
1. まづ神とは 人知を超えていて超自然ないし超経験の場またはチカラとして想定されるものです。概念としては 絶対性または無限として説明されます。
2. 《普遍神》とは モノの究極が素粒子ないし量子であると見なされているように・ただしモノのような経験事象ではなく超経験なのですが それぞれの言語で神と呼ばれる何ものかのすべてに共通する要素を捉えたときの言葉です。
3. 神は――絶対性として《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ》ですから・そして宗教は一般に《考えて知る》対象たるオシへを基にしていますから―― 宗教には成り得ません。
4. 神とわれとの関係は 信仰と呼ばれます。宗教は 神についてのオシへを扱いますから 神との関係は 一たん明らかに切れています。
5. 《神――という名――を無条件にわが心に受け容れること》が 信じるです。色をつけて説明調になるならば 真理・道・生命といった内容を心に受け容れます。
6. 信仰を蝉にたとえると 宗教は〔信仰から得られる神観を体系化した〕オシへとして 蝉の抜け殻です〔から 信仰とは 言い方がわるいですけれど親子の縁を絶ち切ったようにして無関係です〕。
7. ぶっちゃけた話としましては 普遍神は ふつう一般にそして昔から自然に生活の中で日本人の心に根づいたその神です。閉ざされておらずいろんな呼び名がありますが すべて普遍神の分身ですから。
8. 日本人はこの神によって いわゆる排他性をおびる一神教なるシュウキョウには感染しないという免疫があります。
9. その神によって日本人は しかもひじょうに寛容であり おとなしい有神論に対してもそして同じく同等に無神論に対しても 差別なく接します。中核となる普遍神をいづれの神ないし信仰の中にも捉えているからです。
☆ と考えますが いかがでしょう?
A 回答 (11件中1~10件)
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No.12
- 回答日時:
前回の終わり近くの段落に誤りがあるので、下記のように訂正します。
〔訂正前〕
したがって、人はムハンマドに帰依しなければならず、イスラム教とキリスト教に橋をかけるような普遍性は否定される。これは反タイプと言えよう。
しかし、ご質問者はこれに反対なんだよね? それなら順タイプでは?
〔訂正後〕
したがって、人はムハンマドに帰依しなければならず、イスラム教とキリスト教に橋をかけるような普遍性は否定される。普遍性ごときは絶対神のものではないと考える。これは順タイプと言えよう。つまり、奇しくもご質問者とイスラム教は共に順タイプである。
いや イスラームでも 《帰依する》のは アッラーフにのみではないだろうか。
アッラーフが ムハンマドという人間存在ないしその口を借りて あたかも言葉を発した。
(だから アラビア語は あらゆる言語の中で神の言葉として特別視――聖別?――されている)。
神の普遍性が けっきょくクルアーンに実現したと捉えているのだと思う。
けれども 人間の言葉で表わされた表現は――相対性のもとにあり また信じるのではなく思考すべきものであり じっさい―― その解釈が人びとのあいだであらそわれる場合がある。
つまり 預言者ムハンマドやクルアーンも 神なる普遍性の仮象である。偶像崇拝が いましめられている。(偶像とは 仮象である)。
セム語における《かみ》という語について:
・ 定冠詞(英: the ):
hal → ha (へブル語) / al (アラビア語)
・ 《かみ》という語:
eloh (エロ―ホ) / ilah (イラ―ハ)
・ 定冠詞をつけて:
ha eloh (実際は複数形で ha elohim (ハー・エロ―ヒーム))
al ilah > alilah > allah (アッラーフ)
☆ ならば 互いにどちらかが訛っているに過ぎない。東京弁と関西弁との距離みたいなものだ。両者には 仮象としてだが 言葉として普遍性があらわれている。まんざら お手上げ状態でもない。
・ 平安・平和:シャローム( hebrew ) / サラーム( arabic )
☆ ムハンマドが特別なことは その通りですが 次のようにもあります・。:
▲ (クルアーン 2:136)〜〜~
おまえたち(ムハンマドを含めた信徒たちのこと)は言うがよい。
《われわれは神を信じ そしてわれわれに啓示されたものを
アブラハムとイシマエルとヤコブともろもろの支族に啓示さ
れたものを モーセとイエスに与えられたものを 信じる。
また もろもろの預言者が主から与えられたものを信ずる。
われわれは これらのあいだでだれかれの差別はしない。
われわれは神に帰依する。》
〜〜〜
No.11
- 回答日時:
相対性と普遍性の関係について、反タイプと順タイプに分けて考えよう。
反タイプ……相対性と普遍性は互いに反対である。
たとえば、
文化論では、文化的相対主義は普遍主義の反対である。
数学では、普遍的な定理は常に成り立ち、相対的ではない。
順タイプ……相対性と普遍性は反対であるとは言えない。
たとえば、
科学の理論は反証可能性を有している。鉄壁の法則に見えようとも、それに反する確かな実験・観察結果が出てきたら、ひっくり返される。つまり法則は相対的なものであって、それこそが科学理論の普遍性志向を支えている。
逆に絶対的なものはドグマであって、普遍性を僭称しているに過ぎない。
一方、ご質問者は「絶対性は普遍性としてあるしかない」とおっしゃるのだが、それは反タイプである。しかし、順タイプ(相対性が普遍性につながる)の存在は考えてみたこともないのだろうか?
ご質問者の独特な神学においては、神は個々人に降臨し、それぞれの「われ、神を見たり」は、傍から否定も肯定もできない「特殊絶対性」とやらだという。そしてその無数の「われ……」に優劣はなく、その並立が神の普遍性の表れだという。
しかしそれは、無数の「われ……」の相対的な並立が神の普遍性ってことだよね。順タイプじゃないの? 一つの「われ……」が優越して他の「われ……」を折伏してはいけないと、おっしゃってるではないか。
翻って既成の一神教を見ると、例えばイスラム教では神は絶対神であり、ムハンマドが最後にして最大の預言者とされる。イエスはたくさんいる預言者の一人、ムハンマドに比べれば小物に過ぎないという。絶対神は人類に普遍的には関わらなかった。ムハンマドに集中して関わった。
したがって、人はムハンマドに帰依しなければならず、イスラム教とキリスト教に橋をかけるような普遍性は否定される。これは反タイプと言えよう。
しかし、ご質問者はこれに反対なんだよね? それなら順タイプでは?
「この回答へのお礼」の書き方がダラダラ長いので、回答者たちは迷惑していると思う。制限字数に収まるよう工夫してもらいたい。
★ 反タイプ……相対性と普遍性は互いに反対である。
★ たとえば、
文化論では、文化的相対主義は普遍主義の反対である。
☆ あぁ。こういう場合は 普遍性は 神の普遍性ではなく 人間の物事にかかわる〔例外のある〕一般性のことですよ。
言葉の派生用法:
・ 神を信じる:絶対性とわれの関係
・ 友を信じる:相対存在どうしの強い確信
★ 数学では、普遍的な定理は常に成り立ち、相対的ではない。
☆ 派生用法。その基礎として 公理などの前提をおいている。
★ 順タイプ……相対性と普遍性は反対であるとは言えない。
・・・つまり法則は相対的なものであって、それこそが科学理論の普遍性志向を支えている。
☆ その結果として得られるのは まだ未知の領域をのこしてなお部分的な既知までかも知れない。すなわち:
★ 逆に絶対的なものはドグマであって、普遍性を僭称しているに過ぎない。
★ 一方、ご質問者は「絶対性は普遍性としてあるしかない」とおっしゃるのだが、それは反タイプである。
☆ いや 要するに 絶対性と相対性とは 同じ次元ではあり得ません。同じ次元に並立するのではなく その間には絶対のへだたりがあるんです。
(絶対性の側が――神について忖度しうるならば―― 相対世界にチカラをおよぼすかも知れない)。
☆ 普遍なる絶対性は――絶対のへだたりを超えて―― 相対世界にハタラキカケを行ない得る。神の遍在。スピノザなら 神即自然( deus sive
natura )。並立ではない。
神の遍在は 人間が神をしてそう成さしめるのではなく 人間は神のそのようなハタラキカケを享け留めるのみ。
★ ご質問者の独特な神学・・・しかしそれは、無数の「われ……」の相対的な並立が神の普遍性ってことだよね。
☆ 普遍神と人間たるわれとのカカハリにおいて われは絶対性にあたかも触れられている。(ミケランジェロの絵の 神とアダム)。
よって 相対的な並立でしかない人間どうしの関係は 《普遍神のもとにおいて絶対性に照らされ信教・良心の自由を享受し得るわれ》どうしの自由・平等・ユヅリ愛〔なる理念だけれど〕が基礎づけられている。
イスラームについても 神と我とのタテの関係(信仰)と ムハンマドをふくむ我どうしのヨコの関係(特にそのオシへ)とを分けて捉えるべし。
No.10
- 回答日時:
なぜ理解が得られないかって、それは根本的に間違ってるからだろう。
だいたい哲学で「普遍」といえば普遍論争だと思う。客観的に存在するのは「物」か「名」か「概念」なのか。
一方、ご質問の説では、神は普遍だが個々人の(霊的な)主観にとどまるもので、主観の外に取り出して複数人で宗教したら、にせものだという。
しかし、主観の外に取り出せないようなものを普遍と呼べるだろうか? ご質問者は「絶対は普遍」と盲信しているが、「相対性こそ普遍である」と目覚めるべきではないのか。
相対物は個別的であって普遍ではないが、相対性はあまねく巻き込むから普遍である。物は絶対ではないから「絶対物」は自己矛盾である。絶対性はむしろ普遍を拒むだろう。
ところが、ご質問者は神についてたとえば巨大な恒星のように考えているのではないか。その恒星はある惑星では白く見え、ある惑星では(大気の関係で)赤く見える。見え方は違うがどこからでも見える。恒星に意志はないから見られることを拒めない。
一方、神にはご意志があって、人間と関わり合いになるのを拒むことができる。拒まれたら、人間の認識は神をかすりもしなくなる。その場合、「神がわれの魂に降りたもうた」と人が言っても、狐憑きやヒステリー症状でしかあるまい。ご質問の言う「蝉の抜け殻」さえ得られず、それ未満のものである。
以上のような問題は西洋で熱心に考究され「全能の逆説」とも言われる。全能が逆説であることは、神が人間と関わり合いになるのを拒んでいることの現れではないだろうか? 神のお告げは存在せず、神は沈黙しているのではないか。
思い出すのは古い白黒の映画、イングマール・ベルイマンの『沈黙』(1963年)である。この沈黙は何と「神の沈黙」なのだった。牧師の息子に生まれて映画監督となった彼が、繰り返し追求したテーマである。
ただしこの作品に神のたぐいは出てこない。母、小さな男児、母の姉、3人で長距離列車の外国旅行らしい。セリフは少なくて人も沈黙だ。途中下車して瀟洒なホテルに泊まる。長台詞と思ったら母の姉は酒をラッパ飲みして独り言をいってる。姉は翻訳家である。
ネグレクト気味の男児は、一人で列車やホテルの中をとことこ歩き回る。事件は特に起こらない。彼の視点から描かれる情景。ホテルの廊下をさまよってると、旅芸人の小人サーカスの一座と友達になったりした。
母は一人で外出して街の盛り場で男たちにじろじろ見られる。性的に奔放で、ゆきずりの男と寝た。姉妹の間には確執があり、ついに母は姉を激しく罵る。姉は持病が悪化してホテルのベッドに伏せってしまう。
その姉を見捨てて母と男児はホテルを去りまた列車に乗る。姉は短い外国語を書いた紙を男児に託していた。「ハジェク」と読める綴りだが意味は分からない(解説によると「精神」らしい)。完。
いつもご回答をありがとうございます。
★ なぜ理解が得られないかって、それは根本的に間違ってるからだろう。
☆ はい。とことん伺います。
★ だいたい哲学で「普遍」といえば普遍論争だと思う。客観的に存在するのは「物」か「名」か「概念」なのか。
☆ それはそれです。
★ 一方、ご質問の説では、神は普遍だが個々人の(霊的な)主観にとどまるもので、主観の外に取り出して複数人で宗教したら、にせものだという。
☆ だいたいそうです。
別様に言うならば(この際 基本的に):
① 絶対性は 普遍性として〔想定されて〕あるしかない。
② もっとも 絶対性と向き合う人間たるわれは そのカカハリ(それは 人間が時間的存在であるかぎり 信仰の動態過程となる)が真実だと言い張ることが出来る。
③ ただし その主観真実をもし外に取り出したら それは概念≒言葉ないし観念となっているからには 絶対性(=神)ではなくなっている。神のお話つまり神観となっている。
④ われは一定の神観を持ち得る。神観を整理し体系化して倫理規範や宇宙論を編める。オシへである。
⑤ ただし オシへの中の(オシへとしての)神は 絶対性ではなくなっており 信仰の対象ではない。
⑥ なら オシへから信仰を説く宗教をつくることは 人間性をゆがめないかぎり あり得ない。オシへのままなら中立。
★ しかし、主観の外に取り出せないようなものを普遍と呼べるだろうか?
☆ ①および②の問題 いや そのふつうの事情です。
★ ご質問者は「絶対は普遍」と盲信しているが、「相対性こそ普遍である」と目覚めるべきではないのか。
☆ その心は?
★ 相対物は個別的であって普遍ではないが、相対性はあまねく巻き込むから普遍である。物は絶対ではないから「絶対物」は自己矛盾である。絶対性はむしろ普遍を拒むだろう。
☆ さて 《あまねく巻き込む》とは? あらかじめとして それは《一般的だが 例外もある》なのでは?
むむむ。最後まで拝聴して はっきりしませんでした。
つづく
(つづくご回答は 二つ・三つに分けてくださいね)。

No.8
- 回答日時:
>★ イエス・キリストの父なる神は普遍神であるが、万物の根源、宇宙の法則、アルケーは普遍神ではないって発想は人間精神が歪んでいるとは感じないのか?
☆ 感じません。
それは甘えていますね。
自分のだけが特別ってゆー甘えです。
カルトはそんな甘えで成り立っています。
そんな甘えが高じて統一教会も生まれたのです。
№7で説明しましたが:
▲ 文字は人をころし 霊は人を生かす。
☆ といった基礎があるからです。
霊ないし生命性は 独り善がりには成りません。
聖書には みづからの主張を無化する装置が埋め込まれています。

No.7
- 回答日時:
ではなぜイエス・キリストの父なる神は普遍神でありうるのか?
単に聖書に書かれているから普遍神なのか?
▲ (ヨハネ福音 1:13 )
それらの人(☆ イエスキリストを受け容れた=信じた人)は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
☆ すなわち 《血筋によらず 肉の意志によらず 人の意志にもよらず 神の意志によって神の子として〔あらたに〕生まれた》というとき この神が 普遍神です。
▲ (同上 1:17-18 ) ~~~
律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。
神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。
~~~
☆ 《真理(まこと)》と《真理は きみたちを自由にする》と言われたその《恩恵(めぐみ)》は キリストイエスから来たと言います。かれが 神を指し示したと。
すなわち 前掲の《 1:13 》の姿です。
というのは その神の国から来て地球に駐在する外交官たるパウロが言うには:
▲ (コリント後書 3:4 )
文字はころし 霊は生かす
☆ いっさいの文字・オシへは 人をころす。霊が生かすと。これが 普遍神です。
なぜなら キリストのキの文字も要らないと言っているからです。
言いかえると 真理・道・生命であるとか 愛・自由なり真善美なりといった命題は 補助線として説明書きとして持っていればよい。
イエス自身は 死ぬまで なおユダヤ人としてヤハヱ―神の信徒だったかもですが すでにその民族神としてのヤハヱ―を 外に開き また律法(文字による倫理規範)を人のいのちよりも劣位においたことから そのヤハヱ―を 普遍神たる高いところに揚げ すでに棄てたのです。
これを パウロが受け継いで 語った。《宣教という愚かな手段で》(パウロ自身の言葉)。
いまは 普遍神があるのみだと思います。

No.6
- 回答日時:
>☆ イエスは ヨセフとマリアとの間に生まれた人間です。
このイエスが ユダヤの旧約聖書の記述にもとづいて キリスト(メシア)と呼ばれるようになった。その神学では 父なる神の独り子であり みづからも神であるとされています。
イエス・キリストの父なる神は普遍神であるが、万物の根源、宇宙の法則、アルケーは普遍神ではないって発想は人間精神が歪んでいるとは感じないのか?
★ イエス・キリストの父なる神は普遍神であるが、万物の根源、宇宙の法則、アルケーは普遍神ではないって発想は人間精神が歪んでいるとは感じないのか?
☆ 感じません。
No.5
- 回答日時:
なるほどです。
手短にします。社会的リソースに価値の優劣をつけることは不当か不必要だったかもです。
価値化する対象は禅では実存自己、信仰は謎神世界、宗教はカリスマ他者で、
各コンテンツの謎神への積極的関係の濃さは順に
信仰・祭・芸術、宗教?・政治、科学・学問、哲学・禅くらいかもです。
普遍神についてだいたい理解したかもです。
質問文5について、畏怖(価値化)+変性意識(異意味化)=信仰とすると、そのとき神という名は必須でないかもです。
日本だと妖怪や鬼も謎神の類かもです。
多様な神観を包摂するアイデアとして、ゐんくるうぢおん(仮)を書いてKindle出販するか、前著第3部あたりに普遍神という語を加えて改訂し、広報もがんばると理解が広まるかもです。
だいたい以上です。
★ なるほどです。
☆ ありがとうございます。
★ 手短にします。
☆ はい。
★ 社会的リソースに価値の優劣をつけることは不当か不必要だったかもです。
☆ 《人知(認識)を超えたところ》をふくめて 認識論じょうのきちんとした区分が必要だったかも。
★ 価値化する対象は禅では実存自己、信仰は謎神世界、宗教はカリスマ他者で、
☆ あるいは:
禅:ブディズムとしては 空(シューニャター)
:思想としては 実存自己
信仰:非知なるナゾ=普遍神
:〔信仰者としては経験存在たる人間(われ)であるゆえ〕
やはり実存
ナゾは実存自己の内に良心としてやどりこれは ヤマシ
サ反応を起こす。またヒラメキをもたらす=精神世界
宗教:神をそのオシへの中に観念として据えた。思考の産物と
しての神
:人間にオシへという枠組みをはめる。それが神の意志だ
と説く
★ 各コンテンツの謎神への積極的関係の濃さは順に
信仰・祭・芸術、宗教?・政治、科学・学問、哲学・禅くらいかもです。
☆ この位置づけを前提として さらにヒラメキ(インスピレーション)は どの分野のどの人にでも 起こり得ます。非知なるナゾの普遍性でしょうか。
★ 普遍神についてだいたい理解したかもです。
☆ さらに精進したいと思います。
★ 質問文5について、畏怖(価値化)+変性意識(異意味化)=信仰とすると、そのとき神という名は必須でないかもです。
☆ つまり:
☆☆ 5.《神――という名――を無条件にわが心に受け容れること》が 信じる
☆ とするとき 信仰=《非思考の庭》なる動態がすでに生活として過程しているなら 現実存在としての事柄や問題に専念してゆけます。
普遍神:有る神と無い神との重ね合わせ
★ 日本だと妖怪や鬼も謎神の類かもです。
☆ まぁ 話題として・話の潤滑油としてあり得ます。
★ 多様な神観を包摂するアイデアとして、ゐんくるうぢおん(仮)を書いてKindle出販するか、前著第3部あたりに普遍神という語を加えて改訂し、広報もがんばると理解が広まるかもです。
☆ あぁ。すでにご存じだったんですか。じつは 22世紀アートで電子書籍化しました。でも わたしのブログで無料で読めます。
★ だいたい以上です。
☆ ありがとうございます。たのしかったです。
No.4
- 回答日時:
ありがとうございます。
暇なので対話主義的対話をしたいですが眠いです。変性意識+畏怖=信仰の対象である謎を、(未知か非知かとか経験か超越かとかで)分類することは哲学の仕事として妥当ですが、信仰する際にはあまりその区分を念頭しないかもです、変性意識状態なので。
新実在論にのっとり世界全体としての普遍はないとしてみます。
普遍神の普遍は、人の信仰における(という意味で部分的な)普遍性のことで、
世界全体(事実+架空)を指す普遍ではないと解してみます。
「神」の共通本質を謎(非知ゆえに非限定)とみなすことの功利的側面(効果や目的)は、
信仰対象を限定するような宗教を異端として排除することかもと察します。
排除はインクルージョンの逆です。非カルト宗教(仏神基イスラム教など)には文化的価値があり、
またそれらの宗教を解体することにも価値がありそうです。個人的には宗教保存価値>宗教解体価値です。
社会的文化的リソースの多様性は大切そうなので。
都市化により変性意識の場だった祭が減り、ゲームや大麻や宗教や諸々のコンテンツが人気のようです。
天皇も歴史的文化的リソースとして人気なキャラクターコンテンツです。その解体にも価値があります。
個人的にはまたリソース多様性のため皇室保存価値>皇室解体価値です。
さっき禅について検索しました。
おおざっぱに、禅・信仰・宗教に分けられるかもです。
禅は仏教でなく仏道で、宗教でも信仰でもないようです。自自関係を深めるためのマインドフルネスで、ヒエラルキーのない精神的メソッドとしての宗教というよりか道(修練方法?)のようです。
どれも変性意識状態を含みますが禅は通常意識状態との半々かもで、経験的です。
主観的に禅は対自的で、自己価値化します。信仰と宗教は超越的、超経験的な外部の?何か(謎または教祖=シャカとかイエスとか)と向き合い、対象や自他や世界を価値化します。価値化する対象は信仰が最も広く、禅や宗教は限定的かもです。
禅のこころは安心で、信仰は畏怖、宗教は恐怖?かもです。
カルトでないなら三つともリソースとして社会にあると良いです。心の妥当なありかた?おさめ方や態度・方法として信仰一択より複数の方法があるとより豊かです。
三つの方法の個人的な価値比較は今のところ禅≧信仰>宗教です。理由は自分にとって重要なのは実存≧謎だからです。
禅と信仰について比較や評価するとどうなりますか?
★ 変性意識+畏怖=信仰の対象である謎を、(未知か非知かとか経験か超越かとかで)分類することは哲学の仕事として妥当ですが、信仰する際にはあまりその区分を念頭しないかもです、変性意識状態なので。
☆ まあ そうですかね。
ただ変性意識は けっきょく通常の生活日常から超越論への変性であるとは思われます。
★ 新実在論にのっとり世界全体としての普遍はないとしてみます。
☆ はい。
★ 普遍神の普遍は、人の信仰における(という意味で部分的な)普遍性のことで、
世界全体(事実+架空)を指す普遍ではないと解してみます。
☆ 微妙ですが はい。
★ 「神」の共通本質を謎(非知ゆえに非限定)とみなすことの功利的側面(効果や目的)は、
信仰対象を限定するような宗教を異端として排除することかもと察します。
☆ 精確には 個人としての《神とわれとの〈タテの関係〉である信仰》と 集団としての《神という概念およびそれについての神観からみちびいたオシへによって〈われとわれとのヨコの関係〉をあたかも管理する組織宗教》とは 別だという点だと思います。
(管理するという代わりに 幸せにすると言い張ると思いますが)。
★ 排除はインクルージョンの逆です。非カルト宗教(仏神基イスラム教など)には文化的価値があり、
☆ つまり 主観ごとの神観は 信教・良心の自由によって自由です。
そして 神観からみちびき体系化した神学つまりオシへは そのものとして 中立です。
オシへは 神秘思想がふくまれていても・また啓示だと言っても 基本として――人間の思考をとおして言葉で表わされたからには 思考によって共通の認識を得るべきものであり―― 経験思想です。
★ これらは
またそれらの宗教を解体することにも価値がありそうです。個人的には宗教保存価値>宗教解体価値です。
社会的文化的リソースの多様性は大切そうなので。
☆ オシへやそれをめぐる研究は 思想ないし人文科学として 評価されます。
組織宗教であっても 学習や研究ないし個人個人の実践といった部分は 中立の価値があると思います。
しかもそれらの文化価値も じつは 組織としてのヒエラルキアなる権限の上下関係にもとづくことによって――オシへを神とし(聖典は一句一句が神であるとし)原理主義に立つならば―― 無に帰します。
つづく
No.3
- 回答日時:
なるほどです。
個人的には未知や忘却、他者性をもつ自他や世界自体など、分からない物事なら全て謎であると主観できるので畏怖の対象になりえます。謎でないものはないともいえます。
日本人はセロトニントランスポーター(不安遺伝子)のせいで何かと畏怖しやすく
オープンな環境では多様な畏怖(→多様な信仰)をもち、
カルトなどの閉鎖環境では限定された畏怖対象(→教祖信仰)をもちがちかもです。
カルト宗教・カルト以外の宗教・一般的なお葬式・お盆
についてどう評価しますか?
個人的には
・カルト宗教は、信仰の悪用、過酷な暴利システムなので社会悪。不可。
・カルト以外の宗教は、文化的価値やニーズがあるらしく、安価なら、やや可。
・一般的なお葬式は、ニーズがありつつ信仰の商業利用、しかも高額なので、やや不可。
・お盆は、宗教+信仰らしく、すでに文化になってもいるので、やや可。
です。
純粋な信仰のみが可で、他は全て不可とみなしますか?
普遍神を普遍神観や共通神観でなく普遍的存在としての神ととらえた場合、(普遍=普遍神=世界全体とした場合、)
新実在論では世界全体は外部を持たないため意味の場に登録できず、世界全体は存在しないといいます、たしか。
すると世界全体=普遍=普遍神も存在しないことになり、あるとしてもその神は普遍的でなく部分的なもの、世界全体より小規模なものになるかもです。
どう思いますか?
★ なるほどです。
☆ ありがとうございます。
★ 個人的には未知や忘却、他者性をもつ自他や世界自体など、分からない物事なら全て謎であると主観できるので畏怖の対象になりえます。謎でないものはないともいえます。
☆ ですが 謎も区別し得ます。認識じょうの対象の区分です。
経験事象(相対世界でありこれは経験合理性にて認識する)
可知(認識しうるものごと)
既知(間違いだったと分かることもあるが 知ったとする)
未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)
不可知(未知のうち知り得ないと証明し得たものごと。証明も
間違い得る)
非経験の場(絶対性)
非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ
incomprehensible incomprehensibility )
★ 日本人はセロトニントランスポーター(不安遺伝子)のせいで何かと畏怖しやすく
オープンな環境では多様な畏怖(→多様な信仰)をもち、
カルトなどの閉鎖環境では限定された畏怖対象(→教祖信仰)をもちがちかもです。
☆ それはおもにその場の一時的な(ただし長期にわたり得ますが)心理ないし社会心理(クウキと呼ばれる同調圧力など)ではないかと。
村などの共同体では――それによる束縛も多いでしょうが―― カルトに対する抵抗力を 伝統行事をともなった人びとそれぞれの信仰が持っているかとも。
★ カルト宗教・カルト以外の宗教・一般的なお葬式・お盆
についてどう評価しますか?
☆ ほぼオシへなしの伝統的な・個人ごとの信仰は さきほど触れたように おおむね普遍神の信仰だと見ます。(NHKの新日本紀行などで知ります)。
村のマツリは 実りを祝い初穂を神々に供えて 村人たちは神々と共食します。どんちゃん騒ぎをまじえて。
《お二階》とわたしは呼んでいますが国レベルでのマツリゴトは 一階のムラムラのマツリを統括するかのごとく振る舞います。
宗教行事は今はないですが 神道を束ねるようにアマテラシティ(象徴天皇)が よかれあしかれ 存在します。それは 先ほどのクウキの問題にかかわるかと思います。(敬宮愛子氏は よき人のようです)。
★ 個人的には
・カルト宗教は、信仰の悪用、過酷な暴利システムなので社会悪。不可。
☆ 完全同意です。
つづく

No.2
- 回答日時:
なぜ万物の根源、宇宙の法則、アルケーが《普遍》であることを理解出来ないのか?
なぜイエスキリストが神でも神の子でもなく、ただのペテンであることが理解できないのか?
ご回答をありがとうございます。
何度も書き込んでいますよ あなたの質問への回答の中で。
☆ 《万物の根源》は 万物が経験事物ですので その根源も経験事象でしょう。素粒子とか量子とかあるいはダークマターだとかのような。絶対性ではありません。
相対性の世界に属するものであり うつろいゆかざるを得ないものです。
《宇宙の法則》については それは経験事象における因果関係などとしての規則性を知性が捉えたものだから 絶対性ではないです。
一般性があるのですが それは 相対性の世界に属します。
その意味で《普遍》だという語法はあるにはありますが 哲学として 神についての属性を言うには 無理がある。つまり 絶対性とは別です。
《アルケー》は 普遍神についてそう名づけるのは 自由です。
☆ イエスは ヨセフとマリアとの間に生まれた人間です。このイエスが ユダヤの旧約聖書の記述にもとづいて キリスト(メシア)と呼ばれるようになった。
その神学では 父なる神の独り子であり みづからも神であるとされています。
そういう主観です。
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№3お礼欄つづき1
★・カルト以外の宗教は、文化的価値やニーズがあるらしく、安価なら、やや可。
☆ ですから オシへ(または教祖)をあたかも神として信じなさいと説くなら アウトだと思います。《マツリゴト》の悪しき側面と相似するかと。
★・一般的なお葬式は、ニーズがありつつ信仰の商業利用、しかも高額なので、やや不可。
☆ 葬儀は必要ならば 公務員のような民間業者がやるとよいかも。
★・お盆は、宗教+信仰らしく、すでに文化になってもいるので、やや可。
☆ 同感です。
★ 純粋な信仰のみが可で、他は全て不可とみなしますか?
☆ 一般にコミュニティ活動は 信仰を持った個人がおこない参加しますが 宗教のオシへから自由におこなえばよいのかと。
つづく
№3お礼欄つづき2
★ 普遍神を普遍神観や共通神観でなく普遍的存在としての神ととらえた場合、(普遍=普遍神=世界全体とした場合、)
新実在論では世界全体は外部を持たないため意味の場に登録できず、世界全体は存在しないといいます、たしか。
すると世界全体=普遍=普遍神も存在しないことになり、あるとしてもその神は普遍的でなく部分的なもの、世界全体より小規模なものになるかもです。
どう思いますか?
☆ そうですね。神すなわち普遍神は すでに触れましたように《認識じょう 〈非知〉である》と規定します。これで その新実在論との自由な相互批判の場に出たいと思いますが どうでしょう。
▲ 外部を持たない
☆ この点が あいまいだと思います。つまり 《内・外》の問題よりも 《経験世界とそれを超えるところ》の問題ではないかと。
№4お礼欄つづき1
★ 都市化により変性意識の場だった祭が減り、ゲームや大麻や宗教や諸々のコンテンツが人気のようです。
☆ ははあ ゲームあるいはアニメは マツリですか。
★ 天皇も歴史的文化的リソースとして人気なキャラクターコンテンツです。その解体にも価値があります。
個人的にはまたリソース多様性のため皇室保存価値>皇室解体価値です。
☆ 象徴天皇〔制〕は――宗教的な要素があるとしたら やがて解体すると見ますが―― 当面わたしは 成り行きにまかせます。
★ さっき禅について検索しました。
おおざっぱに、禅・信仰・宗教に分けられるかもです。
禅は仏教でなく仏道で、宗教でも信仰でもないようです。
☆ なるほど。只管打坐は 修行道ですね。
《仏道》と言うなら 信仰ないし宗教が混じります。
《座禅》は 生活全般にわたっての広義の姿勢として解するなら 思想哲学の実践です。
つづく
№4お礼欄つづき2
同じ内容がすでに次に説かれていました。:
★ 自自関係を深めるためのマインドフルネスで、ヒエラルキーのない精神的メソッドとしての宗教というよりか道(修練方法?)のようです。
★ どれも変性意識状態を含みますが禅は通常意識状態との半々かもで、経験的です。
☆ そうなんですか。実際の事態は よく分かりません。
★ 主観的に禅は対自的で、自己価値化します。信仰と宗教は超越的、超経験的な外部の?何か(謎または教祖=シャカとかイエスとか)と向き合い、対象や自他や世界を価値化します。価値化する対象は信仰が最も広く、禅や宗教は限定的かもです。
☆ となりますか。
ただし 信仰は 《非思考の庭(そういう動態)》と呼びますが 実際には《能天気》と言ってもよいとさえ思っています。なにしろ相手は 非知なんですから。
つづく
№4お礼欄つづき3
★ 禅のこころは安心で、信仰は畏怖、宗教は恐怖?かもです。
☆ たぶん。そして 《きよらかなおそれ》とは――こじつけようとすれば―― 《安心と不安とを何とかして超えること》だとも推し測られます。
非思考の庭は 普遍神として むしろ《無い神〔という神〕》と向き合っている恰好なのかもです。
★ カルトでないなら三つともリソースとして社会にあると良いです。心の妥当なありかた?おさめ方や態度・方法として信仰一択より複数の方法があるとより豊かです。
☆ 信仰=非思考の庭 と 《感性の原野+思考の緑野》なる生活経験とにわたしなら分けます。やはり 超経験と経験世界とです。
つづく
№4お礼欄つづき4
★ ~~~
三つの方法の個人的な価値比較は今のところ禅≧信仰>宗教です。理由は自分にとって重要なのは実存≧謎だからです。
禅と信仰について比較や評価するとどうなりますか?
~~~
☆ 次のように区分します。
信仰=非思考の庭が 有神論と無神論に分かれる:
《有る神》派:あれこれの神を心に受け容れている信仰
《無い神》派:《神を信じない(受け容れない)と信じる》:禅?
思考の緑野+感性の原野:
思想・哲学;もろもろの学問;もろもろの生活日常;禅としての実存志向
☆ どうでしょう?
なお 次回 文章が多目でしたらふたつぐらいに分けて投稿してくださいませんか。お礼欄のスぺースを活用したいからです。
補足欄がいっぱいになったら 回答文の復唱をはぶかせていただきたいと思います。
№10お礼欄つづき1
★ ところが、ご質問者は神についてたとえば巨大な恒星のように考えているのではないか。・・・
☆ 恒星に意志があっても 人間は金星が好きだ 木星は嫌いだと言えます。
★ 一方、神にはご意志があって、人間と関わり合いになるのを拒むことができる。拒まれたら、人間の認識は神をかすりもしなくなる。
☆ という命題も ひとつの神観です。
★ その場合、「神がわれの魂に降りたもうた」と人が言っても、狐憑きやヒステリー症状でしかあるまい。
☆ それでも 神観として主観真実を形成します。それを 批判・批難するのも 自由。
★ ご質問の言う「蝉の抜け殻」さえ得られず、それ未満のものである。
☆ 普遍神がその分身として わたしには狐として現われたという神観であり得ます。お稲荷さんの《蝉の抜け殻》たる宗教を作り得ます。
つづく
№10お礼欄つづき2
★ 全能が逆説であることは、神が人間と関わり合いになるのを拒んでいることの現れではないだろうか?
☆ この命題は 神観であり あなたの主観真実です。あまねく人間に共通の真実かどうかは 定まりません。
★ 神のお告げは存在せず、神は沈黙しているのではないか。
☆ これは ふつう《デウス・アブスコンディトゥス:隠れたる神》説です。
★ イングマール・ベルイマンの『沈黙』(1963年)である。この沈黙は何と「神の沈黙」なのだった。
☆ 物語をうかがったかぎりで そういう解釈があり得ると思う。そこまでなんですが。
かなり端折っています。が あしからずご了承ください。