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豊後や肥後、志摩が調として耽羅のアワビを出しています。
調は、自国の特産物でなくても良かったのでしょうか?

A 回答 (2件)

延喜式では、各地から鰒の納品があったようになっているそうです。


https://www.yomiuri.co.jp/pluralphoto/20220308-O …
で、『延喜式』主計上式のなかに、肥後国が「耽羅鰒」39斤、豊後国「耽羅鰒」18斤を調として貢進していたらしいことの記載があるそうで、平城京跡出土木簡に天平17年(745年)に[耽羅鰒]6斤を貢上していたとの記載もあるそうです。http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1999/00618/ …
どうやら[のしあわび]に加工して貢納したものが多かったようです。
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/r …
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https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/23 …
(33)鰒
奈良・平安時代を通じて,鰒は貝類の中で最も需要の高く,利用方法もさまざまに加工,食用にされた。また貢納品としても多く,平城宮跡木簡にみえる水産物のうち,貢納国が明らかなのはこれが一番多い。
風土記の中にもこの名を記すものは多く,常陸・出雲・筑前・肥前の各国風土記から検出される。
奈良時代に貢納した国々をみると,平城宮跡木簡から東海道の志摩・安房・上総・下総4国がすべてで東海道地域しかみえないのは、ただ木簡発見による偶然にすぎないのであろうか。『延喜式』によると,鰒の貢納は東海道では志摩・相模・安房・上総・常陸5国となり,前代の常陸国が風土記にみえるから,むしろ『延喜式』では相模国が加わり,下総国がみえないことになる。いずれにしても東海道地域は古代の重要な鰒の生産および貢納国であったことになる。
なお,延喜式に隠岐鰒の名とともに安房国の鰒を「東鰒」と称していることからもその重要性が知られる。
また,奈良時代には正倉院文書から薩摩国が鰒を貢納しているが,西海道の貢納国は『延喜式』では筑前・豊後・肥前・日向・壱岐の5ヵ国しかみえない。とくに『肥前風土記』には鰒の加工方法がみえるが,『延喜式』に検出される鰒の加工方法がすでに奈良時代においてもおこなわれていたことが注目されよう。『延喜式』では前述のように鰒の名称として東鰒のほかに「隠岐鰒」の名がみえるが,山陰道からはこの隠岐国のほかに丹後・出雲2国が検出され,やはり重要な貢納国であった。また,『延喜式』では北陸道の若狭・佐渡2国,山陽道の長門国,南海道の紀伊・淡路・阿波・伊予・土佐5国がみえる。これら諸国はいずれも外海に面し,南海道の5国も外海と接する地域であることを考慮すると,ほぼ鰒の分布がつくされているように思われる。
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司馬遼太郎は耽羅紀行の中で、次のようなことを書いています。

「耽羅蝮六斤」という五文字が出ているのである。これもなんのことだかわからない。
まさかはるかに耽羅から輸入するというものではあるまい。
常識的に解すれば、いまの大阪湾か伊勢湾あたりに、耽羅からたえず海女がきていて、大きなあわびを獲っていたのではないかということである。
想像しうることは、それ以外にない。
ともかくも千数百年前のことである。いにしえも耽羅の海女は日本にやってきては海仕事をし、そのうちの何割かは日本人になって、私どもの先祖の一部になってしまったのにちがいない。
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https://www.toyo.ac.jp/uploaded/attachment/20423 …
我が国の潜水漁に携わる人々の歴史は古く、数々の書物にその痕跡を残す。紀元前268年の『魏志倭人伝』にアマを指す字句「水人」の記述がある。当時、「水人」が男性なのか女性なのか、どのような獲物をとっていたかは、定かでない。歴史は下がり七世紀後半、律令国家が成立し、天皇が排他的に利用する御厨と呼ぶ漁場1ができる。そして天皇や神社に貢納するための水産物や淡水魚の漁撈を行なう特権的な海民が誕生する2。八世紀に書かれた『古事記』(712年)や『日本書紀』(720年)にもアマを指す「加豆岐」「海女」「濳女」などの字句3の記述があることから、女性が潜っていたことが分る。また、同時代に施行された養老律令(757年)では、公民が負担する調・庸は、主に正丁(成年男子)だけに課せられていたため、男性も潜水漁に携わっていたと考えられる。

確かに、調を課されたのは正丁です。 しかし、正丁が自分で潜って獲り、自分で加工して、貢納に差出すまでやらねばならないというものではなくて、使用人にやらせても良いわけです。 稲の租でも使用人(奴婢)を使って農業をしていたのですから、、、 

https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s& …
木簡に見える古代の日韓交流 桑田 訓也(奈良文化財研究所)
耽羅鰒は、調という税として納められたもので、荷札には天平 17 年(745 年)の年紀が記されています。耽羅は、今の済州島にあった国です。耽羅は7世紀後半には新羅の統一に対抗するため、倭にしばしば使者を派遣していましたが、697 年に新羅に服属しました。
済州島では現在もアワビが名産のようですが、耽羅と志摩は遠く離れており、そもそも国が違いますので、耽羅は産地ではなく、アワビの種類を示すという見方が一般的です。
そう考えた場合、「耽羅鰒」は、ほかのアワビとどこが違うのか、なぜ「耽羅」という名前が付くのかが気になりますが、これ以上のことはなかなかわかりません。生きた状態のアワビそのものの違いのほかに、加工の違い(耽羅風の加工)を示す可能性も考える必要があるかも知れません。いずれにせよ、ネーミングの背景に日本と耽羅の交流があったことは間違いないでしょう。
3)耽羅の干し肉
ほかに、耽羅の名前を冠する食べ物として、脯(ほじし、干し肉)があります。文献から、シカ、ウシ、イノシシのいずれかの肉と推定されますが、特定には至っていません。木簡ではありませんが、738 年(天平 10)の周防国正税帳(決算報告書)に、耽羅島人(おそらく漂着した一般人)21 人が平城京に向かったこと、および、周防国が「耽羅方脯」を購入したことが記されています。
また、当時の法律の注釈書に、諸国貢献物の例として「耽羅脯」が挙げられており、このとき周防国が購入した脯が都に献上されたことが実例として認識されたと推定されています。
耽羅鰒木簡の年代とも近く、738 年の耽羅人の上京が「耽羅鰒」貢進のきっかけになったのではないかと推測する説もあります。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
耽羅鰒の意味は様々なのですね。
1.耽羅でとれた鮑
2.耽羅からの海女が採った鮑
3.耽羅という品種の鮑
4.耽羅いうブランド名の鮑
5.その他

お礼日時:2023/02/09 17:45

耽羅は百済の領土でしたが、百済滅亡で一時的に独立して日本と国交を持っています。


その頃に耽羅産の鮑が朝廷に献上された可能性はあるでしょう。

その後、新羅が朝鮮を統一して耽羅との国交が途絶えますが、その後も漁民や海賊繋がり密貿易で、日本に耽羅産の鮑がもたらされた際に、朝廷にも献上された可能性はあると思います。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
地元でない品でもよいのですね。

お礼日時:2023/02/08 12:58

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