている。それはそうかもしれませんね。しかし、今の私にはこれくらいの自己認識でちょうど良い気もするのです。
お気遣いいただきありがとうございます。
ではまた。

お礼日時:2022/08/20 21:32

No.8のharu27ですが 



人間存在について今哲学界ではどの様な扱いになっているのかが疑問です。

我々が人間である以上人間の事とその存在の事ははっきりさせなくては

人権や世界の諸問題についても足がかりが出来ません

人間がこれまで生きて来たこと、これからどうなっていくのか

人間としても意志しなければなりません。

我々人間が存在する理由も分かってくることでしょう。
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この回答へのお礼

足がかりと言うと、地道に積み重ねていく確かな根拠、のようなことかと思いますが、人間存在に関して地道に積み重ねていくとはいったいどのようなことになるのかと、思いました。

人間存在の具体のところに、重要な問いの片鱗があるようにも思います。ただ、通り一遍等のやり方ではその問いは切り取れないようにも感じます。

お礼日時:2022/08/20 23:36

穴さんおはようございます。


 『説得力を修辞と論理に分けられますか?』https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13084402.htmlです。問いは何ですか?と問うのは meta いです。問いに答えようとすることと問いを分かろうとすることがあります。この問いは重要ではないので問いかけるなと言いたい相手があなたにいますか?『人間にとってほんとーに大事なことは神でも仏でもなく「真実」である』https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13095033.htmlさんがいます。真実の問いに2つの読みがあります。前者は何が真実か問うことです。真実が名詞です。後者は問いが正しいものであることです。真実が形容詞です。私が回答しているこの質問は重要な問いでしょうか?真実の問いでしょうか?それらはなぜでしょうか?
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この回答へのお礼

>後者は問いが正しいものであることです。

ご回答ありがとうございます。
私の問いたいことは、こちらに近いです。ニュアンスとしては、真実とはなにかではなく、正しい問いとは何か?真実が形容詞の方ですね。

整理していただきありがとうございます。

お礼日時:2022/08/21 09:09

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